第九話「かけ湯で湯温に身を慣らすべし」③

 秋保那菜子は脱衣所で張り切った声をあげた。

「よーし、結衣奈ちゃんの合格を祈願して、今日こそ四十六℃の浴槽に挑戦するベ!」

「この間は膝まで浸かってギブだったっけ?」

 隣では彩耶が服を脱いでいる。ふたりは結衣奈の追試を心配して草津温泉に集合し、街の外れにある『滝乃湯』にやってきていた。ここでは、三十八℃の浴槽から少しずつ湯温の高い浴槽に移っていき、最終的には四十六℃の激熱温泉にチャレンジする「合わせ湯」という伝統の入浴方法を体験することができる。

 しかし――その四十六℃の浴槽に、那菜子だけはどうしても浸かっていることができないのだ。

「わたしが四十六℃を乗り越えて、結衣奈ちゃんが追試を乗り越える! これだべさ~!」

「あはは。熱い温泉に入っていられないのはお肌が繊細ってことだから、いいことなんだけどね。あ、先に行ってるねー」

 彩耶は長めのフェイスタオルで前を隠しながら合わせ湯の浴場へ入っていった。

 彼女は自分の身体つきにあまり自信がないようで、隠す面積を増やすために長めのフェイスタオルを常に携行している。スレンダーでかっこいい体形だと思うけどなあと思いながら、那菜子もタオルを手にとって入口へ向かおうとした。

「……ん?」

 すると、彼女の行く手を横切るように、丸いビー玉のようなものが床を転がってきた。

「なんだべ?」

 那菜子はひょいと拾い上げた。

 二本の指でつまめるサイズだ。思ったより柔らかく、力を込めるとふにふに変形する。

「……あ、あのー……」

 那菜子がその玉に気をとられていると、困った声の女性に話しかけられた。

「あ、ごめんなさい。えっと……?」

「それ……」

 女性は那菜子が持っている玉を指差した。彼女は帽子を目深に被ってサングラスと大きなマスクを身につけており、顔が完全に隠れている。

「あ。これ、あなたのだべか?」

 こくこく、と女性は頷いた。

「すみません、どうぞ――」と那菜子が玉を差し出すと、女性はびくっと後ずさった。彼女はなぜか那菜子の指に触れることを極端に怖がっているかのような手つきで玉を取り戻すと、無言で頭を下げて脱衣所を出て行ってしまった。

「……なんだったんだべか?」

 那菜子はぽかんと彼女の背を見送った。

 その時――合わせ湯の浴場の中から、つんざくような悲鳴が聞こえてきた。

『――きゃあああぁぁぁーーーーっ!?』

「えっ……!?」

 いまのは彩耶の声だ。那菜子は慌てて合わせ湯入口へ向かった。

 と――ガラガラッ! と、猛烈な勢いで引き戸を開いて、彩耶が脱衣所に駆け込んできた。

「わわっ……おっとっとっとっ……ふぎゃっ」

 彩耶にぶつかりかけた那菜子はバランスを崩してよろめき、なんとか片足で踏ん張ろうとしたが及ばず、尻餅をついた。

 那菜子は彩耶を見上げる。彩耶はなにかに追われているかのようにピシャンと引き戸を閉めた。顔色は蒼白で、浅い呼吸を繰り返している。

「彩耶ちゃん……?」

 怪訝に思って、那菜子はそっと尋ねた。

「よ――」

 彩耶は血の気の失せた唇を震わせ、なんとか言葉を絞り出した。

「――妖怪がいた……!」


♨    ♨    ♨


 ――シャラッ、ピンッ、シャラッ、ピンッという泉海の赤ペンの音が教室に響く。

「シャラッ」が正解を示す丸の音、「ピンッ」が不正解を示すハネの音だ。結衣奈はハラハラしながら「ピンッ」の数を数えていた。二十個以内なら合格、それより多いと不合格なのだ。

「……七、八……、九……」

「テン!」

「十一……、十二……。んんんっ!?」

 結衣奈はどこまで数えたか分からなくなった。

「テンテンテテン、ふんふんふふんふーん♪ YEAHー!」

 ヘッドホンをつけて音楽に浸っている奏がハミングをしている。小さな身体をめいっぱい動かして楽しそうにリズムを取る彼女は、追試の結果などまったく気にしていないようだ。

