第2話 片想いしか知らない
目が覚め、スマホで時間を確認した。
カーテンから漏れる強い日差し。予想した通り、昼前だった。
女達はそれぞれ既に姿を消していた。朝にした会話がうっすらと記憶にある。先に出ると言う話だ。千恵も留美も会社員だったはずだ。朝の四時まで飲み歩いて、きちんと朝の内に起きて出勤できるなんて、女は凄いな、と思って麗はまた眠りについたのだった。
チェックアウトの時間を超過している。麗はのそのそと、まるで冬眠明けの熊のようにゆっくりとベッドから抜け出し、のろのろと服を着る。それから、洗面台へ向かって顔を洗った。
(…………腹減ったな………)
何を食べようか、一旦帰ろうか、思案している内に目が覚めてきた。
(………嶺、軽蔑してたなぁ)
バイト上がりの事を思い出し、少し愉快になって笑った。嶺にそういったところを見られるのは二度目である。
初めては嶺のバイト初日。客が一人しか居ないタイミングで、その客がトイレに立つのと合わせて「休憩」と称して少しだけその客とじゃれた。また、「見送りに行く」とやはり一人だけ来ていた客を店の外まで送って、少しだけ戯れた。それらを何故だか全部、嶺に見られたのだった。
なんで自分を追いかけて来たのかな? と思っただけだったが、客といかがわしい雰囲気になっている麗を見て、嶺は最初、傷付いた顔をしていた。
それが直ぐに“嫌悪”に変わるのが、何と無く愉快だった。―――この世界に入って、あまり向けられなくなった眼差しだ。嶺の目は的確に今の自分を見ているのだろう、と麗は思う。皆、不思議とどんな自分でも愛でてくれては抱き合った……顔がいいからだろうか? 否、きっと、都合がいいからだ。そう思うと、また笑いが込み上げた。嶺はどうも様子が違う。
(どうして傷付いた顔をした?『光子』と関係してる?)
思案は尽きず、ホテルをチェックアウトして外を歩いている間も続いていた。
嶺に初めて会った日の事を思い出す。思い出さなくても、ついこの間の事だ。
「逢いたかった」と言った。自分を「光子」と呼び、泣いた。そうして抱き締めてきた。強く。
その突然の抱擁に、驚くことしか出来なかった。彼が愛おしく呼ぶ名前にはまるで縁がないものだった。
―――――羨ましい。
と、感じた自分に、自分の深層心理をさらけ出されたと思ったのが……少し、悔しかった。
『…………何? オレに気があるの?』
お得意の軽口が漏れる。艶があるが、軟派な声だ。
『…………』
しかし嶺はなんの反応も示さなかった。
『………もしかして、まだ泣いてる?』
微かに震える肩から、麗は冗談のつもりで訊いた。ぎゅっと抱き締める力が強くなったかと思うと、意外にもすんなりとその体は離れていった。
『…………急に、すまん』
その顔をまじまじと見る。初対面。知らない顔で間違いない。頬はもう濡れていなかったが、目は充血していて潤んでいた。ああきっと、オレのベスト、凄く濡れてるんだろうなぁと麗は確信した。
『……オレ、麗。残念だけど、光子じゃないよ』
『………うん』
光子じゃない、と言う言葉にサッと目の奥が翳る。今にもこぼれ落ちそうな水滴が目の中一杯に広がるが、何とか唇を結んでこらえている。努めて無表情でいるその顔は、胸にクるものがあった。
だから、優しさのつもりで訊いた。
『光子じゃないけど、オレ、そんなにその子に似てる? 慰めてあげようか?』
『………………は?』
そこからだっただろう。嶺が、みるみる自分を嫌悪感の溢れる目で見るようになったのは。
それなのに、チラチラと感じる視線には恋心のような感情を感じた。
そんなに似ているのか、光子と言う女と自分は。
そんなに複雑な感情を持ってまでも、自分の事を放っておけない嶺の事が麗は愉快だった。
(期待するから傷付くのに。バカだね、嶺は。オレに何を期待しているんだが)
