第七話「かけ湯で湯温に身を慣らすべし」①

 結衣奈の部屋は、湯畑を見下ろす高台にある旅館『むすび』の一室である。

 和室ではなく、郊外の大学生が借りるような広めのワンルームだ。寝る場所は床に敷く布団ではなくベッドだし、勉強する場所は座卓と座椅子ではなくPCデスクとPCチェアである。要するによくある女子高生の部屋であった。

「う~寒い寒い寒い! おかあさーん、制服どこしまったっけーっ!?」

 春休み真っ最中の三月二十四日。普段なら二度寝する寒さの朝。その部屋の中で、結衣奈は下着とソックスの上にブラウスを着ただけの姿でふとももをさすっていた。

「タンスの四段目の白い箱!」と、廊下から忙しそうな声が返ってきた。

「あった! ありがと!」

 結衣奈は言われた場所を漁って、これまで通っていた県立草津口高校の制服を引っ張り出した。

「もーっ! もう着ないと思ってたのにーっ!」

「結衣奈! お客さまがお食事中だから静かに!」と、再び同じ声が結衣奈を叱る。

「ごめんなさーい!」

 慣れた段取りでスカートのファスナーを上げ、ブラウスにリボンタイを回しつけてセーターを頭からかぶる。洗面台で髪型を整えたら最後にブレザーを羽織って通学鞄を引っつかみ、結衣奈は部屋を飛び出した。

 廊下の角を曲がったところにプライバシー確保のための扉がもうひとつある。その扉を開けると、木枠でできた古風な姿見鏡がひとつ、結衣奈の勢いを削ぐように置いてあった。

「おっとっと」

 結衣奈は足踏みをして勢いを殺し、姿見の前に立ち止まった。

「おまんじゅうツインテよーし、前髪よーし、リボンよーし、裾はきっちり、靴下平行!」

 忙しい朝の恒例行事である。彼女は電車の運転士のように指差し確認をして、姿見を後にした。

 そこから旅館の廊下を静かに歩いていき、「失礼しまーす!」と声をかけて食堂に入る。

「おはようございます! 二十代目『草津』、結衣奈です!」

 朝食中の宿泊客へのご挨拶。それが、学校がある日の結衣奈のお役目である。

「おはようございまーす!」

 家族連れで来た子どもたちの元気な挨拶が返ってきた。

「おねえちゃん、もうはるやすみおわりなの?」

「うっ……!」

 子どもというものは、こちらが聞いてほしくないことを聞いてくるものである。

 結衣奈は頬を掻いて答えた。

「いやあ……追試っていうテストを受けに行かなくちゃいけないんだよね」

「なんとこの子、師範学校の転入試験に落ちたんですよ! あっはっはっは!」

「ちょっ、おかあさん!」

 そして母親というものは、こちらが言ってほしくないことを言うものである。

 和服を着て接客していた女将――小島かつ江はそう言って馬鹿笑いした。

 食堂の最奥ではシェフの格好をした義父・喜左衛門きざえもんが苦笑いを浮かべてオムレツを作っている。彼の前には空き皿を持ったお客さんたちがずらりと並んでいた。

 温泉旅館『結』の朝食はバイキング形式だ。中でも、料理長の喜左衛門がその場で作るオムレツは好評のメニューである。接客と経営を一手に任されている女将・かつ江の手腕にも定評があり、結衣奈に会える旅館ということもあって、『結』の予約は一年先まで埋まっている。同級生で結婚したふたりは今年で還暦を迎えるが、まだまだ感性も若い。

 かつ江はお客さんを盛り立てるように言った。

「でもですね! なんと……今日の追試に合格すれば、入学を認めてくれるそうなんですよ!」

「おおーっ!」

 座敷は盛り上がった。

 学力不足をバラされたのは恥ずかしいが、「盛り上がったならいいか」と結衣奈は開き直った。

「温泉むすめ師範学校に入学するため……草津結衣奈、追試に行って参ります!」

 結衣奈はぴょこんと頭を下げた。「がんばってー!」と激励する声がいくつも届く。

「ありがとうございます! 本日はごゆっくりおくつろぎください!」


 旅館を出て少し坂を上り、最初の信号を右折すると低木の林が見えてくる。まだ桜のつぼみもない三月末の草津にあって、深い緑の葉をたたえる常緑広葉樹――シャクナゲの林だ。

 シャクナゲは草津温泉にとって象徴的な植物であると同時にご神木でもあり、その林は「神さまがおわす場所」として、地元の人々に聖域と見なされている。

 そんな場所に結衣奈はためらわず飛び込んでいった。彼女が神さまである。

 一見すると獣道のように見える隙間を縫って行くと、すぐに神社のお社に辿り着く。

『草津湯根ゆのね神社』――結衣奈本人をご神体として祀っている神社だ。大晦日に結衣奈たちが集まった出雲温泉神社の分社で、温泉地には「○×湯根神社」という名前の神社が必ずある。

