【BL】この夜が明けても

将平(或いは、夢羽)

第1話 最悪な再会

 生まれてきた日。

 その孤独に泣いた。

 その頼りなさに泣いた。

 傍に君が居ないことに泣いた。

 自分が生まれ変わったと知った時、現世でも、必ず君に会おうと誓った。



 歳を取っていく度、可能な限りあっちこっち探したが、手がかり一つ見付からなかった。

 もう会えないのかと思うとまた、どうしようもない絶望と喪失感が押し寄せてきた。

「会いたい」が募る程、苦しさが増す。


ーーーーーいっそもう、忘れてしまおうか。


 そう思って、縁も所縁もない大学を受験した。

 もう俺は、今の人生をただ生きていこうかと、そう思っていた矢先の出来事だったのだ。

“彼”と再会したのはそう、きっと、諦めてしまいそうだった俺の心を、神様が押してくれたに違いない。



******




 電話があったのは、約束の時間のほんの二十分前だった。

「あー…もしもし。比良野君? 悪いんだけど今日さ、俺、店に出られなくなっちゃってさ」

 少しも悪びれない声音から、相手の軽率さが伺い知れる。その「店を出られなくなった」理由と言うのも、どうせしょうもないことなのだろう。

 けれど、電話を受けた彼――比良野嶺ひらのみねは夏の夜の蒸し暑さとは違う汗を額から滑らせた。

「えっ! じゃあ、休業ですか……?」

「いやいや、代わりの奴がいるから。悪いんだけど、そいつに色々と教えて貰ってー」

 じゃ! と電話は一方的に切れた。

 嶺は通話終了画面を映すスマホを暫く見詰めてから、肩に掛けていたトートバッグにそれを仕舞った。

 取り敢えず交通費が無駄になら無かったことに安堵し、ふぅと溜息を吐く。気を取り直して顔を上げると、まだ見慣れない夜の商店街に改めてドギマギとした。「無料案内所」の看板が明るいことに、いっそう緊張する。ただ店の前を歩いているだけなのに、何かやましいことをしてしまった気持ちになる……。嶺が夜の商店街に来るのはこれで二度目になる。

 ガヤガヤと賑わう光を背に、そそくさと路地裏を曲がる。自転車がやっと行き交う事が出来るような小道の右手に、目的のその店は、ひっそりと佇んでいた。


 bar・oblioオブリーオ


 三階建て程度の雑居ビルが並ぶ中、黒塗りの外装は夜闇の中でさえも寧ろその存在を強調する。オレンジ色のライトが、ステンレスを加工して作ったのであろう店名を灯す。

 扉にはclosedの札がかかっていたが、取っ手を握って引けば扉は難なく開いた。カランカランと来店を知らせるベルが鳴る。

 中はまだ暗かったが、奥の方から明かりが漏れていた。それに、冷房の風が直ぐに嶺の身体を冷やす。

 その冷気にホッとしつつ、気を取り直して奥へと声をかける。

「………あの、すみませーん」

 声は良く通ったが、人は居ないのか何の返答もない。物音一つしなかった。トイレだろうか? どんな人がマスターの代わりなのか……。

 嶺は緊張の面持ちを更に堅くさせて、おずおずと中へ踏み入った。

 真っ暗な店内に、横に長いバーカウンターや逆さまに吊られているグラス。壁一面に様々な種類のお酒が並ぶのが圧巻だった。

 明かるければどんな雰囲気になるのだろうか。面接は裏からスタッフルームへ入ったので、明るくなった店内のことをよく知らない。想像したそこは、あまりに好みにドストライクな空間過ぎて、自分に勤まるのか、と言うよりも、そこで今日から自分がバイトをするのだということに、高揚感が高まっていく。

