第二話「脱衣所でしっかり給水しておくべし」②

 温泉むすめ。

 日本各地にある温泉地にいる神さまのことを、人々はそう呼んでいる。

 神さまといっても特別な力はなにもない。ある日突然、源泉の場所に湧き出るように生まれ、人の手を借りながら温泉地で育ち、暮らし続ける――目に見える座敷童のような存在だ。たとえば、結衣奈は十五年前に生まれ、小さな旅館を営む小島喜左衛門・かつ江夫妻のもとに引き取られて、ふたりを義両親として育った。地元の幼稚園に預けられ、地元の公立小学校に通い、地元の中学校に進学して、現在は県立草津口高校というこれまた地元の高校で高校一年生をしている。

 神さまらしいことはほとんどしていない。やることといえば、元日と毎年十月――つまり神無月に、この場所、出雲温泉神社に召集されることくらいだ。

 結衣奈たちはそれを『お勤め』と呼んでいる。

「……ふああ……。お勤めも終わったし、あったかくなったら眠くなってきちゃったよ」

 神社の中に入った結衣奈は、ふかふかの座席に身を沈めて大きな欠伸をした。

 結衣奈がいる客席側は照明を暗くしてあるせいで、なおさら眠い。そう感じたのは結衣奈だけではないようで、客席のあちこちから寝息が漏れ聞こえてくる。

「寝たら年越しまで起こさないよ」と彩耶が言った。

「ええーっ。起きたら新年? それはやだなあ」

「眠気覚ましにカフェインはどうだべか? はい、緑茶」

「わーい♪ ありがと那菜ちゃん!」

 両隣に彩耶と那菜子が座っている。一番遅く入ってきた結衣奈たちの席は客席の最後列なので、多少のひそひそ話なら咎められることはないはずだ。

 結衣奈は会場全体を見渡して言った。

「しっかし、こうして見ると壮観だよね。全員来ると何人?」

「三千人くらいかな? 小学生未満の温泉むすめはお勤め免除だから、その数にもよるけど」と、彩耶が答えた。

「三千人の神さまかあ……」

 日本には三千カ所以上の温泉地があるから、温泉むすめも同じだけの数がいる。しかも、一般的にイメージする「神さま」とは違って、温泉むすめは魂や霊体だけの存在ではない。人間と同じように物理的な身体を持っているし、それを切り離すことはできない。

 出雲温泉神社の本殿は、そんな温泉むすめたちが一堂に会することができるように普通の神社とは異なる内部構造をしている。手前から扇状に並べられた座席が階段になって下っていき、最奥の一番低い部分に儀礼用のステージがある。

 すり鉢を四分の一に分割したような立体――つまり、コンサートホールである。

「――というわけで、趣味が多様化した現代社会において、余暇を『温泉旅行』に費やす優先度は相対的に低下し続けています。いまこそ、わたくしたち温泉むすめに課せられた『温泉地を盛り上げる』という使命をよりいっそう意識し、スクナヒコ様のもと一致団結して――」

