適切な認知が難しい

1.そもそも認知って何?

  私たちは生きていて、リンゴという果物をみかんと間違えることはあるだろうか?

  いや、恐らくほとんどの方はないんじゃないかと思う。

  「そんなの間違えるわけないじゃんー」っておっしゃりたい気持ちはよくわかるけれど、私が言いたいのはそこじゃない。

  人は、視覚的なものに対して適切な認知が出来るのに人の内面的な事に対しては適切な認知が難しくなってくる。

  明らかに問題がある人が居たとして当然、皆は好き好んで居ないけど、自分がその場じゃないと居場所がないと考えたとする。

  肯定感の欠如から引き起こされるリスクというのは、自分で居場所をつくることが出来ない事から嫌いな相手を受け入れて我慢するという選択肢をとってしまいがちであり、そういう嫌いな相手と向き合う事を避ける傾向にある。

  そして、明らかにこの人は問題があるという判断が可能でも誰一人その人を敵対視したり、苦手意識を持たないように動く傾向がある。

  理由は、自分の居場所をつくれない事から自分の保身に走るためである。

  長々と書いてしまったが、相手をよく理解する能力とか自分の先入観で相手を見ないとかそういう話です。

  食べ物だと、明らかに味が違うのに人に対して適切な理解が出来ない事がなんと多い事か。


2.肯定感が全てではないけど

  本来向き合わないといけない人と向き合わず、自分の都合でしか動けないという事は、いざという時に何かが起きても誰も何も対応が出来ないということ。

  また、変な集団心理が働く事で全体が保身に走り、企業でいうなら改善可能な状態だったとしても誰かを仲間外れにして都合よく生きるとする。

  適切な助言者が居ても、改善することなく進んでしまうので倒産してしまった際に路頭に迷う人が出るのはそういうことだ。

  恋愛でもそう、「現状じゃ問題あるよー」と伝えることがあったとしても肯定感の低さから相手の気持ちが伝わりづらい事はよくある。

  また、愛情に疎い傾向がある場合当然気持ちが伝わりづらい。

  その辺を考慮すると、相手をきちんと理解する、認知していくことの重要性はわかるのではないか?

  認知が歪めば歪むほど、相手をきちんとした形で認知できない。

  変なプライドや自己評価が異常に高いなどの要素があって、相手を攻撃したりしてしまう。

  自我の確立という言葉は難解に聞こえるが「自分は、何が好きで何が嫌い」「将来的にどういうことをしたいのか」という目的意識を持ってるか否かという話で考えれば回答は比較的容易ではないか。

  

3.課題を克服した人だけが見えてくる境地

  私は、おかしな人と対立したという立ち位置になり客観的にみると修羅場を経験した人とという立場になるだろう。

  しかし、そうやって自分を貫くと「私も気持ちわかるー」やそういう方もそれなりに現れるものだ。

  今までそこまで親しくなかった方との連絡が可能になったりして交友範囲が広がる事も現実としては出てくる。

  結局、自分の課題を克服する事が新たな方向性を生み出し、新しい未来が出来ていく。

  貴方は、どちらの方が幸せでしょう?

  嫌いな相手のところに居る人生と、自分にとって居心地のいい場所を取るかの2択です。

  自分で居場所をつくれない人の共通点として「そこしか居場所がない」という思い込みがあること。

  また、明らかに問題があっても執着心があり、そこに極端にこだわってしまう。

  その執着心を捨てた私は、本当に気にかけてくれる仲間に恵まれた。

  私はあえて問いたい、皆さんならどっちが幸せでしょう?


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