第3話 どんなにこの身を捧げても

 血の味がした。

 そういえば、全身が痛い。

 うっすらと目を開きかけて、左目が開かないことに気が付いた。そうだ。昨日、顔の左半分に見事な拳を食らったのだった。男はその目が開かない原因を思い出し、頷いた。

 空は薄明かるくなっている。どれ程気を失っていたのか。まさか、夜が明けたのだろうか。

「う、」

 なんとか起き上がろうとするにも、こう身体中が痛くては敵わない。壁を背にして座るのがやっとである。

(………ヘマしたな。どう、言い訳をしようか……)

 男はまるで人気の無い細道の暗がりにいた。もっとも、此処で暴行があったわけではなく、男が人目を気にして這う這うの体でやっと此処まで来てから気を失ったのだった。

 朝を迎えるまでには、屋敷に戻らなければならない。

 身体中の痛みとその門限・・のことを思い、脂汗が浮かぶ。

 這ってでも帰らねば、と身体の何処かに力を入れると、激痛によってその気力が失われた。

 と、その時、凭れかかっていた壁の向かいの引戸がガタリと音を立てて開いた。

「!」

 出てきた女と目が合い、二人は暫し目を見開いたまま互いを凝視した。小さな輪郭に、量が多く長い睫毛。睫毛の下にくりくりと大きな目。小さな鼻に、控えめな唇。雪のように白い肌に唇の赤い紅が映える。長く真っ黒の髪は艶やかに光っていて、男のところまで椿の花の香りが届くようであった。来ている着物は少し古くさいが、落ち着いた紫色の袴とよく合っていた。足元には、履き古したブーツ。顔立ちこそは綺麗だが、身なりからは貧乏が窺えるようであった。

 二人はまだ目を逸らせないでいた。女からするとただそこに人がいるとは思わずに驚いただけだろうが、男は、その女の美しさに目が奪われていた。

「……少し、待って」

 女は一旦またその建物の中に引きこもったかと思うと、直ぐに手拭いと水の張った桶を持ってやってきた。男の血と土の付く肌を優しく拭う。

「いっ、」

「我慢して下さい。男でしょう」

 ピシャリと言い放つ気高い声は、しかし、女のそのみすぼらしい姿とは釣り合わない気がした。改めて、女の姿を見る。顔は少しやつれ、着物は古汚い。履いているブーツも、底がすっかり擦れてしまっていた。手拭いを持つ手はささくれだって、お世辞にも「白魚のような」手とは言い難い。

「頬の腫れが酷いですね。軟膏ならありますが…」

 この時代、氷はいたく高価なものだった。

「いい。……それより、人を訪ねてくれないか。連れて来て欲しい。早く家に帰らないといけない」

「あら。それでは、私が肩をお貸しします」

「女に支えられるものか」

 社会進出する女性がちらほらと見え始めたこの時代、そんな女を蔑視するつもりで発した言葉では無かったのだが、女は嫌な風に受け取ったらしい。「私に触れられるのが、お嫌で?」と、目を吊り上げた。

「そういうつもりじゃない」と男は慌てて誤解を与えた非礼を詫びたが、女は男の左脇に入り込み、「せえのっ!」と言って男を立たせた。男が驚く程、強く逞しい力であった。

「そんな頼りない力じゃない。分かって?」

 女は歯を覗かせて笑った。

 男は、そんな彼女に、もう一度惚れたのだった。


 それが、嶺蔵みねぞう光子こうこの出逢いだった。

 その後は、そうは言っても男に比べたら幾ばくもか弱い光子に引きづって貰うわけにも行かず、何とか歩いている間に自分を探していた那良之助ならのすけに出会い、なんとか家の者に気が付かれる前に屋敷に戻れたのだった。(しかし、顔の腫れが直ぐには治らなかった為、結局バレて怒られた。)

 光子は、気高い女だった。

 その顔も、魂ですら、美しかった。

 嶺蔵はそれからその女のことが忘れられずに、直ぐに探し出して嫁にした。―――彼女が売春で生計を立てていたと知っても、その気高さも愛も、少しも揺るぎはしなかった。

「………こうこ、」

 ポツリと声が漏れると、「嶺さん」と言う声が降ってきた。嶺は閉じていた目を開けた。

「おはようございます。嶺さん。昨夜も遅かったみたいですね」

 シングルベッドに横たわっていた嶺は首だけ巡らせ、声の主の姿を見た。声は直ぐ台所の方から。ワンルームの狭いアパートである。簡単にその姿が見付かった。

「……那智なち

 かつて、那良之助と呼び親しんだ者の現世の名前。嶺は少し感傷的になりながらも、彼の名前を呼ぶ。

「合鍵、使わせて貰いましたよ。嶺さんったら電話にも出ないし、今日の一限にも来ないんですもん。心配しましたよ」

「……すまん」

 味噌汁のいい香りが部屋中を漂っていた。どうやら、朝食の準備をしてくれているらしい。

「お前、昨日……バーに来るのかと思った」 

「行きませんよ。だって、嶺さんが来るなって言ったんじゃ無いですか」

「………言った」

「嶺さんの嫌がること、するわけ無いじゃないですか」

 行きたかったですけど、と素直に言う那智の背中を見ながら、笑った。

「二日酔いですか? 珍しいですね。……起きれます? 次の日に一限がある時にバイトを入れるのは良くないのかもしれないですね」

 嶺よりも体の大きな先輩は、小さな塩おむすびと蜆の入った味噌汁を盆に乗せてこちらへやって来た。ベッドの直ぐ側のローテーブルへそれらを並べる。きちんと箸置きに箸を置く。湯呑みには温かいお茶。大きめの氷が一つ入っていた。

