第7話 罪
麗と付き合うことになったことを……那智に打ち明けるべきか。
嶺はうーんと首を捻るが、一向に答えは出ない。散々ヤリチンだ最低だと喚いておいて、やはり好きになったと知れたら、何処か気恥ずかしいものもあった。
また、それを打ち明けることがどんなに那智を傷付け苦しめるかなんて、嶺にはわからなかった。
言いたいし言うべきだと言う気持ちと、今すぐ言うのは時期尚早なのでは? と言う気持ちがあり、答えが出ない。
麗は新しいバイトへ行ってしまい、一人、アパートでテレビの録画を消費しながら過ごした。テレビの向こうでは何かMCが面白いことを言ったようで、ドッと笑いが起こるが、嶺は一つも聞いていなかった。
(……そう言えば、バイトも。どうしようかな……)
先日の沖縄旅行で使ったお金の引き落としがあることを考えて身震いする。嶺は、決して倹約家では無かった。………自分では倹約家だと思っているのが、玉に瑕である。
トゥルルルル、トゥルルルル。
と、嶺のスマホが震えた。
初期設定の味気ない音の方が、テレビの音よりも嶺に響く。もしかして、とスマホを手に取ると、『マスター』と表示されている。慌てて通話ボタンを押した。
『はーい! 嶺くぅーん! 元気? アロハ』
「………ハワイにでも居るんですか、マスター」
『いや、この前沖縄に行くって言ってたじゃん?』
「沖縄はアロハじゃないです」
くっくと電話の向こうで笑う声が聞こえる。
『そろそろ、
「思ったより早い!」
『いやぁ~休業が思ったよりも暇でさぁ~。え? 何、嶺くん。まだまだ休みたい?』
「そんなわけ……っ! 待ってました!」
『あははは。……そこ、麗もいる?』
「あ、麗は……バイト行きました」
ふぅん? となんとも感情の読み取れない声が返ってくる。『まぁ、』と続く時には、いつものおちゃらけたマスターの声だった。
『麗はまだ暫く出禁で。再開して様子見つつ、もう暫くしてから麗を戻そうかなぁって』
「………戻すんですか、麗」
『………うーん。まぁ、本人次第だけどねぇ~』
この人も大概過保護なのかもしれない。嶺はちょっと笑ってしまった。麗の親代わりでもあるリュウはこうして、嶺に度々連絡しては、麗の様子をそれとなく嶺に聞いてきた。当人の麗とリュウは、まだ連絡を取り合っていないらしい。
麗が謝るべきだと思うが、何故そんなにも頑なにリュウとの接触を拒むのか。嶺は何となく、訊けずにいた。
「………そう言えば、マスター。麗のことで……ちょっと、お話が……」
『えー? 何、改まって。もしかして、抱かれた?』
「っ、えっと、………直接話したいんですけど……」
抱かれたのでは無く抱いたのだ、とも言えず。言葉を詰まらせる。親代わりなら、この人に麗と交際を始めたことを伝えておくべきかと思った。……麗も、二十七なわけだし。色々、麗に対する気苦労も多いかもしれない。否、それくらいの年齢で男と付き合い出したなんて伝えたら、頭を抱えるだろうか? あんまりリュウの焦った顔が思い浮かばず、反応が予想できない。
『えー? 気になるじゃん。じゃ、今晩、oblioでね』
本当に気になっているのかいないのか、何とも本心の読み取りにくい軽い調子で、リュウは言う。
「はい。………そう言えば、暫く二人で回すんですか?」
『いやぁ~。おじちゃん大変だからぁ~バイト雇おうかなーって。まぁ、客足戻るのに暫く必要だと思うんだけどねぇ~』
間延びした口調で、のんびりとリュウ。『嶺クン、大学の友達で、バーで働くのに興味ある子とか居ない?』と尋ねる声も特に差し迫った様子は無い。
パッと浮かんだのは那智の顔だった。掛け持ちになるが、那智は嶺が誘えば来るだろう。
「………皆もうバイトしてるし。ピンと来ない」
『そーよねぇ。まっ、暫く問題ないでしょ~。嶺クン難しい日は俺が一人で入るから』
それから直ぐに電話は切れた。
夕方、バイトから帰宅した麗と交代で家を出る。
「いってらっしゃい」
貼り付けた笑顔で麗は嶺を見送った。嘘のつけない嶺は、素直に「oblioが再開したこと」「麗はまだ出禁であること」を話した。
話を聞いている間、麗は特にこれという感情を見せることは無く、ただ「わかった」とだけ言って頷いた。
何と無く、マスターと麗は似た者同士なのかも知れないなと思う。
