第6話 変わらなくていい
気が付いた時には、嶺と麗は同棲を始めていた。
「今日帰る」「やっぱりまだ居たい」を繰り返す麗に、嶺も「今日こそ帰れ」とは言わなかった。
大学は夏休み前に試験をし、先日から晴れて夏休みに突入していた。那智とは、
「…………」
「おはよ、嶺」
床の上に敷かれた布団で嶺が目を覚ますと、麗が寝ているはずのベッドの上は藻抜けの殻だった。布団をもう一組買い足したので、一人はベッド、もう一人は床に敷いた布団で寝ることになっており、昨晩じゃんけんに負けた嶺が布団で寝ることになったのだった。
ふわりとベーコンの焼けるいい香りと油の跳ねる音がする。
「丁度そろそろ起こそうと思ってたんだ。顔洗っておいでよ」
「………ん。はよ」
ボサボサ頭で声のする方を見ると、すっかり身なりを整えた美しい男が、百均の安物のエプロンを着用して台所に立っていた。麗は、人当たりのいい笑顔を嶺に向ける。
(…………意外と尽くすタイプ……)
始めた同棲でまず気が付いたことは、それだった。取っ替え引っ替えワンナイトラブだとか繰り返してセフレが何人も居るような人間だから、もっと淡白な人間性なのだと思っていたが、どうやら違う。
毎朝、嶺より先に起きて朝食を準備していた。大学から帰ると晩御飯も用意されていた。部屋はいつでも隅々まで綺麗で、窓のサッシにすら埃が見受けられなかった。年末の大掃除の時でさえ洗わないカーテンも、どうやらいつの間にか洗ってくれたらしく、窓を開けると揺れたカーテンからふわりと柔軟剤の香りがする。
洗面所の鏡をボーッと見ながら、嶺は寝起きの歯磨きをして顔を洗う。ボサボサになった髪の毛を整えてから、洗面所を出ると既に朝食が並んでいた。
麗は朝はパン派らしく、基本的にトーストが並ぶ。それから、付け合わせにベーコンかソーセージ。スクランブルエッグに野菜サラダ。デザートにヨーグルト。飲み物は100%のりんごジュースだった。頼んだわけでは無く、基本がこれだった。麗は、毎朝当たり前にこれらを準備してきたのだろう。
麗の本当のひととなりを知っていくような気がして、むず痒くなる。それに、『光子も必ず、俺が起きる前に朝食を用意してくれていたなぁ』と懐かしい記憶と重なることも増えた。まぁ、光子の場合は基本的に和食だったが。
「そう言えばオレ、バイトすることにしたんだ」
「えっ?
「違うよ。oblioはいつ再開するかわからないし。昼間暇だったから。良く通ってたファストフードのお店で」
「別に。飯代とか気にすんなって言ってるじゃん……」
嶺は那智がご飯を作りに来ない日はカップ麺ばかり食べていた。百円にも満たない、店内で一番安いやつの中から少しでも量が多いものを買い溜めていた。
麗が台所に立つようになって、毎日美味しいご飯を食べていたこともあり、食費が痛手になりそうな心配はしたが、麗は決してお金を受け取らなかった。
「前も言ったけど、食費は居候させて貰ってる分のお金だと思って。それに、貯金は意外とあるんだよね」
「……じゃ、バイトしなくて良かったんじゃね?」
もう俺も夏休みに入ったわけだし、と言いかけて、トーストを齧る。そんなことを口にしてみろ、俺が寂しいみたいじゃないか。と、内心でツッこんだ。
「いや。オレ、バー意外で働いたこと無かったし。あと、トモダチも出来て。ちょっと楽しそうだなぁって」
「………」
「今、
「………ふぅん?」
麗は『更生期間』と称して、始めて泊めた晩以来、キスのひとつもしなくなっていた。何泊も麗がし始めたのを見て、嶺が出した条件が、麗にとっては『更生』と言うことで受け取ったらしかった。
麗が始めて来た夜のことを思い出してしまって、かぁっと顔中が熱くなった。
『…………オレのこと、愛してよ。嶺』
儚げな瞳をして、麗は懇願した。それからまた、唇が重なる。触れるだけのキスは、純愛と誤解しそうな程に優しくて、頼り無げだった。
『オレ、嶺の望むこと、なんでもしてあげる。それに……何したっていいよ』
セリフこそは子供のような無邪気な声で言うが、その表情は依然として翳っているように見えた。にこりと笑う顔も、捨て犬のように頼り無い。