「……夢を、見てた」

 言いながら、身を起こす。ローテーブルの前まで来て座らず、ベッドに座ったままに続ける。

「光子に初めて出逢った頃の夢だ」

「……そうですか」

「光子は誰よりも気高くて、美しかった」

「ええ」

「………記憶を持って生まれた時、一番に考えたのは光子の事だった……」

「………」

 頭を抱えるように項垂れた嶺に、那智はそっとその傍に腰を下ろし、背中に気遣いの手を添えた。

「光子が何処かで苦労して、また一人で泣いているのではないかと……。それに……俺にはいつだって、光子が必要だったから……。また光子に出逢えさえすれば……俺達はまた愛し合って結ばれるのだと………」

「ええ」

 静かな相槌が部屋の隅々まで浸透するようだった。そんな那智の、隠された深い感情のことなんて嶺は気が付かない。頭を抱えたままに続ける。

「それが、男なんて……」

「……」

「しかも、あんな最低な……」

 昨夜……否、今朝の事を思い出す。女二人を両腕に付け、向かったのはきっとホテルだろう。例えば、ただ一人、恋人がいるのならまだ嫌悪しないで済んだ。きっとがっかりはしただろうけど、同性としていい友人として、今度は傍でいられたらよかった。

「あんな奴、光子じゃない」

「……はい」

 那智は嶺の背中に置いていた気遣いの手を、少しだけ伸ばして腰に回した。半身をくっ付けて、嶺の体を少しだけ自分の方へ凭れかけさせる。

「……その人はきっと、光子さんじゃないんです。貴方には、ぼ………僕が、いますよ……」

 精一杯の勇気だった。

 ふはっと嶺は笑って顔を上げた。

「何か告白みたいだな! そうだな、那智。現世でもお前に出逢えたのは、本当に良かった。それだけで、良かったんだ」

 嶺の微笑みに、やっぱり那智は目を細めた。赤みを増した頬にどうか気が付かないでと思いながらも、このまま目をそらさないで欲しいと思う。

「飯、ありがと。食うわ」

「はい」

 那智の願いは虚しく、嶺はさっと朝食の方へと目をやり、ベッドから降りた。那智もそのローテーブルの傍へ座り直す。

「二日酔いと見越しての蜆の味噌汁は流石だわ」

「恐れ入ります」

「お前、ほんと、女だったらいい嫁になるのになぁ……」

「現世でも、ずっとお世話させて頂きますよ」

「また一生独身で過ごすって?」

 嶺は困ったように眉を寄せた。

「お前にも幸せになって欲しいんだけど……」

「僕の」

 僕の幸せが何かは僕が決める、と珍しく感情的に反発してしまいそうになり、那智は一旦言葉を切った。そっと感情を飲み込み、「僕は、十分幸せですよ」と笑って見せた。

 


******



 はぁ、と大きな溜息を吐くと、妹がそれを拾い上げて怪訝な顔した。

「何、くそでかい溜息付いてるの?」

 溜息を吐いて他人に迷惑なんてかけないはずである。那智は妹のその迷惑そうな顔に内心少し傷付きながら笑った。

「………いや、」

「どうせ、嶺さんのことでしょ」

 言い淀んだが、的確な指摘を受ける。「う」と図星を隠せないでいると、今度は妹の方が呆れ気味に息を吐いた。キッチンに向かい、牛乳をコップに注いでいる。

「いつまでうじうじしているつもりなの?」

「う……」

「現世でも、想いを伝えないつもり?」

「……伝えたって、仕方無いだろ……」

 光子が男に生まれたと聞いた時、ホッとしたと同時に、何故、自分は女に生まれて来なかったのかと思った。

 女にさえ、生まれていたら。……前世でも度々思った―――考えても仕方の無いもしもことだった。

「呆れた」

 妹はコップ一杯の牛乳を飲んでから那智のいるダイニングテーブルへやって来た。すでに並べられていた夕飯にやっと手を合わせる。

 那智は、その妹の顔を頼り無く見る。小さな顔。長い睫にハッキリとした目。整った鼻に、小さな口。白く、スラッと長い腕や足。細身なのに、胸は程よく実っていた。

 艶やかな長い髪は嶺の好みだろう。可愛く、それでいて美人でもある那智の妹は、大学の文化祭のミスコンではあったが、そのコンテストで優勝を飾っていた。兄の目から見ても平均を優に上回る容姿であった。

(………僕も女だったら、麻知まちみたいだったのかな……)