最寄り駅から二駅先。駅を降りて、繁華街の方へ歩く。健全な通りの一本隣、居酒屋やバー、パブなどが並ぶ通りを暫く歩き、懐かしい小路を曲がる。
ひっそりと佇む黒い壁、横に長い店構え、bar・oblio 。
既に中にマスターが居るようで、看板にはライトが当たっていたし、中から微かに光が溢れている。
入り口の取っ手を引くと、カランカラン、とベルが鳴る。懐かしく感じて、少し胸がキュッとした。思ったよりも此処に思い入れが出来てきていたのか、と嶺は自分の事ながら驚く。
「おひさ~」
「お疲れ様です」
まだオンモードではないリュウが奥から顔を出す。冷蔵庫がある付近だ。シャツのボタンは第一どころか第二ボタンまで開いていて、鎖骨がしっかりと見えている。やはりチャラい。
「悪いけど、カウンターとか拭いてもらっていい? 他の掃除は終わったから気にしないで~」
「すみません」
「いやいや。暇してたしね~」
ひらひらと手を振って、リュウは果物の準備に取り掛かる。果物のカットなんて言うのは、それこそ新人の仕事である。かと言え、「それやるので拭き掃除お願いします!」も違う。嶺は慌てて、台ふきを始める。
barは再開を告知していなかったわりに、四組の来店があった。たまたま寄ったと言っていたのが二組。再開を心待にしてくれていた常連さんが二組。確かに、一度に来店があったとしてもこれくらいの客数なら一人でも回せそうである。
「今日、来てくれてありがとうね~」
珍しく閉店時間の後の清掃時間まで、リュウはいた。全ての清掃が完了し、さぁ裏口から出ようかと思ったところで引き留められる。再び店内へと促され、二つ椅子があるテーブル席に座るように促された。
向かいにリュウも座る。座るなり、煙草に火をつけた。営業時間中はきっちり閉めていたボタンを、また第二ボタンまで開けている。
「んで。話って何?」
白い煙を天井へ吐き出すと、直ぐに本題を切り出した。
「俺、麗と付き合い始めました」
少しも躊躇わず、嶺は真剣な目をしてリュウを見た。
「えっ?」
「麗のことは、心配しないで下さい」
「えっ? 待って? 何、改まって……え? 結婚でもするの?」
「……まだそこまで話してないけど」
リュウは丸めていた目をそこで初めて笑わせて、遂に声をあげて笑った。突然笑われたことに、嶺は当然不快な顔をする。
「ご、ごめん。いや、嶺くん、真面目だなあ……ぶふっ、」
「………」
「いや、男同士だし? 言いにくかったんじゃないの? それに、麗はもう大人よ? わざわざ俺に言う必要あった?」
「……保護者だと聞いたので……」
「真面目か!」
尚もゲラゲラと笑うリュウに、やっぱり不快感を隠さずに嶺は眉間にシワを寄せながら彼が笑い終わるのを待った。
「……でも、そうかぁ~。麗が、ね」
やっと笑いが収まったリュウは、目尻の涙を指先で拭きながらしみじみと言う。
「あいつ、結局、誰かと付き合うのは初めてじゃないのかなぁ。………嶺くんに好きって言った?」
「………まぁ」
「嶺くんは、麗のこと好きだったの? ちょっと意外なんだけど。君、ノンケだよね?」
口調こそは変わらないのに、一瞬、空気がピリついた。リュウは口許を笑わせながらも、観察するような目を嶺に向けている。
「………最初は嫌いだった。けど、今は、愛してる」
「愛!」
リュウはまた、盛大に笑った。
「おい」
流石にこれには眉を寄せるだけでは足りず、嶺は低い声を出して諌めた。「いや、ごめんごめん!」とリュウはやっぱり悪びれもなく謝る。
「わっかいなぁ~って。いや、愛………愛か、うん。良い言葉だね、愛」
やはりバカにしている。更に諌める言葉を紡ごうとすると、ツン、とリュウの人差し指が嶺の心臓を突いた。
「嶺クンの『愛』を信じるよ。麗をヨロシクね?」
その言葉には、少しも揶揄が含まれていなかった。
リュウは、本当に麗のことを大切に思っているのだと感じるには十分だった。
「はいっ!」
勢いよく返事をする嶺の表情は清々しい。喜びと決意が見て取れる。
現世でも添い遂げることを確信しているような表情であった。
「ふー、」
誰も帰って来ない家で過ごすのは、もう何週間目になるだろうか。カレンダーは一度捲った気がする。
リュウは相変わらず部屋で煙草の煙を吐く。
(………麗と嶺クンが、ねぇ……?)
