第八話「かけ湯で湯温に身を慣らすべし」②

 反論すればよかった。結衣奈は思い直していた。

「合否の判定は筆記と実技のテストのみで行います。わたくしの心証などは関係ありません」

「そ、そうでしたかあ……」

 廊下の先を歩く泉海が淡々と言う。春休み中で人気がないせいか、その声は寒々しく響いた。

 『温泉むすめ師範学校』の校舎は外見こそ神社の本殿をモチーフにしているが、内部は結衣奈が通っていたような公立高校とほとんど変わらない。教えるカリキュラムも「一部」を除いて学習指導要領に従っている。

 結衣奈が不合格の烙印を押されたのは、その「一部」の教科だった。

「『温泉学基礎Ⅰ・Ⅱ』って、師範学校で中学校までに教わる内容なんですよね?」

「そうですわ。ですから、高校から転入する場合は独学で学んでおく必要がありますわね」

「いやー、一月にパラパラーって教科書読んでみたんですけど、ほとんど知ってることだと思って油断してました……」

「温泉地に住んでいればなんとなく知っていることが多いですものね」

「そうそう!」

 泉海がフォローしてくれたと思って、結衣奈は食いついた。

「でも、いざ受験してみたらびっくり! すっごく難しかったですよ! 地方税法? がなんとかかんとかっていう問題も出てきて……」

「地方税法第七百一条、入湯税のことですわね」

「それそれ! 温泉地は観光客になんとかかんとか……」

「……温泉地ではなく、『鉱泉浴場所在の市町村』、観光客ではなく『入湯客』です。条文なのですから、正確な文言を暗記しないといけませんわ」

「うへえ」

 結衣奈は潰れたカエルのような声を出した。

 その声を聞いて、泉海が笑顔で振り返った。もっとも、よく見ると目は笑っていない。

「安心してください。今日のわたくしのお勤めはスクナヒコ様に命じられたものです。あのお方の命を受けたからには、わたくしが貴女たち問題児をしっかりと導いてみせますわ」

「ええっ!? すでに問題児扱い!?」

「師範学校に志願できるのは温泉むすめだけです。入学希望者が殺到することはありませんから、よほどのことがないかぎり不合格は出しません。よほどのことがないかぎりは」

「うっ……! でっ、でも、温泉への愛は他の温泉むすめにも負けませんし……!」

「なればこそ、温泉学基礎で温泉のことをしっかり勉強しなくてはなりませんわ」

「ううっ……!」

 泉海は子どもをあやすように言った。結衣奈は墓穴を掘ったことに気付いた。

「……言っておきますけど。結衣奈さん、数学と英語も不合格ギリギリでしたわよ」

「ううううっ……!」

 結衣奈は途中から「う」しか喋れなくなっていった。口ではこの女に勝てそうにない。

 だが、勝ち目がないほどやる気がみなぎってくるのが結衣奈である。表ではしゅんとしたふりをしつつ、心の中では泉海の言葉を反芻し、やり返せそうな部分を探し始め――。

「……あれっ?」と、結衣奈は泉海の言葉に違和感があることに気がついた。

「どうしました?」

「泉海さん」結衣奈はほのかな期待を込めて尋ねた。

「貴女『たち』問題児ってことは、他にも追試になった子がいるの?」

「……ええ、温泉学基礎で不合格になった子があとひとりいます。二年生の転入試験を受けた結衣奈さんとは違って、春から一年生になる子ですから、彼女は正確には入学試験ですけど」

「へええ……。どんな子だろう?」

 ひとりではないと知って、結衣奈はがぜん元気になった。

「……まあ、なんというか……」

 対照的に泉海は深い溜息をついた。心なしかその瞳が淀んでいる。

「なにかあるの?」と、結衣奈が尋ねようとした時だった。


 ティルルルルルル……――。

 ――ギュイイイィィィンンン!