 もしそうだとしたなら、嶺も少しは気にかけてくれただろうかと甘い妄想をして、直ぐに首を振った。考えても虚しいだけだ。

「また現世でも独身を貫くつもりなの?」

 今朝、嶺にも指摘された事である。しかし麻知の言い方にはトゲがあった。流石の那智もカチンと来た。夕食のエビフライを箸で挟んだまま向けられたからかもしれない。

「麻知だって、前世は晩婚だったじゃないか」

「はぁ? 前世のことって今となんか関係ある?」

「あるに決まってるだろ!」

「それは兄貴が、嶺さんを引き摺ってるからでしょ?」

 ぐうの音も出ない。実際、そうだ。

 麻知は前世の記憶が有りながら、それに縛られる事もなく、現世を楽しんでいるように見えた。鋭い視線を送られて、那智は少しだけ怯みながらも声を絞り出す。

「……僕だって、女に生まれてたら……」

「何? 嶺さんに気持ちを打ち明けられたって?」

 麻知は簡単に、ハッと鼻で笑う。

「女に生まれていようが、今まで伝えられなかった兄貴には、きっと無理だよ」

 またカチンと来たが、今度は言い返せなかった。

「………飯が不味くなるでしょ。取り合えず、そのバーって何処なのよ?」

「商店街にあるoblioオブリーオって言うバーらしい………って、お前、行くなよ」

「何でよ?」

「嶺さんに来るなって言われてる」

「それは、兄貴がでしょ?」

 残りの晩御飯を掻き込んで、麻知は茶碗をダイニングテーブルへコンと置いた。普段はその行儀の悪さを嗜めるはずの那智も今はそんな余裕が無く、この破天荒な妹に余計な情報を与えてしまった少し過去の自分に頭を抱えていた。

「………頼むから、余計なことをしないでくれよ……」

「余計なことって? 別に、結局『光子』がどんな人なのか見て来るだけよ」

 ケロッと「行きます」宣言をする妹に、ますます頭が痛くなる那智だったが、

「嶺さんの隠し撮りも沢山して来てあげる」

「よし。気を付けて行って来い、妹よ!」

 その一言で、頭痛なんてすっかり消え去った。




 兄に「行ってよし」を公式に貰えた麻知は、早速ナビを頼りにバーへ向かった。

 賑やかな通りを抜けて、路地を曲がり、洒落た外装の店がoblioと店名を掲げているのを確認した。夜の闇に、黒い外壁のその店が存在感を放っているのが不思議だった。ともすれば少し、ファンタジー世界の入り口のようでもある。

「……おぶりーお」

 間違いはないかと確認し、改めてその店を見た。大きな窓からは明かりが溢れて入るが、中の様子は窺えない。磨りガラスのような加工が施されていた。

 入口の扉を見やる。三段程の横に長い階段の上に、重厚感溢れる両開きの扉。なるほど、一見さんはお断りと見えた。

「………いやまあ、入るけど!」

 少しだけ躊躇ってしまった自分の背中を押すつもりで声に出し、一気にその扉を引いた。

 カランカラン。

 まるでレトロな喫茶店のように、来店を知らせるベルが鳴った。

 視界に飛び込んで来たのはきらびやかな光。長いカウンターに、吊るされたグラス達。一面のバックバーに無数のお酒。黒シャツにベスト、ネクタイを締めた二人のバーテンダー。

「いらっしゃいませ」

 目が合うと、二人のバーテンダーはにこりと微笑んだ。とんでもない美形のバーテンと、平均より少しは見目はいいかなと言う男だった。

「お好きな席へどうぞ」

 促されて、少しだけ迷う。店内に他に客は一人だけだ。カウンターの端の方で飲んでいる男が一人。美人のバーテンダーが相手をしているようだった。

 麻知は、迷っているとは他人に悟られないくらいの時間で座る席を決め、先に座る男とは大分離れた席に座った。各客に一人のバーテンダーが付く形になった。

 控え目なBGMよりも、談笑を再開した美人バーテンと男の客の声が耳に付く。他愛もない内容のようだったが、ルソーがとか、聞いたことの無い単語が耳に入る。少しインテリな話をしているようだ。麻知にはまるで理解ができない。

「メニューはこちらになりますが、お好みでお作りする事も出来ます」

 視線だけでメニューを探していた麻知に、向かいに立ったバーテンが優しく声をかける。

 ちらりと名札を盗み見た。細く銀に光る胸のプレートには“MINE”と書いてある。それを確認して、改めてその顔を見た。

(………前世も特にパッとしない男だったけど。前世の方がハンサムだったな)

 仇を見るような目で見てしまったのか、目の前の嶺は明らかにたじろいだ。

「………お決まりですか?」

「ブラッディメアリーを」

「ブラッディメアリーですね」

 もし嶺が接客に付いた際にはと、既に頼むカクテルは決めてあった。しっかりとカクテル言葉を調べて、これしかないと思って決めた。ウォッカをベースに、レモンとトマトジュースからなる赤色のカクテル。イングランド女王のメアリー1世をモデルにしたとの説もある。

 那智から聞いた話では嶺はまだバイトを始めて数日だったはずだが、慣れた手付きで酒やトマトジュースを注ぎ入れレモンを絞ると、ビックリするくらい柄の長いお洒落なスプーンでクルクルと酒を混ぜた。