何も写していないテレビ画面を見ながら、頭を掻いた。反対の手で目の前に用意した酒の入ったコップを掴み、飲んだ。カラッと中の氷が音を立てる。
麗の呪いは解けたのか。俺の懺悔は終わるのか。
(…………なんて、ね。呪いなんて。俺がかけちまったんだもんなぁ………)
麗が幸せになれるのなら、それが一番いい。
もう麗は戻ってこないかもしれないなぁと思いながら、煙草を消しては新しい煙草に火をつけた。
麗が孤独ではなくなるのが何よりだ、と思うけど、自分ではもうどうにもしようが無いことをリュウは知っていた。
麗の気持ちも、勿論知っていた。
だからこそ、リュウは麗に何もしてあげられない……はずだった。
過ちを犯してしまった夜のことを思い出す。
空だったはずの灰皿が吸い殻だらけになっていたが、構わずまた新しいものに火をつける。
「………早く死にてぇーな」
ぼそりと漏れてしまった本音を、聞き咎めてくれる者など誰もいない。
(………麗の保護者もお役目御免になったのなら………もう、いいかな)
リュウにはずっと、好きな人がいた。
随分前に、その人は亡くなってしまった。
リュウは遂に想いを告白することも出来ず、その死を受け入れられなかったのだ。
何もかもすっかり忘れてしまいたくて、自分を慕う麗を―――――………。
その日から、麗に求められると抱いてやるのがリュウの贖罪だった。
可愛い甥っ子をそんな風に歪ませてしまったあの日のことを、後悔しなかった日は一度もない。
それを、嶺が救ってくれたと言うのなら、嶺はリュウの恩人でもある。
それでもやはり、気がかりなこともある。
「……………愛、ねぇ……」
ふーっと煙を吐き出す。白いもやがまっすぐ飛び出したかと思うと、直ぐに部屋の空気に霧散した。
******
「那智って恋人いる?」
「えっ、何ですか、突然!」
他の店がお昼で客足がピークを迎えていたとしても、那智達のバイト先のサンドイッチショップは今日もガラガラである。
霧島と那智は二人で突っ立ちながら雑談を重ねていた。やるべきことはやりきっていたので、雑談意外に他にすることがない。
「この前、沖縄行ってたでしょ? 彼女と行ってたのかなぁって」
「え、あ、いやっ……! 普通に友人と……」
「へえ? 大学生って皆、夏休みは沖縄行くの? オレの恋人も沖縄行ってた」
「えっ! 霧島さんの恋人って大学生なんですか!」
空港とかで会ってたかも知れないね、ひょっとして同じ大学なんじゃ、なんて盛り上がる。そんな流れで、何故か次のシフト休みに一緒に出掛けようと言うことになった。
「オレ、友達って那智しかいないんだよね」
訳ありそうな美人にそう言われると、断る理由なんて見付からない。
斯くしてその二日後に、霧島と那智は此処等で一番大きなショッピングモール内に居た。
「再来週行くデートの、デート服を一緒に見て欲しい」
というのが、霧島の口実だった。
自分なんて一緒に居らずとも、特別に麗のセンスが悪いなんて感じない那智は、やはりそれが口実だとわかっていた。コーディネートしなくったって、例え無地のシャツを着てスキーニーパンツと言う格好でも、霧島はオシャレだ。今日だって、紺色の無地のシャツに黒のラフなジャケット、白のパンツスタイルで十二分にお洒落だった。白のパンツを着こなすレベルの高さにどぎまぎとする。
「同棲してるから。新しい服を着て、少しは新鮮な感じにしたいなって」
「へー! いいですね!」
ショッピングモールの一階。値段は張るが、一番オシャレな店の中で、霧島と那智は商品を物色しながら会話を続ける。従業員の男性達も皆、スタイルもよくイケメンだったが、霧島の比では無かった。
「愛されてますね、彼女」
「彼女じゃないけど」
「え?」
さらりと言うものだから、聞き違いかと思った。それともまだ片想いとか? 否、恋人って言ってたし……。様々な可能性を模索したが、結局、尋ねることは出来なかった。
上下の服と靴まで完璧に揃え、休憩にイタリアンのお店に入った。昼から落ち合って、只今の時刻は午後三時半。おやつ時である。
「長いことありがとう」
「こちらこそ。僕も楽しませて頂きました」