 ――と、豪快なピックスクラッチの音が廊下に響き渡った。

「わっ!? うるさっ!」

 結衣奈は思わず耳を塞いだ。

 その音は、廊下の突き当たりにある生徒指導室から聞こえてくる。

「あの子、また……!」

 泉海が焦ったのか怒ったのか分からない早足でそちらへ向かっていった。決して廊下を走らないあたりはさすが生徒会長である。

 ギターの音はさらに続き、同じメロディを繰り返すギターリフに入る。何かの前奏のようだ。

 激しいアップテンポのメロディだ。ゆったり踊る草津節とは正反対だな、と結衣奈は思った。

「……ん?」

 正反対――ではない。

「……これ、草津節?」

 結衣奈は呟いた。

 極端にアレンジされてメインメロディが分かりにくくなっているが、間違いない。

「草津節じゃん、これ!」

 結衣奈は駆け出した。

「あっ、こら! 廊下は走らない!」

 あっという間に追い抜かれた泉海が鋭い声を飛ばす。しかし、今の結衣奈の耳には、その声すら草津節の合いの手にしか聞こえなかった。


〽草津よいとこ 一度はおいで


 軽やかな声が草津節のボーカル部分を歌い始める。リズムはユーロビート。日本の民謡と欧州の名を冠するポップなリズムの融合だ。


〽お湯の中にも 花が咲くヨ


 結衣奈は生徒指導室のドアを思いきり開けた。

 この合いの手だけは自分が入れなければならないという義務感を感じていた。

「ちょいな、ちょーいなーぁっ!」

ボアッうわっ!?」

 机の上でエレキギターをかき鳴らしていた少女のエメラルドの瞳が、結衣奈の瞳をとらえた。

 演奏が止まった。

 少女と結衣奈は見つめ合って――一瞬、無音の時間が流れる。

 少女がニヤリと笑った。

 結衣奈も頷き返した。

 少女の手が再び弦をかき鳴らした。


〽草津よいとこ 里への土産

(あ、どっこいしょ!)

 袖に湯花の 香が残るヨ

(ちょいな、ちょーいなー!)

 積もる思いと 草津の雪は

(あ、どっこいしょ!)

 解けるあとから 花が咲くヨ

(ちょいな、ちょーいなー!)


 曲が終わった。

 ――ギャアアアアアァァァンンン…………と、少女は天井を見上げてビートを閉じた。

 結衣奈もいつの間にか机の上に飛び乗って、少女と背中合わせに踊っていた。無人の校舎に溶けていくギターの残響が、結衣奈の草津温泉への想いを世界中に届けてくれるかのようだった。

「グーテンモールゲーン!」

 余韻に浸っていた結衣奈の前に、少女が小走りで回り込んできた(机の上で)。

「ドイツから来ました、奏・バーデン申しまーす!」

「群馬から来ました、草津・結衣奈でーす!」

 結衣奈は奏・バーデンと名乗った少女とハイタッチした(机の上で)。

「すごいねバーデンちゃん! ドイツ出身なのに草津節知ってるの!?」

「さにあらずデース! 草津の温泉むすめが来ると聞いて調べといてやったデース!」

「ほんと!? わあ、感激!」

 結衣奈は奏の手を取ってぶんぶん振った(机の上で)。

「誰からわたしのこと聞いたの?」

「そこにいる御仁デース!」

 奏・バーデンは笑顔で生徒指導室の入口を指差した(机の上で)。

「……あっ」と、結衣奈は我に返った(机の上で)。

 そして、自分が机の上にいることを(机の上で)思い出した。

 結衣奈は出来の悪いロボットのようにぎこちなく首を回して、生徒指導室の入口を見た。

「……はあ……」

 そこに立っている生徒会長は、怒るというより困惑していた。

「……どこから注意しようかしら……」

「だあーーーーっ!」

 と、結衣奈は弾かれたように机から飛び降りて泉海に駆け寄った。

「ご、ごめんなさい! 身体が勝手に……!」

 いくら合否に泉海の心証は関係ないといっても、さすがに今のはアウトになりかねないと結衣奈も分かっていた。少なくとも、結衣奈が泉海なら絶対にこんな生徒は入学させない。

