はつなつ
森川めだか
はつなつ
はつなつ
午前中のめんどくさい客はハケて、話の長いボケ老人たちがやって来た。
ここらで一休みするか。
「先生、次初診の方です」そう言っている長身の受付は妻だ。
「何ていう方?」
「
「まだ若いね」また厄介な患者が増えたかな、と内心嫌に思った。
この心療内科は予約制をとっていないので客が多い時は何時間でも待たされることになる。ついでにスリッパに履き替えないといけない古い町医者でもある。
犬彦はそれでもこの田舎街で上々の評判をとっていた。穏やかで辛抱強く話を聞く性質にある。
「三田さん」その青年はおとなしく席に坐っていた。
(先生はテレパシーですね)席に着くなり、青年の声が聞こえた。
「今、何かおっしゃいましたか?」
三田真治は口元を歪ませただけだった。
(先生、初めてですか)
犬彦は息を呑んだ。自分以外にもテレパシーがいるとは。
(つまり、君・・三田さんも?)
今までは漏電のように人の心の声が聞こえてくるだけだった。それで医者としてもおいしい思いもしたわけだが。
「ええ、そうなんですよ、先生」初めて真治の口から声を聞いた。
「あ、ああ・・」犬彦は後退し始めた額に滲んだ汗を拭った。
「今日はどういったご用件で」
「まあ、ちょっと神経症っぽくて」
それからしばらく型通りの問診が続き、犬彦は軽い薬を処方した。下らない事が頭から離れないそうだ。
「じゃ、今日はこの辺で・・」
「はい、先生」真治は立ち上がりかけて、「ああ、そうそう、先生」とまた椅子に着いた。
(僕、人を殺したんですよ)
「え?」
(駄目駄目、口に出しちゃ)真治は笑っていた。犬彦は黙っていた。
(僕、人を殺したんですよ、このテレパシーで。ひとりごろしです)
(なぜ?)
(やってみたかったんですよ。誰にもばれてない。テレパシーを使えばそんなこと簡単にできるの先生にも分かるでしょう)
黙ってる犬彦を真治はじっと見ていた。その時、もう終わったと思ったのか受付からのドアが開いて妻が顔を見せた。
「あ、失礼しました」次の患者のカルテを置いてドアを閉めた。
「じゃ、どうもありがとうございました」真治は何事もなかったように部屋を出て行った。
犬彦はしばらくぼんやりしていて、次の患者のカルテも見ようとしなかった。
受付までのドアを少し開いて、「午後、休診にしてくれないか」と小声で妻に言った。
臨時休診の札を下げて、それまで待っていた客を適当に捌いて、犬彦は電話を取った。
「患者がね、人を殺したと言ってるんだが」
相手は警察だった。
「・・患者の名前は伏せますがね。そちらで犯人が捕まってないとか、未解決のさ、殺人だのありませんか。・・20代です」
相手方は心療内科と聞いて急に訝しくなった。
「いえ、それは偏見で。ええ、ない? ああ、そうですか。まあ、私もそう思っておりますが、・・では失礼します」
電話を置いて、また額に手をやった。人を殺したと思い込んでる、だけか・・。
「いやあ、今日は驚いたよ」自宅に帰って妻の顔を見ると思わず口を衝いて出た。
「あなた、大丈夫? 具合でも悪かったの?」
「いや、・・いや、もう大丈夫だ」
寝室。
「あの三田真治って子、ちょっと大変そうだね」
「あら、そうなんですか。見た目では分からないものねえ」
「ああ、見た目では分からない・・」
自分がテレパシーであることは妻にも言っていない。
翌日、開院の準備をしているところに電話がかかってきた。妻が出た。犬彦は真治ではないかと思い耳をそばだてていた。
「はい、お待ちください」保留音。「先生、警察から」
思わず電話をひったくって耳に当てた。
「はい、奥瀬です」
「昨日は気がかりな情報をありがとうございます」女の声は言った。その刑事は
「それで・・、人を殺したという患者のことは明かせないのですね?」
「ええ、まあ守秘義務というやつで。私も勘違いだと思っておりますがね」そこで犬彦は乾いた笑い声を立てた。
「それで、何かその・・」
「ええ、まあ不審死という取扱いになってますが人が死んだ事件ならあるんです」
「どういう・・?」
「自殺です。とにかく、自殺ということにはなっております。その人は何か事件についてのあらましというんでしょうか、何か言いましたか? 何でもお聞かせ願いたいのですが」
「いえ、ただ人を殺したというような、何と言ったらいいか・・」
「・・分かりました。またお気づきになることがおありのようでしたらいつでもお聞かせください。番号は・・」
丁重に犬彦は電話を切って、自分の鼓動が落ち着くのを待った。
(あなたよく奥さんの不平不満を見過ごせますね。頭が下がります)翌月、真治の二回目の診療だった。
「三田さん、経過はどうですか」
(君が殺したのはどんな人だったね?)
「ええ、まあ、治らないんです」
(
「気になることはそのままですか。頭を離れない?」
(どうやって殺した)
「やはり、そうですね。考えないようにしてるんですが」真治は頭を傾げた。
(僕は言い当てただけです。先生にもできるでしょう? これから人のやろうとしていることを次々と言い当てて、相手が何も考えられないようになったら命令するだけなんです。例えば目を突き刺せとかね)
犬彦はカルテに目を落とすふりをして、何かを書きつけるふりをした。
「先生、治るんでしょうか」
犬彦は袖で手の汗を拭いていた。
「治ります」
「先生はどう思いますか? 何でわざわざ殺されるような子を地に使わせたのか」
「んー」考えるふりをして、犬彦は耐えられなくて席を立った。窓の方に近づいて、「外気に当たることだね。それだけでも随分ちがう」
「お薬はそのままですか」
「そ、そうだね、ところで、」
(君は何とも思っていないのか)
(人を殺したことについてですか?)
