第9話 長い長い夜の途中

 朝。

 嶺とホテルの朝食を取り、那智は嶺のナビを頼りにリュウの家の前で嶺を下ろした。

「ありがと。……麗のこと、宜しく」

「はい。任せて下さい。……嶺さんも。よかったらまた連絡下さい。迎えに行きます」

「………ん」

 嶺と別れて向かうのは、勿論嶺のアパートだ。

 朝十時半。

 外階段を上り、嶺の部屋のインターフォンを押す。返事がない。ドアノブを回すと、鍵がかかっていなかった。

「………無用心……」

 少しだけ隙間を開けて、「霧島さん」と声をかけてみた。返答はない。まだ寝ているのか。鍵を開けたまま外出と言うわけでなければいいが……と思いながら、足元に目をやる。麗がよく履いているスニーカーがあった。どうやら中にいるらしかった。

 お邪魔します、と一応声をかけた。嶺しか居ない時に合鍵を使って入る時も、聞こえるか否かは関係無く、那智は決まって断りを入れた。

 部屋に入ると、直ぐに冷たい空気が那智の肌を指した。外からの温度差で、身震いをしてしまう。

「………霧島さん、いますか?」

「…………おはよ、那智」

 返事があったかと思うと、もぞもぞとベッドの上のブランケットが動く。嶺のベッドで麗が寝ている現実に、……想像くらいはしていたが、那智は一度息を飲んだ。

 那智は無意識に部屋の中を見渡した。那智が嶺のアパートに来ないでいる間に、随分と様変わりしたように思う。

 狭い床にも布団が転がっているし、見慣れないマグカップがローテーブルの上に置きっぱなしだった。仄かに酒の香りがする。昨晩、一人で焼酎を飲んだのだろう。テレビ台の上にも、嶺がチョイスしないようなステンレスの蛙がトランペットを吹いている置物がある。

「………きのうは、ごめん……」

「気にしないで下さい」

「………嶺に会った?」

「………」

「……那智の好きな人って、嶺でしょう?」

 もそもそとブランケットからボサボサ頭の麗が出てきた。その女のように美しい顔も、艶を失い、酷い顔色だった。すっかり憔悴しきっていた麗は、ゆっくりと起き上がり、ベッドの縁に座った。

「………那智の片想いの相手は、嶺でしょう?」

 那智を見ながら、もう一度言う。殆ど断定に近い言い方である。隠す必要も、もう無い。那智は首を縦に振った。

「…………そうですよ」

「……ふーん? 昨日、嶺と寝た?」

「っ、嶺さんを馬鹿にしないで下さいッ……!」

 拳を握り混んで怒鳴ってしまった那智に、麗は薄笑いを浮かべた。そのまま特に何も告げずに黒のパーカーを脱ぐ。那智と一緒にショッピングモールで選んだものだった。

 薄手の半袖姿になった麗はそのパーカーをじっと眺めると、そっと、そこに顔を埋めた。

「………うん。ごめん………」

「………」

 思ったよりもずっと弱っているらしい麗に、那智は言葉を探した。散々罵倒してやろうかと、冗談半分に思っていたが、これは悪女が嶺を弄んだ結果と言うには、少し様子が違う気がした。

 取り敢えず、床に膝をついて視線の高さが合うようにする。未だに麗は俯いているので、あまり効果はないかもしれないが。

「………嶺のこと、好きになりたかった………」

「……………好きだったんじゃないんですか?」

「どうかなぁ……」

「僕が決めていいなら、貴方は嶺さんに確かに惹かれていましたよ」

「そう見えた?」

「当たり前じゃないですか。嶺さんの傍に居たんですから、惚れない方がおかしい」

 那智の物言いに、麗は顔を上げて少しだけ笑った。

「……ごめんね。那智の好きな人だったのに……」

 ほら。その台詞の一文字一文字から、反省や後悔を感じ取る。那智は、困ったように眉を下げた。

「なんですかそれ。お互い好き同士だったから付き合ったんでしょう。僕の気持ちなんて関係無いです。……悔しいけど」

 麗の目を見て、それでも柔らかく笑った那智は、言うなり立ち上がる。

「取り敢えず、この部屋冷房かけ過ぎです。寒くなかったですか? スープでも用意しますよ」

「……嶺が帰ってくるなら、冷えてる方がいいかと思って」

「……」

 嶺はいつも冷房の設定温度を低くして、部屋をガンガンに冷やす癖があった。それなのに、終いに寒い寒いと言うのだから、世話無い。

 自分以外に嶺を把握している人物が出来てしまったということは、一々那智の胸を刺した。―――全然違う。麗は、那智の知らない嶺の顔も知っているのかと思うと、本当は嫉妬に狂い、どうにかなってしまいそうだった。

 けれど、台所へ向かって戸棚を漁る。簡単に出来る粉末スープと味噌汁は常備している。那智が暫く来なかった間も、きちんと買い足していたようでストックがあった。直ぐにケトルに水を入れ、スイッチを入れる。