 結衣奈の脳内は焦り一色だった。少し泣きそうですらあった。

 ――しかし、泉海の返事は意外なものだった。

「無理もありませんわ。彼女の音楽には、人の心を動かす力がありますから」

「えっ……。そうなの?」と結衣奈は尋ねた。

「ご自分の身体に聞いてみたらいかが?」と泉海は突き放した。

 やっぱり少し怒っている。結衣奈は気をつけをして、言った。

「はい! 身体が勝手に動き出していました!」

「よろしい」

 泉海はひとつ頷いて部屋に入ってきた。彼女は結衣奈の隣を通り過ぎて、奏・バーデンの方へ向かっていく。

「奏」

「へーいっ」と、少女は軽やかに机の上から飛び降りた。腰まである金髪がふわりと浮き上がる。彼女の身長は結衣奈や泉海よりひとまわり小さく、目算で一四〇センチあるかないかである。女性らしい身体の凹凸もほとんどない。完全なお子様体型だが、腰の位置は驚くほど高い。

 さすがドイツ出身だなあと結衣奈は思った――

「奏・バーデン・由布院さん……。せめてフルネームで名乗るようにしたらいかがですか?」

 ――のだが、その感想はすぐに覆された。

「えー……」と、金髪の少女は口を尖らせた。

「由布院奏にしろとは言いません。ドイツ生まれを自称するのも……まあ、構いませんから」

「えっ!? バーデンちゃんって『バーデン』が名前じゃないの……っていうか、ドイツ出身って自称で言ってるの……っていうか、由布院温泉の温泉むすめなの!?」

 結衣奈は一度にツッコもうとして情報過多に陥った。

 泉海が嘆息しながら言う。

「……由布院温泉は、ドイツのバーデンバーデンという都市を参考に町づくりが行われてきた場所なんです」

「バーデンですらないじゃん! バーデンバーデンじゃん!」

「そうなんです……」泉海の声色は呆れというより疲れの域に移っていった。「まあ、そういうわけで、奏がヨーロッパにかぶれるのは自然とも言えるのですが……」

「ヤー! ユーロビートの草津節で、日本とヨーロッパの融合を表現してやったデース!」

 奏は泉海の心労などお構いなしでキメ顔をしている。

 泉海は感情の抜けきった声で告げた。

「ユーロビートは確かにヨーロッパ発祥ですが……いまや日本のジャンルですよ」

「泉海ねーさんはずいぶん細かいことを言うデスねー。たとえ日本のジャンルであろうと魂がドイツならそれすなわちドイツでありバーデンデース!」

「いいこと言うね、バーデンちゃん! うんうん、大事なのはいつだって魂! そして、わたしの心もいつだって草津であり結衣奈だよ!」

 結衣奈は親指を立ててサムズアップしつつ、奏の意見に同意した。

「ああ言えばこう言う……! いえ、頑張るのよ泉海……こんなことに腹を立てていては生徒会長は務まりませんわ……」

 泉海はこめかみを揉みながらぶつぶつと独り言を言っている。

 そして、「えー、おほん」と咳払いをして、すました表情でこう言った。

「とにかく、なにかを語るならしっかりとした基礎知識が欠かせない、というわけです」

「強引に話を戻しにきたー!?」と、結衣奈は心の中で思った。

 奏も「おおう……」となにか言いたげな声を出した。

 泉海は結衣奈と奏にこれ以上なにも言わせまいと、間をおくことなく続けた。

「それでは――、机を拭いていただいて、『温泉学基礎Ⅰ・Ⅱ』の追試を始めましょう」

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