第5話 堕ちる

 何てことをしてしまったんだ。と、酷い後悔に苛まれた。

 那智は嶺に合わせる顔も無く引きこもっていたが、シフトに穴を開けるわけにはいかず、講義は休んでもバイトの為に家を出る。……講義もそろそろ、夏季休暇前の試験がある。逃げてばかりでもいられない。

 今日も今日とて、シフトに間に合うように家を出た。家から程近いサンドイッチショップである。

 浮かばれない顔をして接客なんてしようものなら、店長からの信頼を裏切ってしまう。高校生の頃から働いているこの店での那智への信頼は厚かった。那智としても、オンオフのメリハリはしっかりとつけたいところであった。那智は取り繕った笑顔を貼り付け、店頭に立つ。

 このサンドイッチショップは、来店した客がまずメインの食材を選び、パンの種類を選んで、野菜の量を決める。お好みでトーストなどもする。完全にオーダーメイドと言うわけではないが、他のファーストフード店よりは客との会話が多くなる。声のトーンも意識してうんと張り切る。

「いらっしゃいませ!」

 ガーと自動ドアが開くと、常連の姿が見えた。那智よりは少し背が低いくらい。嶺と同じくらいかも知れない背丈の男ではあるが、線が細く、長い髪を束ねた姿には女かと見紛う程の美しさを持っている。

 当然、名前も知らないし、会話もマニュアルに沿った受け答えくらいなものだが、常連客というのは何と無く親しくなったような気にさせるから不思議だ。

「生ハム&マスカルポーネ、ソースはバジルで」

「パンはどうされますか?」

「いつもので」

「畏まりました」

 せっせと野菜を詰める作業に取りかかる。トマトは多め、オリーブは抜く。常連さんなので、訊かなくてもわかる。

「……ねぇ」

「はい?」

「あそこのチラシ。あれ、まだやってる?」

「チラシ?」

 ふと顔を上げると、「アルバイト募集!」とでかでかとかかれたポスターが貼ってあった。学生のようには見えなかったが、フリーターなのだろうかとまた一つ常連の情報を知れたようで嬉しかった。笑顔で頷く。

「パートさん、アルバイトさん、いつでも大歓迎ですよ!」

「へぇ。いいね。……ここで働いたら、賄いとか出る?」

「賄いは無いですけど…バイトでも社員割りが使えて、商品が安く食べられますよ」

「へぇ。そりゃいいな」

 人懐っこい顔が笑う。綺麗な人だな、と言う印象が一層強くなる。顔立ちは中性的で、きっと男にもモテるんじゃないかななんて下世話なことを思ってしまう。


 その時はその会話だけだったのに、どういう縁か、退勤後に喫茶店に立ち寄りコーヒーを飲んでいると、その男が現れた。

「あれ? サンドイッチショップのおにーさん」

 可愛らしく小首を傾げられ、また、常連さんに店以外で話しかけられることも何と無く嬉しさを感じた。那智は自然と笑顔になって、気さくに片手を上げる。

「こんばんは」

「こんばんは。……良かったら、ご一緒しても?」

「どうぞ」

 今日初めて会話らしい会話をした仲なのに、喫茶店で同席と言うのには驚いた。とんでもなく人懐っこい人なんだなぁと思うと共に、最近の荒んだ心をなんの関係も無い人間との会話で癒されていく感じがして、有り難かった。明るい彼に引きづられるように、自分の沈んだ気持ちが少し楽になる。朗らかな笑みや人のパーソナルスペースに自然と入れるその人柄が、彼の自然体なのだろうと思うと羨ましいような気もした。

「バイト終わり?」

「ええ。家が近いので、直ぐに帰ってしまわずにいつも寄り道をするんです」

「へぇ。……一人暮らし?」

「いえ。実家で」

「学生さん?」

「はい。大学の三回生です」

「オレ、霧島」

「あっ、那須川那智と言います!」

 ポンポンと出てくる簡単な質問に、リズムを崩さずに答えていく。色々と訊かれているのに悪い気がしないのは、相手が聞き上手なのか、その美貌のせいなのか。

 彼は決して那智のタイプと言うわけでは無いが、やはり、美しいと言うのはそれだけで目を奪われる。先程から、店内で女性のみならず男性からも視線を集めていることに、本人は気が付いているのだろうか? それとも、慣れか。あからさまに見られているのに、周りのことは全く気にならないようである。彼の目はただ那智に向けられていた。