「………昨晩、ずっと考えてたんだ……」

「はい」

「珍しく。快楽に溺れずに、ちゃんと考えたんだ……」

 麗が嶺に「ヤリチン」とかつて言われていた事を思い出した。が、那智はその言葉を忘れることにして、「酒には溺れたみたいですけどね?」と揚げ足を取ってみた。

「……那智って実は、ちょっと意地悪な奴でしょう?」

「さぁ? 僕は今、恋敵にスープを用意してあげていますが」

「那智って本当に優しくて好き」

 那智の後ろで麗の気配が動いた。ベッドから降りて、どうやら本格的に着替えているらしかった。お湯が沸くまでまだ時間がかかるので、先程ローテーブルにあったマグカップを回収し、流し台に残っていた他の洗い物と一緒に洗う。

 麗は依然として何やらがさごそとしていた。あっちへ行ったりこっちへしゃがんだりと忙しない。那智がちらりと確認してみたところ、スーツケースに荷物を詰めているらしかった。……見たことのあるスーツケースだ。沖縄旅行で嶺が使っていた、黒色のデカイスーツケース。

「………それ、嶺さんのですよ」

「うん。また返すよ」

 昨晩考えたんだけど、と先程の続きを口にする。

「オレ、この家を出る」

「……当然ですね」

「で、リュウに告白する」

「へぇ」

 那智が感心したところで、ケトルのスイッチが切り替わる音がした。お湯が沸けたらしい。那智は、既に粉末を入れて用意しておいたマグカップにお湯を注ぎ、スプーンで丁寧にかき混ぜる。

 カラカラ、と鳴る音に、麗は顔を歪めた。

「………また、あそこに帰りたいなぁ……」

 バースプーンでステアされる酒を思い出したようだった。麗は麗なりに、やはりoblioオブリーオに思い入れがあるらしい。

「………oblioってね、イタリア語で“忘却”って意味なんだ」

「イタリア語だったんですね」

「そう。リュウが付けたの。『日々の、鬱憤やら寂しさやら……辛いことを、忘れて楽しめる場所にしたい』って」

「……」

「そんな願いのある場所を、オレは汚してしまったんだ……」

「………貴方まだ、謝ってないんでしょ?」

 マグカップを運んできた那智は、それをずいっと麗の鼻先まで持ってきて渡した。

「『ごめんなさい』しないと、許したくても許せないですよ?」

 受け取る麗の目は、泣き腫らして周りの皮膚はパンパンだったし、充血して真っ赤だった。誰を想って泣いていたのか、自分が可哀想だと泣いたのなら、那智は麗を赦せなかっただろう。けれど、麗はきっと、自分の罪に気が付いているのだと思った。だって、この部屋を出て、リュウに告白すると言ったのだ。

 どうしようもなくてもがいているのなら、背中くらい押してあげたいと思った。

「……嶺さん、今、マスターさんのところにいるんですよ」

「リュウのところに?」

「ええ。付き合う時に挨拶したから、別れたことも報告するんですって」

「………嶺ってなんなの? 真面目なの……?」

「誠実な方でしょう?」

 那智は余ったお湯でもう一つスープを作り、麗の近くに腰を下ろした。ふーふーと数回息を吹き掛けて、飲む。

「残念でしたね、霧島さん。この先、嶺さん以上の人には早々容易く出会えませんよ?」

「………そうかもね」

 猫舌の麗もやっとスープに口を付け、頬を緩めた。カチカチに凍っていた細胞が、ほどけていくような気がした。

 麗の目に、床に転がる簪が写った。台所の方で転がっている。マグカップを置いて、拾いに向かった。

「……簪?」

「……うん。オレの、生涯の宝物」

 そんな話をしていると、那智のスマホが震えた。画面を見ると、『嶺さん』と表示されている。「嶺さんだ」と那智が溢すと、「出て」と麗は頷いた。

『あ、那智? こっちは終わったよ。今、まだ麗と居る?』

「お疲れ様でした。まだ麗さんと嶺さんのアパートに居ますよ」

『ちょっと代わって』

「わかりました」

 那智にスマホを差し出された麗は、受け取ることを躊躇った。けれど、「嶺さんの電話に出ないとか、何様?」と言うような目で凄むので、結局はおずおずと受け取り、それを耳に当てた。

「………嶺」

 麗の声は震えていた。様々な感情が再びドッと押し寄せてくる。麗はグッと泣くのを堪える。

『麗。……一方的で、ごめんな』

「…………そんなの。オレの方が………悪かった」

 電話口の向こうで、嶺はどんな顔をしているのだろうかと想像した。でも、麗はこんな時にどんな顔をするのかを知る程、二人は長くは居なかった。

「オレ、今からこの家を出るよ。それで、リュウに会う」

『うん。……マスターからの伝言。『早く帰ってこい、馬鹿野郎』だって』

「…………うん」

 それから二言、三言程会話をして、通話を終えた。「ごめんね」とか「ありがとう」とか。嶺が何を言ったのかはわからないが、麗はそんな短い言葉を、なるべく心を込めて言っているようだった。那智は聞こえてないふりをして、先程のマグカップを洗う。