ふと目についたファストフード店に入った。わりと好きな店で、バケットに好きな具材をオーダーして入れてくれるサンドイッチの店である。全国から少しずつ姿を消していると聞いて密かに悲しんでいた。それから、見付けたら入店するようにしていた。
店内は程よい冷房が効いていたが、涼みにさえ客が来ないのか、昼前だと言うのにガラガラだった。店員と麗と、後は女性客が一人。空いてる席が目立つのは、店と全く関係の無い麗でも、何と無く寂しい感じにさせる。
注文を済ませ適当な席に座った麗は、その美人な顔立ちに似つかわしくない大口を開けてサンドイッチを頬張る。野菜のシャキシャキとした歯応え。玉ねぎのドレッシングの香りが広がる。
こんなに美味しいのになぁ、どうして流行らないのかなぁ、と麗の思案はすっかりこのサンドイッチ店の経営についてのものに刷り変わっていた。
(やっぱし、大口開けなきゃ食べれないからかなぁ? カットサービスとかあったら流行る? お値段がちょっとするから、学生に流行らないのが痛いのかなぁ……)
学生に流行る、と言うのはもっとも大事なことだと思う。ファストフード店なんてその最たるものだ。学生の影響力はどんな時代だって凄い。経済を動かすのはいつだって彼らだ。………けど、例えば、麗の働くバーのように。大人だけの、隠れ家のような……特別感さえあれば、また違うだろうとは思う。
(高い商品を如何に適正な価値だと思わせるか、だよなぁ……)
例えば、oblioのテーブルチャージ料は平均よりも割高で千五百円だ。けれど、常連は変わらず常連だし、自分達もそれに見合うサービスを提供していると麗は自負していた。百円のコーラだって千円で売ることが出来るのだ。
付加価値に着目すれば良いと思う。
はて、何について考えていたっけ? と麗が当初の思案について思い出したのは、すっかり腹を満たして自分の借りているアパートの鍵を開けている時だった。
夜を彩るきらびやかなバーの世界とはまるで正反対。築四十八年。二階建てのボロアパートである。
がちゃり、と音を立てて開く扉に、反応する者がいた。
「まぁーた、朝帰りかよ。麗」
「………」
リビングに入るなり、柄シャツに柄のハーフパンツスタイルのチャラい男が座椅子に座ったまま麗を仰ぎ見た。
畳に置かれたローテーブルの上の灰皿には吸殻が一杯になっている。部屋も白っぽく、煙たい。
「………チッ」
「あ、くそ、おーい! 麗ちゃん、今舌打ちしたでしょ!」
「換気しろって言ってるだろ、学習能力無いのかよ、リュウ!」
スパーンと勢い良く窓ガラスを開ける。逃げ場を失っていた煙達が、外へと逃げていく。が、勿論そんなことで染み付いた臭いは消えない。
「加齢臭最悪な上、アル中のヘビースモーカ。行き遅れ男とか、ほんっと最悪」
「ぅええ? 言い過ぎじゃね?」
なんかめっちゃ不機嫌じゃない? と涙なんて出ていないくせ、リュウは涙を拭う真似をした。ジュッと灰皿に煙草を押し当てる。
「アレだろ? 生理?」
「オレ、男だけど? 殺そうか?」
「冗談じゃーん! 麗ちゃんったら物騒だなぁ~」
リュウはケラケラと笑いながら、窓際をキープしていた麗の直ぐ後ろに立った。かと思うと、そのまま麗を後ろから抱き締める。
「…………何の真似?」
「んー? いや、反抗期かなぁーって。ハグよ、ハグ。なんだっけ? オキシトシン? とか、出るんじゃね?」
「臭い。寄るな」
「ひッでぇなあ~。俺だって傷付くこともあるんだぜ?」
暴言を吐くくせ、麗は抵抗らしい抵抗を見せなかった。リュウの軽口にも何の反応も示さない。
少しの間、二人の間に沈黙が落ちる。
「……………リュウ、オレさぁ。いきなり新人任されるし、ずっとopen~lastまででさ。めっちゃ疲れてるんですよね」
「おー。そうだなぁ~。よしよーし! 麗ちゃんはよく頑張ってるよぉ~」
近距離のまま、リュウはわしゃわしゃと麗の頭を撫でた。二人の背丈はそう変わらないのに、リュウはまるで子供のように麗を扱う。