嶺が思いがけないことで、まだ混乱する頭を何とか回転させようとしながら身の振り方を考えている内に、麗は嶺に覆い被さり、抱き締める。
嶺はそんな麗相手に、己のアレが反応してしまっていることに気が付いて焦る。気が付かれませんように、と祈ったが、既に身体が密着している今、それは儚い願いだったろうと思う。
けれど、麗はその事を指摘しなかった。
『オレ、今すぐ嶺が欲しい……』
耳元で囁かれたそのセリフは、妖艶と言うよりは不安に震えていた。それが、嶺の頭をより混乱させたのだ。
嶺の知っている麗とは違った。或いは、こんな捨てられる事を怖がっている子供のような麗こそが、『本当の』麗なのかと思った。
百戦錬磨なんだろうがお前、と言ってしまいそうだった。こうやって、人の家に上がり込んでは誘惑して寝てるのか、と侮蔑を混ぜて言ってしまいたかった。
でも、出来なかった。
等身大の麗は、実は『光子』と変わらないのかもしれないと感じてしまったから。
光子も、自身の花を売り生計を立てていた。美しく、気高い女だったが、一人で泣く夜があるのを知っていた。
身売りをしているからこそ、気高く強く生きようとしているだけの、か細い少女と言うのが光子の正体だった。他人に甘える術を知らない。子供の頃から、唯一の肉親である弟を守るために身を捧げ、家事もこなしていた。
麗には光子のように、守るべき自分以外の人間が居なかったのだろう。だから、光子のように気高く生きられなかった。………だから、こんな風に、歪んでしまっただけなのでは?
嶺の勝手な想像でしかなかったが、それは真実味を帯びていて、一層麗の事を振り払えなくなる。
『嶺に抱かれたい……。今すぐ。お願い』
懇願する麗に、やっぱり赤面してしまった。頼り無さげに揺れる瞳はそのままだったが、雰囲気のせいか先程よりも艶っぽく見える麗の姿は、確かに光子に似ていた。
『………………抱かない。………今すぐ、どけ』
なんとか声を絞り出せたのも、『こいつは光子じゃない』と必死に脳みそに言い聞かせたからだった。
『そう言うことをするのなら、今すぐタクシーを呼ぶ。泊めて欲しいなら、フツーに睡眠を取れ』
『………わかった』
『ん』
『………でも嶺。今晩はこうやって、抱き締めててもいい?』
『………』
『嶺が欲しいのは本当。別に、抱いて欲しいって意味だけじゃない。……ココロって言うのは、愛おしい人を抱き締めてるだけでも満たされるんだね……』
嶺はなんとも答えることが出来なかった。その代わり、「離れろ」とも言わなかった。
「何赤くなってるの?」
「んぇっ」
トーストを齧る口が止まったまま静かに赤面している嶺に、流石に麗も訝しんで声をかけた。
あの晩の後も、麗は引っ付くことを要求してきた為、耐え兼ねた嶺が少ない貯金をはたいて布団をもう一式買い足した事こそが真実だと言うことは、麗には秘密である。
「な、なんでもねぇよ……! そういえばっ、俺、明後日から旅行行くけど、へーき?」
「旅行?」
「おお」
麗を置いて、自分だけ友人と一週間沖縄に旅行すると伝えていいものか一瞬悩んだ。が、わけを言わずに一週間家を空けるわけにもいかない。結局、那智とは連絡を取り合っていないので、旅行に行くことになるかは確定ではないが、行く前提で話した。
「へぇ。いいじゃん。楽しんできてね」
意外にも麗は柔らかい微笑を浮かべ、手を振った。
「今から行くわけじゃねぇよ」
「知ってるけど。そんな、申し訳なさそうに言わなくてもいいよ」
大人だよ、オレも。と麗は笑う。普段の、貼り付けた営業スマイルなんかじゃない。
そんなことが一々、嶺の心臓を熱くさせた。
「………ん。土産、買って帰るから」
「ちんすこうは紅いもで宜しく~」
「紅いもタルトとな」
麗も紅いもが好きだと知ったのが嬉しくて、嶺も微笑んで応えた。
「まっ、本当に行くかどうかはわかんないけど」
「ええ? 明後日の話なのに?」
首を傾げた麗に、訳は話さなかった。手を合わせて「御馳走様」と席を立つ。流石に、食器くらい下げたし洗った。
その二日後、那智は浮かばない顔でスーツケースを玄関に運んでいた。
「兄貴、嶺さんと旅行じゃなかったの?」
麻知は数週間前から実の兄が沈んでいるのに気が付いていながら指摘してこなかった。だか遂に、そう声をかけた。
