後編
「お待たせしました~」
「運ぶよ」
「いいですよ。今日は野菜を切るのを手伝ってもらえましたし、座っててください」
『さて、仙台ですが……こちらも満開ですね! この週末は花粉も少なく、全国的に暖かい気温となっていて……』
「あ。そっかそっか、もう春なんですね」
皿に盛られたシチューを運んできたエルがテレビのニュースを前にして呟く。
彼女が家に来てから、そろそろ1か月が経とうとしていた。
あれから彼女は色々な事を教えてくれた。
自分の好きな物だとか、今までどういう事を学んできたとか。
眉唾もののように聞こえたそれも、羽のある彼女を前にしては全て現実のように思えた。
「いいですよ春は。何たって出会いの季節です! きっと良い門出になる予感がします!」
「あぁ、そう」
「テンション低くないですか」
「……あのさ」
「ハッ、もしかして私が汁物しか作れない事がバレてしまいました!? すいません汁気が多くてすいません!」
「聞いてねーよ。……途中から何となく気づいてたし」
というか空気をぶち壊すな。
こっちが勇気を出そうとしているのに。
仕切り直すかのように姿勢を正し、息を整える。
「もし良かったら。良かったらさ、見に行かないか。桜を」
「お花見ですか!? 是非是非! 見に行きましょう!」
「即答かよ。あー、もう。勇気出したこっちが馬鹿みたいじゃねーか」
「??」
肩の力が抜けていくのが分かった。
彼女ならそう言ってくれると理解していても、やっぱりこういうのは緊張する。
「で、どこ行きましょうか?」
いたずらっぽくエルが笑みを見せる。
それに呼応するように俺も口角を上げる。
「それはだな……」
二人で話しては笑い合う。
ずっと終わらないでほしいとさえ思える小さな作戦会議は結局深夜まで続いた。
「先輩って変わりましたよね」
「そうか?」
「いや、見た目とかは変わってないんですけど。何か、こう……以前と比べてちょっと爽やかになった感じがします」
「何だそれ」
そろそろ深夜に差し掛かろうとしている時間帯、人もまばらなコンビニ。
そのレジの前でおむすびを補充する俺に対して後輩が端を発する。
爽やか……ってどういう意味で言っているんだ?
「ひょっとしてアレっすか!? この前ここに来た女の子! あの子と何か進展があったとかですか!?」
指が滑って持っていたおむすびを落としかける。
「……それは関係ない」
「うっそだぁ。今の反応は何かあった人のそれでしょ」
「何もないっての」
「はいはい。でも俺はどっちかっていうと今の先輩の方が好きですよ」
「別にお前に言われても嬉しくねーよ……あ、店長」
「夜三河くんお疲れ。それが終わったら今日はもう上がっていいから」
「ありがとうございます」
作業を終えてから、制服を着替えて鞄へしまう。
店を出て顔を上げるとエルが待ってくれていた。
「お疲れ様です、幸介さん」
「……まだ寒いだろ、わざわざここまで来なくていいのに」
「えへへ」
彼女に歩幅を合わせるようにしてゆっくりと歩く。
春に差し掛かろうとしているといってもまだ夜は肌寒い。
そっと上着をかけてやると、彼女は照れくさそうに微笑んだ。
「明日はお花見ですね」
「予報では晴れるってよ」
「楽しみですか?」
「……そうだな」
「私も楽しみです!」
先ほどの後輩の事を思い出す。
明るくなったとか爽やかになっただとか、自分が変わった自覚は正直そこまでない。
けれど少し前向きになれたのはきっと。
「ありがとな」
「? 何がですか?」
隣にいるエルのおかげなのだ。
「着いた~!!」
バスに乗る事おおよそ30分。
緑の中で咲くピンク色はより一層映えてみえた。
「いや~晴れましたね! 行きましょう幸介さん! ……幸介さん?」
桜は嫌いだった。
両親が死んでから見るのが怖かった。
置いてきた楽しい思い出さえも黒く塗りつぶされてしまうようで。
ずっと、目を背けてきた。
「……綺麗だな」
その感想に嘘偽りはない。
視界も、悲しみさえもピンク色に包まれていく。
「そうですね。私も、こんな綺麗な桜は初めて見ました」
「あぁ、本当に―――」
今まで逃げていたのが勿体ないくらいに。
それは美しく咲き誇っていた。
「なぁ。写真撮ってもいいか?」
「いいですよ。……って私が許可するまでもないですね。はい、ではどうぞ!」
「違う。桜だけじゃない。お前も入っていてくれ」
「え、私ですか!? いや、でも私は……その……」
「ダメか?」
「ダメでは無いですけど……。その代わり、一つだけお願いがあります」
「何だ?」