麗は、ぶすっと不貞腐れてまた小さく舌打ちをした。
「…………いつもの、頂戴よ」
「…………うん?」
「…………だから、“いつもの”やつ!」
麗はリュウの柄シャツの襟を乱暴に掴んだかと思うと、自分の方へ引き寄せた。
バランスを崩したリュウと、麗の唇が触れる。触れたかと思うと、直ぐに麗の舌先がリュウの唇を割って入る。リュウもそんな麗をすんなりと迎え入れ、舌を絡み合う。
「……………はぁ、麗ちゃんってば、ほんとお盛んね」
しっかり味わってから、リュウはそんな溜息を溢した。先程の濃厚なキスなんて無かったかのような、普段のおちゃらけた感じが麗をまたカチンとさせる。
もう一度麗の手がリュウのシャツを掴もうとしたが、その前に麗のシャツをリュウが掴み、引き寄せていた。唇だけではなく体同士がしっかりと密接する。
「…………ふぅ、」
また暫し、濃厚な口付けを交わし合う。唇を離せば、直ぐに麗は切なそうな顔になる。
リュウはそれを見て、やっぱりケタケタと笑う。
「麗ちゃんは何歳になっても、可愛いね」
確かめ合うような愛なんて無いのは二人ともよくわかっているのに、二人はそのまま、畳の上に倒れた。
******
リュウが親代わりになったのは、麗が中学二年の時だった。
麗の母親の弟にあたるのがリュウだった。
麗の母親と父親は既に離婚しており、男狂いの母親は常に麗に関心を示さなかった。たまたま状況を知ったリュウが麗を引き取ったと言うのが大体の経緯である。親代わりとはいえ、戸籍を移したわけではない為、麗の『親』と言うわけではない。
当時、リュウは二十四歳だった。
リュウは既にバーテンダーとして高級クラブで働いていた。
まだ表立って酒を飲むことが出来ない時期から酒の作り方を覚え、若くしてバーテンの道に進み、様々なコンテストで賞を獲得した。注目も知名度もあり、そこそこの収入もあった。それに加えて、リュウは意外と倹約家で、貯金もしっかりとあったわけである。―――だからとは言え、まだ二十四歳だ。十しか違わず、しかも難しい年頃になる麗を一つの迷いなく引き取るというのは、なかなか常人には真似しがたいことである。
偽善者、と荒んだ心を持つ麗は思った。
でもどんな理由があっても間違いなく、リュウは麗にとって救いの神だった。
衣食住の保証ーーーそんなことよりも、麗を救ったのは自分に向けられた多くの「会話」だった。
マザー・テレサの遺した言葉で『愛の反対は憎しみではなく無関心だ』と言う言葉がある。まさしくその通りだなと彼女の偉業を授業で簡単に習った時に、麗は思った。
麗にとってリュウは、初めて自分へ“関心”を向けてくれる大人だった。
また麗にとって、リュウが世界の全てになるのにはそう時間がかからなかった。
麗の知らなかった様々な世界、感情、物の考え方、その全てを、麗はリュウから学んだ。
敬愛は、やがて思慕に変わった。それさえも必然のように思う。
ただ一点、誤算があったとすれば、それは二人が『相思相愛』ではないというところだろうか。―――――否、麗が思っている程リュウも、“完璧な人間”じゃなかったと言うところだろう。
「…………腹減ったな。麗、飯」
「…………」
「寝たふり止めろよ。起きてんのわかってんだぞ」
畳から布団へ移動した二人は暫し、互いを貪り合った。が、事が終わるとやはり何事もなかったように、リュウはお腹を鳴らした。身を起こした彼は、さっさとゴミを片付け、服を着る。
「チャーハンがいいな。うん。チャーハンの気分」
「…………自分で作れよ」
「つれないな、麗の作ったチャーハンが食べたいんじゃん。あ、先にシャワー浴びる?」
リュウの軽い調子に、布団の上に横たわったままだった麗はやっと身体を起こした。腰を擦りながら、リュウを睨む。
「………クズ。下手くそ。痛いんだよ……」
「えー? 嘘だなぁ。あんなに良さそうだったくせにぃ~?」
