第8話 確かなこと
「嶺蔵様」
懐かしい声がした。
嶺蔵がうっすらと目を開けると、大層美しい顔をした女が嶺蔵を上から覗き込んでいる。白い肌に黒い髪がよく栄えた。長い睫が影を落とす、黒目がちの目が嶺蔵を写す。
「……光子」
愛おしい彼女の名前を呼んだ。伸ばした手は、光子の頬に触れる。ひやりと冷たい。光子は、温かなその手に自分の手を重ねて、頬を擦り寄せた。
「大層
「うん……。思い出せないな、なんだか、長い夢を見ていた気がする……」
「そうですか。確かに、嶺蔵様ったら昨晩は早くお休みになられたのに、とっくに昼ですよ」
「えっ!」
がばりと身を起こすと、確かに窓からは高い日の光が射し込んでいた。その様子に、光子はクスクスと品のよい笑い方をする。
なんだか不思議な心地がして、嶺蔵は改めて家の中を見回した。仕切りの障子は全て開け放たれ、縁側からはそよそよと風が抜けていく。この平屋を購入する決め手となった、天井と鴨居の間にあるお気に入りの欄間の彫刻。緑の畳に、焦げ茶色の家具達が何と無く栄える。
実家を出て、田舎の平屋を購入した。
縁側からは細やかな庭が覗き、萌える緑色が目と胸に優しい。こんな環境なら、光子も気兼ねなく暮らしていけると思った。光子は仕事をすると申し出たが、嶺蔵は家にいて欲しいとお願いした為、専業主婦になった。
「ところで今日は、どうされますか?」
「え?」
「今日、おでかけをする予定だったじゃないですか」
「あっ! 勿論、行くぞ!」
嶺蔵は「しまった!」と起き上がって、寝間着の
「今日はお前の誕生日だから、好きなものをたんと買ってやるからな」
「……いえ、私は、嶺蔵様と居られるのでしたら良いのですよ」
「またそんな謙虚なことを言うな。俺がそうしたいんだ」
「……ありがとうございます」
光子はそう言われて、どこか困ったように笑った。
「辰典はどうした?」
「あの子は遠慮するって。子供の癖に、気を遣っているんです」
「また那良之助のところか?」
「きっと」
「じゃあ今日は、一人占めだな」
嶺蔵は表情を幾ばくも柔らかくし、笑いかける。再び光子の柔らかい頬を、その大きな手で包み込む。それからそっと、口づけをした。
「姉様は、本当に幸せなのだろうか」
「……どうして?」
那良之助は嶺蔵の家から徒歩数分のところにある。
嶺蔵が家を出る決断をした時、彼らの新しい棲み家に程近いところへ引っ越した。嶺蔵の付き人として嶺蔵の世話をする為であったが、嶺蔵が結婚した今、彼の手伝いなど不要なようにも思う。けれど、那良之助は嶺蔵について来た。実家の誰も着いては来なかったので、嶺蔵への並々ならぬ忠誠心だということになっていた。
用意された団子を食べながら、縁側で足をぷらぷらと揺らし、辰典は努めて何でもない顔をしながら言う。
「……夜によく泣いていらっしゃる。それに、本当は何か働きたかったはずなのに、『家に居ろ』と言われたので家にいることを選んでいる。嶺蔵に逆らえないのだ」
女性とは家で家事育児を行うもので、「社会進出などはしたない」とされていたものの、それに反発する女性が一定数いたのも事実で、最近は女性が働いている姿もよく目にする。
「好きにしろ、と言ってくれないなら、変わらず不自由だ」
「……そうかな」
那良之助は盆に乗せて運んできた湯呑みの内一つを辰典の横に置き、自分は更にその横に腰を下ろした。盆の上に乗せっぱなしだった湯呑みの方を手に取り、口を付けて啜る。
「僕には嶺蔵様からの愛だと思うけどな。世の中はまだ、女性の社会進出を望まない人が多いし、大層な差別を受けているようだから。嶺蔵様は、そんな風に辛い経験をもう、光子様にして欲しくないんだよ」
「そういう、『世間』からも妻を守るのが夫の務めでは?」
「ふふ。辰典様は手厳しいですね」
「……敬語はやめろよ」
表情を殺していた辰典が、那良之助が敬語になった時だけ、子供らしく頬を膨らませた。ちらちらと、隣に座る那良之助を視線を送りながら、口の開閉を繰り返す。何か、言いたいことがあるらしい。
「…………那良之助だって、そうだ」
「え?」
「嶺蔵は、お前を一人にした……」
不貞腐れながら言う辰典に、那良之助は目を丸め、それから、破顔した。切なそうではあるが、愛おしいものを見るような表情は、とても柔らかい。夏の訪れをを感じさせる暖かい風が二人を撫でる。
「……そうですねぇ。一人ぼっちに、なっちゃいましたねぇ……」
「………おれも。おれも、一人ぼっちだよ……」