「すみませーんっ! 今日からバイトさせて頂くことになった比良野嶺です!」

 今度は先程より大きな声が出た。すると奥から人の気配がした。足音が近付いたかと思うと、明かりから覗く顔があった。

「はーい?」

「っ!」

 その人物と目が合った瞬間、嶺は息の仕方を忘れた。その顔がとても整っており、切れ長い目が女性的だったからとかではない。

 嶺の驚きなど露程も気が付かずに人影は近付いて来る。暗がりでもわかる程の美形。それでいて、どうやら嶺よりも少しだけ背が高い。

「ああ。マスターから聞いてるよ。比良野くんだよね?」

 朗らかに微笑むその顔も、その、男性にしては少しだけ高い低音も、すべて初めて出会ったはずなのに。嶺はその懐かしさに目の奥が痛くなったかと思うと、じわじわと込み上げてくるものがあった。

 ああやばい。と思った時には既に遅く、涙が溢れたかと思うと直ぐに頬を伝い落ちた。

「えっ、どうしたの?!」

 ギョッと目を見張ったその人はどうあっても「初めまして」であるのに、嶺は“その言葉”を伝えずにはいられなかった。

 嶺は、そっとその名前を溢した。


「………逢いたかった………“光子”」


 コウコ? と訝しげにその人物は眉を潜めた。けれどもう、そんなことはどうでもよかった。

 気が付いた時には、嶺はまだ名前も知らないその男の事を強く強く抱き締めていた。





******





「光子さんに会えたって、本当ですかっ?」

 月曜日の二限は空きコマだった。

 嶺は一限が終わるなり、急いでサークルの部室へ向かった。そこには、同じく月曜二限が空きコマである那智なちが待ち構えていて、嶺が扉を開けるなり、那智は逸る気持ちのままに半ば叫ぶように問う。

「やっぱり美人でしたかっ?! 記憶ありましたっ?! そもそも何処で出会ったんですかッ?!」

 返事に困って「う、」とたじろぐ嶺にも気付いた様子もなく、那智は矢継早に質問を重ねた。嶺は、グイグイと迫る長身を右腕一本で押し退ける。

「那智、ハウス」

「……くぅん……」

 百七十センチの嶺よりも十数センチは大きそうな身体が、嶺のその台詞によってすっかり縮こまった。

 狭い部室を少しでも広く使えるようにと、床一面は後から畳が敷かれている。六畳程の部室の、その丁度真ん中で正座をし、小さくなっている巨体と言うのはなかなかに面白いものがある。しかし主である嶺は、両腕を組みながらも少し不服そうに笑った。

「素直に従うなよ、ばか」

「ううう、だって………嶺さんの命令だから……」

「そういうのやめろって、那智先輩」

「う、那智『先輩』はやめて下さいよ……」

 だってセンパイじゃん、とニヤニヤと笑う嶺に、「僕が嶺さんの先輩だなんて……」と、那智はますます身体を小さくさせた。

 嶺は大学二回生。那智は大学三回生。

 二人は確かに、サークルの先輩後輩関係にある。また、嶺が浪人していると言うことも無く、歳は確かに嶺が二十歳はたちで、那智が二十一だ。因みに、彼らの出会いは一年前の春。嶺が大学に入学し、このサークルへ訪れた時である。

 嶺は靴を脱いで畳の上に上った。どかり、と那智の直ぐ隣に腰を下ろす。

「……光子、じゃ無かったよ。あんな奴……」

「え?」

 冗談の空気から急にシリアスな空気になるので、危うく那智はその言葉を聞き落とすところだった。慌てて、嶺の方へと体を向ける。嶺は真っ直ぐ前を向いていて、那智の方を向いていなかった。それでも、「それ、どういう意味ですか?」と、それで終わりそうだった会話を拾い上げた。

「人違いでした?」

 嶺は首を横に振る。

 那智は首を傾げた。

 光子について、記憶を巡らせるーーーまでもなく、よく覚えている。長い黒髪を上手に束ねて、しずしずと歩くお淑やかな女性。普段はあまり表情に機微を感じる事はないが、時々その口元に手を添えて笑うような事があった。その姿は、可憐と言うよりは、優美であった。