「お待たせ致しました」

 コトンと、グラスが麻知の前に置かれる。慣れた様子でオーダーしたが、バーもブラッディメアリーも、本日が初めてである。

 成程、血のように赤いお酒だな、と思った。

 ロックグラスに入れられたそれを、ぐいっと飲み干した。

 ぎょっと驚いた顔でこちらを見守る嶺の顔が爽快だった。グラスを置くなり、遥か隣に座る男のグラスを指差した。

「あの人は何を?」

「テキーラサンライズと言うお酒です。テキーラをベースに、オレンジジュースとグレナデンシロップと言う赤いシロップを入れます。ジュースのように甘いお酒です」

 ふーん、と気の無い相槌を打ちながら、「私にもそれを」とオーダーした。二杯目の酒の事など、考えていなかった。

 嶺は那知に妹がいる事は知っていたが、面識は無かった。ましてや、その妹も前世に所縁があり、更には記憶を持っているなんてことなどまるで知らない。なので、目の前のこの可愛く美人な顔立ちをした女が、何故こんなに睨んでくるのかを知らない。

 否、例え、嶺が麻知の存在を知っていたとしても、何故彼女がこんなにも自分の事を敵視しているかなど、言い当てられるはずも無かった。

 麻知は品定めするように嶺を見続けた。相変わらず、無駄の無い綺麗な所作で酒を銀色の小さなカップ、それから、グラスに注ぐ。ジュースに、シロップ。今度は長いスプーンで、上下に酒を混ぜた。

「テキーラサンライズです」

 さくらんぼを添えて目の前に置かれたそれを、今度は暫し、目で楽しんでから一口飲んだ。

 先程とは全く違う風味である。グラスに付いた塩のしょっぱさがしたかと思うと、直ぐにジュースのような甘味が広がった。

「おいし……」

「気に入って頂けたようで良かったです!」

 嶺は途端に笑顔になった。今まで、何故目の前の客が自分を睨むように見詰めているのか分からなかっただけに、ホッとして気が緩んだのだろう。

「……あの、長いスプーンは、何?」

 無鉄砲に此処まで来たのは良かったが、会話の内容まで考えていなかった。取り合えず何か話さなくては、と、当たり障りの無い事から訊いてみた。

「バースプーンですか? お洒落ですよね」

 嬉しそうにバースプーンと呼ばれた柄の螺旋状になったスプーンを取り出して、見せた。

「お酒をグラスに入れる前に入れていたカップは?」

「メジャーカップと言います」

「シェイクはしないのね」

「ご注文頂いたカクテルはステア……バースプーンでかき混ぜて提供するものだったので」

「ふーん?」

 丁寧に答えてくれる嶺に、「面白くないな」と思った。そうだ、嶺は前世の頃から小器用な男だった。

 金持ちの家に生まれ、文武両道。家柄の力もあったのだろうが、女には実にモテていた。しかし全く靡かず、硬派気取りかと思いきや、一目惚れしたとか言う金の無い女を直ぐに嫁にしたりもした。物好きな男だった。それか、根っからの偽善者だ。

(そうだ、光子)

 ちらりと光子の方へと視線を移す。

「………彼は?」

「……麗と言います」

「ふーん?」

「……お客様も、麗の美しさに目が奪われますか?」

 嶺を見た。苦笑と言うよりはもう少し複雑な顔をしていた。

「いや、私のタイプじゃないわ。なんか、笑顔とか嘘臭いし」

 スパッと本音を言ってやると、途端に嶺は笑顔を輝かせた。

「お客さん! 見る目あるな!」

 急にタメ口である。

 それから一方的に打ち解けた嶺の方がなんだかんだと話を振って来て会話には困らなかった。バーテンダーはコミュニケーション力が命とは聞くが、実際にそうらしい。

 カクテルはその後もう一杯頼んで三杯。会話はお腹いっぱいした。会計を頼みたくてレジを探したが見当たらない。「会計は」と言うと、伝票を渡され、席で支払った。

(あ、写真撮るの忘れてた。………ま、いっか)

 カランカラン。

 ベルを鳴らして店を出ると、直ぐに後ろからまた、カランカランとベルの音がした。あの男の客も直ぐにお会計だったのかな? と振り返らずに進もうとすると、「お客様」と後ろから声がかかった。