「お揃いだね」
「………おれ達は一人ぼっち同士だから、二人で二人ぼっちだね。しょうがないから、おれがずっと、那良之助の傍に居てやるよ」
そっぽ向いて辰典が呟いた。非常に小さな声だったが、那良之助の耳にはしっかりと届いた。
「ふふ。嬉しいです。ありがとうございます」
「だからッ、敬語!」
顔を真っ赤にした辰典が那良之助を振り返る。愛おしさに任せて、那良之助はそんな辰典の頭を撫でた。
「……ありがとう」
辰典の思慕を那良之助が気付いてたかどうかはわからない。
光子が身籠ったのはその年の冬の事だった。
吐く息がすっかり白くなり、嶺蔵は奮発して電気ストーブを購入した。
そんな折、光子は珍しく頬を赤らめて、目を少し潤ませながらそれを辰典に報告した。同じ時、やはり嶺蔵も飛び跳ねるような嬉しさを何とか抑えながら、それでも弾んだ声は隠しきれずに、那良之助にそのことを報告した。
当然、那良之助も自分のことのように喜んでくれるのだと思った。
「おめでとうございます……!」
弾むような声。笑顔。………なのに、嶺蔵はそんな那良之助に違和感を持った。が、弾む気持ちを前に、それはとても些細なことだった。
「ありがとう。これからまた、賑やかになるな」
「男の子ですかね。女の子ですかね」
「俺よりも気が早いな!」
「きっとどちらでも、可愛いんでしょうね」
そう言って笑う那良之助の表情には先程のような違和感は無くなってた。やはり杞憂だったようだと早合点し、嶺蔵もまだ訪れぬこれからの未来について想いを馳せ、語り始めた。傍で、那良之助は的確な相槌を打ちながら嶺蔵の気が済むまでその話を聞いた。
その夜は嶺蔵、光子、辰典、那良之助の四人で細やかな宴を上げた。ちゃぶ台を四人で囲み、光子が最近知り合った友人から教わったビーフシチューを作った。コロッケとマダレーヌ(※マドレーヌ)まで食卓に並ぶ。
未だに質素倹約の心が抜け切っていない光子は買い物へ行く時に少しだけ強張ったが、それでもこのメニューを決めたのは嶺蔵であり、彼を喜ばせたかった光子は意を決して高価な食材達を抱えて、レジに通した。
性別も分からぬ内から、子の名前は何にしよう、と言う話で盛り上がり、また、那良之助にはいい人は居ないのか、辰典の方が先に婚姻することもあるかもしれないと、話題が逸れていく。
まだ十一程の辰典は直ぐに眠気に負けてしまい、皆より先に部屋へ戻ることにした。
「あとは大人で楽しんで。おれ、寝るから。……姉様、本当におめでとう」
「ありがとう。おやすみ、辰典」
すっかり酒を飲み始めていた嶺蔵と那良之助だったが、辰典が席を立つと、那良之助も立ち上がった。
「僕もそろそろお暇致します」
「まだ早いんじゃないのか?」
「いえ。嶺蔵様、光子様をあまり付き合わせてはなりませんよ。もう一人の身体ではありませんから……。光子様もお休みになられた方がいいと思います」
「……確かに。そうだな」
まだ飲み足りないのか、名残惜しそうな顔をした嶺蔵だったが、那良之助にそう諌められて、酒の入ったコップを置いた。
「それでは、おやすみなさいませ。今日は本当に、おめでとうございます」
「ああ。ありがとう。気を付けて帰るんだぞ」
立ち去ろうとする那良之助に、光子が立ち上がり玄関まで見送ろうとする。それを右手で制して、「お気遣いには及びません」と那良之助は朗らかな笑みを浮かべた。
「………那良之助」
玄関までそっと着いてきていた辰典は、玄関の扉に手を掛けた那良之助にやっと声をかけた。しかし、振り返った那良之助に、なかなか言葉を紡がない。
「………」
「……どうしたの? 辰典」
「……あの、だ、大丈夫……?」
一回り以上も離れた子供に心配されたのが嬉しかったのかおかしかったのか、那良之助は唇に弧を描いて笑った。はっきりと断言したことがないが、何故か那良之助の嶺蔵に対する想いは、辰典にはばれていた。
「……大丈夫だよ。ありがとう」
その嘘だって、きっと辰典にはバレていた。
それから数ヵ月経った頃。
日に日に大きくなる光子のお腹を、嶺蔵はよく撫でて、光子の体調を気遣った。
この頃、家事は殆んど嶺蔵がこなしていた。那良之助も手伝ったが、「いつ那良之助が家庭を持つかわからないから、俺も出来た方がいいだろう」と、基本的には全てのことを嶺蔵はこなした。―――元より、器用な男である。なんでもやってみれば、大概のことは何でも出来た。
那良之助の焦りや哀しみ、殺そうとしても殺し切れない
嫉妬心に駆られているなんてことを、嶺蔵は少しも気が付かない。