「………いや、一人で行く……ことに、なると思う……」
「……………私のせい?」
「え?」
「私が兄貴に、嶺さんに告白しろって言ったから……嶺さんとおかしくなったの……?」
「麻知のせいじゃないよ」
玄関まで見送りに来た麻知を、那智は抱き締めた。
立ち竦んで身を固くする麻知に、那智は気が付かない。或いは、兄に突然抱きつかれたら世間の『妹』というものは皆、こういう反応なのだろうと勘違いしている。
「僕が未熟で……嶺さんを裏切っちゃったんだ。だから、嶺さんに嫌われても仕方がない」
「そんなことっ……!」
否定しようとする麻知に、那智は更に力を強くさせて抱き締める。
「…………過去に。前世でさ、お前、言ってくれたろ?」
「え?」
「『おれ達は一人ぼっち同士だから、二人で二人ぼっちだね。しょうがないから、おれがずっと、那良之助の傍に居てやるよ』」
「…………言ったかな」
「言ったよ」
麻知のすっとぼけに、那智はやっと麻知の身体を解放し、にこりと微笑んだ。
「嬉しかった。今でも、その約束を守ってくれてありがとう。麻知」
「………」
「僕は大丈夫だから。お前の応援に応えられなくて申し訳ないけど……、大丈夫だから。ちょっと、頭冷やして来る」
「………うん」
那智は、何故だか今にも泣き出しそうな麻知に見送られて家を出た。
ガラガラとローラーの転がる音が煩いが、タクシー乗り場まですぐそこだから許して下さい、と誰にとも言うわけではないが心の中で謝罪した。
嶺は、きっと来ないだろう。
これは僕の失恋旅行になるんだろうなぁと、思いながら空港に向かう。沖縄まで飛行機で何時間だったけ。そんなどうでもいいことを考えながら気を紛らわせ、移り行く外の風景を眺めた。
「学生さんですか?」
「え? あ、はい…」
三十分程走って、突然、タクシーの運転手が話し掛けてきた。那智は驚いて、運転席に視線を移した。すっかり白髪だらけの頭に帽子を被ったおじいちゃんは前だけ見ながら会話を続ける。
「いいですねぇ。今が一番ですよ」
「はぁ……」
「いや。何歳になったって、『今が一番』なんですけどね。私もすっかり嗄れましたが、毎日楽しいですよ。ですがね、やっぱり、その時の一瞬一瞬は帰ってきませんからねぇ」
突然なんだと思っていたが、もう空港まで目の前だった。タクシーを停めると、那智を振り返りながら運転者が続けた。
「歳を取ると説教臭くなってすみませんね。あまりにお客さんが浮かない顔をしていたので気になりまして。思い切り、どうせなら楽しく、過ごして下さいね。今日はもう、今日だけですから」
「………ありがとうございます」
支払いをして、トランクに積ませて貰ったスーツケースも下ろして貰ってから、待ち合わせ場所へ向かう。
空港内のコーヒーショップだ。一階をまっすぐ進んでいく。約束の時間まで、あと三十分はあった。落ち合って、一緒に搭乗手続きを行う予定だった。三十分だけ待って、遂に嶺の姿が見えなかったら行こうと決めていた。
ブラックのコーヒーを頼み、はしっこの二人掛けのテーブル席に座った。はしっこ、といってもオープンカフェなので隅っこと言うわけではない。那智の席からは空港の広い館内を見渡すことが出来たし、反対に、空港の利用者からも那智の姿はよく見えるだろう。
背の高いテーブルに足の長い椅子。そこに座る長身の那智は、なかなかに絵になった。
「……はぁ」
しかし当の那智は、まさか自分が一部から注目を集めているなど知らず、憂鬱な溜息を吐く。
もし、嶺が来るのなら、三十分以内に必ず来る。嶺は時間厳守の男だった。それは那智が一番よく知っている。遅れて来ることなどあり得ない。
(………もっと言うと、無断欠勤とかは……絶対ないけど………)
とはいえ、事情が事情である。もう自分とは連絡を取りたくないと思われている可能性が消えずに、那智の暗い気持ちは消えない。
(………本当はもっと、謝らないといけない……)
許されるまで、何度だって頭を下げるべきだった。そうは思うが、どうしても会えずにいた。怖かったのだ。
自分に向けられる視線、言葉、空気―――――全てがもう、取り返しがつかなくなってしまっていたら……?