 那智はどこか落ち着かず、そわそわとコーヒーカップに口をつける。

「大学って楽しい?」

「まぁ。そこそこには」

「あれ、なんだっけ? サークル? とかいうの、入ってる?」

「ええまあ……」

「なんのサークル?」

 サークルの話しになって初めて、那智は言葉を濁した。相手の男はその事に気が付いていないのか、もしくはそのふりなのか、変わらずにこにこと笑っている。いつの間にオーダーしたのか、彼の前に苺のショートケーキと紅茶が届いた。

 あまりに那智の沈黙が長かったので、美男子は一口だけケーキを食べたが、依然として聞く姿勢である。

「………えっと、その。お城……同好会、みたいな……」

「オシロ?」

「城です。殿様が建てるやつ。城」

「ああ。姫路城とか」

「はい」

 那智は何と無く気恥ずかしさを感じて、縮こまる。特にコンプレックスに思っているわけではないが、オタクくさいとからかわれることもあり、城好きを初対面に話すには気が引けるのだ。

「へぇ。いいね! オレ、あそこ好きだよ、松本城!」

 しかし目の前の美男子は飛びっきりの笑顔を見せた。

 人間、自分の興味があるものに関心を示してくれる人は無下に出来ないものである。――――というか、普通に嬉しい。

「えぇっ、松本城! 行かれたんですか!」

 もう、大興奮である。

 それからはもう、夢中で城の話をしてしまった。すっかり心を開いてしまったのだった。チョロい。……最近の、憂鬱な気分の反動もあったのだろう。

 うんうんと楽しそうに聞いて貰えるのが嬉しくて、那智は終始興奮しきって、笑顔と言うよりも真顔で語っていた。サークル内では基本的に嶺と二人だけで、後は幽霊部員だったりするので、来年度も部室を与えて貰えるのか実は結構微妙なところだ。あんなに夢とロマンが溢れるものを、興味を持っていない人間が多いと言うのが日頃から悲しいと思っていた。

 暫く気分が落ち込んでいたこともあって、那智はすっかりこの時間を楽しんでしまった。途中、自分も追加でケーキを注文した。

 すっかりケーキも食べ終わり飲み物も空になると、流石に解散の空気になった。

「……ねぇ、連絡先を聞いてもいい?」

「えっ、連絡先ですか?」

「うん。……ダメかな?」

 まるで彼女が彼氏に甘えるように、霧島はこてんと首を傾げる。いくら美人であろうと、嶺しか眼中に無い那智はドキリともせず、「構いませんよ」とスマホを取り出した。

「実はオレね、家に帰れなくってさ」

「えっ?!」

「………いやまぁ。うん、帰ろうと思うと帰れるんだけど。………まぁ、何。今、寂しかったからさ。那智と話せて良かったよ」

 連絡先のQRコードを読み取りながら、霧島は少しだけ弱々しく笑った。「家に来る?」と言うには、流石にまだ霧島のことを知らな過ぎる。

(……それに、家には麻知が居るし……)

 前から知っている人とは言え、感覚でしかその人柄をよく知らない男を、年頃の娘がいる自宅に上げてもいいものかと思案し、やはり「ダメだろう」と言う答えに辿り着く。

「………そうなんですね。僕も。霧島さんとお話しできて良かったです」

 少し気がかりではあったが、那智と霧島はそこで別れた。






 コールがきっかり三回鳴ると、相手が出た。

「………もしもし?」

 不審がる声である。

「よぉ。………元気?」

 まさか相手が出るとは思わなかった嶺は、続ける言葉をよく考えていなかった。

「…………何?」

 相手は尚もいぶかしがって、低い声を出す。

「………そろそろ、反省してる頃かと思って」

「はぁ? 何? 同情してくれてるわけ?」

「………お前、本当に可愛くねぇな」

「それはお前だろ」

 いがみ合っても仕方がない。嶺は、はぁっと大きく息を吐くことで気持ちを整え、軌道を修正した。

「お前さ、今、どうしてるの? バイトも無くなって、暇なんじゃね?」

「………オンナと居るよ」

 その返しに腹が立った。「あっそ」と言うなり通話を切ろうとすると、それを察したのか「待って」と、止める声がする。

「嘘。………まさか、お前から電話を貰えると思わなかったよ。嶺」

「………」

「嬉しい。………良かったら、今から会えない?」

「………なんで」

「………サミシイから………」


 なんで俺がそんな理由でお前に会いに行かなきゃならねぇんだ?