 麗も残りのスープを飲み干して、流し台に運んだ。那智が「洗うよ」と手を出したが「これはオレが」と、那智からスポンジを受け取った。

「立つ鳥、跡を濁さず」

 麗が笑って見せるので、那智も優しく笑った。



 那智が車で麗を送り届けた時、嶺はそこには居なかった。那智がメッセージで確認したところ、どうやら商店街の方でぶらぶらしているらしい。

「それじゃ、またバイトで」

「はい。……行ってらっしゃい」

 麗は吹っ切れたような顔でアパートへと帰っていく。那智は最後まで見送らずに車を出した。最寄りのパーキングへ。それから、嶺の元へと歩いて向かう。

 大学生の長い夏休みも、気が付けばそろそろ終盤だった。それでも残暑が厳しく、夏だ夏だと思っていたが、涼しくなってきたらどうしようか、と那智は未来に想いを馳せた。

 秋になったら紅葉を見に行きたい。

 冬になったら、一緒に炬燵に入って鍋を囲みたい。

(………それから、年末年始は一緒に過ごして……)

 嶺がフリーになったということを、やっと素直に喜ぶことにした。麗とは、本当に短いお付き合いだった。一夏の恋、と言い表すにしても短い。―――それは一重に、嶺の真面目さ故だったようにも思う。それが、また一層誇らしく思って、那智を嬉しくさせた。

(僕の大好きな嶺さんは、自分に嘘を付けないから)

 だから、信頼するに足る。ついていく価値がある。何度生まれ変わっても、永遠に好きだろうな、と思った。だって、光子とまた結ばれることよりも、麗を大切にすることを選んだのだ。誇らしい以外、無い。

 相変わらず、昼前の商店街は学生と思わしき人々で賑わっていた。そういう休みの日限定のような景色に、日常的にこの商店街を利用しているのであろう人の動きが混ざるのを見るのが、那智は何と無く好きだった。

 学生の喧騒。年配の人の立ち話。隣同士の店主の談笑。行き交う人々。

 那智の人生に全く関係の無い人達が、やはり、那智なんてその人生に全く関係の無く当たり前に生きている。

 この人達は、“風景”で“他人”。

 だけど、こんな大勢の中に“ただ一人”、探している人が居るんだ。――――そう思うと、出会いというものが一気に特別感を増す気がする。

 賑やかなゲームセンターの前を通り過ぎ、商店街の中でも一番栄えているエリアにある三階建ての建物も通り過ぎる。どんどんと前へ進んでいく那智の足は、今にも駆け出しそうだった。それをなんとか堪えながら、先へと進む。

 赤ちゃんを抱っこしているお母さん。ベビーカーを押しながら談笑している夫婦。沢山の人達とすれ違い、那智の胸は逸る。

 嶺が、麗と付き合ったことを――――好機としたい。

 いつの間にか、那智はそう考えていた。だって、嶺は現代で『女性』を選ばなかった。それは、大きなことだと那智は思う。那智だって、嶺が女に生まれ変われば好きになるし、来世がまた男でも、やっぱり好きになる。………嶺にも、恋愛を前に、性別なんてものは些細なものなのかもしれない。

 社会に認められ難くとも。

 子供を授かることが出来なくても。

 共に居たいと選んだ相手が、男だったのだから、僕にだってきっといつかチャンスが巡ってくる―――かもしれない。

(………諦めようって、思ったのに………)

 傍に居れたら十分だと自分を戒めたはずなのに、やはり、欲は溢れ出す。

 そこでやっと、待ち合わせした洋食店に辿り着いた。その店は、栄えている商店街からは少し外れたところにあった。少しくたびれた看板が味を出している。店構えがアンティークそのものだった。

 木製のドアを引いて開けると、中の冷房の風が那智を撫でた。汗をかいた体に寒過ぎず、暑過ぎないベストな温度だった。

「那智」

「! 嶺さん!」

 声がかかった方に顔を向けて、驚いた。片手を上げて那智を呼ぶ嶺の左頬が腫れている。

「ど、どうしたんですか! その頬!」

「いやー、ちょっとね」

 那智は慌てて嶺の座るテーブル席へと駆け寄った。来客に気が付いて氷水の入ったコップを持ってきた店員からそれを引ったくり、嶺の頬へ押し当てた。

「つべてっ!」

「いやいや! 冷やさないと!」

「はは、那智は相変わらず過保護だなぁ~」

 ケラケラと笑う嶺に気遣いの視線を送りながら、確信的に思っている可能性について那智は問う。

「………マスターですか?」

「………ん。まぁね……」

「殴り殺して来ますか?」

「那智先輩、物騒」

 ケラケラとまた笑う嶺に、那智は困惑した。こういう時、嶺は……嶺蔵なら、かなり立腹していたはずだ。

「マスターが一発。俺も一発。だから、フェアだよ」

「……フェアって……」

 別れたことを言いに行って、その親代わりが元彼を殴るなど………霧島は一体何処まで箱入りなのか? と那智はまた眉を寄せた。麗が嶺や那智よりも五歳以上は年上なのを知っていた。