 ――シャラッ、シャラッ、ピンッ。

「テケテケテン、じゃんかじゃんかじゃん♪」

 ――ピンッ、シャラッ、ピンッ、シャラッ。

「ドコドコドコドコ、デエエエエエエエン♪」

「っだあああーーーーっ! 不協和音!」

 結衣奈は耐えられずに立ち上がった。

 泉海が何事かとこちらを見る。奏もヘッドホンを外した。

「リズムが合ってないよふたりとも! 泉海さんは一定すぎ! バーデンちゃんは自由すぎ!」

「えっ、なになに? 音楽の話デスか?」

「……なにかあったんですか?」

 奏と泉海はそれぞれピンときていない様子だった。相手の音が少しも気にならなかったのだろう。

 結衣奈が「……なんでもないです」と言って話を終わらせると、泉海は特に追求することなく立ち上がり、淡々と言った。

「ふたりとも、筆記は合格です」

「あーーっ待って! まだ心の準備が!」

「イヤッホーーウ! パッシエートごうかーく!」

「……あれっ!?」

 てっきり「それでは、結果を発表します」→「おふたりの筆記試験は……」→「合格です!」という順番で来ると思っていた結衣奈だけがピントの外れた反応をした。

「では、急いで実技試験に移りましょう。ふたりとも、校門の鳥居へ」

「ヤー! 実技ならお任せあれ! バーデンの華麗な温テクを見せつけてやるデース」

「待って待って! ふたりとも、ちょっとでいいからテンポをわたしに合わせて!」

 泉海と奏がさっさと次へ気持ちを切り替えてしまったせいで、結衣奈はすっかり筆記試験の合格を喜び損ねた。

 淡々と物事を進めたがる泉海と、何事もアドリブで生きている奏。

 ふたりは破滅的なまでにリズムが合わず、猪突猛進型の結衣奈がフォローに回らなければならないほどだ。それなのに――ごくまれに彼女らふたりのテンポがぴったり重なるときがあり、その場合は結衣奈が置いて行かれる側になってしまう。

「はあ……。これだけバラバラの面子でよく合格できたよ……」

 結衣奈は急いでふたりの後を追いながら独りごちた。

 実際、彼女らの追試は困難を極めた。いったん補講という形式で基本的な知識のおさらいをしてから追試という段取りを想定していた泉海に対し、奏は即時追試の開催を主張。結衣奈はふたりの間を取り持って「先にプレテストをしてから、間違えた部分を重点的に教わる」という発案をして承認されたものの、プレテストではなんと結衣奈の方が奏より点数が悪かった。ふたりに白い目で見られながら午前中の補講を受け、結衣奈は昼食後の第二回プレテストに臨んだ――のだが、ここで奏がペン転がしで選択肢を選んでいたことが発覚。「本当に理解して解答してもらわないと困る」と言い出した泉海が第一回プレテストの答案にまで遡って奏の分からないところ探しを始め、奏はその間にアドリブの語呂合わせを大量に生産して遊び始め、しかも第二回プレテストでも結衣奈の方が奏より点数が低かった。

 とにかくめちゃくちゃな一日だった。東京湾に沈む夕陽の赤が目に痛い。

「言っていませんでしたが」と、小走りで石畳を進む泉海が切り出した。「追試にはタイムリミットがあります。スクナヒコ様にご署名を賜る関係上、十九時までに合格しなければいけません」

「えええーーっ!?」

 衝撃の事実である。結衣奈は泉海に追いついて抗議した。

「なんでいまさら言うの!?」

「十九時までかかるとは思わないでしょう!?」

「あはははは! 左様デスね!」

「奏! 誰のせいだと思ってるんですの!?」

 三人は叫びあいながら鳥居に急ぐ。結衣奈は走りながらスマホを見て現在時刻を確かめた。

「ちょっ、もう十八時だよ!? あと一時間しかない!」

「ご心配には及びませんわ! 実技試験は、貴女たちが普段やっていることですから!」

「つまり!?」

「お客さまへのおもてなしです!」

「オー! お・も・て・な・し! ですかーっ!」

「なるほど! それなら行けそうな気がする!」

「これからお社渡りで道後温泉に向かいます! おふたりと同時に跳びますから、余計なことは考えないように!」

「了解っ!」「イエッサー!」

『お社渡り』の応用だ。複数人で同じ場所に行きたいとき、誰かひとりが行き先を強くイメージしている状態で同時に鳥居をくぐることで、全員が同じ場所へと移動することができる。近ごろはスマホで簡単に鳥居の写真を送ることができるようになり「ここをイメージして跳んでね」と言うだけで済むようになったので、滅多に使われなくなった能力だ。

 一行は結衣奈が泉海と出会った正門前広場を通り過ぎた。もう少しで大鳥居である。

「今のうちに試験内容を話しておきますね!」と泉海が言った。

「道後温泉には『本館』という温泉施設があります! 一階が浴場、二階、三階がお座敷になっていて、湯上がりのお客さまにくつろいでいただける場所です!」

ハヴェスわかった! そこでおもてなしをさしあげるんデスね!」

「そうです! 三十分ほど見させていただきますわ!」

「へー! 道後温泉にもそういうのあるんだ! それなら楽勝!」

 そういう試験なら大歓迎だ。結衣奈はがぜん楽しみになってきて、言った。

「二階がお座敷の建物なら――」

 ちょうどその時。

「――草津温泉にもあるからね!」

「へえ、草津にも……あっ」

 結衣奈たちは、大鳥居をくぐり抜けた。

 結衣奈と泉海の脳内イメージが共鳴した。身体にほんの一瞬の浮遊感が訪れ、すぐに両足が地面を踏みしめる。結衣奈が左右を見ると、泉海、奏もばっちりついてきていた。三人同時のお社渡りに成功したのだ。

