10.こんなに重い子だったっけ

 紫苑が口元に手を当てる。

 背中を丸め、咳を必死でこらえるように。


 ……まさか。

 収納棚の近くにいたのが幸いした。テイクアウト用のビニール袋をとっさに掴み、紫苑に渡す。


「ハルさん、こっちっ」


 紫苑の手を引いて、私はスタッフルームに駆け込んだ。

 ドアを閉めたところで、紫苑のえずく声が届き始める。どうやら、ぎりぎり間に合ったらしい。


「よく我慢したね、えらいよ」

「ごめ……う゛……」

「あーほらほら、喉に詰まるといけないから謝るのはなし。全部出し切っちゃいな」


 なるべく見ないように手だけを背中に当てて、ゆっくりと上下にさする。

 十数秒ほどでエチケットタイムは止まり、ぐすぐすと鼻を鳴らす声が届き始めた。


「いま、追加のビニール持ってくるよ。中身は大量にティッシュ入れて、水分飛ばすように。箱ティッシュここね」


 見た感じ、制服も汚れてはいないようでほっとした。

 着替えるのを待って、処理のため私たちは従業員トイレへと向かった。

 丹念にうがいを終えた紫苑が、泣き腫らした顔でずずっと鼻をかむ。


「気分はどう?」

「おさまった……迷惑かけてごめんなさい」

「いいって。どこも汚していないんだから。みんな心配してたよ」


 厨房では薄暗くてはっきりしなかったけど、まだ顔色は悪い。もともと紫苑は色白だけど、今は生気を感じられないほどの青白さだ。


「しーちゃんはこのまま上がっていいみたいだから、休養室まで案内するよ。私も休憩取ったから安心して」

「……ありがとう」


 昨日と同じように受付に続く通路を歩き、上への階段をのぼる。

 目的の休養室は2階にあった。


「…………う」

 と、のぼりきったところで紫苑から小さいうめき声が上がる。

 こんなこともあろうかと予備を持ってきててよかった。急いでビニールを差し出す。


「大丈夫……そっちの波じゃない」


 手を振って、紫苑は苦しそうに顔をしかめる。大丈夫には見えない。

 波って、お腹のほうだったらまたトイレに行ったほうがいいと思うんだけど。


 ……あ。

 しきりにお腹の下をさすっているところで、なんとなく察した。


「もしかして、月イチの?」

 小声で尋ねると、控えめに頭が縦に振られた。

 にしても、こんなに重い子だったっけ。

 二日目でも体育余裕だよー、って軽いことを自慢してた記憶があるけど。


 とりあえず休養室まで歩いたが、本当に身体を横たえて休むだけの簡素な内装だ。

 応接室みたいに長テーブルがあって、挟む形でソファーがふたつ設置されているだけ。


 ソファーに寝転んだ紫苑は、ぽつぽつと訳を説明してくれた。


「言い訳になってしまうけど、対策はしているつもりだった。腰とお腹にカイロを貼ったし、痛みが強くなる前にちゃんと薬は飲んだし、朝は念入りにストレッチをした」

「ここまで辛かったのって、これが初めて?」

「うん。……だけど、今年に入ってから痛くなってきた自覚はあった。それでも薬を飲んでいれば治まる程度だったから、甘く見ていたところはあったかも」

「そっか」


 明日婦人科を受診してくる、と紫苑は結論づけた。

 悶絶するほどの苦しみだったら行ったほうがいいレベルだもんね。


「具合が悪いときは、まだ大丈夫って思っても遠慮なく申し出ること。ぎりぎりまで耐えて倒れて打ちどころが悪かったら、もっとひどいことになっちゃうから」

「……肝に銘じます」

「よし、いい子だ」


 子供を寝かしつけるように頭に手を置くと、赤く染まった紫苑の顔がずぶずぶとブランケットに沈んでいく。

 痛み引いたら帰っちゃっていいよと残して、私はバイトに戻った。



「持ち場を離れている間、フォローに回っていただきありがとうございます。ハルさんの体調ですが、いまは落ち着いているのでご安心下さい」


 説明もそこそこに、溜まっていた食器類の洗浄に入る。


 動き回っていた私を気遣ってか、店長を含めた他スタッフさんはしきりに私の体調も心配してくれた。


 濃いクマを作っている人や滝のように汗をかいている人もいるから、その人たちのほうが心配になるけど。



「サトウさん、今日は本当にありがとうございました」


 退勤前に、私はヘルプで来てくれた女子大生にお礼を伝えた。


 この方は就活準備で忙しくシフトも少ないから、ほとんど話したことはない。

 あの店長が選んだだけあって、飲食店よりもイベコンで稼いでそうな綺麗な人だ。


「臨時収入はいくらあっても困りませんから。お役に立ててよかったです」

「あ、私のほうが新人で年下ですし。タメ口で結構ですよ」

 どうやら年上だと思っていたらしく、高1と伝えるとえらくびっくりされた。


「えー、こんな足長い女子高生いる? すげー、モデルさんじゃん」

「あはは、それは私のほうが思いましたよ」


 きりっとした美人さんだからちょっと身構えちゃったけど、意外と砕けた口調の方でとっつきやすい。


「あの子の高校時代もこれくらいあったかね……」

「え? お知り合いの方にもいるんですか?」

「うん。体育でバスケやったときに取り合いになってた。チーム分けがドラフト形式って荒れるからやめたほうがいいと思うんだけどね」

「うちは完全ランダムですねー」


 制服以外だと、こんな感じで実年齢よりも年上に見られることが多い。

 面長で無駄に身長があるせいだろうか。高すぎても低すぎても難儀ね。


「その休んでいる子にも、ぜんぜん気にしてないからって伝えておいて。時間が合えばまた力になるよ」

「はい。お心遣い痛み入ります」



 着替え終わってスマホを確認すると、紫苑からメッセージが届いていた。『終わるまで向こうにいるね』か。


 元気になったら戻っていいよとは言ったけど、律儀に待ってくれたのかな。

 またあの超絶愛らしい姿の紫苑と並んで歩けるかと思うと、今から足取りが弾む。


 って呑気な色ボケ思考で向かおうとしていた自分を殴ってやりたい。


 休養室には、体をくの字に曲げた紫苑がいた。

 苦しかったのかブランケットは跳ね除けられ、荒い呼吸のなか呻いている。どう見ても歩ける状態にはなかった。


「しーちゃんっ」


 ここではお静かに、とあった入り口の張り紙も忘れて。

 私は弾けるように叫んでいた。

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