「………霧島さんの子供っぽいとこ、ひょっとして、そのマスターのせいなんじゃないですか?」

「……かもなぁ」

 立ちっぱなしだった那智からコップを受け取り、座るように促しながら、嶺はしみじみと頷いた。

 那智が座ったのを確認して、嶺はメニュー表を那智へ渡した。

「まぁ。一段落ってことで、昼飯にしよう」

「……嶺さんはもう頼んでるんですか?」

「決めてるけど、まだだよ。お前のこと待ってた」

 待ってた、という言葉が那智の胸に響く。密かに一頻り浸った後、那智は改めてメニュー表に目を移す。

「……嶺さんが何を選んだか、わかりましたよ」

 かつて、祝いだと言えば嶺蔵の家の食卓を囲んだものがある。嶺蔵は洋食を好んで食べたから、嶺もそれがすっかり癖になっているのだろう。今だという時には、必ずそれを口にした。

「お前はどうするの?」

「僕も同じものを頼みます」

 ブザーを押して、店員を呼ぶ。メニューはと聞かれて、迷い無く「ビーフシチューを二つ!」と張り切る那智に、嶺は待ったをかけた。

「ビーフシチューは一つだけ。俺のは、オムライス」

「えっ!」

 驚く那智を他所に、嶺は店員にメニュー表を返した。

「嶺さん、お祝いの日はいつだって、ビーフシチューだったじゃないですか……!」

「ああ。うん。……それは、“嶺蔵”だな」

「!」

 同じじゃないですか、と反論しかけて、嫌な予感がした。口を閉じる。嶺が何か言いたそうだった。

「…………魂が一緒でも、光子れい嶺蔵おれを好きにならなかった」

「………いえ、霧島さんは……嶺さんのことも、ちゃんと愛おしく思っていましたよ………」

 静かに首を振る嶺に、那智は先程から冷や汗が止まらないでいた。……何か、自分によくないことが告げられる気がする。

「………来年、お前、就活だろ?」

「………そうですが……」

「………俺さぁ、留学しようと思って」

 那智は絶句した。

「………もちろん、お供します……」

 何とか絞り出した那智の言葉を、嶺はやっぱり静かに首を振ることで否定した。

「………俺達も、きっとこのままじゃいけないんだ」

「………なんで、」

「今を生きないと」

「今を?」

 充分、今を生きていた。嶺にそう言われるような問題に、那智は心当たりがなかった。

 冷房が肌寒い。那智は身震いして、自分の体を抱き締めるように両腕をぐっと掴んだ。

「……俺、環境をもっと変えてみる。視野をもっと広げる。……成績は問題ないし、留学も特待生で行けると思う」

「…っ、………」 


「那智。俺、お前から離れてみるよ」


 その一言は、凶器だった。

 那智を思いっきり殴り、一瞬で致命傷を負わせた。

「………なんで………ぁ、………僕が、……嶺さんを諦めきれないからですか………」

 那智の声が震える。そんな那智に、嶺は優しい眼差しを向けた。嶺が続ける言葉を聞きたくないと思いながらも、その穏やかな表情に、那智は耳を塞ぐことも出来ない。

「………那智が俺のことを思い出したのは、大学生になってからなんだろ?」

「え……」

「その間、どうだった? 彼女とか、居たんじゃないのかよ?」

「……いませんでしたよ」

 嘘ではなかった。

「これからは?」

「これからも。だって、僕は貴方の傍に居られたらそれでッ………!」

 気持ちが昂った那智は思わず大きな声を出してしまったが、嶺が人差し指を立てて自分の口元に押し当てるのを見て、那智も直ぐに声を殺した。

「那智」

「……」

「………お前の為なんて言わない。ズルい言い方をしてごめん。これは、俺が今、したいことなんだ」

「……」

「……応援してくれないか?」

 ズルい、と口の中で那智は言う。そんな風に嶺に言われた那智が、断れないのを知っているはずだ。ぐっと唇を結んで、それから、ゆっくりとほどいた。

「…………嶺さんの、命令であれば………」

「命令じゃなくて、お願いだ。友人に。応援して欲しい。俺が、“比良野嶺”としての人生を送れるように」

「………」

 話が一段落したと思われたのか、はたまた空気など読んでは居ないのか、このタイミングでオーダーしていたメニューがテーブルに運ばれた。嶺の前にオムライス。那智の前には、ビーフシチュー。これまでだって、全く同じものを食べながら食卓を囲んできたわけではないが、思い出の洋食となると、話は別だった。

 那智は涙が堪えきれなかった。けれど、溢れたものを一粒二粒溢すと、直ぐにそれを拭き取って唇を噛んだ。

「…………わかり、ました………」

「………ありがとう」

 柔らかく笑う顔は何処からどう見ても嶺蔵であり、嶺でもあった。那智にはそう見えた。変わる必要なんてないのに、と思った。

 けれど、嶺の決めたことにそれ以上何も言えなかった。



******



 嶺は二年間の留学を決め、あっという間に大学を休学した。

 紅葉は見に行った。年末年始も一緒に過ごした。でも、年度が変わるのを待たずして、嶺は飛行機で異国へ飛び立ってしまった。

 嶺に会えなくなってぽっかりと空いてしまった那智の心に寄り添ったは、意外にも麗だった。

 麗はoblioに無事復帰しても、サンドイッチショップのバイトも辞めなかった。夜から朝方仕事をし、また朝から夕方までバイトする日々は苦学生のようだったが、本人は楽しんでいるようにも見えた。