 大層美人な女だった。それでいて、傲らず、主人想いな妻でもあったと思う。旦那であるその人も、いたく光子を愛していた。その愛を、一心に受け止めていたはずなのに、何処までも謙虚であった。ーーーー羨ましい、と、思っていた。

「………魂は光子だけど、………男だった………」

「えっ」

 金槌で横からこめかみを殴られたような衝撃を覚えたが、そんな那智に嶺は気が付かない。

「………それでも出逢えたから、それで、舞い上がって、お前にメッセージ送っちゃったけど………、あ、バイト先の先輩でさ……」

「ま、待って……! 待って下さいっ! ストップですッ! 嶺さんっ、バイト始めたんですかっ?!」

「え? あ、まあ。……言わなかったっけ?」

 そこ? と嶺がやっと那智の方を見た。出端を挫かれたような顔をしていたが、那智は構わずに「聞いてませんよっ!」と嶺を詰った。

「何処で何するバイトですかっ?! 店の名前はっ! 次のシフトはいつですかッ!」

「待て。待て待て、お前はいつも、そう矢継早に質問を重ねるな……」

 嶺は、グイグイと前のめりに迫る那智を顔の前で両手を向ける事でガードする。と、那智の向こうに転がっていたエアコンのリモコンに気が付いて、身を乗り出した。

 那智に抱き付くようなモーションになり、驚いた那智は体を硬直させた。

「っ…!」

「あ、わりぃ」

 触れないように配慮したはずが、左肩が那智に触れてしまったのを謝った。エアコンのリモコンをクーラーに向け、温度を二度下げてリモコンを放り出しても、那智はそのまま固まっていた。

「? …………那智? 那智先輩?」

「…………だから、『先輩』はやめて下さいって……」

「お前時々、心此処に在らず、みたいになるじゃん。何?」

「………気にしないで下さい。瞑想してるんです」

「そんな、突然?」

 ふはっと嶺が笑った。那智の顔がかぁっと赤くなる。アホなことを口走ったと、自分の発言に羞恥しての事かと思った嶺は、尚のこと笑った。

「はぁー、お前、なんか現世では面白い奴だよな。ところで、腹減らね? そろそろ学食行くか~」

 笑い終わった嶺がスクッと立ち上がると、那智は慌てた様子で嶺を見上げた。

「えっ、あ、まだ嶺さんのバイトの話聞けてないですよっ! 生協で弁当買って、此処で食いましょうよ!」

「光子の話じゃなくて、俺のバイトの話?」

 また目を細めて笑う嶺を、那智も目を細めて、眩しそうに見上げていた。




 嶺が卵とじカツ丼、那智が日替わり弁当と味噌汁を二つ買って部室に戻ると、部屋は冷え過ぎなくらいに冷えきっていた。

「さぶっ…!」

「え? 丁度よくね?」

「嶺さんは相変わらず、夏は暑がりの冬は寒がりですよね」

「そうそう。ワガママボディーなのよ、俺」

「………」

 ごくりと生唾を飲んだ那智に気が付かず、「なんか言えや」と嶺は隣に立つ那智に軽くパンチし、先に畳へ上がった。やっぱり畳の中央辺りにドカリと腰を下ろし、胡座をかいて生協の袋から使い捨ての丼を取り出す。

 那智も遅れて畳に上がり、部室の端っこに置いてあるケトルを取り、洗面台で水を入れてコンセントを差す。

 そこでやっと嶺の隣に腰を下ろして弁当を取り出した。生協にある電子レンジで温めているので、容器が程よく温まっていた。

「bar・oblio、と」

「行儀が悪いぞ」

 那智は弁当を食べながら空いている左手でスマホを操作し、嶺が始めたバイト先の情報を早速収集し始める。

「あっ、めっちゃ雰囲気あるバーじゃないですか!」

「だろ?」

「此処で嶺さんがバーテンを?」

「似合うくね?」

大変善きですっ!!」

 那智に行儀が悪いと指摘していながらも、始めたバイト先を褒められ、羨望の眼差しを向けられると、嶺も得意顔でにやにやと笑う。那智は一通りホームページを閲覧すると、口コミの検索に移った。

