第三話「洗い場でばっちり身を清めるべし」①
草津温泉は日本の中心にある――と、結衣奈は思っている。
地図で見れば一目瞭然だ。日本の霊峰・富士山からまっすぐ北に線を延ばすと草津温泉がある。長野県との県境にほど近い群馬県の西端、日本の動脈ともいえるフォッサマグナから見れば東端に位置する温泉地だ。日本の本州を地図から切り抜き、草津温泉の上に画鋲を刺してくるくる回すとそれなりにきれいな円に見える。結衣奈はバカなので、何度か試したことがあった。
東京から三、四時間と首都圏からのアクセスもいい。草津温泉の玄関口であるバスターミナルには毎日何本もの車両が出入りして、旅行客を送り迎えしている。
「だああああああぁぁぁっ!!」
そのバスターミナルを目指して、結衣奈は最後の気力を振り絞って走っていた。
「あははっ。結衣奈、すごい顔になってるよ」
「うっ……うるさいっ! 彩耶ちゃんの体力オバケ!」
彩耶が涼しげな顔で追いついてきた。さっきから何度もこの調子である。
幼い頃から日舞と薙刀をたしなんできた彩耶は、いまや運動ならなんでもこなすスポーツ少女である。彼女の地元である箱根湯本はかの有名な箱根駅伝の「五区」のコースにもなっているが――去年、心臓破りの坂道で有名なそのコースを試しに走ってみたところ、もう少しで男子代表に及びそうな記録を叩きだしたらしい。
本来ならそんなバケモノを相手にマラソンで勝負を挑むこと自体が無謀だ。
だが、結衣奈はなんでも日本一になりたがる難儀な性格だった。
彩耶とのマラソン対決はこれまで九十九戦九十九敗。これが百回目の勝負である。
今度こそ結衣奈には勝算があった。今回のマラソンのコースは結衣奈が決めたのだ。大小合わせて百個以上ある草津の源泉――その中から地元の人しか知らないものをチェックポイントに選び、彩耶を道に迷わせて勝利する作戦だった。
しかし、つかず離れずで彩耶が追いかけてきたのでは何の意味もない。
結衣奈は悔し紛れに言った。
「……つ、ついこの間までっ、勉強漬けだったからっ、身体がなまってるだけだし……っ!」
「そっか。どうだったの? 転入試験」
「……ぜぇ、はぁ……受かった……と、思う」
「思う?」
「まだ……ひぃ、通知来てない。でも……ふぅ、受かんないと日本一になれないし!」
『温泉むすめ日本一決定戦(仮)』への参加条件。
それは――『温泉むすめ師範学校』の在校生であること。
これが、スクナヒコが出した唯一の条件だった。
温泉むすめたちには「温泉むすめであること」を理由に人間社会のルールを曲げてはならないという暗黙のポリシーが存在する。なので、「日本一決定戦があるから学校/仕事を休みまーす!」というのは許されない。その点、温泉むすめ専門の学校である師範学校なら、時間割を組み直したり長期休暇に補講を入れたりして融通が利くというわけだ。
そんなわけで、結衣奈は地元の同級生たちとの別れを惜しみつつ『温泉むすめ師範学校』の転入試験を受けたのである。
全ては「自分が日本一になって、草津温泉にふさわしい温泉むすめになるため」に。
「っていうか……はぁっ、参加資格の話より先にっ、ぜぇっ……種目くらい考えておいてよ!」
「確かに」と、彩耶は苦笑した。
「『日本一の温泉むすめを決めるぞ! だけど種目は考えてないから、いい案あったら提案してね』ってのはちょっと……無責任だよね」
「『ね』と言われても! ……はぁはぁ……こっちには相槌打つ余裕ないからっ!」
「いや、素直に相槌打った方が文章短くて済んだんじゃない?」
彩耶は呆れ顔で結衣奈を追い越し、進路上にあった雪の塊を路傍に蹴り飛ばして、再び結衣奈の隣に戻ってきた。結衣奈が滑って転ばないようにしてくれたらしい。
「よくできた彼氏か!」と心の中でツッコみながら、結衣奈も腹いせに路傍の雪を蹴りつけた。
今日は三月十六日、草津温泉はまだまだ冬である。
スクナヒコが「日本一の温泉むすめを決めるぞ!」とぶち上げたのはおよそ二ヶ月半も前のことだ。しかし、「具体的にどう決めるのか」についてスクナヒコがノープランだったせいで、『温泉むすめ日本一決定戦(仮)』はいつ始まるのかすら未定の状況だった。
だが、競技が未定ということは自分に有利な内容を提案できるということでもある。野心のある温泉むすめたちは今が好機とばかりに自分が勝てる自信のある競技案を色々とスクナヒコに提案し、「では、実際にやってみろ」と言われて各地で試していた。
結衣奈はといえば、このとおり『草津源泉めぐりマラソン大会』を提案し、彩耶と一緒に試してみて――「ダメだこりゃ」と思い始めていた。
「まあ、マラソンが速くても温泉むすめとして優れてるとは限らないもんね」
彩耶が至極まっとうなことを言った。
「彩耶ちゃん……げえっほ! そういうことは先に……ぜー、はー……。ごほっ、ごほっ!」
「ちょっ、大丈夫……?」
「――と見せかけてダーッシュ!!」
結衣奈の背中をさすろうと彩耶がスピードを緩めた瞬間、結衣奈は一気にスプリントした。
彼女が道路を渡りきったタイミングで、バスターミナル前の歩行者用信号が赤になる。
「はあ!?」
「いっただきーっ!」
彩耶の間抜けな声が気持ちいい。結衣奈は拳を突き上げた。
ゴールはすぐそこ、バスターミナル内部の観光案内所だ。
「やったやった! 彩耶ちゃんに勝てる!」