「嶺とは連絡取ってないの?」

「……一年は、音信不通になるからって……」

「音信不通を予告するのも、変な話だね。嶺らしいけど」

 相変わらず店内は、店員の私語を咎めるような客もいなかった。ガラス張りの出入口の向こうでは、冷たい風が吹いているのだろう。カラッカラに乾き茶色くなった落ち葉が宙を舞う。

 自身の体を抱くようにして、または何か急ぎの用事があるかのような足取りで、人々は忙しなくあっちへこっちへと流れていく。

「バイトのいいところは、外気と無縁のところだよね」

 那智と同じことを考えていたようで、麗が外を見ながら呟いた。同意の為に那智も頷く。

「でも今日は特別寒いらしいよ。大寒波だって。帰り、気を付けてね」

「麗さんこそ。今日もバーにも行くんですよね…?」

「まぁね。人手不足だしね~。……那智、バーテンダーとか興味ない?」

「もうすぐ就活始まりますからねー」

「やば。どっちも人手不足になるじゃん!」

 本当に慌てているのかいないのか……大袈裟に困った顔をしてから笑う麗を、那智は目を細めて眺める。麗は―――なんといえばいいのかはよくわからないが、何と無く、変わっていっている気がする。

 リュウに想いを告げた麗は、その後一人暮らしを始めた。「電車に乗ったのが楽しかったから」と言うあまり聞かない理由で、商店街を外れて電車で二駅先の場所になる。嶺が住んでいたアパートとは反対方向。リュウの家からも那智の家からも遠くなった。職場と家は近いに越したことがないが、確かにここら辺は家賃が高い。

 リュウと離れて生活するのは、麗を良くした。

 麗なりに「自立」とか「決別」とか、そういうものと真剣に向き合っているらしかった。

(……………僕は…………)

 寝る前には相変わらず嶺を想うし、起きてからも嶺に会えない日々が那智を苦しめた。嶺さんも頑張っているんだから、と自身を奮い立たせたくても、嶺の傍にいることを幸福だとする那智にとって、嶺の傍にいられない日常はあまりにも無機質だった。

 ピーンポーン。

 来店を報せる音が店内に響き、暗くなっていく思考を打ち切って、接客用の笑顔を浮かべる。

「いらっしゃいま…………あれ? 麻知じゃん!」

「…………ん」

 那智が目を見張った先には赤いマフラーをぐるぐるに巻いた、可愛い女子大生―――妹の麻知がいた。長い髪をアイロンでくるくると巻いて、睫毛もしっかりとカールさせている。しっかりと化粧を施した顔に、シンプルの白のセータが映える。ピタッとしたセーターは豊満な胸やきゅっと締まった腰を強調した。セーターから少しだけ短パンが覗き、細くてスラリと長い足は黒のタイツで隠されている。

「そ、そんな格好で出歩くのはどうかと思うけどッ………」

「は? 何赤くなってんの? 兄貴、キモい」

「『兄貴』? え、那智、麻知チャンのお兄さんなの?」

「げっ!」

 麗の声に、麻知はそこで初めて麗の姿を認めた。

「なんであんたがいるのよッ?!」

「あれ? おにーちゃんから聞いてない? オレ、此処でもバイトしてんだけど」

「聞いてない!」

「……言わなかったっけ?」

「聞いてないッ………!」

 そう言えば、麻知は麗を好きになったと言っていなかったか? と那智は此処で初めて、ここ最近自分が自分のことしか考えていなかったことに気が付き、密かに反省した。もっと早く教えてあげていたら良かったのかもしれない。

(………あれ? でも、麗さんに会う為じゃないなら、なんでオシャレしてるんだ……?)

 この後友人と遊ぶのかな、と勝手に納得して、改めて麻知の様子を見ると、麗に恋心を持っているというよりは威嚇するような顔で麗を睨み付けていた。

「………麻知、珍しいじゃん。僕のバイト先には来ないって言ってなかったっけ?」

 麻知にとっては照れ臭いからだったが、那智は年頃の妹とは兄に毒を吐くものだと思っていた。宣言通り、麻知が那智のバイト先を訪れることなどこれまでに一度もなかった。

「………兄貴、今日、コート忘れてたじゃん。………今晩冷えるって言うから………持ってきたの」

 見ると確かに麻知の手には紙袋が握られており、那智には見慣れたコートの色が覗いていた。

「わ! わざわざありがと!」

 那智はぐるりとショーウインドウを回って、麻知から紙袋を受け取った。

「はー。美男美女だねぇ~」

 その様子を繁々と眺めていた麗が、年のいったおじさんのような言い方で感想を述べる。

 え? と那智は振り返り、麻知はそんな麗をキッと睨んだ。

「見せモンじゃねぇんだよ。何見てんだよ」

「ま、麻知……!」

 いくらなんでも、好きな人にその暴言は……と思ったが、麗は深いに思うどころかケラケラと笑い出した。天井など仰いでいる。

「あっはっは! それがお前の素なのかよ! いいじゃん!」

 つられてしまうのか、麗の口調も普段より少しだけ乱暴になる。那智はきょとんと目を丸めた。それから、麻知が未遂のままラブホテルで置き去りにされた事件を思い出す。……この二人の間に何があったのだろうか。