 と、言ってしまえばいいものを。嶺は、うっかり夜の街へとやって来ていた。

 前世ではお坊っちゃまだった嶺だが、なんの因果か現世では奨学金で大学に通い、貯金も大学生活一年目でそこそこ使ってしまったから、商店街までの交通費でもわりと痛手だったりする。今日はバイトじゃないのだ。完全に実費。

 それでも、目の前に立つ麗が弱々しく微笑んだのを見て、来て良かった、と思った。

「………本当に来てくれた」

「………お前の弱ってるツラを見に来たんだよ」

 嶺の毒に、クスッと麗が笑う。

「こういうやり取りも、なんか懐かしいね」

「………少しは反省したのかよ、ヤリチン野郎」

「下品な言い方だなぁ……」

 駅を出て直ぐの路地裏で、二人はそんな他愛ないやり取りを交わす。バイト中はいがみ合っていたり、嶺の方は麗に対して露骨に嫌悪感を表す時もあったものの、今、何も知らない人物がこの二人を見たら「仲がいい男友達」と表するだろう。

「まぁでも。少しくらいは反省したよ。……ちょっとだけ、後悔してる……」

「へぇ? 成長したじゃねぇか」

「人妻には手を出さないことにする」

「当然だろ。………飯、食った?」

「ケーキなら」

「飯を食え、飯を」

 適当にふらついて、大衆食堂に入る。嶺はカツ丼を、麗は蕎麦を注文した。暫く無言で賞味する。

 こうして会っていながら、二人はあまり仲のいい方ではない。嶺は変わらず麗を軽蔑していたし、麗は嶺が自分を軽蔑していることを知って、下手にちょっかいをかけるのでまた嫌われる……と言う悪循環を起こしていた。

 何故、嶺は自分を気にかけてくれるのだろうか、と麗は内心疑問に思う。お節介。世話焼き。偽善者。……誰かと似てる。

 思い出す。

 自分の不祥事で炎上した際、リュウの放った言葉。


『お前が誰と寝るとか別に俺は構わないけど。人妻はやめとけよ』


 胸に、深く刺さった。

 わかりきっていた片想いだったが。改めて言葉にされると辛かった。迷惑をかけてしまったことに反省すべきだと思いながらも、やっぱり、自分勝手に傷付いて家を飛び出した。―――気が付いていたんだとしても、自分がリュウ以外と寝ていることに、少しは何か……複雑な感情を抱いて欲しかった。

 飛び出してわかる。

 自分には本当に、何もないのだと。

 着の身着のまま飛び出しても困らない。唯一、ポケットにスマホが入っていたからかもしれないが。

 何も必要が無く、何も必要としなかった。女にも男にも連絡を取ることもしない。スマホを見ても、連絡先を交換しているようなセフレは居ない。当然、「泊めて」と連絡できるような知り合いはいなかった。元より、今は誰とどう過ごしても、心が埋まることはないと思った。ネカフェなどで時間を潰しながら、一人、呆然としていた。

(いや、いつだって。空っぽだけど)

 突き付けられる自分の存在意義。そんな心を、ここまで拗らせてすっかりもう、こんな年齢になった。

(………自業自得だよなぁ……)

「お前さ、今どうしてんの?」

「へ?」

 心此処に非ずで蕎麦を啜る麗に、嶺が眉を寄せて問う。

「マスター………、心配してたぞ」

「嘘」

「嘘じゃねぇよ。つーか、店に迷惑かけたんだからまずは謝るのが筋だろ。何、逃げ出してんだよ」

 すっかりカツ丼を平らげた嶺は怒気を含んだ目を麗に向けた。軽蔑しているのに構ってくるし、真っ直ぐな感情をぶつけてくる。そんな嶺に、確かに心が動くものがあった。


 それは、きっと“恋心”ではない。


 でも、いいなぁ、と思う心があった。

 嶺の傍に居れば自分も少しはまとも・・・な人間になれるんじゃないかと思った。

(…………そんな生き方も、出来るのかなぁ……)

 羨望の眼差しを向けられていることに、嶺は気が付かない。まだ何かしら説教を言っていたが、麗は何処吹く風であるように嶺には見える。少しムッとした表情をする嶺に、「素直なやつだな」と笑いたくなる。