「………嶺蔵様。覚えていますか?」
「うん?」
並んで洗い物をしながら、那良之助の突然の問いかけに、嶺蔵は首を傾げた。
「貴方が[[rb:高利貸し>アイス]]に乗り込んで制裁した帰り道、多勢に無勢の暴行に命かながら逃げ延びて。遂に、光子さんの店の前で倒れた。……そんな貴方を、光子さんは引き摺って僕の元に連れて来ました」
「二日後にお前と乗り込むはずだったけど、下調べに行った俺がついカッとなって、そのまま店主に殴りかかっちゃったんだよな」
「ええ。………僕はあの日、下調べを貴方に行かせてしまったことをとても後悔しているんです……」
暗い影を落としながら食器を洗う那良之助に、嶺蔵は「ははは!」と声を出して笑った。パンッと左手でその背中を励ますように叩く。
「確かに。死にかけてボロボロになったし、親にも外泊がバレて酷く叱られはしたが………光子と出会えたのだから、那良之助は気にしなくていい」
「……」
そうじゃないのだ、と心の中でした那良之助の呟きに、勿論、嶺蔵は気が付かない。ありがとうございます、と、なんとか口の端から漏らして笑った。手が悴んで感覚がない。水が冷た過ぎるので、今晩からの洗い物は絶対に自分がしようと心に誓った。
必要とされていなくても、それでも、“此処”に居ていい理由が欲しかった。
例えそれが、仲睦まじい嶺蔵と光子を直視しなければならない拷問の日々だとしても。那良之助は、嶺蔵に縋った。
光子は無事に第一子の女の子を出産した。
嶺蔵が光子も赤子も同じように愛し愛でる姿は近所でも評判で、子育ての大変さが加わっても光子と嶺蔵はおしとり夫婦のままだった。
子が二つ程になると、時に那良之助や辰典に子守りを任せて月に一回は嶺蔵と光子だけでデートをした。
月日は巡る。
二十五にもなると、辰典は遂に結婚した。この時代で言うと、どちらかと言えば平均よりも遅い方である。
那良之助は変わらず、嶺蔵の傍に居た。
光子が三十三になった時、スペイン風邪を患い、帰らぬ人となる。
子が十四の時だった。
嶺蔵は信じがたい苦しみと哀しみに包まれたが、それでも、光子の忘れ形見のようにそっくりな愛娘を真っ当に育てる義務があった。子供の前では、父であり、母であるように努めた。
孤独になった嶺蔵の傍にも、やはり那良之助が居た。
その日からは、まるでこの二人が親のように、子をよく育てた。
「那良之助。お前、そろそろ結婚しないと……」
しないとどうだと言うことを、嶺蔵は皆まで言わなかった。
この時代の平均寿命は大体四十半ば。那良之助は既に四十一歳だった。
「嶺蔵様こそ。再婚などはお考えにはならないのですか?」
「馬鹿言え。俺の嫁は、生涯、光子ただ一人だ」
「……そうですね。僕も、生涯お仕えするのは嶺蔵様、ただ一人です」
「………」
子が成人すると、忙しなかった時が少しゆっくりと流れ始めた。
那良之助は嶺蔵よりも四つ歳が上だったが、年齢に弱っていくのは嶺蔵の方だった。
「……いけないな。このままでは、お前を一人、遺してしまう」
ベッドの上で手に取り握った嶺蔵の手を、那良之助は額に押し当てた。
「…………貴方を独りにしてしまうよりも、ずっといい」
「………」
「
「………薫子をお前にやろうか……」
「まさか。どれだけ歳が離れていると思っているんです?」
目を丸めた那良之助に、嶺蔵は薄く笑った。気力があまり無いと見える。
「お前が親戚になるなんて、ちょっといいなと思っただけだよ」
「…………」
答えなかった那良之助に、嶺蔵は視線を縁側へと移して続ける。
「………光子が待っているのかと思うと、死は怖くない。独りで、先に逝かせてしまった……」
「………そんなこと、言わないで下さい……」
「若い頃。お前を巻き込んで、義賊ごっこするの、楽しかったなぁ……」
「“ごっこ”だなんて……。貴方様に救われた人は大勢おります。………僕もその、一人です」
お前を? 俺が? 嶺蔵は言外に那良之助に問いかけた。那良之助はこくりと頷く。
「貴方は……嶺蔵様は、僕の太陽でした」
「はは! なんだそれ!」
久し振りに、嶺蔵がおかしそうに笑った。かつての、昔よくしていた笑い方だ。
それから暫くし、嶺蔵は息を引き取る。
「那良之助、ありがとう。……光子、今逝く」
それが嶺蔵の最後の言葉。那良之助はその最後の最後まで、嶺蔵の手を握っていた。
******
「………こうこ、……」
「嶺、大丈夫?」