「うるせぇよ。お前こそ、猫被りいい加減に止めたら? 那智を誘惑したら赦さないからな?」

「は? 那智とオレは友達だし? 誘惑なんてするわけねぇじゃん。お前こそシスコンだったのかよ、ビッチ」

「っ! ビッチじゃねぇし!」

「まっ、待って待って! 此処、店の中だからっ……! 麻知、抑えて! 麗さんも!」

「………」

 店の中とは言いつつ他に客も居なかったが、間に入って必死に喧嘩を止めようとする那智に免じて、二人は言い争いを止めた。んん、と咳払いをして、麗はショーウインドウを回り込み、麻知の前まで立つ。

「………何よ」

 女にしては背が高い麻知だったが、麗の方が更に背が高い。すぐ近くに立たれて、不服にも麻知は麗を見上げる形になる。

「………売り言葉に買い言葉になっちゃった。ごめん。…………あの時・・・も、悪かった……」

 先程までの一触即発の空気は何処へやら、麗は素直に頭を下げた。これには面食らって、麻知も咄嗟に言葉が出て来なかった。

「…………嶺が、変えたの?」

「え?」

「どうしようもなかったあんたのこと、嶺が変えたの?」

 麻知は、驚きで丸めたままの自分の目が、潤み始めたことに気が付かなかった。麗は思わぬ名前に顔を上げる。そこで、麻知と嶺が面識があったことを思い出した。元々、麻知は嶺の客だった。

 嶺に会うなり、ブラッディメアリーを頼んだ女。そのカクテル言葉は「私の心は燃えている」「断固として勝つ」。その言葉を知っていたから頼んだのだと言っていた。

 麻知は那智の妹で、那智の好きな人は嶺で、麻知は……『叶わない恋をしている』と言っていた――――…。

 ハッと全てを察した麗だったが、言葉は全て飲み込んだ。

「…………また、嶺蔵か………」

 寸前で何とか涙を溢さないでいる麻知が、聞き慣れない名前を口にした。今度は麗がキョトンと目を丸める。

「……え? 嶺蔵?」

 しまったと顔をしたのも一瞬で、麻知は直ぐに観念する。ぐいっと涙を袖で擦って、不敵に笑う。

「……なんだ光子、かつての旦那様の名前も忘れたの?」

「!」

 目を丸める麗が、麻知は愉快だった。声を出して笑ってしまう。それから、麗のその腹にトン、と握った拳をぶつけてやった。

「辰典のことも覚えてないだろ、光子。…………でも、姉様は……未練がなかったのかもしれないね。幸せだった?」

 柔らかく笑う麻知の顔に、麗はなんだか無性にに泣きたくなった。

「………きっと嶺が旦那様だったなら、光子は幸せだったんだろうよ」

 答える麗に、麻知は観念する。

「………だよな」

 結局。

 光子のことも那良之助のことも、辰典じぶんの逆怨みに過ぎないのだ。好きな人を誰一人として救えなかった辰典は、それを平気でやってしまう嶺蔵が憎らしかった。……本当は、感謝しないといけないのに。嶺蔵のお陰で、光子は好きでもない男と寝ないでも良くなったのだから。体を売らなくても、良くなったのだから。

 幸せな夜でも人間は泣くのだと言うことを、辰典は知らなかった。――――光子は、幸せが怖くて、嬉しくて、肩を震わせていたのかもしれない……。

――――まぁ、真実はわからず仕舞いだが。




******



 大学四年生になった那智は、週に二回のゼミと数個の講義でしか大学に行くことがなくなった。大学に足を運ぶ頻度で言うと、週二である。

 就活が解禁すると、気になった会社には全国何処でもエントリーし、スーツを着て面接に行った。サンドイッチ屋のバイトはシフトを調節しながら続けていた。

 忙しないような、講義がない分自由を感じるような時間だった。県外へ出ることもそうそうない人生だったので、電車や時には飛行機を乗って向かう見ず知らずの土地というのは、那智に衝撃を与えた。

 那智は自宅から通えるという理由で今の大学を受験した。女性も今、大学に行く。男性は尚更、大学をでなくちゃと言う思いがあった。特に、したいことなんてものはなかった。

 嶺に再会するまでの那智は、朝が来るから起きて、義務教育だから学校に行き、夜が来るから寝るような生き方をしていた。歳を取るから学年が上がり、皆が高校受験をするから高校を受験した。特にやりたいこともないが大学を出なければいけないと思ったから近所の大学を受験。

 二十歳になって人生で初めてお酒を飲んだ時、鮮明に浮かんでくる那智としての自分ではない記憶に驚いた。それまでの生き方がぐるりと変わる。特別思い入れの深いものなんて持たずに生きてきた。空っぽだった自分の中に『嶺蔵』という太い軸が出来た。……けれど、彼は自分の傍に居なかった。