「お前さ、なに笑ってんの」

「え? オレ、笑ってた?」

「お前ってさ、なんでいつも笑ってるの?」

 純粋な嶺の質問に、麗はやっぱり、笑顔を向けた。

「この表情が一番、円滑だからかなぁ」

「円滑? 少なくとも今は、もっと落ち込んだ顔をしておくべきじゃねぇの。申し訳なさそうにするとかさ」

「そうだよねぇ……。でも、無理矢理そうしても、ただのパフォーマンスじゃん?」

 のろのろと蕎麦を食べ終えて、さぁどうしようかなと思う。嶺を見ると、意外にも真っ直ぐにこちらを見ている目と目が合ってしまった。

「終わった?」

「ん。御馳走様」

「んじゃ、行くか」

「何処に?」

 自分家に帰るんだよ、と言われた麗は首を振った。

「リュウ……マスターから聞いてるの? オレとマスターが一緒に暮らしてること」

「そうだよ」

「あそこはオレの家じゃない」

「……んなわけねぇだろ」

「………じゃあ、まだマスターに会う準備が出来てないから、もう少し付き合ってよ」

「………」

 お会計を済ませると、麗は嶺の手を取った。ノーならノーとはっきり言う男が黙ったのだから、「イエス」と捉えた。

 まだ開いている服屋から雑貨屋、ゲームセンターや立ち飲みバー、転々とした。どの店に入っても、麗ははしゃいだ。この服が嶺には似合うとコーディネートをしてみたり、よくわからないデザインのインテリアについて考察してみたり、クレーンゲームではクジラのぬいぐるみを欲しがって三千円くらい使った。立ち飲みバーでも、話が止まらない。

 コロコロと表情や話題を変えながら手を引いて歩く麗に、嶺は着いていくのがやっとだった。

(…………やっぱり、光子とは全然違う……)

 口を閉じた時、その整った横顔には少し記憶と被るところがあったが、光子はあまり自分のことを語らない女であった。

 汗ばんでいく手が、それでも離れずに自分を引いて歩く。――――光子は、主人の後ろを物静かに歩く女性だった。

 無邪気に笑う麗の表情と光子の顔は、少しも重ならない。

 麗は、やっぱり光子とは別人だ。


「そろそろ終電じゃない?」

「あ、ほんとだ」

 あっちにもこっちにも行っている内に時間を忘れて楽しんでしまったのは、嶺も同じだった。

 麗に悟られてはいないが、嶺にも『今はまだ、考えることから逃げたい問題』があったから。そのせいもあるのだろうと思う。図らずも、よい気晴らしになった。

 嶺はスマホで時間を確認する。確かに、もう終電までそんなに時間もない。

「駅まで送るよ。それで、嶺が電車に乗ったのを見届けたら、オレも帰る」

 麗の言葉に、嶺も頷いた。

 二人はそれまでの楽しさを忘れ、並んで歩いた。もう麗は嶺の手を引いてはいなかった。つかず離れずと言うには、少しだけ距離がある。元々の二人の距離感だ。

 駅に着くと、麗はわざわざホームまで入って、嶺を見送った。

「そんじゃ、ちゃんと帰れよ」

「うん」

 少し名残惜しく感じるくらいには、嶺も麗に絆されていた。二人に足りなかったのは、お互いをもっとよく知ろうとする為の会話だったのかもしれない。

 出発のベルが鳴る。手を振ろうとした嶺だったが、あろうことか麗が一歩、電車に乗り込んできたではないか。

「よっと」

「…………は?」

「名残惜しくて、つい」

 嘘か本当か。

 目を丸める嶺に、麗はペロリと舌を出す。ドアが閉まる。直ぐそこに嶺が立っていたので、当然二人の距離は近い。電車が揺れ、よろけた麗を嶺が咄嗟に支える。

「…………どうするつもりなんだよ?」

「泊めてよ、嶺?」

 腕の中で優しく微笑みながら首を傾げる姿は、無邪気と言うよりは魔性のように思えた。




 斯くして、嶺の部屋に初めて麗が訪れた。

「ワンルームだ!」

「……貧乏苦学生なんでね。タクシー呼ぶから、すぐ帰れよ」

「帰るところなんて無いんだよ。今日は泊めてよ。お願いだから」

 しおらしく言われると、嶺もそれ以上突き放すことが出来なかった。なんとも答えずに、取り敢えず床に置いたクッションを勧めた。

「マスターとお前は、めっちゃいいとこ住んでるんだろうな」

「まっさか。此処よりずっとボロいアパートだよ」

「マジで? イメージ無いんだけど」

「築四十八年。部屋も逆剥けた畳ばっか」

「まじか!」

 麗だけ座らせて、嶺は台所でがさごそと何かしている。何かと思えば、直ぐに麦茶を持ってやってきた。

「お酒じゃないんだ?」

「図々しいな」

 手渡されたコップを受け取って、一口飲む。麗の綺麗な喉仏が上下するのを、嶺はぼんやりと眺めた。

 それからも他愛の無い話を少しだけして、やがてどちらともなく眠くなり電気を消す。二人は床にマットレスと掛け布団を敷いて並んで寝転んだ。嶺は自分が床で寝ると言い張ったが、意外にも麗がそれを許さなかった。なので、折半案として二人とも床で寝ることになった。マットレスはじゃんけんで勝った嶺が使う。代わりに、枕は麗に渡してやった。