嶺がうっすらと目を開けると、大変美しい顔の男が覗き込んで来る。整った顔、よく通った鼻、長い睫、憂いを含んだ瞳。
寝惚けて空を切っていた嶺の手を、そんな男―――麗が握る。
「……魘されてるわけではなかったんだけど、寝ながら泣いてたよ……?」
「………麗」
何度か瞬きをして焦点を“現実”に定めた。懐かしい夢を見ていた。長い、夢だ。光子の魂を持つ麗でも、夢で光子に会った後では、違いも目立つ。髪の色も違えば、大きさも違う。光子は大きな目をしていたが、麗はどちらかと言えば切れ長い。
光子との違いを見つける度、ちらりちらりと数週間前に麻知に言われたことを思い出しては胸が痛んだ。
「………今日、やめとく……?」
麗が少し控えめに言って首を傾げた。今日は、デートの日である。
「………今何時?」
「昼前だけど……」
「………ごめん、直ぐに準備する」
慌てて起き上がった嶺は、麗が初めて見る服装をしていることに気が付いた。襟付きのシャツやらブラウスの多い麗が、珍しくパーカーを着ている。
「………どうしたの、それ?」
「………どうかな?」
「いいじゃん!」
おずおずと上目遣いに様子を窺っていた麗は、そこで満足そうに微笑んだ。「良かった!」と言うなり、どこから持ってきたのか、同じパーカーをもう一着取り出した。
「嶺のもある!」
「えっ」
「………お揃い」
はにかんむ麗に、嶺は言葉を失った。可愛い、と思ったし、愛おしい、とも思った。なんと言い表していいかわからない。
「………ありがと。直ぐ、着替えるわ」
「ん」
電車で移動して、隣の県へ向かう。
電車を乗り継いで一時間、降りる人の一番多い駅で嶺達も電車を降りた。
一気に感じる都会感。それでも、日本の三大都市では無いことに毎度驚かされる。嶺はまだ東京にも大阪にも愛知にも行ったことがない。
お揃いの黒のパーカーで並んで歩くだけでも少しだけ人目が気になるが、麗は平気で嶺の手を取り、指を絡めた。
「嶺、今日は一杯楽しもうね!」
人の多い駅に心が踊ったのか、駅ビルに心が踊るのか。麗は買い物好きの女子のようにはしゃぎながら、ショーウインドウの横を歩く。
今日のデートの目的は特に無く、あるとすればこの土地へ来ることだった。買い物には持ってこいのエリア。嶺達のいる県内の商店街なんて非ではない程の賑やかさである。
まずは駅ビルに入って目ぼしい雑貨屋などを眺めた。石鹸ショップの前を通ると、麗が足を止めるのでそれにも付き合った。嶺が買い物に付き合うのは前世からお手のものだが、麗は本当にまるで女性のように、目についた店に片っ端から入っていく。
八階に行くと、簪ショップが入っており、そこで足を止めたのは嶺の方だった。
「………かんざし?」
「あ、………いや、」
「………なんか買う?」
「必要ねぇだろ……」
華やかな細工が施された簪から目を反らす嶺だったが、麗は気にせずに無数の簪が並ぶ前で足を止め、一つ一つ物色する。
「オレ、これがいいな!」
先に進んでいた嶺が立ち止まり、振り返る。麗は手に取った簪を嶺に見えるように、こめかみの位置まで掲げた。
「どう? 似合う?」
赤いトンボ玉が付いている、並んでいる簪の中では些か控えめな簪だった。麗の笑顔に、嶺は小さく息を吐いてから歩み寄る。
「……お前なら、もっと派手でも似合うよ。髪色明るいし、逆にこういう暗めなトンボ玉でも似合うと思う」
深海ブルーと札に書かれたトンボ玉の付いた簪を指差す。深い青だ。暗いと言えば暗い色だが、金箔を適度にあしらい、深い海の色だと言われると納得する美しさがあった。
「じゃ、これにする」
「……簪、つけれるの?」
「練習するよ。毎日やれば、直ぐ慣れるでしょ」
目当ての簪を胸に抱えた麗に、嶺が手を出す。
「え?」
「貸せよ。……買うから」
「えっ!」
目を瞬いて驚く麗を他所に、そっとその簪を引き取り、嶺はレジに向かった。
簪は流行っていないのだろう。それでいて、値段も思ったよりも張る。レジはガラガラで、外の客どころか店員も居なかった。呼び出しベルで呼び、会計を済ませた嶺が麗の元へ戻る。
「ん」
「あ、ありがとう……」
麗は受け取った細長い紙袋を、ぎゅっと胸の前で抱き締めた。
「オレ、人生で贈られたものの中で、これが一番嬉しいかも……」
「ふ、大袈裟」
簪屋の前を通った時から仏頂面になっていた嶺がやっと笑った。「今、つけようか?」と訊かれ、麗は直ぐに髪を束ねていたゴムをのけた。
外の客の邪魔にならないよう、近くにあったベンチに座る。
(………光子にも、贈ったの?)