 探したいと思ったが、宛もなく探しに出る程の気力もなかった。軸が出来たのに、焦燥感が凄かった。言い知れぬ孤独と焦りを抱えて、また一歳、歳を取った。


『………お城同好会の部室って、此処ですか?』


 部室の畳の上に寝そべって、新しい週刊誌の“日本の城”を読んでいる時だった。コンコンコン、とノックの音の後、覗く顔があった。

 突然の来訪者に慌てて起き上がり、なんとか正座する。姿勢を正してやっと、断りなく部屋へと入り込んできた男の顔を直視した。

『………え、』

『…………あれ? お前、那良之助じゃん』

 男の言葉が耳の鼓膜を通って、心に響いた。見開いた目に、温かな気持ちと涙が溢れて来る。

『み、みねぞう様………ッ!』

 溢れる涙をどうすることも出来なくて、那智は次から次へと涙を溢した。男は靴を脱いで畳に上がり、そんな那智の頭にポンッと右手を置いた。

『………お前も記憶あるの? また、会えたな』

 ポンッと置かれた手に頭を下げてしまった那智に、今の嶺がどんな顔をしているのかわからない。

『俺、“比良野嶺ひらのみね”って言うの。現世いま

『………嶺、様………』

「『様』はちょっと」と笑う声が降ってくる。「呼び捨てで良いよ。後輩だし」「そんなの無理ですよ」そんなやり取りに、やっと那智は顔を上げた。ハッとする。嶺の瞳にも光っているものがある。

 胸が締め付けられた。

『……お前、名前は?』

那須川那智なすかわなちです……』

『那智先輩?』

『“先輩”はやめて下さい……! 那智、と!』

『んじゃ、お前も“様”は本当に禁止な』

 太陽のように笑う。

 眩しくて、那智は目を細めた。

 心が満たされていく。温かいもので、溢れていく。空っぽの身体が、体温を持った瞬間だった。

 真っ暗だった未来へ明かりが灯る。嶺は、那智の太陽そのものなのだ。


(…………嶺さんに、また出逢えたのが僕の全て)


 どんなに離れたって、その心は今でも変わらなかった。

 タタン、タタン、と在来線に揺られる。ふと外へと目をやれば、すっかり真っ暗だった。

 嶺が日本に戻って来た時に恥ずかしくないように、と那智は空っぽに無くなってしまいそうな心を奮い立たせた。本当は、声を聞きたくて仕方がなかったが、まだ嶺が渡米して一年も経っていないので何とか耐えた。嶺の言うことは、絶対なのだ。

(…………真っ暗だよ、嶺さん…………)

 太陽に会えないでいる那智の心はずっと夜だった。




********




 午前四時。

 店の閉店作業も終わり、麗は車に乗り込む。電車ブームを終えてしまった麗は、早々に車を購入した。走れば何でもいいと考えていたので、中古屋で買った軽自動車。乗ってみると、税金は普通車より安いし思ったよりも広くて快適で、控えめに言って最高だった。

 車というのは、自由の象徴のように思った。

 時間を選ばずにいつでも、何処へでも好きなところへ行ける。

(……何でもっと早く買わなかったんだろうなぁ……)

 エンジンをかけるとお気に入りの曲がかかるところもいい。三十を手前にして、こんなに沢山の『新しい発見』

があることに苦笑した。

「………どんだけ、人任せだったんだよって感じ」

 あの日々を思い出しては、時々苦笑した。

 また、多くの人に申し訳なく思った。利害の一致だと思っていた関係の中に、知らず、傷付けた人がいたかもしれない……と、自分の想像力の弱さを恥じた。

 明るい道から、どんどんと車通りも少ない道へ出る。街頭も減っていく。商店街を離れて、静かな町並みへ出て、やがて家すらもポツンポツンとしか建っていないような田舎道へ出る。そこも通り越して、また住宅街のような栄えが少し戻ってきたら、麗の借りているアパートがある。明かりが灯っている部屋はない。そりゃ、こんな時間、まだ皆寝ている。

「さっむ……」

 車を降りると直ぐに外気が容赦なく麗の体温を奪った。身震いしながら、助手席に置いていた上着を羽織る。

 季節はまた巡り、嶺と出逢って二年目の冬が来ていた。

 嶺が留学して一年経つまでにはまだ数ヵ月。嶺は、那智だけでなく、勿論麗にも連絡を寄越さなかった。元気かくらい教えてくれたらいいのに、と思うが、那智が我慢しているのに、まさか自分が嶺と連絡を取るわけにはいかないと麗も何とか堪えた。

 二階の部屋に帰り、電気をつける。帰宅の途中でリモート操作で暖房をつけていたので、部屋は温かくなっていた。

「あー、疲れたぁ……」

 部屋に入るなり、ベッドの上へと倒れ込む。低反発のマットレスがゆっくりと麗の身体を沈めていく。そのまま誘われて眠りに落ちてしまいたかったが、身体は疲れているのに眠気がやって来ない。「んー……」と力なく唸って、ごろりと転がり、天井を見上げた。

 嶺との別れを経て、このままではいけないと悟った麗は、リュウに告白、当然振られ、一人暮らしを始めた。一日中働くことで、それまで快楽に逃げていた時間を物理的に無くした。

 弱い自分を、変えたかった。

 でも働き続けると言うことに、そろそろ肉体は限界だった。明日……、日付としてはもう今日だったが、この日はもう、サンドイッチ屋のバイトも休みを貰って、夜のバーのシフトも空けて貰っていた。