「………相変わらず、早いな」
「!」
嫌な方へ嫌な方へと向かっていた妄想は、そこで突然中断された。如何に空港が騒がしくとも、那智がその声を聞き落とすはずがなかった。
ガタッと音を立てて立ち上がる。慌てて振り返った視線の先に―――――嶺が居た。
「なんっ………で、」
「なんで? って、そりゃ、約束したし……」
「……ずっと連絡も取ってなかったから……」
「だから? 来ないかもって? いや、お前は絶対一人でもこの旅行、行ったろ? お前の行動くらい読めるんだよ」
数メートル先に居た嶺がツカツカとやって来て、那智の向かいの席に腰を下ろした。一週間も旅行に行くにしては随分な軽装である。スーツケースは無く、ポシェットが一つ。
空港に来たが、旅行には行かないと言う為に? まさか、連絡先を消している? 様々な憶測が那智の頭の中で不安に渦巻いた。
「……座れば?」
依然として棒立ちだった那智に、嶺は感情の読めない顔で椅子指差して進めた。那智も一礼し、「失礼します」と腰掛ける。
「…………もう、会えないんじゃないかと思ってました………」
「なんで?」
「………
暗く沈む那智の表情に、嶺は深く息を吐き、肘付いた手を口許の前で結んだ。
「………一つだけ約束してくれ。俺は、お前の気持ちに答えられない。答えて欲しいと思うのなら、この旅行は一緒に行けない」
「っ………はいっ! もうあんなことは二度としないと誓います。貴方に………嫌われてしまったかと………あなたに嫌われたらっ………僕はッ、生きていけません………」
那智は涙を溢すのをグッと我慢した。
嶺は、そんな那智を観察するように暫く眺めた。
「申し訳ありませんでした。……赦して下さい……」
本当は膝をつきたいのをグッとこらえて、頭を下げた。跪いてしまうと注目を集めてしまうだろう。嶺はそれを厭うだろう。那智はこれ以上、失点を重ねるわけにはいかなかった。
「……………お前はもう、『赦す』とか『嫌う』とか、そう言う次元に居ないんだよ…………」
「え?」
嶺がポンッと那智の頭を叩いた。
「はいっ! じゃ、この旅行は楽しみましょう!」
嶺が立ち上がる。
「行くぞ」
那智を促す。
那智は、やっぱり目に涙を溜めたが、溢すのは必死に堪えた。
「っ………、はいっ!」
ガタリと立ち上がり、数歩先を行く嶺を追い掛けて進む。
(貴方の傍に居られるのなら、あと何十年、何百年………来世でだって、また、僕はこの恋心を殺して生きていける)
本気でそう思った。
麻知、ごめんね。―――心の中で、自分を応援してくれた最愛の妹に謝罪する。
ガラガラガラ、と那智のスーツケースだけ煩い。嶺に荷物をどうしたのかと問えば、ホテルに送ったのだと言うから、驚いた。
(………行く気だったんじゃないですか………)
僕を既に信じてくれていたんじゃないですか、と今度も涙を溢さないように苦労した。
良い旅行にしよう、とそう思う。
『思い切り、どうせなら楽しく、過ごして下さいね。今日はもう、今日だけですから』
不意に、あのタクシードライバーのセリフが脳裏に響いた。
(………そうだ。どうせなら、楽しく)
嶺を自分の恋人にするなど、分相応だったのだ。変な欲に駆られてしまったのがいけなかった。
離陸する飛行機の窓から外を眺めながら、ドキドキと鳴る自分の恋心を、旅行に対するワクワクとした気持ちへとすり替えた。
******
一週間沖縄を堪能した嶺は、麗に、帰宅する日を一日だけ増やして、嘘を伝えた。
嘘の嫌いな嶺だが、ほんの悪戯心だった。
(驚くかな? 女連れ込んでたら、追い出そう)