 そのステージ上では、ボブカットの美少女が難しい単語をちりばめたスピーチをしていた。

「……あの子が今年の生徒会長?」

「そう。どこの温泉むすめか分かる?」

 彩耶が楽しそうに尋ねてきた。

 結衣奈は任せろとばかりに胸をどんと叩く。

「お、いつものやつやる? 受けて立つよ」

「よし、ちょっと待ってて」

 彩耶はニヤリと笑って足下の土産袋を引っ張り出した。

 『お勤め』で配られる紅白の土産袋には各地の温泉地のお菓子がたくさん入っている。彩耶はその中から一番大きな箱を見つけて、丁寧に取り出した。

「それじゃあ、結衣奈ちゃんはここから目隠しするっちゃねー♪」

 結衣奈が箱の包装を見ないように、いつの間にか後ろに回った那菜子がそっと視界を塞いだ。

 彩耶が包みを破る音がする。箱を開け、中から何かを取り出して、丁寧にビニールを剥がす――その段取りを、結衣奈はいまかいまかと待っていた。

「オッケー。結衣奈。口開けて」

「あー……」

「ほいっ」

「……んっ。もぐもぐ……」

 その食べ物――まんじゅうが口の中に収まった瞬間、那菜子もぱっと手を離した。

 視界が復活する。彩耶と那菜子がイタズラっぽい表情で結衣奈を見ていた。

「……ふーむ……」

 結衣奈はふたりを焦らすようにまんじゅうを咀嚼し、舌の上で転がすようにして味わった。

 一口で食べられる小粒のまんじゅうだ。舌に触れた瞬間に薄皮が溶け、ぎっしり詰まったなめらかなこしあんが口中に広がる。

 一粒の小ささ、皮の薄さ、そして餡の密度――あまりに有名な味だ。

 結衣奈は自信を持って答えた。

「道後温泉!」

「正解!」

 彩耶が包装紙を掲げた。のし袋には、

『温泉むすめ師範学校・第十三代生徒会長――道後泉海 拝』

 と書かれていた。

 那菜子がぱちぱちと拍手する。

「すごいべ、結衣奈ちゃん! わたしも利きまんじゅうみたいな特技ほしいっちゃね~」

「えへへ……。まあ、わたしの温泉まんじゅう欲のなせる業、というか」

「言い換えると食欲ってことじゃないか……」

「いやー、面目ない」

 彩耶にツッコまれて、結衣奈は照れくさそうに頬を掻くしかなかった。

 結衣奈の好物は温泉まんじゅうである。それが高じて、彼女は各地の名物まんじゅうの当て比べができるようになった。

 年末年始の『お勤め』では、毎年、『温泉むすめ師範学校』で十一月に就任したばかりの生徒会長からのお土産として温泉まんじゅう(あるいは、温泉地で名物になっているまんじゅう)が配られる。結衣奈にそのまんじゅうを食べさせて、今年の生徒会長がどの温泉地の温泉むすめなのかを当てるゲームは、彼女ら三人の年末年始の恒例行事となっていた。

「――以上をもちまして、わたくしからの年末のご挨拶とさせていただきます。

『温泉むすめ師範学校』、第十三代生徒会長――道後泉海」

 壇上の女性がお手本のようなお辞儀をした。背筋をぴんと伸ばして舞台袖に退場していく彼女は、結衣奈たちのものより複雑で装飾が多い礼服を一点の乱れもなく着こなしている。慣れないはずの衣装の裾を踏むこともない。

「きちんとした人だなあ。ええっと……」

 結衣奈はのし袋に記された氏名を復唱した。

「今年の生徒会長は道後泉海先輩……っと。よし、覚えた」

「それ、覚える意味あるんだべか?」

 那菜子が尋ねた。彼女もいつの間にかまんじゅうを頬ばっている。

「まあ、わたしには関係ないかなー。来年も地元の高校だし」

「結衣奈、師範学校に転入する気はないの?」

「うーん……。ごめん」

 何度目かの質問を彩耶に尋ねられて、結衣奈はすまなそうに首を横に振った。

 『温泉むすめ師範学校』とは、東京はお台場にある温泉むすめ専門の学校の名前だ。二十一世紀になってからできたばかりの新しい小中高一貫校で、「長引くデフレと情報化社会の到来によって日本人の旅行習慣が激変するなか、温泉むすめ同士の密なコミュニケーションを図り、温泉地を盛り上げる」とかいう崇高な目的のために創設された。