犬彦は真治の目を見て肯いた。
「ありがとうございました」真治も犬彦の目を見たまま席を立って笑ってドアを閉めた。
客が引いたところで犬彦は自分の電話で牟田に電話した。
「・・その人はどうやって死んでいたんですか」
「目を刺されて、いえ、正確には自分から目を突き刺して死んでいたんです。それまで誰かと一緒にいたようなのですが、抵抗した跡もないし、刺されたというわけではないんです。ただ自分から進んで、ということですね。自殺クラブにでも入っていたのかという話も出ているほどです」
「名前は中山というのではありませんか?」
「・・そうです。先生、お会いする必要がありそうですね」
牟田礼子は改めて現場を歩き回った。もう一年も前の夏のことだからきれいさっぱり片付けられている。
先ほど奥瀬という精神科医に会って話を聞いたばかりだった。名前こそ聞けなかったが、その20代の男は中山という被害者の名前、殺された状況を話したらしい。秘密の暴露だ。
階段を降りてくる足音がした。
「ああ、
伽羅とは中山の遺された一人娘だ。伽羅はお辞儀をして、父が殺された現場についと目を向けた。
中山が殺された時、伽羅は寝ていた。遺体の第一発見者もこの娘だ。
火かき棒はもうそこにはない。中山はそれで目を突き刺して絶命していた。
礼子はそっと伽羅の肩に手を置いた。
そして自分の胸をトントンと触った。
(そうだね、そこに火かき棒がある。そこに目を突き刺せばいいよ。どうしてそんなにこの事を聞きたがるんです?)
「先生はどう思います? 結局、コロナって一体何だったんでしょうね」
やっと屋内でもマスクを外せるようになった頃合だった。真治の下の顔には煙草を吸い過ぎた火傷があった。
「さあねえ、人類への罰かな」適当なことを言って犬彦はわざと笑ってみせた。
「僕はねえ、結局何も変わらないってことじゃないかな、って思います」真治は残念そうな顔をした。
「先生、そんな顔してたんですねえ」それは青年らしいそれだった。
(ミルク飲み人形みたいに人の思考ってのはダダ漏れなんですよ。僕は予知能力者じゃないかと思うことがあってね)テレパシーを除いて。
(私のはそんなに強くないから)また犬彦はカルテに何か書くふりをした。どうせドイツ語だから分かりもしないだろう。
(先生、何か隠してませんよね。テレパシー同士だったら秘密ってできますからね)真治は顔の前で指を組んで犬彦をじっと見ていた。
「他に何か気になることは? 夜は眠れてますか」
参ったように真治は笑った。
(昼も夜もなく寝ていますよ。変わらずです)
「そうですか。じゃあお薬はこのままにしておきましょうか。さ、いいですよ」
「ありがとうございました。失礼します」真治は頭を下げて出て行った。
礼子は今日は上司を伴って来ていた。伽羅に改めて話を聞くためだ。
伽羅の前にはホワイトボードがある。
上司がそのホワイトボードに書いた。(その人のことを書いてくれる?)
伽羅は肯いて、ホワイトボードを消して自分の文字を書き出した。
それを見て上司は「どうして君が耳が聞こえると思ったのかね?」と礼子に言った。
「殺すぐらい親しかったら当然耳にはしていたはずだ。あなた何か声出しましたか?」声、と言ってでたらめな手話を上司はした。
(あなた何か起きた時、声を出した?)礼子はホワイトボードにそれを書きつけた。
伽羅は首を振って、ホワイトボードを受け取って、消して、(お父さんにおはようを言いに行かなきゃ)と書いてよこした。
「そう思ったのね?」礼子は頭に指を当てた。
伽羅は肯いた。
「中山が殺された頃ちょうど伽羅ちゃんは目を覚まして、そこにドアが開けられて誰かが顔を出した。暗くて顔はよく見えなかったが、すぐにドアは閉まった・・」昔の供述を思い出して礼子は繰り返した。
「起きたのか、そう言ったんじゃないでしょうか」
「なぜお嬢さんが起きたことを悟った?」
「さあ・・」上司と礼子は目を見合わせた。伽羅はじっと俯いていた。
三田真治は重要参考人として警察の取り調べを受けていた。
「どうだ、牟田さんの働きは」そこを陰で見ていた他の警官が聞いた。もう一方の見守っていた警官は「さっきからずっと黙り合って座ってるだけなんですよ」と不思議そうな顔をして二人を見た。
(テレパシー同士の夫婦って面白そうだね)
(仕方ないじゃない。テレパシーの人しか分かり合えないんだから)
(確かに彼女は僕の恋人でした。いや、思ってたのは僕だけかな?)
(つまりそういうことね)
(伽羅は何も言わなかったんですか)
礼子は肯いた。
(あなたが顔を出したことは何にも。あなた、起きたのか、って言ったのね)
今度は真治が肯いた。
(思わず。僕も動転してたのかな)
(見損なったわ。同じテレパシーがそんな動機で)
真治は短く笑った。
(本当の動機は、なぜ神は贔屓するのかだよ)
彼が何をしたかったのか、どう思っているのか知る由はない。彼は牢獄に入ってしまったのだから。守秘義務を破ったことに犬彦はいささかの恥も自責も感じていなかった。
ただ、逮捕前の面会には行った。
真治は拘置所の床に座って、真っすぐ犬彦を見据えていた。
(何でわざわざ殺されるような人を地に使わしたんですかね、先生)
帰り道の空はピスタチオカラーの、去年の初夏の流行り色だった。
はつなつ 森川めだか @morikawamedaka
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