 久し振りに出来た、一日休暇だった。

 昼まで寝てもいいはずなのに、それでも、この疲労と「この後の予定がない」と言う不安が、麗が寝るのを防いでしまう。

 時間と言うものは、時に凶器になり得ると、麗は思っている。

『永遠』は呪いだ。――――“いつか終わる”と思うから、やれる。頑張れる。目的があるから、ゴールが見えるから、進める。

(………やっぱ、休むんじゃなかったかも………)

 これから始まる長い一日を、どうやって過ごしたら良いかわからない。目的の無い時間は、手持ち無沙汰にさせるだけだった。

 趣味もなく、友人も居ないと言う現実が辛くなる。もうすぐ三十にもなるのに……とんだ大人だなぁと思う。子供の頃の自分が今の自分を見たら、どう思うだろうか? と思うと嗤った。

 ゆっくりと起き上がり、ベッドから降りる。寝転んでも眠気が一向にやって来ず、無駄な思考に喰われてしまいそうだったので、取り敢えずシャワーを浴びることにした。

 嶺が居なくなった後、一度も切らなかった髪は肩甲骨の長さから腰程まで伸びていた。普段はあの簪で纏めているが、シャワーをしている自分の顔だけ見れば、確かに女のようだなと思う。

「一晩だけ」と誘ってくる者も居たし、本気だと指輪をプレゼントされることもあったが、麗はその全てを断り続けた。

 軟派な態度は改めなかったものの「イケそうでイケない麗」は、不思議と、好きなだけ誘いにのって、抱いたり抱かれていたりした時よりもモテたように思う。―――なかなか手に入らないもの程、価値は上がるのだ。

 世の中の通りだな、と思うと、なんだか可笑しかった。

(………自分の価値がどれくらいか、本人くらいには見えるようになっていたらいいのに……)

 シャワーの音を聴きながら、目を閉じる。頭からシャワーを被って、シャンプーを丁寧に流していく。

 風呂から出るとバスタオルで体を拭き、パジャマに着替えた。いつだった、リュウが麗にプレゼントしたものだ。もう何年も前になる。

 リュウがくれたものは他にもこの家に溢れていた。共に生活していたのだから、買ってくれる日用品もあったし、反対に買ってきてあげるものもあった。プレゼント、というと少し語弊があったかもしれない。

 その全てを、麗は捨てなかった。

 見る度にひり、とした気持ちにさせるのは初めの頃だけで、以外にも直ぐに「ものはものだ」という感覚になる。お揃いのマグカップも、お揃いの、このパジャマだってそうだ。使えるから使う。壊れたら捨てる。そんな風に、しっかり割り切れるようになってきた。

 ドライヤーで乾かした髪に、再び簪を挿した。

(…………………)

 この部屋には、嶺のくれたものも、嶺と一緒に選んだものも溢れていた。あの時の、黒のパーカーも持って来ている。

 でもやっぱり、その全ての中でこの簪だけは特別だった。

 部屋に戻り、眠気が来ないのをいいことに酒を作ることにする。テキーラサウザブルーにオレンジジュース、それから、グレナデンシロップ。あっという間に、テキーラサンライズが完成する。

 グラスを持ったまま、遮光カーテンを開けた。まだ外は真っ暗だ。よく見ると、白い雪が暗い闇の中をふわふわと舞っている。

 テキーラサンライズは合図だった。麗と寝たいと言う意思表示に客が頼み、麗が承諾する。―――そういうものとして、利用してしまったお酒。カクテル言葉は、『情熱的な恋』。日の出に見立てたその酒のカクテル言葉は、きっと一晩中恋に燃えた恋人達の夜明けを連想させてのものなのだろうと思った。

「……………そんな経験も、無いくせに」

 独り言を溢して嗤う。コクリと喉を上下させて一口飲んだ。甘い酒だ。

 誰かに愛して欲しいと思う心は、まだあった。


『俺が、ありのままのお前のことを愛するよ』


 付き合い始めることになったあの日の、嶺の言葉が麗の記憶に蘇った。嶺は、確かに麗を大切にした。……愛というものはやっぱりわからなかったけれど、あの短い日々は人生の中で一番幸せな時間だったと、確かに麗は断言することが出来た。

「…………嘘つき」

 もう一口、オレンジ色のお酒を口にしてから溢した。リュウのことを好きな自分事、愛してくれたらよかったのに………なんて、都合のいいことを思った。

(………そんなことを思って恨めしく思ったこともあったけど、もうオレも、そんなに子供じゃない……)

 ゆっくりと、でも確実に、『まとも』な人間に近付いていっている予感があった。自分はちゃんと、変われているのだと感じる。

(…………ありのまま、愛してくれなくていいよ。間違っていることは、ちゃんと言って。………変わりたい)

 残りのお酒を飲み干し、カーテンを再び閉めて流し台へ向かった。グラス一つを洗い、部屋の電気を消してベッドに再び倒れ込む。

 シャワーを浴びてお酒を飲んでも、まだまだ外は明るくなりそうに無かった。冬の日の出は、遅い。

(………………夜明けが来ないよ、嶺………)

 髪から抜いた簪を胸に抱き締めた。

 会えない程に想いが募っていく。もうどうしようもなくて、苦しかった。麗をこんな想いにさせるのは、麗の生涯で二人目だった。

「………早く、帰ってきてよ……………嶺」

 弱々しい麗の呟きは、暗闇に消えた。









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