 彩耶と那菜子を含め、だいたいの温泉むすめは『師範学校』に通っている。その一方で、結衣奈は地元・草津の高校で、人間の女の子たちと一緒に女子高生をしていた。

 それは、結衣奈なりの考えがあってのことだ。

「……わたし、本気で草津温泉は日本一の温泉だって思ってるんだ」

 と、彼女は切り出した。

「でも、わたしはなにもしてない。なにもしなくていいんだもん。そもそも草津の温泉がすごすぎるし、わたしが生まれた時には温泉地としても完成してたし」

 ――ドドン、と和太鼓の音が響く。新年へのカウントダウンが始まった。

「だからわたし、どうすれば草津温泉にふさわしい温泉むすめになれるのか――探し続けたいんだ」

「……うん」

 那菜子が小さく頷いた。あったかい声だった。

「見つけられるよ、結衣奈なら」と、彩耶も呟いた。

「地元に残ってれば見つかるわけじゃないかもしれないけどね。あはは」

 少し重くなった空気を吹き飛ばすように、結衣奈はわざとおちゃらけて言った。

 ――ドドン。

 和太鼓隊の前奏が終わった。

 続いて、ホール正面にあるアナログ時計の秒針に合わせて――和太鼓の音がドン、ドン、ドンと時間を刻んでいく。

「十!」

 温泉むすめたちが一斉に声を上げた。結衣奈たちも合わせる。

「九! 八!」

 彼女たちは一様に同じ場所――ステージ中央を見ている。

「七! 六! 五!」

 誰もいないその空間に、誰かが現れることを知っているのだ。

「四! 三! 二! ――一!」

 その瞬間。

 ステージ中央の空間が、ほんのわずかに揺らいだ。

『ぜろーっ! ……っとな』

 次の瞬間には、その場に一柱の神さまが姿を現していた。

『えー、マイクテスマイクテス。皆のもの、明けましておめでとうなのじゃ』

「おめでとーございまーす」

 少女とも少年とも判らない幼い容姿の神がマイクを引っつかんで言うと、会場の温泉むすめ一同は声を揃えて返事をした。どこか間延びして聞こえる温泉むすめたちの声は、学校集会などで校長先生に挨拶をする生徒たちのそれと同じだった。

 最上級神――スクナヒコ。

 全国の温泉と温泉むすめを統括する総責任者にして、『温泉むすめ師範学校』の校長である。

 ほとんどなんの力もない下級神の温泉むすめとは違って、スクナヒコはいわゆる「ガチ」の神さまだ。その場で消えたり現れたり、人の願いを叶えたり、天変地異を起こしたりと不思議な力をいくつも使いこなすことができる。

 スクナヒコはマイクをぐにゃりと歪め――トラメガに再構成して、演説を始めた。

『いやー、三千年も生きておると年月の流れは速いものじゃな。思いつきで建てた温泉むすめ師範学校も、はや創設十四周年になったか。キリがいいのう』

「キリがいい? どこが……?」

 彩耶がぽつりとツッコんだ。恐らく会場の全員が同じことを思っている。

「……というか、嫌な予感がするなあ」

 結衣奈は眉間にシワを寄せて続けた。恐らく会場の全員が同じことを思っている。

「『○○記念じゃ!』って言って思いつきのイベント開くの、スクナヒコさまのクセだべさ」

 那菜子が思い当たる節のありそうな顔で言った。恐らく会場の全員が同じことを思っている。

 温泉むすめたちは、総じてスクナヒコのことをあまり敬ってはいなかった。

『わしは寂しい! せっかくの記念年だというのに、温泉がまったく盛り上がっとらん!』

 しかし、疎ましく思っているわけでもない。スクナヒコはその場の思いつきでイベントを企画し、温泉むすめたちを動員し、大いに振り回して疲弊させるが――それもこれも温泉を盛り上げるためにやっているということを彼女たちは理解しているからだ。

『……そこで、じゃ』

 スクナヒコはわざと声量を小さくした。演説のテクニックのひとつである。

 会場はスクナヒコの言葉を聞き取るため、しん……と静まり返った。

 スクナヒコは満足そうに会場を見回して、告げた。

『お前たち――日本一を決めたくはないか?』

「え……?」

 結衣奈は思わず腰を浮かした。彩耶と那菜子もバッと結衣奈を見る。

「日本一……?」

『そうじゃ』

 結衣奈の呟きが聞こえたかのように、スクナヒコは頷いた。

 会場がどよめいている。

 結衣奈の胸が高鳴っていく。


 見つかった――と、結衣奈は思った。

 自分が、草津温泉のためにできること。

 自分が、草津温泉にふさわしい温泉むすめになるために、やるべきこと。


 それは、これまでのスクナヒコの無茶振りと比べても最大級に大規模で――


『今年、温泉むすめ師範学校は――日本一の温泉むすめを決定する大会を開く!』


 そして――最大級に魅力的な提案だった。

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