結衣奈はがぜん元気になって、彩耶とのマラソン勝負の初勝利を確信した。その足取りは軽く、もはやウイニングランに近い。彼女は沿道に満員のお客さんがいる光景をイメージして、左右に手を振りながらジョギングしていく。
すると――その視界に。
結衣奈は、バスターミナル前の足湯小屋で、途方に暮れた様子で佇んでいる女の子を見つけた。
「……?」
結衣奈の足が止まる。
小学校一年生ぐらいの小さな女の子だ。女の子は木のベンチにしょんぼりと座り込んで、膝の上に置いたクマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめている。
「あ……」
結衣奈は振り返った。彩耶が不思議そうな表情で彼女を見ている。信号は今にも変わりそうだ。
結衣奈はバスターミナル入口を見た。自動ドアの向こうに観光案内所が見える。
結衣奈は振り切るように足を踏み出して――女の子のほうへ向かった。
「どうしたの?」
女の子はすぐには答えなかった。結衣奈が辛抱強くじっと彼女を見つめていると、一言だけ、「……なくしちゃったの」と言った。
「何を?」と結衣奈は尋ねたが、女の子は押し黙ったまま喋らない。人見知りする子のようだ。
それならば、と結衣奈は質問の形式を変えた。
「お父さんやお母さんは?」
ふるふる、と女の子は首を振った。
「ひとりで来たんだ」
こくり、と女の子は頷いた。
「旅行?」
ふるふる。
「草津温泉は初めて?」
こくり。
「うーん……」
結衣奈は首を傾げて考えこんだ。
要領を得ない。草津温泉が初めてということは地元の子ではないし、かといってこんな幼い子がひとり旅というのも考えづらい。ただの迷子というわけではなさそうだ。
女の子は「むむむ……」と悩んでいる結衣奈を見上げて何度か口を開け閉めしたあと、ようやく声を出した。
「……おさいふ」
「ん? お財布?」
こくり。
「おちてなかった?」
「お財布をなくしちゃったの? どこで?」
言い切ってから結衣奈は「しまった」と思った。一回で二個の質問をしてはいけなかった。
「……ええと」
案の定、女の子は困ったように言葉を選び始めた。
「結衣奈」
「あ、彩耶ちゃん」
気付けば彩耶が隣に立っていた。あったかいレモンジュースのボトルを三本抱えている。
それだけで、結衣奈には彩耶の言いたいことが分かった。結衣奈は彩耶に頷いてから女の子に向き直ると、彼女の目線の高さに合わせて身を屈めた。
「この人、わたしの親友の箱根彩耶」
「……?」
「で、わたしは草津結衣奈。あなたは?」
「あ……」
女の子はクマのぬいぐるみをぎゅっと抱き寄せて、恥ずかしそうに名乗った。
「……河井、ちかや」
それから結衣奈は、じっくり二十分はかけてちかやの事情を聞き出した。
ちかやはイギリスから引っ越してきた帰国子女で、四月から草津の小学校に進学するために、今朝ひとりで日本に帰ってきたのだという。彼女の両親は仕事のため一足先に草津温泉に住み始めており、今日の夕方にバスターミナルに迎えに来ることになっていた。
状況がややこしくなるのはここからである。
まだ昼の十三時だ。なぜ夕方まで迎えが来ないのかというと、ちかや自身が――イギリスで一緒に住んでいた祖母の協力を取り付けて、わざと遅い時間を伝えたからだった。
「つまり、ちかやちゃんはお父さんとお母さんを驚かせたかったんだね」
結衣奈は確認するように尋ねた。
「うん……」と、ちかやは弱々しく頷いた。
今日はちかやの両親の結婚記念日だった。
そして、彼女の両親は草津温泉で出会ったのだという。思い出のその場所でプレゼントを買い、ふたりを祝ってあげたいがために、ちかやははるばるイギリスから草津温泉まで大冒険にも近い旅をしてきたのだ。
「いい子だなあ……」
絶対に財布を見つけてあげなければ、と結衣奈は思った。
「結衣奈ーっ」
バスターミナルに聞き込みに行っていた彩耶が戻ってきた。その表情は芳しくない。
「ダメだった。案内所にも聞いたけど、財布の落としものは届いてないって」
「そっか……。ちかやちゃん、バス降りてからお水買ったんだよね?」
こくり、とちかやは頷いた。結衣奈は顎に手を当てた。
「じゃあ、草津温泉のどっかで落としたんだ」
「……道をあっちにいって……」と、ちかやはある路地の方向を指差した。「……そしたら、すごいhot springsがあって……うわーってなっちゃって、そしたらお財布がなくなってて……」
「は、はっつぷりん?」
結衣奈は英語が苦手だった。
「ホット・スプリングス」と、彩耶が訂正した。
「あっ、スプリングス! 温泉か! すっごい発音いいから分かんなかった!」
結衣奈は英語が苦手だが、温泉関連の単語はしっかり暗記していた。
「あっちにあるすごい温泉っていえば……」
彩耶は結衣奈を見た。
「うん」
結衣奈も間髪をいれずに頷いた。
確かにあの場所は「すごい」としか表現できないだろう。
町中にあんなものがある温泉地なんて、温泉大国日本ですら草津温泉しかない。
バスターミナルから徒歩三分。草津温泉を訪れる誰もが真っ先に訪れる名勝――。
結衣奈は立ち上がって叫んだ。
「――湯畑だ!」
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