ケタケタと笑うなり、リュウは煙草に火を付けて玄関から出て行った。事後、やっぱりリュウは煙草に火をつけるが、普段はまるで気にしないくせに、この時ばかりはいつも部屋から出るのだった。
「………………糞野郎……」
リュウが麗を抱くのは、リュウの“贖罪”だ。
麗は勿論、その事を理解している。
麗は痛い程、理解している。リュウは決して自分を好きにならない。けれど、つけこむ余地があるから。こうして時々、誘っては抱かれた。
汗をかいた肌が冷房の冷気で冷やされ、麗は自分の身体を抱き締めた。
好きな人と暮らしているのに、歳を取る度に増すのは孤独感ばかりだった。あとはそう、虚しさか。
心だけがいつも、ぽっかりと満たされない。
事後のリュウの煙草は長い。飄々と見せている実、恐らく、様々な感情と折り合いをつけているのだろうと麗は予測している。
(……………ざまぁみろだ)
心の中では悪態を吐きつつ、簡単に汗の処理を済ませた麗は、元着ていた服を着て台所に立つ。
チャーハンを作るべく、冷凍庫からいつ炊いたかわからない米を取り出すのだった。
******
その晩も女を抱いた。
嶺に初めて酒を奢った客・千恵だ。
年増のくせして、凄い性欲だな。と内心では思いつつ、にこやかに笑ってみせる。求められるままに、抱く。
この行為に意味があるとすれば、『思考の停止』。ただ、それだけだ。
千恵は珍しく隣で眠っていた。大体、事後はさっさとシャワーを浴びてホテルを出るくせに。今日はどうやら疲れているらしかった。
規則的な寝息を立てながら裸で眠る千恵を、麗は何の感情も無く見つめる。程無くして、急に空腹を感じたので、「今日はオレが先にホテルを出てみようかな?」なんて閃いた。
が、抱いた女を置き去りに、しかも挨拶もせずにホテルを後にするなど、紳士―――バーテンダー・麗、のすることではないだろうなと思い直す。
仕方無しに身を起こし、シャワーを浴びることにした。
シャワーに全身を打たれながら、空腹のせいか考えていたのは例のファストフード店でした思案のことだった。
(オレも付加価値の塊みたいなものだ)
シャンプーをするでも、身体を石鹸で擦るでもなく、麗はただただ思考した。
『
いつもにこやかに笑うその笑顔の下で麗がこんな
麗は、リュウ以外に誰にも興味がない。
そのくせ、『誰か』無しでは生きられない。
演技し、騙し、時に騙されたフリをし、好きなように抱かれ、又は抱き、そうしてこっそりと利害を一致させては快楽に溺れる。それ無しでは、もう自分を保つ術を知らなかった。
『バーテンダーの麗』は、美しく気さくで、軟派者。誰でも抱くし、誰にでも抱かれるが、恨まれない。そういうキャラクターで成り立っている。バーテンダーという職業も多少は免罪符になっているように思う。
抱かれようとする者達は、大体皆、本気ではない。
彼氏が居たり彼女があったり、子供が居たりする。皆、都合がいいので、麗と寝る。
麗は勿論、そんなことに一々孤独を感じたりしない。
麗を孤独にさせるのは、世界でたった一人しかいない。
はあ、と息を吐く。
身体が充分過ぎる程温まってやっと、麗はボディーソープに手を伸ばした。
(……………光子)
喉につっかえた魚の骨のように。いつも唐突にその名前が頭に出てきては、もやりとする。
自分を見て泣いた二十歳の男のことを思う。
光子ってどんな女なのだろうか。
嶺はそんなにその女を愛しているのだろうか?
愛って、なんだ?
「…………ふふ」
黙々と泡だらけにした身体を、またシャワーでさっと流す。
「………なぁんか、疲れたなぁ……」
自分が本当に“光子”だったら。
こんな惨めな思いを知らなかったのだろうか。
ただ一人に真っ直ぐ愛されることを。
自分の愛が実った時に感じる幸せを、麗は知らなかった。
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