8.【紫苑視点】嘘でしょ
芹香とは公営住宅入り口で別れて、私は自宅に戻った。
玄関に鍵を掛け、コートを脱ぎ捨てる。制服のブラウスはすっかり汗を吸って湿っていた。
今日のような陽気では、熱中症も十分にありうる服装。
だけどどうしても、私には制服とコートを着ねばならない理由があった。
単純に、着ていく服がないから。
友達と、休日遊びに行く。
ここ数年はそういった約束が途絶えていて、私はすっかり服を買う習慣が無くなっていた。
明日もバイトはある。それまでに、どこに出しても恥ずかしくない衣類を揃えねばならない。
なので私には、これからもうひとつの用事が入っていた。
入り口階段を出て振り返り、日々朽ちていくだけのくすんだ白壁を見上げる。
もう、築何十年になるのだろうか。
錆びたフェンスの向こう側は、あんなにもきれいな街並みが広がっているのに。
あそこは駅に近いからか、人気のある地域らしい。毎年どこかの物件がブルーシートで覆われているのが見える。
芹香の家も、その住宅街の中にあった。
さて目的地は、ここから徒歩15分ほどの場所にある。
フリマでもないのに破格の安さを誇るのが特徴で、今日も駐車場はほぼ満車の盛況ぶりである。
しばらく店内を探し回って、またも私は現実に打ちひしがれることになった。
サイズが、合わない。
気に入った服ほどSサイズが売り切れており、あったとしてもウエストが大きめに設定されているものばかり。
結局お直し必須なのかと、諦めてトップスを物色していると。
「あれ、黒川?」
背後から名前を呼ばれ、予想もしていなかった出会いに心臓が縮こまった。
今度は逃げないと芹香と約束したため、振り返る。
2人の女子が立っていた。
まさか1日の間に2度も知り合いに出くわすとは。私服だと誰だかわからないので、恥を忍んで名前を聞く。
眼鏡を掛けているのが
「……なんで分かったの?」
「いや制服着てたらバレバレだろ」
「黒川さん目立つからねー。でもなんで制服?」
「服屋にださい部屋着で入るのが恥ずかしいから、いちばん恥ずかしくないのが制服だっただけ」
正直に理由を述べると、二人から同時に『そっちのが身バレ不可避で恥ずかしいわ』と突っ込みを食らった。
「こういう安い服屋って、女子はあんまり行かないと思ってた」
「なわけないじゃん。ここって
「分かりやすく言えば、宝探しってとこかなぁ」
中には売れなかったブランド物の服もあり、定価5000以上の服が2000円以下で投げ売りされていることもあるらしい。
思わぬ掘り出し物を求めて2人は来たのか。
「黒川さんは何を買いにきたの?」
「よそ行きコーデの幅が広がりそうな私服」
「デートか」
「その脳内彼氏どこから湧いてきた?」
「でも、それくらいは想定して揃えたほうが後々楽だよ。今しか巡り会えない服はたくさんあるんだから」
普段男子と関わらないゆえか。女子校の子は、よほど恋バナに飢えているらしい。
……デート。
先ほども、芹香が別の子にそう呼ばれていたのを思い出す。
続けて芹香の力強い手のひらの感触が蘇ってきて、ぎゅっと手を握りしめた。
「つか黒川、あんたの体型だとそこにお求めのサイズはなくないか」
「詰めるからいい。ぴったり合うの探すとなったら、子供服でもない限りは無理だもの」
「えー、それでいいじゃない」
……は?
何を言い出すのかと、おっとりした口調の人(藤原さんだっけ?)に突っ込みを入れる。
「高校生が子供服は痛いと思う……」
「童顔だし、肩幅小さいし、細身だし。似合わない要素ないじゃない。現役で通用するレベルだよ」
意外と言う人だ藤原さん。私の意思そっちのけで、二人は勝手に子供服売り場へ行ってしまった。
それから1時間近く、試着室に拘束された私はファッションショーのおもちゃにされていた。
初めは乗り気ではなかったものの、普段から服を買って吟味している人たちの目利きは確かなもので。
癪だけど、自己流で選ぶよりはずっとトータルコーディネートのセンスがあった。
でもちゃっかりインスタに載せようとしたので全力で阻止した。
「ゴスロリ着せてみたいなー、ダメ?」
「それ以前に売ってないから」
「あー、確かにそっち系も似合いそう。加工しまくりの自称ロリに本物を見せてやりたいわ」
「年齢的に偽物よ」
最終的に、いくつものでっかい袋を抱えて私たちは店を出た。
あの予算でここまでバリエーション豊かに揃えられるものなのかと、ここの子供服の充実っぷりに感心する。
「その、色々ありがとう」
二人はもう少し店内を見て回るらしく、ここで解散となる。
たった1時間で新しい友達ができたかのように錯覚するくらいには、フレンドリーな方々だった。
「人の服見立てるの好きなんだよね。だからこっちもお節介に付き合ってもらって感謝してるよ」
「デートコーデに困ったら聞いてきてよ。いろいろ教えてあげるから」
だからデート違うわと流そうとしたが、今日買ったのは春と初夏兼用の薄い衣類が中心だ。
バイトには年中行くわけだし、季節の変わり目にまた聞いてみるのもいいかもしれない。
「じゃあ、秋物あたりになったときにまた」
「あ、否定しなかった。黒だ。黒川さんだけに」
「だからなんで認定したがるの」
あとでDM送るからと2人のインスタをフォローして、彼女たちとは途中で別れた。
芹香は明日、どんな反応をするだろうか。
それで何かが変わるとは期待していないが、少しでも彼女に並び立てるようになればいいと思った。
「……っ」
もうすぐ家というところで、下腹部に鈍痛を覚えた。
糸をくくりつけられ引っ張り上げられているような、特有の痛み。何度経験しても慣れることはない。
波が去った後は早歩きで戻り、真っ先にトイレへ向かう。
嫌な予感が見事に的中した私は、肩を落として大きく息を吐いた。
嘘でしょ、と心の声がこぼれ落ちていく。
まだ先だと思っていたのに。
まさか、今来るなんて。
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