後ろで髪をくるくると簪に巻き付けている嶺には訊かずに、心の中で問う。あとで調べてみると、簪を贈ることはプロポーズの意味があった。きっと、嶺の事だ。きちんと贈ってプロポーズしたのだろう。
駅ビルを出ると、目星をつけていたラーメン屋に寄った。雑誌にもよく紹介される人気店なだけあって、昼時の時間を既に過ぎていたが三十分は並んだ。こってりとした豚骨スープ。店の外のダスト付近では臭過ぎてとても食欲をそそられなかったが、こうしてラーメンとして出されると旨いから不思議だよな、と嶺の忖度無い感想に、麗も全面的に同意だった。
「……スープこってりなのに、意外といけた。胃もたれするかなぁって思ったけど……」
「麗は少食過ぎるから、もっと食べた方がいいって」
店を出るなり、味の感想よりもこってりスープをさっぱりと飲むことが出来たことに麗は驚いていた。嶺は苦笑し、先を促す。
まだまだ、寄りたいところは沢山あった。
商店街に入り、軒を連ねる活気ある店の多さに圧倒される。
「全然、人の数が違うね」
ほんの隣の県なのに、リュウは麗をあまり多くの場所に連れていかなかったのだろうか? はしゃぐ麗に、嶺は目を細めた。
食後なのに露店で売られていた韓国発祥とか言うスイーツに舌鼓を打つ。普段からよく食べる嶺は兎も角、麗には別腹が存在するらしい。ワッフル生地にホイップクリームと果物が挟んであるそのビジュアルに、「これは食べなきゃ」と麗が立ち止まったので、嶺が二人分購入した。
「お金、出さなくていいのに」
「いいって。……デートだし」
「……こそばゆいなぁ……」
少し歩いた先の、飲食可能な洋菓子店では、麗が財布を出して、焼き菓子とお店のオリジナルレモネードを楽しんだ。
あっちこっち、ぷらぷらと歩いては目につく店には片っ端から立ち寄る。ゲームセンターを見付けると、取り敢えず入ってクレーンゲームを楽しんだ。
夕方になってもまだ日は高かったが、ここらの名物の屋台がちらほらと明かりを灯し始める。
屋台を数件はしごして、電車で帰るのが今日のプランだった。
「いらっしゃい!」
提灯が灯っている屋台を覗くと、意外と若そうな大将が直ぐに声をかける。頭に白いタオルを巻いているところが如何にもという感じだ。半袖の白いシャツにジーンズ、黒のエプロン。とても簡素な感じが、逆にいい。
狭い店内で、大将と嶺達の距離は近い。一番客のようで、長椅子の端に寄って座った。
「偉い綺麗なねぇちゃんだと思ったら、野郎二人かい!」
特に揶揄した雰囲気はない。にこやかに笑うその顔からは嫌みな空気が読み取れない。素直な感想のようだ。
メニューを注文すると、会話をしながらということもあったのだろうが、あっという間にカウンターにラーメンが二杯並んだ。
「屋台のラーメンて、発泡スチロールの皿なのかと思ってた」
これまた麗が、素直な感想を漏らす。これぞラーメンの丼! というような、よくイメージする皿に並々、ラーメンとスープが入っている。これまたこってりしたスープだ。レンゲを動かすと、跡が出来そうなくらいどろどろとしている。濃厚な豚骨スープだ。
「うちの豚骨スープは拘りの塊だからね!」
「おにぃさん、若いけど何代目なの?」
「初代だよ、初代! サラリーマンが、一念発起したんだよ」
「えっ、凄い!」
麗は直ぐに他人と打ち解ける。同じ顔をして笑いながら、オープンクエスチョンでどんどんと相手の話を引き出し、相手がちょっとした苦労話や自慢話をすると大袈裟になり過ぎないくらいの加減で適切な反応をする。
はぁー、凄いな。と感心しながら、嶺は隣でスープを飲む。喉に落ちて行くスープの存在感が凄い。麗、苦手じゃないかな、と気になる。
結局、それは嶺の杞憂で、麗はしっかりとスープを飲み干して店を出た。
「………はぁ、嶺、ごめん。ハシゴ無理かも……」
「あっはは! 無理に全部飲まなくて良かったのに」
「いや、若大将が拘ったっていうスープじゃん……?」
お腹を擦りながら苦しそうに歩く麗に、嶺は目を丸めた。