 振り返ると、麗がいた。先程までは遠目で、はっきりとはその顔を捉えることが出来なかったのでこれを機にまじまじとその顔を見てやる。

「………何か?」

 なんでもないふりをして、尋ねた。麗は困った顔で笑う。本当に綺麗な顔立ちだ。女と言われると、信じてしまうだろう。でも、不思議と『光子』とは重ならなかった。

「テキーラサンライズを頼まれてましたよね?」

「それが何か?」

 まさか、ハッピーセットのようにオモチャが付くのわけでもあるまい。

「カクテル言葉はご存知ですか?」

「はぁ。すみませんけど、ブラッディメアリー以外のカクテル言葉は知りません」

「ブラッディメアリーのはご存知なんですね!」

 麗はやっと素の顔を見せた。

 驚いた顔をして、可笑しそうに笑った。そりゃそうだろう。カクテル言葉を知った上で頼んだのだ。意味があると思われるのは当然だろう。

「……嶺の元カノ、ってわけでも無さそうだし」 

「アイツの元カノなんて御免です」

「ふふ」

 今度はまた、嘘臭い笑みだ。しかし、美しい。誰でも確かに、虜になってしまいそうな色香があった。

「ともすれば、貴女が『光子』なのかと思った」

「光子は」

 貴方でしょう、と言いかけて、それを指摘するのは後々に悪手に繋がるかなと考え、「知らない人の名前ですが」と誤魔化した。

「それで、用は?」

 改めて何故、光子れいが追いかけてきたのか指摘してやると、麗は右手を振った。

「ごめん。勘違い」

「………そうですか。じゃ、失礼します」

「はい。気を付けて帰ってね」

 ペコリと頭を下げて、路地を曲がると直ぐにスマホを取り出した。“テキーラサンライズ カクテル言葉”で検索をかける。 

「………『情熱的な、恋…』……」

 それがなんだ、と画面を閉じて、ふと、あの甘ったるいカクテルを大の大人の男が注文していたことを思い出した。……いやまあ、女だって焼酎を飲むし、性別で好きなお酒を判断するのは差別以外の何ものでも無いだろうが。

 それにしても、何かしらの意味を感じた。

 わざわざ、バーテンダーがそれを確認する為に後を追いかけて来たくらいである。

 またスマホを開いて時間を確認した。丁度三時。後一時間も待てば、閉店の時間である。

(………これは、作戦変更の手もありそうだな……)

 と、そこでスマホが突然コールした。

「わっ……!」

 ビックリしてスマホを取り落としそうになった。慌てて、通話ボタンを押す。

『もしもし? 麻知、今何処に居る?!』

「兄貴か。今、オブリーオの近く」

『はぁっ?!』 

 大袈裟な声に、スマホを耳から離した。

「うっるさ…。何? 耳、くっそ痛かったんだけど…?」

『馬鹿じゃないのか、お前、今何時だと思ってんだよ!』

「はぁ? 三時でしょ?」

 それが何? とめんどくさそうに訊けば、遥かに怒気を含んだ声でまた「馬鹿じゃないのか!」と返される。

『昨日の今日行くなよ! てか、行くんだったら言えよ! 送るから!』

「何言ってんだよ、兄貴。私、じゃんか」

『お前こそ何言ってんだよ。今は女だろうが! どっかそこら辺、コンビニあっただろ。そこで待ってろよ』

 迎えに行くから、と言うなり、電話は切れた。

「………過保護」

 めんどくさ、と吐き捨てた割に、麻知は嬉しそうな顔をしていた。



******



 次の日、と言うことは流石に難しかった。

 毎晩あんな時間に出歩いていては、大学生活に差し支えた。

 金曜日になるのを待って、その夜、仮眠を取ってから

早朝と言うにも暗い時間に家を出た。午前三時。今から行けば、ラストオーダーには間に合うだろう。

 兄にまた怒られないよう、徒歩圏内の商店街ではあったが、車で出ることにした。帰りはまあ、なんとかなる。駐車料金が痛いくらいか。母親と共有の車だったが、土曜日は仕事がないはずなので兄が起きてから取りに来させても問題なしと踏んだ。

 カランカラン。――――例のあの音。

「いらっしゃいませ」

 直ぐに声がかかる。

 今日は嶺が居ないようだ。代わりに、渋めのおじさんが居る。見た感じ、彼がこのお店のマスターと見えた。こちらもどうも、胡散臭そうな男である。

「二度目ましてですね」

 席に座るとすぐに麗がカウンター越しに立つ。ちらりと目線をやるなり、「テキーラサンライズを」と頼むと、驚いた顔をした。

「因みに、カクテル言葉はもう知ってます」

「……かしこまりました」

 麗は言うなり、さっとカクテル作りに取り掛かる。嶺の所作も全く無駄がなく美しかったが、やはり経験値とビジュアルの差か、麗の方が上手なのがわかる。

 さくらんぼを添えられて、日の出色のカクテルが麻知の前に置かれた。

「お待たせ致しました」

「ありがとう」

 また暫、その赤からオレンジに広がっていくグラデーションを目で楽しんでからグラスに口を付けた。一口。

 しょっぱさが直ぐに甘さに変わる。飲みやすいカクテルだ。残念ながら、どちらが作った方がどうだとかは、麻知にはわからない。

 休日前の早朝なので、客は多いかと思ったらマスターと話す数人の男性しか居なかった。

 その必要もなさそうだったが、麻知はそっとカウンターに身を寄せて声を潜めた。

「麗さんって、モテるでしょ」

「え? そう見える?」

 にこやかに笑う顔は、やっぱり作り笑いのようだ。

「えーと、失礼。貴女のお名前をお伺いしても?」

「麻知」

「麻知さんも、モテそうですね」

「ありがと。……ねぇ、私達、付き合ったらお似合いだと思わない?」

 ストレートなアプローチ。

 きっと麗はそんなもの、慣れ過ぎてしまっている。冗談であろうと本気であろうと、只でさえバーテンダーはモテるのだ。それがこの容姿なら、男さえも彼をモノにしたいと思うだろう。