「私がもしいなくなっても、その写真は大事にしないでください。きっとあなたは、あなた自身の幸せをいつか見つけられると信じています。だからどうか―――こんな馬鹿な天使がいたんだな、程度に留めてください」
「……分かった」
「約束ですよ」
そう言って、彼女はぎこちなく笑った。
今まで見たことの無い、悲しみの混じった笑顔。
エルがその時何を思っていたのか俺にはよく分からない。
「ささ、やるなら一思いにやっちゃってください!」
「注射じゃねーんだから。目をつぶるなよ」
結局俺は彼女を写真に収める事を選んだ。
何か、エルを繋ぎとめるものが欲しかったんじゃないかと今になって思う。
ともかく、桜を背景に写る彼女の笑顔は今までで一番美しかった。
それはずっと覚えている。
「私、幸介さんに聞きたいことがあったんです」
「どうした急に」
昼飯を食べ、シートの上に寝転がって桜を見上げていた俺の横でエルが優しく声をかける。
「あなたのところに訪れた天使が、私で良かったのかなって」
「…………」
「ダメなとこばっかりだし、可愛くないし、金欠だし、料理も大して作れるわけじゃない。それに、一度はあなたを追い詰めてしまった。他の子だったらもっと上手くできたんじゃないかなって」
「……お前は自分が思っている以上に凄い奴だよ」
「え?」
「俺は、多分お前じゃなきゃダメだった。お前がいなかったら、俺は今日まで生きてない。だからまぁ……誇りに思えばいい。お前がそれでいいならの話だが」
「……あは。あっはははは! 相変わらず一言多いですねもう! あはははは、笑いすぎて涙が出ちゃう。でも良かったです。本当に良かった」
エルの顔はこちらからは見えない。
心から安堵したような声色。
それはまるで彼女がどこかへ行ってしまうような、嫌な予感がした。
「今日のお前なんかおかしいぞ」
「そうですかね? 今日が楽しみでテンションが上がってるのかもしれないです」
そう言ってエルが笑う。
その日、俺は彼女の様子についてこれ以上探ることはできなかった。
エルが忽然と姿を消したのは、その3日後のことだった。
異変に気付いたのは朝のことだった。
エルが寝ていたはずの布団は何故か俺を覆っていた。
いない。
彼女がどこにもいないのだ。
この前の不穏な予感が蘇って、額から嫌な汗が伝う。
食器も服も、何もかもが昨日のまま綺麗に収納されていて。
初めから彼女がどこにもいなかったかのような不気味さがあった。
「鍵……、そうだ鍵は」
おぼつかない足で鍵を探す。
一つしかない鍵には白猫のキーホルダーだけがついていた。
わけがわからないまま、家を飛び出す。
彼女の行きそうなところを血眼になって探した。
後輩にもエルを見ていないか電話をかけた。
その返答に耳を疑った。
「そんな人いましたっけ? 先輩の記憶違いじゃないですか?」
冗談で言っているわけではないことは、電話越しでもわかった。
なら彼女は、一体どこへ?
そもそも天崎エルという人物は存在していたのか?
おかしいのは俺の方なんじゃないか?
そんな疑念をかき消そうと、俺はひたすらに走り続けた。
疲れ果て、最後に行きついた先はあの屋上だった。
エルはどこにも見つからなかった。
予告もなしに、痕跡ごと消えてしまった。
屋上から地面を見下ろす。
彼女は現れない。
靴を脱いで一歩を踏み出す。
彼女は現れない。
彼女は現れない。
「なんだよ……意味わかんねぇよ……!!」
大粒の涙が重力に従って落ちていく。
全て俺が見ていた幻覚だとでも言うのか。
俺にはもう、何も分からなかった。
重い足取りで家に着く。
電気の明かりはどこか薄暗く、一人分で満杯だったはずの家はどこか広く感じた。
そして、部屋にある机には。
『夜三河幸介さんへ』と字で書かれた白い紙が置いてあった。
「なんだこれ、手紙……?」
少なくとも、家を出る前にはこんなものはなかったはずだ。
おそるおそるその手紙を開く。
『夜三河幸介さんへ
この手紙は、読んだ後に処分してください。
まず突然彼女があなたの元を去った事をお許しください。
一つの場所に長居しすぎました。
天使の本来の使命は、多くの人を救うことです。
ですので半ば強制的に移動させる運びとなりました。
天使の規定で、彼女の存在はあなた以外の人の記憶から消えます。
一時の夢を見たのだと思ってください。
それではあなたの幸福を、心より願っています』
意味が分からなかった。
気付けばくしゃくしゃになるほどその手紙を握りしめていた。
どうして俺の大切な人はいつもいなくなってしまうのか。
せっかく、せっかく生きようと思えたのに。