帰りの荷物も郵送しようとした嶺だったが、現世の自分は湯水のようにお金を使えなかったことを思い出し、断念した――――正しくは、これ以上お金を使うことを躊躇う程、行く先々でお金を使ってしまい、荷物を送らなかったついでに閃いた嘘だった。
『帰るの、明日になったわ。沖縄楽し過ぎて。あと一泊してく』
帰りの空港でそんなメッセージを麗に向けて送信した。スーツケースに入らなかったお土産のちんすこうと紅芋タルトは、白のビニール袋に入れて貰って手荷物にした。
「帰り道でも楽しそうですね」
那智の指摘に深い意味は無かったろう。嶺は自分が思いの外、麗に会えることを楽しみにしていたことに驚いた。
「……楽しかったな! 沖縄!」
誤魔化して笑う。
嶺と那智は、本当に何事もなかったかのようにこれまで通りにこの一週間を過ごした。共に歩き、観光し、同じものを食べ、同じ部屋に泊まり、大浴場でその日の思い出を共に語ったりした。部屋での晩酌でも、あの日のようなことは起きなかった。
嶺は那智を信頼していた。
那智も、自分を赦した嶺の信頼に応えた。
二人は名残惜しさも感じさせずに別れた。帰りはタクシーを乗り合わせ、嶺を下ろした後、タクシーは那智を送っていった。
「さてと」
見慣れたアパートを見上げる。
たった一週間不在しただけなのに、まるで何ヵ月も帰っていなかったような懐かしさがあった。
カンカンカンと音の鳴る外階段を上る。
静かに鍵を開け―――ようとしたが、無用心にも鍵は閉まっていなかった。
しめた! と思ってにやりと笑ってしまう。音の出るスーツケースは玄関に起き、抜き足差し足で中へ入る。
中は何処の窓も遮光カーテンが閉じられているせいか、夜が深いわけでもないのに真っ暗だった。でも、エアコンはつけっぱなしで涼しい。居るのか居ないのか、ますますわからない。
(…………寝てる?)
人の気配が無い。
これで留守なら、流石に玄関の鍵をしていないことを咎めなければいけないな、と思った時、くぐもった声が微かに聞こえた。
「……………ぅ、………んっ、」
その艶かしい声に、全身に鳥肌が立った。
麗? と、聞こえなかったふりをして声をかけようと思ったが、声が出ない。
「……………っ、みね、…………」
「ッ……………! ただいまッ!」
自分の声を呼ばれた気がした。
慌てて、電気を点けて叫んだ。すると、ベッドの上の布団からひょこりと麗が顔を出した。
「……………あ、」大層、気まずげな顔をしている。「………お帰り………」
「……………ただいま………」
麗は何故か布団から出て来ない。
「…………明日になるって……」
ごにょごにょと何か言っている。
「…………嘘」
「……………ごめん。嶺。………オレ、嶺のことを考えながらぬいた…………」
嘘だったと告白されるや、何故か観念した麗は素直にその行為を告白し、謝罪した。布団を身体に巻き付かせたまま身を起こすが、謝罪の意で頭を下げると言うよりは、項垂れている。
「………………」
「………ごめん………その、…………寂しく、なって…………」
「………………」
なんと言葉を紡いで良いかわからない嶺に、麗は尚も項垂れた。それもしかし数秒間の沈黙で、麗は三分としない内に顔を上げた。
「嶺はオレで抜いたりしない? それともやっぱり、光子だけ?」
にへらと笑う笑顔は、今この瞬間に作る顔としては不適切だった。―――――麗は子供なのだ。嶺は、そう思っている。ともすれば、セックス中毒者でありながら、誰よりも純粋なのかもしれないとさえ、嶺は思っていた。
「………光子はお前だよ………」
打ち明けるには適切なタイミングでは無かっただろう。
男性特有の香りが微かにする部屋で、かつての最愛の人の名を紡ぐことに―――不思議と、嶺は抵抗感を持たなかった。
それどころか………嶺は、まるで酔ったような感覚すら覚え始めていた。