 余裕のある様子で、クス、と笑う麗は妖艶だった。

「嬉しいですね。麻知さん、まだ若いでしょ? 犯罪になっちゃうかも」

「若いって言っても二十歳だから。全く問題ない。私と寝たって、新聞には載らないけど?」

「……二十歳ですかぁ。いいですね、若いなぁ……」

「あ、今の、ちょっとおじさんっぽかった」

「え? ふふ。歳には抗えませんからね」

 麗はまた作り笑いをする。麻知は苛立つ心を隠して笑う。二人はさも楽しそうに色んな話をし、「閉店まで待てますか?」と言う麗の言葉に、麻知は内心ではしたり顔で頷いた。


 bar・oblioオブリーオは朝四時に閉店である。

 早朝四時。oblioの表にはclosedの看板がかかっている。

「お疲れ様」

 裏の勝手口から出てきた麗を労う声があった。麗がそちらの方に目をやると、会うのがこれで三度目の少女がいた。

 夏の早朝とは言え、まだぼんやりと薄明かり……とまでもいかない。暗い。それだからと言うわけではないだろう。少女の顔は少し強張っているようにも沈んでいるようにも見えた。

「お待たせ。……大丈夫? 眠くない?」

「平気。少し仮眠取ってきたし」

「仮眠」

 ふふ、と麗が笑うと、麻知も合わせて笑った。

「ヤル気満々って感じだったね、今の」

 麻知が言い、麗がそんな麻知の肩を抱く。

「行こうか」

「………ええ」

 麻知も、そんな麗の腰を抱いて歩く。


 きらびやかな夜の街もやっと眠りにつき、ここら一体もすっかり消灯となり、暗い商店街が顔を出す。時に、スナックやホストの従業員と思わしき人々とすれ違う。

 夜の街に溶ける、と言うよりは身を隠しているようだ。―――後ろ暗いものから目を背けるのに、丁度いい明るさだなぁと麻知は思った。

 麗は慣れた足取りで左へ曲がり、直進、その後右へと麻知を誘う。やがて、未だに電気がついている眩しい通りまで来る。そんなに時間はかからない。歩いてほんの五分くらいだ。

 休憩がいくら、宿泊がいくらと書かれた看板は似たり寄ったりの料金だった。明らかにそれだと言うような外装・ネーミングのものもあれば、少しシックな感じの品格高そうな建物もあった。

 麗はその、シックな感じのする黒塗りの外壁のホテルへと麻知を誘った。細い階段を上がる。二人並んで上るのがやっとだ。雰囲気のある明かりがポツリポツリとトンネル状になっている階段内を灯す。

 二階に着くと、まるで日本園庭のようなアプローチが

出迎えた。砂利が敷かれ、側にはひっそりと植物なんかが飾られている。

「……」

「……」

 麻知も麗も無言だった。麗はずっと麻知の肩を抱いていた。余談ではあるが、麻知の方はは歩きずらかったので、麗の腰を抱くのを止めていた。

 黒塗りの扉。

 その扉を押して中へ入ると、オレンジ色の光が印象的な店内に白っぽい光を放つパネルが大々的に並んでいた。

 部屋の様子を移したパネルの下には部屋番号とボタンがある。麗は迷い無く一番高い部屋の番号を押した。肩を抱かれたまま、もっと部屋の奥へ進む。突き当たりにはエレベーターがあった。

 最上階である六階へ。

 部屋に入り、交互にシャワーを浴びる間も、二人は会話らしい会話をしなかった。

 先にシャワーを浴びた麻知はバスローブを着てベッドに座りながら、麗を待つ。その間、さっと兄に電話を掛けることにした。

 コールは二回と言わずに、那智は出た。

『お前っ! また、何処に居るんだよ!』

「ホテル」

『…………は?』

「私、まだ帰らないから。兄貴、悪いんだけどパーキングに停めたままの車、回収しといて? スペアキー、電話のとこの引き出しの一番上にあるの知ってるよね?」

 言うなり、電話を切った。

「…………」

 麗はまだ上がって来ない様子だったが、紳士な様子の彼だ。あまり、こういう状態の女を待たせないだろうと踏んだ。

(………でも、もう少し電話してても良かったかな……)

 ほんのりとした感情が、麻知を支配する。

 浮かぶのは兄の顔。怒っている。「ホテルって、何考えてるんだ!」と、想像の中でさえ、麻知を怒った。

 麻知はスマホをぎゅっと胸に抱いて、暫し感傷に浸る。

 広く、清潔感のあるベッド。枕元には黒色の四角いトレーに、コンドームが二つ置かれていた。部屋を見渡す。雰囲気を作る為か、部屋は全体的に薄暗い。大画面のテレビに大きなL字のソファー。机にはフードメニュー。

 金持ちがワンルームに住んでいたとしたらこんな感じかな、とも思ったし、広いカラオケルームのようでもあった。カラオケルームだとしたら、ベッドも風呂も付いているなんて画期的だ。絶対流行るに違いない。―――関係ないことを考えて、気を紛らわせる。