「………お前って、意外といい奴なんだな」
「はぁ? オレはいつだって『いい奴』だよ」
「そうかなぁ?」
ひでー、などと笑い合うこの感じは、久し振りな気がして、嶺の心を打った。簪を贈り、つけてやるその時は明らかに恋人としての空気を感じていたが、今この瞬間は親友とのそれだった。
屋台を出ると、流石にもう空は暗い。
けれど、川沿いに転々と並ぶ屋台の提灯の灯りや人々の談笑で、地上は寧ろ明るく感じられる。
「………幸せって、こんな風なんだね………」
不意に、麗が呟いた。
その小さな呟きを丁度吹いた風が拐って、残念ながら嶺の耳には届かなかった。
「え? なんか言った?」
「何でもないよ。この後、どうする?」
「そうだなぁ……」
帰ろうか、と紡ぐのを二人ともが躊躇った。
どうせ、帰ったって二人一緒なのに。
トゥルルルル、トゥルルルル。
そんな空気をじれったく思ったのか、急かすように嶺のスマホが鳴った。
“マスター“と表示されているのをチラリと確認して一瞬悩んだが、結局、麗に断りを入れて、通話ボタンを押す。
『あっ、良かった! 嶺くぅ~ん、今からバイト来れない~?』
「………すみません。今、デートしてるんで」
『デート!! ってことは、麗とも一緒?』
「はい。麗と居ます」
電話をする嶺の横で、麗の体がびくりと強張った。
『あーはーん? んじゃ、ま、仕方無いかぁ~』
「すみません。……いけますか?」
『まーね。大丈夫よ~。ちょぉーっと頑張ったら、いける』
「んじゃ、すんませんけど、頑張って下さい」
『あッはは! そっちこそ! ハメ外し過ぎるなよぉー。ラブホは男だけの入店禁止のとこもあるから、事前に確認しときなよ~! ほんじゃあ。すまんね、おデート中に』
本当に大変なのか、楽したくて電話をかけたのか……相変わらず掴みにくい調子のままに電話は切れた。嶺はいつも、切れた後のスマホを少しの間眺めてしまう。
「………リュウ?」
「え、ああ。おう」
おずおずと、麗が訊く。
歩きながら話していたので、いつの間にか帰る方向へと向かっていたようだった。賑やかな通りから少し離れて、行き交う車のライトと、点々と続く街頭だけが暗がりを照らす。麗の横顔に明かりが当たったかと思うと直ぐに車が通過して行き、上手くその表情を読み取ることが出来ない。
「……もしかして、オレらのこと……知ってるの……?」
「うん。話した」
「っ、………そう」
麗の瞳が揺れる。
「駄目だった?」
「いや……。リュウは同性愛に理解あるし。……問題ないよ」
問題ない、と言いながらも麗は動揺した。聞いた時、リュウはどう感じたのか。今、何を思っているのか……。
忘れようと押し込めて来たはずのリュウの顔を鮮明に思い出す。そりゃそうだ。忘れられるはずがないのだ。……何年、一緒に暮らしていたと思う?
流石に、麗が先程よりも幾分も気分が落ち込んだのを嶺も察知した。
「………勝手にごめん。ケジメが必要かと思って。……マスターも、お前のこと心配してたし……」
「……ううん。いや、……逃げてるばっかりのオレが悪いからさ……」
相変わらず、足は自然と駅の方へ向かっていた。
「…………帰ろうか」
「…………うん……」
結局、二人は電車を乗り継いで、家へ帰ることにした。
「嶺。……シよう?」
ワンルームへ帰るなり、麗は嶺を後ろから抱き締めた。
嶺と麗が身体を重ねたのは、後にも先にも付き合うことになったあの日だけだった。
それからは、嶺は麗を大切に扱ったし、麗も身体を繋げることだけが愛ではないことを知っていく気持ちになっていた。
けれど、この時、麗は嶺が振り返った瞬間に性急に唇を奪い、舌を押し込んだ。あからさまに、誘う。
「ん、…………どうしたんだよ、急に……」
「っ、………抱いて………」
まだ電気もつけていない部屋で、麗の懇願する目だけが光る。今にも泣き出しそうなのを堪えている子供の顔だ。
(………麗が子供になる時……マスターの影がある………?)
