9.日曜日は戦場
さて今日も、私と紫苑は朝からバイトだ。
なので前日に、ちょっとした約束をLINEで交わした。『朝 一緒に行かない?』と。
待ち合わせ場所は、紫苑の住む公営住宅入り口。
数分経って、小さい影がこちらへと歩いてくるのが見えた。
どうやら、今日はコートじゃないらしい。
「おは……えっやば」
挨拶が衝撃によって引っ込んでいく。
リボンをあしらったフリルワンピに、ネイビーカラーのニットボレロ。
片サイドにゆるく垂れた三つ編み。
髪から服から佇まいまでフォーマルな雰囲気をまとった紫苑に、私は圧倒されていた。
あれ、私たちこれからバイトだよね? デートじゃないよね?
妄想つよめの幻覚じゃないかと脳を疑いそうになる。
ベレー帽を目深に被り直して、紫苑がか細い声量で尋ねた。
「……やっぱりやばかった? この歳にもなって子供服って」
あ、なんか盛大に誤解している。
言われるまで子供服って気づかなかったよ。最近の小学生おしゃれな子多いしさ。
「ちがうちがう、良い意味でのやばみ」
「……ほんと?」
「かっ、わいくて、えと、語彙力がですね…………ごめん流して」
もっとクールに『は???待って死ぬ』ってエア煙草くゆらせるつもりだったのに、中途半端なとこで噛んでしまった。
滑り倒した恥ずかしさが頬にくる。
「……やった」
ガッツポーズで口元を隠して、控えめなはしゃぎ声が紫苑から届く。
えっ、なにそのギャップ狙いの反応。かっわ。
切り替えるように咳払いをして、『そういえば筋肉痛は大丈夫?』と話題を変えてみた。
「無いわけでは無いけど、…………」
言葉が途切れて、急に紫苑の歩みが止まった。
すがるように私の右腕へとしがみつき、いきなり動きを止められたため足がもつれそうになった。
なんとかたたらを踏む。
「しーちゃん、どうかした?」
急に無言で俯いた紫苑に声をかけると、1テンポ遅れて紫苑の頭がゆらりと浮上した。
「……ごめん、こけそうになってとっさに」
「支えにしてくれるのは全然かまわないけど……気分が悪くなったのかなって」
「ううん、大丈夫」
紫苑はそうかぶりを振ったけど、この子我慢強いからなあ。
杞憂で終わればいいけど、様子には気をつけて見守るようにしよう。
「ビーフカレー2つ入りましたー」
「パンケーキ3人前でテイクアウトのお客様がいらしておりますー」
だいたい毎週のことだけど、日曜日は戦場だ。
10時過ぎには続々お客様が来店して、注文はひっきりなしに入る。伝票が溢れかえりそうな勢いだ。
「ほらそこ、下げ台片付けて。お客様が困ってる」
シフトリーダーさんが注意を飛ばす。
下げ台に置けるトレーは上下合わせて6枚が限度で、案の定隙間なく埋まっていた。
確か、あそこは紫苑の管轄だったはず。
「お待たせいたしまして申し訳ございません。こちらに手渡し下さいませ」
盛り付けを終えて、私はすぐにフォローに回った。
トレーを持ったまま立ち尽くしているお客様にお詫びを入れてトレーを受け取り、さっと食器以外のゴミを捨ててシンクに入れる。
「ここはお任せを。ハルさんは食器を洗って拭くことに勤めて下さい」
「畏まりました」
まだ現場配属二日目だから仕方ないけど、紫苑のペースではどうしても下げ台が埋まるスピードに追いつかない。
片付けが詰まれば食器洗浄も遅れ、やがて食器の数が足りなくなる。
とりあえず下げ台からトレーをすべて取り除くことはできたけど、今度は流しがいっぱいいっぱい。
どの食器も大量にシンク内に溜まるばかりで洗浄が間に合っていない。
「ハルさん、大丈夫ですよ。私がおります」
「……はい」
青ざめている紫苑にそっと笑いかける。
提供がスムーズにいかないと遅れている人にヘイトが集中しがちになるけど、だからこそ新人にはカバーしていかないと。
「必ず片付きますから、一緒にひとつずつやっていきましょう。最初にその積み上がったトレーをやっつけておきたいので、置けるぶんだけ重ねてください」
「分かりました」
がしゃがしゃとトレーを重ねていると、甲高く、なにかが派手に砕ける音が響いた。
振り向くと、床には丼の破片が散らばっている。
慌ててしゃがみ込む紫苑に私は待ったをかけた。
「怪我はございませんか?」
「はい。……大変申し訳ございません」
「いえいえ、だいたいの人がやってますのでお気になさらず。素手だと危ないのでほうきとちりとりで集めて下さい。今ビニール持ってきますので、掃いたらそこへお願いします」
紫苑は立ちくらみのように一瞬よろめくと、小走りで掃除用具を取りに行った。
そうしている間にも調理スタッフからは『食器少ないから洗浄急いでー』と急かす声が届く。
紫苑が掃き掃除をしている間、私は必死で片付けと食器洗浄に回る。
タイミング良くレジに並ぶ客の列が途切れたため、会計をしていた子が助太刀に入ってくれた。
目にも留まらぬ速さで水分を拭き取り、みるみるうちに枯渇寸前だった棚には食器が積み上がっていく。
このペースなら、底が見えなかった流しも半分は片付いてきそうだ。
「終わり、ました」
息も絶え絶え、といった調子の紫苑が戻ってくる。
大丈夫、いますげー心強い人がフォローに入っているから。
私はなるべく柔らかい調子で話しかけた。
「ありがとう。じゃあ、シンクに埋もれてる食器をじゃんじゃんカゴに入れて洗って下さい。下げ台は3トレーほど溜まってきたら片付けをお願いします」
食器拭きはまた割ったらって気にしているだろうし、私や会計の子で担うことに。
キャパオーバー寸前だったキッチンは、なんとか提供の遅れを取り戻しつつあった。
なのに、紫苑が一向に落ち着く気配がない。
声には苦しそうな吐息が混じり、瞳も焦点が合っていない。
さっきよりも、片付けるペースが遅いように見える。
あまり体力を使わない仕事を回したつもりだったんだけど、思った以上に疲弊していたのか。
「ハルさん、もう少しスピードアップできる?」
感情を抑制した硬い声で、スタッフの一人が紫苑を急かした時だった。
「すみ、……ごふっ」
紫苑の肩が小さく跳ねて、言い切る前に濁った咳が吹き出した。
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