 スマホをベッドの傍に置いてあった鞄へ仕舞う。その手が微かに震えていることに気が付いて、ベッドから降りることにした。

 窓際から外を眺めたり、ソファーに座ってフードメニューを眺めてみたり。カラオケ店と違って、意外と本格的なメニューもあった。

 麗はまだ上がらないようだ。仕方無しにテレビを付けてみる。

『あッ……! あぁんっ!』

「ッ!」

 大音量でかかった喘ぎ声と女のよがる顔に驚いて、慌ててテレビを消した。

 心臓がバクバクと鳴る。

(…………落ち着け………)

 ぎゅっと、身を抱いた。


「………麻知ちゃん、初めてだよね?」


「!」

 慌てて振り返ると、バスローブ姿の麗がいた。まだ乾き切らない髪が色っぽさを増している。

「お、お帰りなさい……」

「ふふ。動揺しちゃって。可愛い」

 麗はソファーを回り込んで、麻知のすぐ横に腰かけた。と、思うと、直ぐに麻知を押し倒す。

「…………」

「麻知ちゃん、本当に可愛い顔してるね。ホテルは初めてでも、経験はあるの?」

「………無いよ」

 じっと麻知を真剣に見つめていた目が、笑った。ぞくり、と背筋に走った悪寒に、麻知は気が付かないふりをしながら、手を伸ばした。麗の頬へ右手が触れる。

「………ハジメテだから。素敵な人とシたいじゃない?」

「えー? 嬉しいな」

 嗤うその顔は偽り。麻知はまた、目の前の得体の知れない美人に、ゾッとした。震える指先を「ハジメテだから」と誤魔化した。

「………キス、してよ」

 麗の影がゆっくりと麻知に降りてくる。麻知は、ぎゅっと目を瞑った。

(…………那智ッ………)

 こんな時に兄貴の顔を思い浮かべるなんて。

 祈るように願うなんて、ダメだ。

 麻知は罪悪感に苛まれたが、一向に唇は触れない。

「……………?」

 恐る恐る目を開けると、至近距離で自分を見つめる麗と目が合った。ぎょっと目を見開く。そんな麻知に、麗は感情を灯さない目で笑い、身を離した。それでも依然として、麻知を組み敷いた形のままである。しっかりとその両手は、恋人繋ぎでソファーに縫い付けられた。

「…………麻知ちゃんって、何を考えてるの?」

「……え」

「オレを通して、何が欲しいの?」

「……」

 無感情な目をして、貼り付けた笑みを浮かべる。そんな麗に、ごくりと喉を鳴らしながら唾を飲み込んだ。

「…………貴方の、感情が欲しい」

「嘘だよね? オレ、結構“ヒトのココロ”ってやつに敏感なんだよね。沢山の女の子や男の人を抱いたし、抱かれたけどさ、皆、オレを通して何か別のものを求めていた。………けど、麻知ちゃんは違うよね?」

 麻知ちゃんからは何も感じない。と静かな声が部屋に響く。

「得体が知れなくて、抱く気になれないんだけど。……どうしようか?」

「………」

 強く縫い付けられる両手に痛みが走る。目の前の綺麗な顔をした男が怖くて、肩が震えた。………なんて、まるで、本当の女・・・・みたいだな、と思うと、冷静になって笑えてきた。

(………そうだ、忘れるなよ。なんにも、怖いものなんて無い)

 麻知は、キッと麗を睨み上げた。

「……私は、貴方を好きになりたい。それで、貴方にも私を好きになって欲しい」

「……なにそれ?」

 確かに、変なことを口走っている自覚は麻知にもあった。あまり良くない頭で思考をフル回転させる。何か、麗を繋ぎ止めることはないか。何か、恋仲になれなくてもいいから、麗が自分を意識するような―――――……。

「……………私。貴方と寝るのなんて、なんてこと無い。………だって、本当に好きな人とは、どうあっても両想いになれないもん……」

 ポツリ、と溢した本音。

 何とか麗の気を引きたかっただけだったが、感情が乗り過ぎて、声が震えた。

「…………貴方はきっと、私と一緒でしょう?」

「………」

「きっと、他の誰と何度身体を重ねたって、満たされないんだ。心が。本当は、たった一人と結ばれないと意味がない。ただ虚しいだけ。―――――だけど、だから、寂しくて。貴方は沢山の人とこういうことをせずにはいられない」

「………」

「どう? 図星?」

「………」

 にやりと笑って見せた。

 麗はずっと無表情を貫いていた。

「……………嫌な女だね」

 けれどついに、麗は本当の顔を見せた。繋ぎ止めていた手を離し、身を起こす。麻知もサッと身を起こした。

「………ますます抱く気にならないじゃんか」

「そうね。でも、他の女とは違うでしょ? どう? 仲良くしないかしら? 私達」

 不敵に笑って見せた麻知を横目に、麗は徐にテレビのリモコンへ手を伸ばした。

『あぁんっ……! イくッ! イっちゃう……っ……!』

「!」

 大音量で再び、あの雌と化した女の声が響き渡った。行為も遂に終盤らしい。

「………っ………!」

 露骨に意識して画面から目を背けた。耳まで真っ赤になったのが分かる。顔が熱い。一瞬にして全身に汗をかく。身が強張って、思わず拳を握った。その内も、すっかり汗でベットリとしている。