当然の事だが、光子はお前だ、という言葉が理解できず麗は目を丸めた。聞き間違えを疑っているのか、どういう言葉遊びなのかと思案している風にも見えた。
「………俺には前世の記憶があって。光子は、俺の妻なんだ。…………お前は、光子の生まれ変わりなんだよ」
信じるわけがないとは思いながら、溢してしまった言葉をまさか無かったことにするわけにもいかずに、嶺は正直に告げた。
「……………うそ、そんなの、信じられると思う………?」
まあそうだよな、と頭の中で相槌を打った嶺は、麗が次から次へと涙を流していることに気が付いてぎょっとした。
「れい………?」
「だって、」
しゃくりあげるような嗚咽まで聞こえてきて、狼狽える。宥めようと思い立ち、距離を詰めた。
「光子が、オレなわけないよ。だって、オレ、今まで…………誰からもそんな風に、一途に…………あ、愛されたッ………ことが、無い……………」
ハッとした嶺は、麗を抱き締めていた。
胸が締め付けられるのは、何の為か。
嶺は胸の苦しさを無視できなかった。目の前で泣いているのは、麗か光子か………混乱した。その、涙を止めてやりたかった。
「……………嶺」
抱き締めた腕に、麗が縋る。ベッドと壁の隙間に隠すようにして、嶺のお気に入りのシャツがあることに気が付いて、一層胸に込み上げるものがあった。
「…………嶺、ねぇ。………『光子』じゃないとダメ? オレじゃ、ダメ? …………こんなオレじゃ、やっぱり誰も、…………愛してくれないのかなぁ…………」
悲痛な声は、嶺の胸を指す。
自分が、麗を……光子の魂を、こんなに孤独にさせてしまったのだと思った。やっぱり彼を一人にしておくべきでは無かったのだ。
「そのままでいいっ!」
嶺は強く叫んでいた。
グッと、更に力を込めて麗の体を抱き締めた。
「変わらなくていいっ……! 俺が」
俺が? と、嶺の奥深くの嶺が鸚鵡返しに訊いてきた。
そうだ、「俺が」どうするのだ、嶺?
「…………俺が、ありのままのお前のことを愛するよ」
麗の心が……光子の魂が、救われますように。
それは、そんな祈りを込めた口づけだった。
嶺と麗の唇が重なったのはこれが初めてではなかった。しかし、嶺からしたキスは、この夜が初めてだった。
強く押し付けるような口づけも、繰り返す内に優しく甘いものに変わる。やがて、嶺は麗を押し倒していた。
巻き付いていた布団がはだけ、顕になるのは嶺の服を纏った麗の姿だった。光子のような顔をして、身体は当然、男性のものだった。
それでも、嶺が持ってしまった熱は萎えなかった。
「嶺……」
「……麗、」
どちらともなく再び唇を重ねる。麗の腕が嶺の首に巻き付く。足を絡め、重なる。
「………好き、嶺。オレ、嶺が好き……」
「わかったから……」
深い口付けを何度も重ね、ふと、お土産の袋は何処に置いたっけ、なんて全く関係の無いことを思った。少しだけ視線を巡らせると、白のビニール袋がベッドの傍に落ちていた。
「お土産、」
「『嶺』がオレのお土産だよ」
よそ見していた顔を挟んで自分の方へ向かせ、麗が噛みつくようなキスをする。
「愛して、嶺。嶺でオレを、満たして」
真っ直ぐな麗の目に、嶺は喉を鳴らした。
(ああ、どうして。麗と光子は違うだなんて思ったんだろう)
嘗ての自分の勘の悪さを思う。目の前の彼は、確かに、光子そのものだった。
その、潤んだ瞳の奥の翳り。
本当は弱い心を必死に隠して、気丈なフリをして。
誰よりも、愛されることに飢えている。
誰よりも、嶺を求めている。
「…………其処に居たのか」
嶺はその晩、麗を抱いた。
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