ドルチェを食べながら、霧島は上機嫌に見えた。那智もあれかこれかと散々悩みながらコーディネートを完成させていく霧島を可愛く思って、二時間半も付き合っていたなんて気が付かない程だった。
甘いものが苦手なので、那智の机にはコーヒーだけだ。
「ふふ。那智って、モテるでしょ?」
「えっ? 僕がですか?! 全然!」
「なんで? 優しくて顔もいいのに?」
「あはは! 霧島さんにそれ言われると、ちょっと嬉しいですね」
那智は困ったように笑った。誤魔化すようにコーヒーを飲む。完全にお世辞だと思っていたが、那智を想う女性が多くいたことを那智は知らない。前世では嶺蔵、現世ではまた嶺一筋だった彼に、他者がつけ込む隙など無かったのである。
「彼女、居ないんだっけ?」
「生まれてこの方」
「うっそだぁ!」
「ふふ。………僕、ずっと…永い永い、片想いをしているんです」
すっかり霧島に心を開いてしまっていた那智は、ついにその事を打ち明ける。那智は人当たりもよく、友人にも恵まれていたが、この話をしたことのある友人は居なかった。霧島は、年齢が上なことがあるのかもしれないが、他の友人とは何か違うような気がする。
「………そうなんだ。オレと一緒だ」
「え?」
「凄いなぁ、那智は。オレ、もう疲れちゃった」
沈黙も、店内のBGMが上手にカバーした。何か言うべきかと那智が悩んでる間に、霧島は人当たりのいい笑顔を浮かべた。
「そんな時に、告白してくれたのが今の彼氏」
彼氏、と確かに霧島は言った。
那智はそっと息を飲む。
「男同士なんて、キモい?」
そんな那智の戸惑いを見逃さなかった霧島が苦笑した。ドルチェはそろそろ食べ終わってしまいそうだった。那智のコーヒーもそろそろ空になる。
「そんなこと思いませんよ。……僕の、好きな人も男なんです……」
そんなことを誰にも打ち明けた事がなかった。前世から何故かバレていた麻知は例外で、まさかこうして誰かに、自分の恋心を打ち明けることになるなんて思いもしなかった。
他の客も自分達の談笑に夢中なようで、誰も那智達の話に聞き耳を立てていないようである。那智は続ける。
「相手、ノンケなんです。告白したけど、ダメでした。変わらない関係がいいって……」
本当は誰かに聞いて欲しかったのだと、この時初めて那智は自覚した。
「そうなんだ…。凄く勇気が必要だったね。オレ、那智を尊敬する」
「そんなんじゃないですよ……。それに、変わらずに居てくれるその方の方が、凄いです」
「………そうかなぁ。オレは、那智みたいに告白することすら、逃げてたからなぁ。それも、もう諦めようとしてる」
「………」
「……今の彼の事を、好きなのかよくわかんない。けど、これが『恋』だったらいいなぁって思ってるんだ。……酷いかな?」
「………いえ。デートの為に沢山悩んで、準備したんですから。それが恋じゃないなら、何なんですか?」
ふふ、と霧島は笑った。
「本当にいい奴だね、那智。好きだよ。……あ、勿論、人間として」
「え、あ! ありがとうございますっ」
霧島がドルチェを食べ終わり、那智もコーヒーを飲みきったので店を出ることにした。
そろそろ解散の流れで、ショッピングモールの出口へ向かう。
「麗?………那智?」
声がして振り返った。霧島と那智に声をかけて、雑貨屋から出てくる人がいる。その人物に、霧島も那智も目を丸める。
「嶺さん!」
「嶺?」
二人ともその男の名を呼ぶと、「え?」と互いの顔を見た。「知り合い?」と訊かんとしている事が顔に書いてある。那智は、嫌な予感がじわじわと心を支配していくのを感じていた。即刻、立ち去った方がいいような予感がする。
「……霧島さん、嶺さんの事をご存知なんですか……?」
震える声が出た。
「那智こそ、嶺と知り合いなの……?」
ひたすらに目を丸める麗は、まさか先ほどの那智の想い人が嶺だと言うことには気が付いていないようである。世間って狭いね、と言い出しそうな様子だ。
嶺が小走りに二人の元までやってくる。
「いつの間に麗と那智は知り合ってたんだよ?」
「……嶺さん、」
決定的なことを言われてしまいそうで、那智の唇は未だに震えていた。
(――――『ヤリチン野郎』って……。だって嶺さん、『麗』は光子さんじゃないって……)