 と、ケトルでお湯が沸け、一旦作業を取り止めて味噌汁二つ分にお湯を入れた。

「二個も飲むの?」

「一個は嶺さんの」

「俺の?」

 目を丸めた嶺だったが、「そろそろ、冷えてきたでしょう?」と図星を突かれ、破顔した。

「いつも冷房の温度下げ過ぎて、仕舞いにはくしゃみするでしょ」ーーー那智が味噌汁を渡しながら言う。

「よく分かってらっしゃる」ーーー笑い顔のまま、嶺がそれを受け取った。

 那智は満足げに笑って、弁当を食べる事と検索を再開した。

 口コミは軒並みの高評価。店の雰囲気を絶賛する投稿が多い中、同じくらい、バーテンのかっこよさについての熱いレビューも目立った。

「……女性のバーテンはいないんですか?」

「え? さあ、どうだろ。マスターとあいつしか顔知らねぇや」

「あいつって、光子さん?」

 嶺が光子のことを「あいつ」とそうやって忌々しげに呼ぶことが意外で、那智は首を捻った。嶺がバイトを始めたことやそれがバーだったことについ、焦点を当ててしまったが、そう言えば本題はそっちであった。

 レビューにまた目を移す。マスターはイケオジで、あとはカッコいい若いバーテンが二人。基本的には、マスターとバーテン一人が日替わりで、カウンターは二人で切り盛りしていると書いてある。

 麗美なバーテンダーの名前がれい。もう一人は、一番新しいレビューで「最終日」と書いてあるから、もう辞めているようだった。

「………レイ」

「………なんで、名前……」

「レビューに名前が」

「………」

 麗目当ての客もかなりいるようで、そうだと知ると、「麗」と言う名前が出てくる書き込みばかりなのに気が付く。

「はぁ……かなりモテるみたいですね、光子さん」

「……光子じゃない」

「麗、さん」

 不服そうな顔をする嶺に、那智はその心情を考察した。やっと巡り逢えた光子の魂だ。そうして巡り合った二人は、きっとまた恋に落ち、結ばれるものだと、そう思っていた。那智よりもきっと嶺の方が強く、そう確信していただろう。

(………過去の恋愛だったと割り切って、新しい恋に、とか?)

 那智は知っている。嶺は、今も昔も、ノンケである。

 如何に光子の魂を持っていたとしても、男である。嶺は“光子”を諦めるだろう。それはそうだろうとしても、その嫌悪のしようは、「光子の現世が男だった」と言うだけでは説明がつかない気がした。嶺は理不尽な男ではない。性別なんてこちらが選択できないものを、麗の非にして怒るような人間ではないはずだ。

「……なんで、麗さんは光子さんじゃないんですか?」

「あ?」

 変な言葉選びをしてしまった那智に、嶺はやっぱり怪訝な顔をした。丼はすっかり平らげており、味噌汁を飲みきった後だった。

 割り箸の入っていたビニルから爪楊枝を取り出しながら、嶺は不自然な無表情でその理由を語る。

「……男だったのは、別にいいんだ」

「……ええ」

「恋人は駄目でも友達になれたかもしんない。けど、あいつは、その可能性すら無い」

「何故?」

 一呼吸分の沈黙。

「………見境無い、タラシ野郎だからだっ!」

 そこで嶺の無表情は崩れ、嫌悪が顔に出た。那智は面食らって目を瞬いた。割り箸で掴んでいた卵焼きが、箸ごと落ちる。

「え、あ、………え?」

「とんだヤリチン野郎だ」

「…………え?」

「あいつが光子なわけ、無い!」

 魂が光子でも、記憶が無いならそれは別人だ。と、嶺は結論付けたらしかった。

 那智は狼狽した。気高い光子と、ヤリチンと言う言葉は確かに結び付かない。とんでもない女ったらしで、嶺にこれだけ嫌悪されているのだ。万が一にでも、嶺がまた光子の魂を好くことは無いのだろう。そこでやっと、那智は安堵した。