嶺が更に思考するのを遮るように、嶺の正面に回り込んだ麗は再び唇を押し当てて、舌を乱暴に絡める。頭をしっかりと固定され、嶺は抗うことが出来ない。
「んっ、………ふ、」
麗をどうにか遠ざけようとして、嶺の指に麗の髪の毛が絡んだ。簪が滑り落ち、纏めていた髪の毛が広がる。
「………光子だと、思っていいから。愛して。嶺」
そっと離れた唇が、切なげに紡ぐ。
“光子だと思っていいから”というその言葉に、頭をガーンと殴られた。
「………お前は麗だよ」
「………“麗”なんて、要らないんだ。オレはいつだって、“誰か”の代わりか、誰かが何か得をする為だけの媒体だから」
また口を押し当てようとする麗を、何とか防ぎ、その肩を強く掴んで引き離した。
「何言ってんだよ! 麗。お前は、誰の代わりにもなったら駄目だ。………俺も、
「っ、」
絶望した麗の顔を、しっかりと網膜に焼き付けてしまった。喉の奥が痛い。嶺も、泣きそうになるのを堪える。
「本当は、今日、デート中に伝えようかと思ってた」
「……なに、を……」
麗が震えているのが肩から伝わってくる。
「………俺達、ちょっと、歪だったと思う。少し、頭を冷やしたい……」
「………どういうこと?」
暗闇に響く麗の悲痛な声音に、嶺も心が痛んだ。否、自分が招いた結果なのだ。自分が傷付いた顔をするのは、違う。
嶺は、出来るだけ優しく、言う。
「麗。俺、お前と光子をやっぱり重ねて見てた。……でも、そうじゃない瞬間も確かにあって。俺、お前のこと、好きなんだと思う。……だけど、なんか、このままはやっぱり、良くない」
「…………」
「お前も、なんか喉に刺さってる小骨があるんだろ、麗。そういうのさ、俺達、全部取り除いてから………また会おう? 今日はお互い、一人で寝よう」
言うなり嶺は麗を掴んでいた腕を解放し、踵を返した。引き留める声は無い。そのまま、嶺は玄関から出ていった。
嶺のアパートの近所は夜営にも向いていなければ、泊まれるような施設もない。タクシーを呼ぶのも億劫で、ただ、駅がある方角へ向かって歩いた。電車を乗り継いで、何処か遠くへ行ってしまいたかった。それでも、先程まで
麗と乗っていた電車に今度は一人で乗ることも考えられず、駅をスルーして、ひたすら真っ直ぐ、道が続く限り歩き続けた。
駅を過ぎれば、街頭も極端に減り、車通りもまるでない道が続いていた。「山」と言い表すには低いが、道路の側面に生い茂る緑が項垂れている上り坂を、とぼとぼと登り、下りに差し掛かる。
向こうから、一台の軽自動車がやって来た。反対車線を走るその車は、嶺の顔をぶしつけに照らして通り過ぎた。
「………何やってんだろ、俺……」
そんな素振りも見えなかったのに、ポツポツと雨が降り始めた。ああ、ずぶ濡れになったらとうとう、店にも入れないかもしれないなぁと他人事のように思っていると、先程通り過ぎたはずの軽が、今度は後ろからやって来て、クラクションを鳴らした。
「嶺さんっ!」
「え………那智?」
振り返ると、運転席から顔を出しているのは那智だった。
久し振りに見る、その見知った馴染みの顔に、嶺は遂に気が緩んだ。流しこそはしなかったものの、一気に視界が歪む。
「………嶺さん。乗って」
「………那智………でも俺、お前にも会わす顔、無い………」
「雨が降り始めましたし、乗って下さい! 会わす顔なんて、そこにあるじゃないですか!」
ポツポツ雨が急に激しくなったので、那智も慌てた。車を完全に停車させ、運転席から降りるなり、少々乱暴に嶺を助手席に押し込んだ。
「…………手荒くてすみません。あの、雨降ると思わなくてタオルは無いんですが……ティッシュならあります」
「……ん、いい……。服で拭く……」
車を発進させた横で、嶺は自分の服の裾を捲って濡れた顔などを拭いた。腹筋が程よく割れた腹が露になる。那智の気まずさに、嶺はやはり鈍感だった。
「…………どうして、那智、」
赤信号で停まると、嶺は前を見ながらゆっくりと問いた。もう、多くの気力は残っていなかった。
「…………ストーカーみたいですみません。……あの、でも、違うんです……。霧島さんから、連絡があって………」
「霧島?」
「……麗さんです」
麗、と口の中で呟く嶺に、那智はそっと横目を寄越した。それから直ぐに前を向く。
「………少しだけ、彼と電話をしました」
「あはは、そっか。お前ら、友達だったんだっけ……?」
「……はい」