「あ、お早うごぜえます。結衣奈さま」

「鶴さん、おはよー」

 境内の掃除をしていた七十代後半の猫背の男性が、竹箒を繰ったままひょいと頭を下げた。

「こんな朝からお社渡りでごぜえますか」

「そうなの。東京に行かなくちゃいけなくて……」

「と、東京!? はああ……東京ですかい。人の波に殺されぬようお気をつけて……」

 鶴じいさんは猫背の背中をさらに丸めてかしこまり、参道の脇に避けた。彼はバブル真っ盛りの東京で遊び歩いていた際に手痛い目に遭ったようで、東京と聞くといつも黙ってしまう。

「さあて……」

 結衣奈は参道の真ん中、鳥居の一歩手前に立って、スマホを取り出した。

 そして、『温泉むすめ師範学校』の校門――大鳥居の画像を表示する。

 ここからはイメージ力が肝要だ。

 結衣奈は鳥居に彫られた特徴的な意匠に目をつけた。よく見ると「スクナヒコ」と書いてある。あの天上神が直々に彫ったものらしい。サインのつもりなのか単純に字が下手なのか分からないが非常に読みにくい。たぶん字が汚い方だろうと結衣奈は思った。

 鳥居全体のふんわりとしたイメージと汚い字の具体的なイメージを同時に思い浮かべて――結衣奈は草津湯根神社の鳥居をくぐった。

「っ……」

 一瞬、高速エレベーターが動き出した時のような浮遊感に襲われる。

 ただそれだけで、結衣奈は――東京・お台場にある温泉むすめ師範学校の校門に到着していた。

「……ふう」

 有り体にいえば瞬間移動、ワープである。

 有り体にいわなければ『お社渡り』といって、神社の鳥居と鳥居の間を一瞬で移動できる能力を結衣奈たち温泉むすめは持っている。温泉むすめにとって唯一の神さまらしい力だ。

 ただし、鳥居があればどこにでも行けるわけではなく、跳ぶ本人がワープ先の鳥居について何らかのイメージを持っている必要がある。なので、彩耶の箱根湯本だったら寄木細工の意匠、那菜子の秋保温泉なら秋保大滝の瀑布の彫刻、結衣奈の草津温泉なら鳥居の周りを囲むシャクナゲの群生といったように、鳥居にプラスアルファして具体的なイメージを持たせる工夫がしつらえてある。

 結衣奈は鳥居に近寄って、「スクナヒコ」の文字をまじまじと眺めた。

「うん。単純に字が汚い方だ」

 結衣奈は納得して、石畳を校舎へ向かって歩き出した。

「東京もまだ寒いなあ……」

 『温泉むすめ師範学校』の外観は学校というより神社の境内に近い。お台場の海風を軽減するための松の木が敷地の外周に張り巡らされ、その一辺に結衣奈が先ほどお社渡りしてきた大きな鳥居がある。師範学校の学生以外の温泉むすめや一般人が校舎に入るための正門だ。

 石畳を歩いて行くと広々とした正門前広場に出る。中央に錦鯉が泳ぐ噴水を配した、都会の喧噪とは無縁の空間だ。彩耶と那菜子はよくここのベンチで昼食を食べているらしい。

「あれっ……。人がいる」

 そのベンチのひとつで――見覚えのあるボブカットの少女が、姿勢良く読書をしていた。

 大正風の意匠を取り込んだ師範学校の制服をきっちりと着こなした真面目そうな女性だ。読書に集中している様子で、長い睫毛をぴくりとも動かさない。

 なんとなく声をかけづらい気がして、結衣奈はそっとやりすごそうとした。

「……挨拶は学校生活の基本ですわよ。草津結衣奈さん」

「へえぁっ!?」

 結衣奈は変な声を上げた。

 少女はおもむろに栞紐を挟み、ぱたんと本を閉じ、本の背表紙を下にして、トートバッグにしまい、制服が乱れないようにバッグを肩にかけ、静かに立ち上がった。

 ひとつひとつの動作がはっきりしていて、丁寧だ。

「八時五分。五分の遅刻ですわね」

「あ、あれっ!?」と、結衣奈は先日ロッカーに入っていた封筒の書類を引っ張り出した。

「追試って八時半からですよね!?」

「ええ。ですが、追試に参加するか転入を諦めるかの意思確認をした際に、何時ごろ登校するかの目安を伺いましたよね。その際は――八時に着く、と」

 うっわメンドくさ、と結衣奈は思った。

「ま、まあそれは目安なんで……。適当に言っただけで」

「旅館の予約の際にも、何時ごろにチェックインなさるかお客さまに伺いますよね? もし遅れる場合はご連絡くださいとも。温泉むすめたるもの、自らそれを実行しなければなりませんわ」

「うぐっ……」

 正論である。正論すぎてうっとうしいやつである。

 そう反論してやろうと思ったが、結衣奈は言葉を呑み込んだ。自分を待っていたということは、彼女は追試の関係者だ。その心証を悪くして追試にすら落ちてしまったら、今度こそ『温泉むすめ日本一決定戦(仮)』の参加資格を失ってしまう。

 結衣奈はさっさと謝ることにした。

「すみませんでした。えっと、今年の生徒会長の……」

「道後泉海です。スクナヒコ様から本日の講師と、追試の採点官を仰せつかりました」

 生徒会長――道後泉海は、じろりと試すように結衣奈を見た。

「くっ、草津結衣奈です! 今日はよろしくお願いします!」

 反論しなくてよかった。結衣奈は心から思った。

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