「ふふ。なんか、楽しいね」

「何が」

 真っ暗な中、嶺がエアコンの風を最弱に設定する音と麗の忍び笑いが聞こえる。

「修学旅行って感じ」

「はぁ?」

 タオルケットを布団がわりにして、麗は俯せ、嶺は天井を見上げながら話を続ける。二人以外に誰も居ないのに、何故か麗は声を潜めた。

 真っ暗になった瞬間はお互いの顔すら見えなかったのに、直ぐに目が慣れた。暗がりにぼんやりと麗が見えるのが、嶺を不思議な気持ちにさせる。

「ねぇ。………その後、“光子”には会えた?」

「…………」

 光子の魂は、そんな無神経なことを嶺に尋ねた。

 修学旅行のテンションで、恋話でもしようかということか。

「折角今日、嶺とこんなに仲良くなれたから。嶺のこと、もっと教えて欲しいな」

 横目で麗を見ると、麗は体を転がして嶺の方を向いていた。暗いのに、その整った輪郭も、睫毛の長さもよくわかる。不覚にも、ドキリとしてしまって、嶺はその視線をまた天井へと移した。

「…………光子の話は、お前としたくない」

「なんで?」

「…………なんでも」

 それきり口を閉ざしてしまった嶺に、麗は観念してそれ以上光子の話はしなかった。それでも、すっかり口を閉じて眠る気は無いらしい。不思議と、電気を消すと目が冴えてしまう。

「嶺はオレのこと嫌いでしょ? なんで、そんなオレにも優しくしてくれるの?」

「優しい? 俺が?」

「電話くれたし。……今、こうして泊めてくれてる」

「別に。普通だろ」

「普通じゃないよ」

「困ってそうな人がいたら、人として助けるじゃん?」

「そうかな?」

 まるで、ずっと浸かっていたいぬるま湯のような心地よさが麗の心を支配する。打算も性的な要求もなく、ただ優しくされることはこそばゆい。ともすれば、若干の不安も感じてしまう。

(………繋ぎ止めておきたい……)

 麗の心に、そんな欲求が顔を出した。同時に、リュウの顔が浮かぶ。胸の奥がグッと痛くなる。

「そんなことより、明日は本当に帰れよ。マスター心配してるし。まずは、ほんとお前、謝れよ」

「……今、リュウの話はしないで……」

 え、と思わず聞き返しそうになってしまうくらい、小さくて消え入りそうなその声に、嶺は何か、決定的で大切なことに気が付くところだった。


「…………嶺はどうして、“光子”なの?」


 けれど、その麗の問い掛けに、閃きかけた何かを直ぐに手放してしまう。

 嶺は「だから、光子の話は」と不機嫌に眉を寄せたが、麗の懇願するようなその目を見て、嶺はハッと息を飲む。からかって聞いているわけではないとわかる。

「嶺は光子を『愛してる』?」

「…………ああ、」

 愛してる、と暗がりに嶺の声が響いた。囁くような声量だったのに、やけにハッキリと耳障りのいい音だった。麗は震えた。


「………愛って、何?」


 麗の手が伸びて、嶺の手に触れた。

 嶺はその手を振り払うことをしなかった。

「……オレはいつでも空っぽなんだ。『愛』は、そんなオレをいつか、満たしてくれるものなんだと思ってた」

「………」

 つぅ、と麗の瞳から一筋だけ涙が流れた。暗い部屋の中で、嶺がそれに気が付いたかはわからない。それでも、麗の声が震えていることには気が付いただろう。触れた手から伝わっているかもしれない。

「でも、きっと。空っぽなオレのことなんて、誰も愛してくれないんだろうなぁ、て……。はは、オレ、何がしたいんだろう………」

「………麗、」

「嶺、…………本当は、ずっと苦しいんだ」

 助けてよ、と麗が言った。

 身を起こして、静かに嶺に近付いた麗は、嶺の唇に触れた。



「…………オレのこと、愛してよ。嶺」



 目を丸めて動けないでいた嶺の頭に、先日の那智の言葉が響いた。


『僕で勃つ身体にしたい……』


(…………なんで俺、今……………)

 嶺の欲は、悲しげに翳る麗の瞳に、反応した。

 だって、そのは、嶺のよく知る光子のものだったから。








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