 否、その安堵にきっとどれ程の意味もない。

「………あ、そう……だったんですか。えっと、」

 嶺の感情を量る。

 かつて自分が愛で、愛し合っていた妻が、ーーー男に転生していたとはいえ、ヤリチンだったとは………浮かばれない。それは、憎らしくも思うだろう。彼女の魂を汚されたと、恐らく、そう思ったのだろう。

「………那智は、」

「はいっ?!」

 言葉を選んでいる内に、嶺がポツリと言葉を落とした。

「………那良之助ならのすけ

「!………なんでしょう、嶺蔵みねぞう様」

 他に誰もいないことを良いことに、互いしか知らぬ、懐かしい名前を呼び合う。

「お前には、記憶があって良かった」

 深い安堵のような、それは、寵愛と変わらぬ言葉だと思った。優しい顔で、嶺が言う。

 那智は涙こそ溢さなかったが、その感動の表し方を決めあぐねていただけで、内心では歓喜に叫んでいた。

「……いつまでも、お供しますよ。例えそれが、時代を越えたとしても」

「ふ、」

 嶺はまた笑った。今度は、先ほどの柔らかい笑みではなく、口元を不敵に吊り上げる。

「……して、次のシフトはいつですか、嶺さん」

 コロリと空気感を変えて目を輝かせる那智に、嶺はガクッと肩を下げた。

「………今日、だけど……」

「絶対行きますね!」

「いや、来んなよ」

 念押ししたが、さて、どうか。






 カランカラン。

 ベルが鳴る度、ハッと扉の前に立つ客の顔を見て、ホッと胸を撫で下ろす。

「どうしたの? 君を追い掛けて、オバケでも来店する予定があるの?」

「んなわけねぇじゃん」

「はー、可愛くない餓鬼」

 端麗な顔立ちの男が眉間にシワも寄せずに言うと、クスクスと女性達の笑い声が聞こえた。ハッとそちらに目をやると、直ぐ目の前に座っている女性の二人客が忍び笑いをしている。

「麗のそんな声、初めて聞いた」

「ねー! 素の麗って感じで、いいね。よくやった、新人クン!」

 パチパチと訳の分からぬ称賛の拍手を受け、嶺は戸惑った。

「ふふ。早速受け入れて貰えて光栄だけど、嶺くん、言葉遣いは気を付けてね」

 そこに、オーバーオールのイケオジが現れる。ひぇっと、女子達が息を飲んだ。確かに、バックには薔薇を背負っているような色気が漂っている。それが、狙っているわけではなくて滲み出ているのだ。胸元がはだけているわけでもないのに。渋さが増す程、色気になる。理想的な歳の取り方である。

「………マスター」

 貴方ハ誰デスカ、と“営業スタイル”のマスターを見た瞬間の第一印象はそれに尽きた。面接の時のチャラついた雰囲気とまるで違う。オンオフをきちっと分けるタイプなのだろう。……分け過ぎて、狂気のレベルである。

「リュウさん、昨日居なかったですね」

 俺がマスターに向かって文句の一つでも言う前に、女子達がキラキラした眼差しのままにマスターに話しかけた。此処では麗の方が軟派なので、如何に端正な顔立ちをしていたとしてもお高く止まっておらず、マスターの方が喋れたらラッキーなレアキャラのようだった。