 ただし、現れた彼女たちを迎えたのは――シャクナゲのご神木だった。

 結衣奈は頭を抱えた。

「やっちゃったあああーーーーっ!?」

「ワーオ! 寒い! そしてすっごいイオウの匂い! ここが道後温泉デスかー!」

「……いえ、草津温泉ですわ……。わたくしとしたことが……」

 泉海は大きな溜息をついた。しかし、すぐに気持ちを切り替えて言う。

「大丈夫です。落ち着いて道後温泉に跳びましょう。まだ時間は――」

「――結衣奈!」

「結衣奈ちゃんっ!」

 泉海が再び鳥居の前に位置取ろうとしたとき、結衣奈を呼ぶ声がした。

 彩耶と那菜子だ。ふたりは結衣奈を待っていたのか、一目散に駆けてくる。

「彩耶ちゃん、那菜ちゃん! 待っててくれたの?」

 結衣奈もふたりに寄っていった。追試が心配で来てくれたのだと結衣奈は予想して、続ける。

「ごめんね、実はまだ……」

「結衣奈、大変だ!」

「え?」

 結衣奈はふたりの様子がおかしいことに気がついた。顔から血の気が失せている。

 しかも、待っていたのは彼女たちふたりだけではなかった。

「あー! やっと帰ってきた!」「こんな大事なときにもう!」「結衣奈さま事件です!」「早く滝乃湯まで!」「結衣奈さまを呼んでるんです!」「彩耶さまのお祓いも効かなくて……」

 石段に地元の人たちが集まっていた。彼らは結衣奈に迫りながら口々に何かを言ってくるが、同時に喋っているせいでうまく聞き取れない。

「ちょ、ちょっとみんな、落ち着いて!」と、結衣奈は自分を取り囲んだ一同をなだめた。

「どうしたの? 滝乃湯でなにかあった?」

「声が聞こえてくるんだべ……」と、那菜子が震えながら言った。「『裏切者、裏切者……』って、囁くように……」

「私も最初はビックリしちゃったよ。でも、よく考えたらイタズラかもしれないし、那菜子と浴室を調べたんだけど……。どこから声がしてるのかすら分からないんだ」

 そう言う間、彩耶は左のもみあげを弄り続けていた。

 ふたりの仕草は嘘をつかない。かなり怖い思いをしたんだろうな、と結衣奈は確信した。

「じゃあ、いま滝乃湯は……」

「いったん閉鎖してるよ。声がするのは女湯の合わせ湯のみだけど、念のため全館閉鎖中」

「そっか! ありがと!」

 彩耶の言葉を聞き終わる前に、結衣奈は滝乃湯に向かって駆け出した。

「結衣奈さん!?」

 泉海が戸惑ったようにその肩をつかむ。「おわったたた……」と結衣奈は仰け反った。

「試験はどうするんですか!?」

「お願い! ちょっと待ってて!」

「待っているのはわたくしではなくスクナヒコ様です! 試験を先に済ませればいい話でしょう! 一時間も取らせませんから!」

「その間もお客さんが来るの! もしかしたら、この時間にしか来れない人もいるかもしれない!」

 結衣奈は泉海の腕を振り切って石段を下り始めた。

「……結衣奈さん!」

「うーん……『草津の結衣さん』って感じ。任侠デスねえ……」

「……奏? なんですか、その『遠山の金さん』みたいな二つ名は……」

「義理人情のために頑張る結衣さんを見捨ててはおけないデース! ――とうっ!」

 結衣奈の背後から奏の声がして――その小柄な身体が、軽やかに石段の下に降り立った。

 十段以上ある石段を一気に飛び降りたのだ。軽業師みたいだと結衣奈は思った。

 下りてくる結衣奈を見上げ、奏がニヤリと笑う。

 結衣奈も頷き返した。

「ああーーっ、まったく! 本当に問題児なんですから! ――待ちなさい!」

 泉海がむしゃくしゃした声をあげているが、彼女に構っている時間はない。

 結衣奈は石段を下りきって、走り続けながら「こっち!」と奏を呼ぶ。

 そんな結衣奈を――三度、泉海の声が制止した。

「待ちなさいって! わたくしも同行します!」

 結衣奈は驚いて振り返る。

 鬼の形相の泉海が、一段飛ばしで石段を下りてきていた。

「……あはっ」

「人情デスなあ……」

 結衣奈と奏は目を合わせて笑い合うと、少しだけ足を止めて泉海を待った。

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