わなわなと拳まで震える。まさか、だって、嶺さんは麗さんを嫌っていたはずだから……と予感が杞憂であると自分を落ち着かせたかったが、嶺の、ちょっと気まずそうに、それなのに嬉しそうに麗へと向けられた目だとかを見てしまうと、只でさえ嶺に関して敏い那智には全てがありのままにわかってしまう。
「那智と嶺が知り合いだったなんて知らなかったな。あ、もしかして、沖縄って二人で行ったの?」
どうりで! と明るい声が隣から聞こえる。
霧島の
(……僕は、なんて言ったっけ………、「片想いの相手と沖縄へ行った」なんて、言ってないっけ……)
拳に沢山の汗を握った。それなのに、全身が寒くて震える。止めて欲しい。誰も何も、決定的なことを言わないで……。
耳を塞ぎたいのを、この場から逃げ出したいのを、何とか押さえるのが精一杯だった。
「那智! あのね、紹介させて」
「待て」
麗の明るい声を、嶺が遮った。
「……那智」
嶺が呼ぶ声に、那智は落としていた視線を上げるしかない。
真剣な目をした嶺の顔がある。
(………ああ、言わないで……)
懇願するように嶺を見たが、嶺は一呼吸だけ置いて、その口を開いた。
「俺、麗と付き合ってる」
世界が。
音もなく崩れた。
******
那智が体調不良を理由に何日もバイトを休むので、流石に麻知は気にしてないふりが出来なかった。
いつぞやぶりに、bar・oblio を訪れる。
炎上して暫くの間休業をしているとは知っていたが、つい先日から細々と再開したということも調べがついていた。
カランカラン、とベルの音。
「いらっしゃいませ」
二つの声がする。一つは、マスターかと思うイケオジ―――それともう一つは、目的の人物。嶺だ。
「ちょっと、ツラ貸して」
「えっ?! 俺ですか?!」
幸い接客中では無かった嶺に、顔を見るなり声をかけた。嶺は心当たりの無いことに戸惑って、確認するようにマスターを見た。
オンモードのマスターは「おやおや」とにこやかに笑って、「いいよ、行っておいで」とのほほんと手を振った。
「どういうことよっ?!」
「な、何が……」
「那智よ!」
「那智?」
突然物凄い剣幕で現れたこの女客が、以前、ブラッディメアリーを頼んだ女性であることには気が付いていた。その口から、よく知った名前が紡がれたことには驚いた。
一先ず、裏のスタッフルームに通したが、彼女の怒りの感情に任せきった声量は、ひょっとしたら表のバーまで聞こえているかもしれないなとひやりともした。全く見に覚えの無い怒りであっても、お客さんは痴情の縺れか何かと勘違いするだろう。……そうしたら、折角再開したバーもまた嫌な噂が立つかもしれない。
「那智の知り合い……?」
取り敢えず穏やかな声を出して、彼女の怒りの原因を聞き出そうと努めることにした。
「妹よ!」
「妹!………ってことは、『麻知』ちゃん?」
「気安く呼ばないで!」
「……何をそんなに、怒ってるんだ?」
その言葉に、麻知は奥歯をギリっと噛み締めた。
「『
「!」
思わぬ言葉に、嶺は目を丸める。「ぇ、」と小さな声が漏れた。
「お前は光子しか覚えてないのかよ? 光子の弟だよッ!」
「え……、いや、え、……たつ、のり………?」
未だに混乱している嶺に、麻知は大きな溜息を吐いて、ソファーの上で足を組み直した。組んだ腕の上で、豊満な胸が揺れる。
「そうだよ。今は[[rb:那良之助>ならのすけ]]の妹だけどな」
「……え、待って………記憶が……?」
「あるよ!」
麻知は苛立ちを隠さない。未だに混乱している嶺を差し置いて、本題を切り出す。
「最近、那智の様子がおかしいのは、お前だろ?」
「え?」
「フった上、何したんだよ?」
「…………」
物凄い剣幕に動揺したわけではない。嶺は唇をきゅっと噛んだ。麻知はその様子に返答を少しだけ待ったが、それも数秒の間だけで、直ぐに口を開いた。
「………『麗』と、付き合い出したのか?」
「………」
「それを、那智にも話したわけか?」
「……ああ」
チッと舌打ちが響く。
事情を知らない人がこの光景を見たならば、こんな愛らしい顔をした少女から聞こえる音ではないと驚いた事だろう。
「お前って、人の心とかわかんねぇの? それとも、自分が幸せならそれでいいわけ?」