「ええ。ちょっとドジっちゃってね。そんなことより、昨日も来てくれたんだ? いつもありがとね」

 にこり、と女騙しの営業スマイルである。女子達の内心の歓喜の悲鳴が聞こえてくるようだった。

「マスターは本当に突然過ぎる。新人教育から全部、昨日はオレが一人で回したんですよー」

 麗が作ったジト目でマスターを見る。普段のチャラいモードのマスターなら「あーごめんごめん! 助かったわ!」とへらへらと笑ったのだろうが、仕事モードのマスターは「ふふ」と品のいい笑い方をして、「本当に、麗にはいつも助けられてるよ。ありがと、ね」と柔らかい微笑みを浮かべた。小首なんて傾げてみせる。

 意外にも、麗はそれ以上の苦言を言わなかった。嶺のように、「うげぇ」と思ったのかもしれない。

 その心情を確かめる為に嶺は麗の方を見たが、麗は何故か仏頂面であった。

 カランカラン。

 ベルが鳴り、マスターを含むバーテンダーはこぞってそちらに注目した。「いらっしゃいませ」と、雰囲気を壊さない程度、けれど勿論、入り口のお客様に聞こえる大きさで声をかける。

 遂に知人が訪ねてきたのかとドキッとしてそちらを見たが、今回もよく見知った姿の客では無くーーと言うか、那智では無く、ーー嶺はホッと胸を撫で下ろす。

 新規の客は白髪のご老人だった。しかし、その品の良さは着ているスーツからも窺い知れる。明らかに、嶺が接客するには不釣り合いな客だった。

 目の前の女性達に断りを入れ、マスターがさっとその老人の座る席の前へ移動した。直ぐに談笑を始める。常連客なのかもしれない。

「はぁー。ほんっとこの空間、癒されるわー。新人クン、カクテル作れる?」

 その老人が座るまでの一連の流れを静かに見守っていた嶺は、そこでまた目の前に座る女性客達へ目を移した。

「え、あ、いや……」

 カラになったグラスをコトリとカウンターに置いて、バッチリめかし込んだ女が嶺を見る。目力が強い。真っ赤に引かれた紅にドキドキとしてしまう。

「正真正銘、昨日からだから。まだ無理ですよ、千恵さん」

 麗が朗らかに笑って答える。

 今日、彼女達は自己紹介をしていなかった。名前を知っていると言うことはそれなりに常連なのか? 嶺は麗をまじまじと見た。ーーーー見て、その横顔の美しさに目を背けてしまった。

「えー? でも、練習してるんでしょ?」

「えっと、……オープン前に、少し」

「じゃ、私ので練習していいよ。テキーラ・サンライズで。ついでに、新人クンのバイト記念に一杯おごるよ。何が好き?」

「え、あ、えーと……」

 こういう場合どうしたら良いのか分からなくて目が泳いだ。最終的に麗の姿を捉えて、「どうしたら?」と目線で問う。麗はにこりと営業スマイルを浮かべて、「千恵さん、ありがとうございます」と目の前に座る千恵にお礼を述べ、それから嶺の方を向く。

「良かったね、嶺」

 そこで、お客さんからのご厚意は受けていいのだと認識した。

「じゃあ……ジントニックで。ありがとうございます」

 ペコリとしっかり頭を下げると、「いいのいいの。嶺クン、可愛いね」と千恵はカラカラと笑った。そんな千恵に、嶺は再度深々と頭を下げた。

「さて。テキーラサンライズだけど」

 麗がその作り方について教えようとした時には、嶺はグラスに適量の塩をつけ、氷を三つ、細長いグラスと中へと入れていた。

 麗が目をぱちくりとさせている間に、そんな麗にも気が付かない程の集中力で、嶺は棚から的確に白テキーラを選び取り、シェーカーに氷を入れた後に適量注ぎ入れた。それから、生搾りオレンジジュース。