 そんな麻知を冷ややかな横目で観察し、麗は改めてテレビを消した。

「………」

「そんなにうぶなくせに、男煽ったりするのは良くないね」

「………ぁ、」

 喉がカラカラに干上がり、直ぐに声が出なかった。麗はまた、冷めた目で麻知を見る。

「………君がオレに近付いてきた目的はよく分からないけど。オレが君を好きになることはこの先も絶対に無いことだけは分かるよ」

 よいしょ、と麗はソファーから腰を上げた。バスローブを脱ぐと、直ぐに着替えを済ませてしまう。

「抱けない身体に興味は無いよ。じゃあね」

 すっかり私服に着替えた麗は、営業スマイルを貼り付け、にこやかに手を振る。

「ま、待って………!」

 麻知は必死に立ち上がり止めようとしたが、無情にも扉は閉まる。


 バタン。


 閉まった扉に、手伸ばす。もう遅い。

 麻知は、その場に崩れた。

「……………………那智、ごめん…………」

 ぽたりぽたりと雫が落ちて床を濡らす。悔しくて。情けなくて。涙が溢れた。……否、安堵かもしれない。だとしたら、なんの覚悟もない、なんて身勝手な涙なのだろうか。

「………現世では、幸せな那智の姿が見たかったよぉ………」

 どうせ誰にも見られていないのだ。麻知は構わず、大声で泣いた。

 光子さえ、誰かのものになってしまえば。少しは那智の気心も晴れるのではないかと、浅はかな想像をしたのだ。今度こそ、最愛の兄は好きな人と結ばれるのではないかと。

 でも、本当は、………。

「折角、おんなにっ、生まれ変わったけど………兄妹なんだから………ッ、結ばれるわけ、無い、から………ッ」

 本当は、自分が那智を幸せにしたかった。

 那智の恋人になりたかった。

 でも、なれないのだ。

 だから、せめてもと思ったのだ。

「うわあぁぁーーーーーーんっ! 光子のばかあぁぁぁーーーーーっ!」

『光子』だって、麻知にとっては大切な人の名前だった。

 最愛の、姉の名前だ。

 嶺はいつだって憎い。

 自分の最愛の人の心を、二つも奪うのだから。

『光子』と『麗』は違う。麻知はそう思っている。だけど、きっと、同じところもあるのだろう。

 ほんのちょっとでも、麗の心に触れられるかもと思ったのだ。本当は。

 そうして、那智を幸せにすることは叶わなくても、姉くらい幸せにすることが自分に出来たらいいな、なんて、思ったのだ。そうしたら、業の深い自分の魂も少しは救われるんじゃないか、なんて。

 何処かからメロディーが聴こえて来た。麻知が設定した、スマホの着信音だ。

 のろのろと身を起こし、スマホを取り出した。

 ディスプレイには、“那智”の文字。

 通話ボタンを押すのを躊躇わなかった。

『もしもしっ、麻知? あの、やっぱ、ホテルなんて…』

「…………あにき、」

 気を付けたが、声が上擦った。電話口の向こうで那智が息を飲む音が聞こえてくるようだった。

『…………何処のホテル?』

「ん、……なんか、黒くて、おっきいとこ……。細い階段の、」

 そんなことを言ったって、きっと那智には分からないだろう。困らせちゃうな、と笑った。少しだけ思案して、もしかしたらフードメニューに書いてあるかもな、と場所を移動することにした。………那智の声を聞いて、少し落ち着いてきたようである。

 フードメニューには案の定、ホテル名が書いてあった。那智に伝えると、「分かった」と力強い声が返ってくる。でも、電話は切れない。

「………切っていいよ。安全運転で迎えに来てよ」

『スピーカーにしてるから大丈夫』

「………過保護」

『仕方ないだろ。お前は僕の可愛い妹なんだよ』

「………なにそれ、シスコン、きもちわるっ……」

 憎まれ口を叩きながら本当は、好きだよ、と心の中で呟いた。

 伝えられたらよかったのに、と直ぐに思った。否、こんなことなら、前世で伝えておけば良かったなぁなんて……ムシが良過ぎるか。

「兄貴」

『何』

「………次の人生で後悔しないように、やっぱ、気持ちは伝えた方がいいよ」

『………なんだよ、急に』

 麗にはきっと好きな人がいる。それは多分、嶺じゃない。―――この収穫だけでも、今回の失態の戦利品にしたかった。

「嶺さんに、告りなよ」

『……』

「それで、現世では幸せになって」

『………だからさ、僕の幸せは僕が決めるから。お前までそういうこと言うなよ。そもそも、なんでOK貰える前提なんだよ』

「……そうやって、諦めないでよ。現世でも離れられないくせに」

 巨大ブーメランだったが、だからこそ、訴えた。

「そんなんで、男に生まれた『光子』にまで嶺さん取られちゃったらどうするの? 多分、死ぬまで……死んでも、後悔するんじゃないの? やだよ、そんな兄貴見ながら生きるの」

 私だって一緒だ。

 本当の本当は、自分の好きな人を幸せに出来るのが自分であったなら、どんなに幸せなことだろうかと……そう思っている。

 だからこそ、せめても最愛の人には幸せになって欲しいのだ。

(身勝手でごめん………)

 今度は声を出さずに、涙を流した。





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