那智のことを想う麻知の怒りは、至極当然のものであった。
嶺は黙って聞くしか無い。
「お前は本当に変わらねぇな! 昔ッから、光子光子光子光子………大して好きでも無かったくせにッ……!」
光子への気持ちについて言われては、流石に黙っておくわけにはいかなかった。
怒りの感情が沸き、そのままにテーブルを両手でバンッと叩いていた。
「んなわけねぇだろ! 光子を誰よりも大事に思ってた!」
「ならどうして、光子は毎晩隠れて泣いてたんだよッ!」
負けじと麻知も両手で机を思い切り叩いた。バンッと先程よりも大きな音が鳴る。
「……え?」
嶺は、たじろいだ。
「………光子は、俺と結婚してから……泣いてないだろ? 隠れて泣いていたのは、その前の話で……」
麻知は鼻を鳴らす。
「ほら。気付いてもいねぇじゃん。それで、何が『愛してる』だよ。虫酸が走る」
「………」
「どうせ、『麗』だって大して好きじゃないくせに」
「そんなこと……!」
あるよ、と遮った麻知の声は怒気を含みながらも、先程よりは幾分と落ち着いていた。
「ほんじゃ、言うけど。おれも麗に会ったよ。それでわかった。
「っ!」
そんなはずはない! と否定したかったが、すっかり麻知に気圧された嶺は言葉が紡げなかった。これは麻知のハッタリであった。けれど、言葉を告げられないでいる嶺に、やっぱり麻知は口の端を歪ませて嗤った。
「罪深いな、嶺蔵。お前は結局、誰のことも愛してなんかいないんだよ。光子が可哀想な女だったから、お前の自己満足の為に結婚したんだろ? 助けた気になって、悦に入ったわけか? それで今度は光子の影を見て、麗ってわけかよ? それじゃあ、もし光子が貧乏でも孤児でもなくて、身体売って弟と暮らしてなかったら光子と結婚したのかよ? 麗が、光子の魂を持っていなかったら、麗を好きになったのかよ!」
嶺は言葉を失った。
目を見開いて、震えていた。
「…………おれは前世から、ずっとお前のことが憎い。ずっと大ッ嫌いだよ、嶺蔵」
嶺がもう何も紡げないことを察して、麻知は立ち上がった。捨て台詞を残して、麻知はスタッフルームから出ていった。
「……………」
嶺は、―――嶺蔵は、裕福な家庭に生まれた。何不自由ない環境で育った。唯一、教育熱心な父親とは馬が合わず、父の期待に沿うように人生を歩みながらも、心の中では息苦しさを感じて反発していた。
嶺は自らを『義賊』として、困っている人を見付ければ助けた。それは決して、優越の為では無かった。ただ、自分が正しいと思うことをしたかっただけだった。
光子のことも、そうだ。
光子に関しては、嶺の一目惚れもあった。結婚したいと思った。もう、泣かせたくないと思った。自分なら助けてやれると、そう、思った。
挫折を知らない人生だった。
家の反対を押し切ってした光子との婚約に、嶺は実家と縁を切ることになった。―――縁を切る、と言っても、仕送りは勝手に口座に入っていたし、自分もそこそこの仕事についており、生活に困ったことは無かった。那良之助も傍に居た。
『罪深いな、嶺蔵』
先程の麻知の声がする。
自分のどんな行いも、罪深いなんて思ったことが無かった。
那智の顔が浮かぶ。―――嶺をずっと好きだった。その心を、封じてしまった。それでいて、『今まで通り』というのは、どれ程残酷なことを彼に課したのか。
光子の顔が浮かぶ。―――気が強くて気高くて、それでも本当は一人で泣いていたか細い少女。幸せになったのだと思っていたが、自分の前ですら泣けなくなったのか。
最後に浮かんだのは、麗の顔。今の、嶺の恋人。
「…………俺は、」
確かに光子を愛していた。恋愛感情でこそ無いが、那智を大切に想っていた。
麗は……?
光子と再会したと思った。記憶がなくても、光子の面影に惹かれた。嶺の前で泣いた。誰にも愛されたことがないと言った。
「……………俺は、」
麻知の言うことは一理あると感じてしまった。もし、麗が光子の魂を持っていなければ、麗に惹かれただろうか? 男を抱いただろうか……。次第に頭痛がしてきて、嶺は頭を抱えた。
俺は本当に、『麗』が好きなの―――――?
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