 三回のシェイクでそれを用意していたグラスに注ぐ。

「麗さん、この店ではオレンジを飾るんですか? それとも、チェリー?」

 赤いグレナデンシロップを注ぎながら、真剣な顔で嶺が言う。オレンジのジュースのようなそれの一番下に赤が入る。麗はやっぱり拍子抜けたままだ。

「え、ああ……どっちでもいいけど……」

「千恵さん、どっちが好き?」

「え、ええ、じゃあ……チェリーで……」

 麗は勿論、千恵もその友人もあんぐりと口を開けている間に嶺はグラスにチェリーを飾り、スッと丁寧な所作で千恵の前にテキーラサンライズのグラスを置いた。

「テキーラサンライズです」

「あ、ありがとう……。驚いた、シェーカー、使えるの?」

「あ、少し練習させて貰ったんで……」

 そんなものなのか、と目を丸めつつも納得する千恵に対して、麗は勿論、この嶺の異常さに気が付いていた。

 まず、バックバーにこれだけ豊富な酒が並んでいるのに、嶺は少しも迷わずに白テキーラを選び取った。それは、バイト二日目ではあり得ない程優秀な行いであった。

「………バーで働いたこと、無いんだったよね?」

 麗はまだ信じられないものを見た顔で嶺を呆然と見詰めていた。嶺はそれが何故の質問かわからないようで首を傾げながら、「ええ」と肯定する。

「あ、ジントニック!」

「いいよ。ジン・トニックはオレが作る」

 言うなり、麗は少しも無駄の無い所作でグラスに氷を注ぎ入れると、ライムを搾り入れた。続いてベースとなるジンを注ぎ、トニックウォーターを入れる。バースプーンで少しだけ混ぜるステアすると出来上がりである。

 目を見張る速さ。正確さ。美しさであった。

 それが目の前に置かれると、改めて嶺は気が引き締まる思いがした。

「じゃあ、嶺クンとoblioの出逢いに、乾杯」

「あ、ありがとうございます!」

 千恵が少しだけグラスを掲げると、嶺もそれに従った。グラス同士はぶつけずに、二人は同じタイミングでグラスに口を付ける。

 広がるジントニックのさっぱりとした香りに、ほうっと暫し癒された。

「……くぅーっ! ジントニックは、やっぱ旨いな……」

「嶺。もう少し、バーテンダーらしく振る舞いなさい」

「あっはは! いいのよ、嶺クンはそのままで!」

 溢れた本音を、麗が嗜め、千恵が笑った。

「留美さんは何飲みます?」

 そこで、千恵の隣に座る女性に麗が声をかけた。千恵に負けず劣らず、完璧な化粧を施した女性だった。白いシャツにタイトなスカートを履いていた留美は、胸元の開いた服に黒のレースのスカートを履く千恵とはタイプが違い、清楚な感じがする。

「じゃ、私もテキーラサンライズで」

「かしこまりました」

 注文を受けると直ぐ、麗もグラスに塩を適量つけ、氷を入れた。違うのは、シェーカーを使わなかったことである。テキーラとオレンジジュースを注ぎ入れると、バースプーンでステアし、濃い赤色のグレナデンシロップを少量入れる。それから、綺麗なグラデーションが出来るようにバースプーンで優しく上下に混ぜた。仕上げに、オレンジを添える。