信号は再び青になり、車は発進する。商店街の方へ向かっていた。ビジネスホテルか、那智の家かに連行されるのだろうと予想したが、敢えて尋ねることはしなかった。
「麗さん、は、ちょっとずつ落ち着きました。……もう休むように伝えていますから。多分、大丈夫です……」
「そ。……ありがと」
那智の家へ向かうのだとすれば右に曲がる通りを左に曲がった。どうやら、向かっている先はビジネスホテルのようだ。そう言えば那智の家には自分を嫌う麻知がいるのだと思い出し、嶺は一人で頷く。
「…………なぁ、那智、」
「はい」
「………俺、光子のこと、好きだったのかな………ちゃんと、愛せてたかな………」
「…………嶺さんは、光子さんのことを誰よりも深く、愛していましたよ。光子さんにも、それはしっかりと伝わっていましたよ」
俺、と再び口を開いた嶺は、もう我慢が出来ずに上を向いて、自分の両腕で顔を隠した。
「俺、麗のこと、……愛してたのかな……、傷付けた、よな……?」
「………嶺さんは、麗さんのことを確かに好きでしたよ。……だから、失恋が辛いんですよ………」
失恋、と言われて、もやもやとしていた嶺の心にストンと収まるものがあった。
麗は、リュウが好きだ。嶺と付き合っても、やっぱり、リュウが好きだった。
それが例え、実らない恋だとしても。……その事に気が付いていながら、付き合い続けられる程の心を、嶺は持っていなかった。
「………那智、」
「はい」
「お前も、こんなに………辛かったの?」
「………」
ごめんなぁ、とぼやきながら泣く嶺の方を見ないように、那智はひたすら前だけを見続けた。
嶺が落ち着いてきたタイミングを見計らって、「僕の幸せを知っていますか」と那智はやっと口を開いた。
「貴方の傍にいることです」
那智の断言に、嶺はまた、やる瀬無くなって泣いた。
「涙腺ヤバイですよ、嶺さん!」
今度は嶺の方を向いた那智が、そういって笑う。
車が停まったのはやはりビジネスホテルの前で、予想外だったのは那智もそこに泊まる手続きをしたことだった。部屋は別。フロントから連番の鍵を受け取り、嶺に渡す。
「僕と貴方の程よい距離を、僕の方こそ……身勝手に詰めそうになってしまって、申し訳ありませんでした」
那智にとって、様々な覚悟を必要とした数週間だった。
スッキリとした顔をした那智から、嶺も鍵を受け取った。
嶺は返す言葉が見付からず、無言になってしまったことを申し訳なく思った。
部屋のある五階にエレベーターで上がる間も、言葉は交わせないでいた。那智も、何も言わない。
「………明日、僕が麗さんの様子を見てきますから。嶺さんは何も気にせず、お休みください」
部屋の前で、那智は優しく微笑む。何も心配するな、と嶺に対する気遣いが伝わってくる。
「………ん。俺は明日、マスターと話すわ……」
「え、」
「付き合ったって言ったから、別れたって言うのも、ちゃんと言っとく……」
「………わかりました」
おやすみ、と最後の言葉を交わし合い、それぞれの部屋へと入る。
『………俺、光子のこと、好きだったのかな………ちゃんと、愛せてたかな………』
車の中で嶺が溢した弱音が、那智の頭の中で木霊した。
「………っ、当たり、前じゃないですか………」
入ったばかりのドアを背にして、ズルズルと座り込む。はぁーっと、深い深い、溜息を吐いた。
「貴方の愛が本物だったことなんて、僕がよく、存じてますよ……」
嶺蔵の光子への愛が確かなことは、那良之助がとてもよく知っていた。
(………僕、嶺さんの前では上手く、無害な“名須川那智”を演じていれただろうか……)
那智は自分の胸を強く掴んで、天井を仰いだ。
麗と別れることを選び、失恋して哀しんでいる嶺のことを想う。――――嶺の哀しみは、自分の哀しみ。そうあるべきなのに、と思う。
ホッとしてしまった、自分が嫌いだ。
那智は目を閉じた。
「………僕の本当の心の内なんて、いつまでも知らないままでいて下さい………」
叶わない恋をしている麗のことをそっと思い浮かべた。
『同志』だなんて、那智は思わない。麗と那智とでは、文字通り年季が違う。
「…………僕の大事な人を誰かの代わりにするなんて………。覚えとけよ、あの青二才が……」
那智のぼやきは、誰も居ない部屋の空気を震わせた。
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