お前がいないと意味がないのに。
膝から崩れ落ちる俺の視線が捉えたのは、机の下に捨てられるようにおいてあった小さな紙だった。
『幸介さんへ』
間違いない。
彼女の、天崎エルの字だった。
『こんな形の別れになってしまって本当にごめんなさい。
私は幸介さんと過ごせて、幸せでした。
あなたと話して、泣いて、笑って。
それらの思い出全てが宝物でした。
あなたの幸せを願っているのは本当です。
過ぎた人生は決して戻らないけど、あなたにはまだこれからがある。
苦しい事があっても、一度あれだけ辛い事を乗り越えたんですからきっと大丈夫で
す。
でも、心のどこかで。
傷になってもいいから自分の事を覚えていてほしいと思う私がいるのです』
字が進んでいくにつれ、文字が震えていく。
心なしか、紙には何かに濡れた後が残っているように見えた。
『ごめんなさい。ごめんなさい。
やっぱり私はダメな天使です。
私の映った写真はきっと、上司たちによって修正されるでしょう。
幸介さんがくれた鍵も、キーホルダーも処分されるかもしれません。
忘れてもいいから、いつか思い出してください。
顔なんて覚えてなくても、こんな奴がいたんだなって。
それが私からの最後のお願いです。
勝手で醜い、ダメな天使の願いです。
どうか、お元気で。
天崎エル』
俺の手は、自然と先日撮ったあの写真へと伸びていた。
桜の前に映る彼女が、消えていく。
そこだけが焦げるかのように、じわじわと消えていく。
「あ、あああ……!!」
やめてくれ。
これ以上俺から奪わないでくれ。
「ああああああ!!!」
写真を抱きしめ、
こんな事なら、一回くらい彼女を抱きしめてあげればよかった。
沈んでいた日がいつの間にか上っていた。
結局俺は、あのまま泣き疲れて寝てしまっていたらしい。
「ははっ、ひっでー顔……」
腫れた目を手でこすって笑う。
自分の事だ、そう簡単には彼女の事を忘れられないだろう。
いや。
忘れるものか。
忘れられなどするものか。
考えよう、俺が彼女を忘れないために何が出来るのか。
それから俺は、転職活動を始めた。
中々いい所は見つからなかったが、死ぬ気でひたすらに頑張った。
その結果、思いが伝わったのかなんとか条件のいい職場で働かせてもらえるようになった。
そしてもう一つ、再び絵を学びはじめた。
元々趣味の範囲を出られないものだったし、筆を握るのなんて久しぶりだったから全然上手くいかなかった。
絵画の教室に通いながら、牛歩のごとく少しずつ少しずつ上達していった。
テーマはただ一つ。
いつかの写真を見ながら、筆を走らせる。
もうそこに彼女の輪郭はなく、ただ桜が写っているだけだ。
あの日の君を描こう。
少し照れくさそうに笑う君を、不器用に美しく微笑む君を。
何度だって、何千枚だって描いて見せよう。
君の事を忘れないように。
もう、筆を取る事はいよいよ出来なくなった。
目もすっかり悪くなり、自分が描いた絵さえもぼやけて見える。
いつか追いかけていた彼女の姿は、もう描けなくなっていた。
外では桜が舞っている。
俺の別れにはいつもこいつがいた。
だから、これもある意味縁なのだと思う。
心電図の音だけが嫌に響く部屋で、じっと天井を見つめる。
見舞いに来る人間は皆、会社の後輩たちだった。
結婚など一度もしなかったから嫁も子供も孫もいない。
きっと俺は死んで無縁仏になるのだろう。
「本当に、くだらねぇ人生だったな」
しゃがれた声で呟く。
誰にも届く事の無い思いを。
応えるものはいない。
「そんな事無かったですよ」
はずだった。
ちゃりん、と鍵が鳴る。
音がした方を見ると黒猫のキーホルダーを付けられたそれが置いてあった。
視界が色を取り戻していく。
ベッドに寝る俺の横で彼女は笑っていた。
あぁ。
あああ。
忘れることなど無かった、ずっと追いかけていた彼女がそこにいた。
「……あぁ、お前は変わらねぇな。エル」
「ようやく名前で呼んでくれましたね」
「やっぱりお前は絵なんかよりずっと綺麗だなぁ」
「えへへ、本当ですか? あ、それよりも。……お疲れさまでした。あなたはよく頑張ったと思います。きっと天国へ行けますよ」
体にもう痛みはない。
震える手で彼女を抱きしめる。
「あの時、一回くらいこうしてやりゃよかったのにな」
「……はい」
「遠かった。……遠かったよ。天国も、お前も」
天使は、彼方にいた。
天国は彼方 砂糖醤油 @nekozuki4120
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