 出来たのは、確かに、テキーラ・日の出サンライズ

「お待たせ致しました。テキーラ・サンライズです」

 その美しさに、嶺はほぅと息を吐いた。

「ありがと」

 留美はにこりと微笑むと、その色合いを目で楽しみ、それからやっとグラスに口をつけた。

「美味しい」

「ありがとうございます」

「嶺クンの作ってくれたテキーラサンライズも美味しいよ」

「あ、ありがとうございます…!」

 透かさずフォローを入れ、ウインクをしてくれた千恵に、嶺は再三つむじを見せる程に頭を下げた。

 カランカラン。

 来客を知らせるベルが鳴る。その度にやはりドキリと扉の方を見るが、見知った顔では無いことに安堵する。チラリと時計を盗み見る。深夜二時半が来そうだ。

 きっともう流石に来ないだろう、と嶺はやっと安心して業務に当たる事にした。




 午前四時。

 bar・oblioの閉店時間である。

「お疲れさんっ」

 それまでピシッと着こなしていた黒シャツを着崩して、マスターはかつての第一印象通りの雰囲気で嶺達に労いの言葉をかけた。

「んじゃ俺、一足先に帰るから。清掃と戸締まり宜しくねーっ★」

 労いの言葉だけ、である。マスターのリュウはヒラヒラと右手を振りながら、さっさと表の扉から出ていってしまった。

「………くそマスター……」

 元々酒豪である嶺だったが、慣れない仕事の疲労と眠気が相まって、珍しくほろ酔い気分でどうにかなりそうだった頭は、心の声を心の中に留めてくれなかった。嶺の物言いに「ぷ、」と麗は吹き出した。

 また諌められるかと思って内心身構えていた嶺は、目を丸める。

「……ほんと、アイツは糞だよ」

 その端麗な美しい顔から「糞」なんて下品な言葉が溢れて、拍子抜けた。投げやりに、表情に陰を差し、忌々しげに言うものだから、驚いた。

 糞、という下品な言葉をつかってしても、麗の顔は美しく、どぎまぎとしてしまう心があった。陰が差せば、儚げな美しさが顔を出す。それは少し、かつての光子の面影を見るようだった。ーーー否、こいつはゲスなんだから……と何とか嶺は胸が高く鳴るのを抑えようとする。

「さぁ。さっさと片付けて帰ろうか」

 次の瞬間には、麗はいつものにこやかな笑みを浮かべていた。この顔は美しくこそあれ、あまり光子には似つかない。

「……営業終わったのに作り笑いするなよ。気色悪い」

 的確に指摘して吐き捨てる嶺に、今度こそ麗は眉をしかめて嫌悪感を表した。

「……ほんと、糞生意気な餓鬼。[霧ヶ峰のくせに」

「誰がエアコンじゃ! 比良野嶺ひらのみねじゃい!」

 嶺の初日にも麗は嶺の名前を、音が似ているからとそう呼んでからかった。

 憤慨する嶺を他所に麗はさっさと手を動かし、シンクの片付けを終わらせた。嶺もさっさと帰って寝たい気持ちを抑えきれず、カウンターを隅々まで拭きあげると床の箒がけに移った。

 片付けは三十分程で済んだ。戸締まりをしっかりとしてから、二人一緒に裏口から出る。

「あっ、お疲れー!」

 出ると、何時間も前に店を出ていたはずの千恵達が直ぐそこで待っていた。嶺はギクリとして、なんだか嫌な感じが胸に広がっていくことを自覚していた。

 早朝と言っても夏を感じる蒸し暑さがある。それなのに、二人は汗一つかいていなかった。何処か別の場所で時間を潰していたと見える。

 何故此処に? と二人の目的がわからないまま怪訝に思っていると、二人は麗の左右の腕に絡み付いた。

 嶺がギョッとしていると、そんな様子に気が付いた千恵が先程よりも遥かに色気を増して、嶺の方を覗き込む。

「嶺クンも、来る?」

「け、結構ですッ……!」

 やーん、振られちゃった! と女子達は笑った。艶かしい雰囲気を纏っている。冷や汗が出た。

「んじゃ。また」

 麗は涼やかな顔をして踵を返した。左右に女を二人はべらし、今から向かうところと言えば……一つではないだろうか。

「………っ、不潔野郎が……!」

 角を曲がり、三人が見えなくなるまでポカンと見送ってしまった嶺は、やがて我に返って、精一杯の嫌悪を込めて、吐き捨てた。


(……アイツが光子なわけ、無いっ!)


 グッと握った拳は怒りで震えた。

 アイツが光子じゃない証のようなものだ。

 現世の俺が、アイツのことを好きになるわけがない!



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