第2話 あなたは誰ですか?

 僕は部屋に帰るなり部屋中の明かりをつけた。居室はもちろんだが、風呂、トイレ、キッチンなど全てだ。明るくしていれば悪魔はやって来ないと思いたかった。そして先ほど買ったペットボトルを抱えたまま、ベッドに潜り込んだ。


 目を瞑っても、あの生々しい映像が脳内で再生される。スリム美女が体格の良い悪魔に変身したあの時の。


 本物の恐怖を味わった。

 生まれて初めての経験だ。


 本当に怖かった。

 だから僕は逃げた。


 あそこで襲われていた人を助けた方が良かったのか。

 いや、そんな事は無い。

 僕がどうにかできる相手じゃない。


 だから警察に通報した。

 きっとこれで良かったんだ。


 遠くでパトカーのサイレンが響き始めた。

 意外と早かった。彼らは助かったのかもしれない。しかし、もう手遅れかもしれない。あんなのが暴れたら、普通の人間なんてあっという間に殺されてしまうと思う。一人一秒、三人なら三秒だ。


 怖い。

 体の震えが止まらない。


 早く夜が明けて欲しい。

 太陽の光に照らされれば、あの悪魔も霧散してしまうだろう。そう思いたかった。しかし、あと数時間は闇に包まれたままだ。


 僕はどうなる。

 どうしたらいい。


 何もわからない。

 胸に詰め込まれた恐怖心は、今は体中に溢れてしまった。手と足の指先にまで。


 震えが止まらない。

 誰か、誰か、この震えを止めて欲しい。

 ほんの一時でいい。

 安心したい。

 落ち着いて眠りたい。


「大丈夫、何も怖くないよ」


 突然、女の声が響いた。


「大丈夫。君は立派だよ」

「勇気ある男の子だね」

「だから安心して」


 これ……だれが喋っている?

 幻覚? いや、幻聴じゃないの?


「幻聴なんかじゃない。私は君の傍にいる」


 え?

 

「だーかーら! 私が傍にいるから安心しろって事!」


 何の事?


「空気読め。このニブチン」


 いや、空気も何も、一体誰なのさ。


「もう、強硬手段だよ」


 え?

 布団の端からもぞもぞと誰かが入って来た。そして背中から俺を抱きしめた。途端に体がぽかぽかと温まってきた。石鹸の良い香りもする。


「さあ、今日はゆっくり休もうよ。ね、私が一緒だから安心して寝ちゃおう」


 女の人?

 いやいや、誰だろうか。

 僕のベッドに入って来るような女の人がいるとは思えないんだけど。


 あれ?

 そういえば、玄関の鍵をかけてなかったかも?


 僕は恐る恐る振り返ってみた。

 肩越しに声の主の顔を拝んだ。


 女の人だ。

 髪は黒くてショート。

 細い輪郭とつり上がった目。

 これはいわゆる狐顔というやつだろう。しかし美女である。


「ねえねえ。落ち着いた?」

「多分」

「怖くないでしょ?」

「そうだね」

「あんなの見たからって寿命が縮まるとかないし、目撃者を消そうなんて事はしないし」


 あんなの?

 寿命?

 目撃者?


 えーっと。

 この人。

 何故、僕が怖い思いをした事を知ってる?


「あの……」

「なあに?」

「あなたは誰ですか?」

「誰でもよくない?」

「そんな事は無いと思いますけど。女の人が男の部屋に勝手に上がり込んで、そしてベッドに潜り込むとか、色々問題があるんじゃないかって思うんですが」

「そうかなあ」

「そうです。じゃあ僕の方から名乗りますね。姓は大殿大路おおどのおうじ、名は清史郎せいしろう。二十歳になったばかりの大学二年生です」

「うん。画数多そうな名前だね」

「そうなんですよ。試験でも名前書くのに時間かかるし」

「嫌?」

「そんな事はありません。同姓同名とかありえないんで、その、中村さんとか鈴木さんとか、クラスに何人もいたりするじゃないですか。僕は学校に一人だけだから楽でした。今もそうです。大学でこの姓は僕一人だけ」

「よかったね」

「はい。ところであなたは誰ですか? 知ってる人? こんな美女の記憶なんてないんだけど」

「美女? そんな事ないと思うけど」

「そんな事ありますよ。本当に綺麗だ」


 僕は体を捻って彼女の方を向いた。そしてその時になって気付く。


「あの……衣類はどうされたんですか? 上半身は何も着ていないように見えますが」

「着てないわね。上も下も」

「えーっと、何でそんな恰好をしてるんですか?」

「不可抗力よ」

「不可抗力って?」 

「私が一切の方法を尽くしてもこの損害を防止できなかった」

「いやいや、その用語的な話じゃなくて」

「そのまんまですけど。服が破れて着用出来なくなったのは私の責任ではありません」

「服が破れたの?」

「はい。レイプされて破かれました」

「レイプ??」

「厳密には未遂ですね。だから……強制わいせつ?」

「だったら警察に行かなきゃ」

「警察は不要なんです。面倒だし」

「え?」

「さっきも、あなたが警察を呼ぶから焦って退散しちゃったんです。まあ、いただくものはいただきましたけど」

「あの?」

「何ですか?」

「とりあえず、お名前を聞かせてください」

「名前ですか?」

「さっきから聞いてます。色々信じたくない事実が次々と暴露されているようで、その辺の事情は深く追及しない方が良さそうかなとか思ってます。でもあなたの名前だけは聞いておきたい」

「うーん。どうしよっかなあ」

「何で迷ってるんですか? 名前くらいで」

「そんな軽い物じゃないんだけど。あなたの為を思って誤魔化してるの、気づいて欲しいんだけど」

「ニブチンですみません。お名前、教えてくれませんか? 僕は名乗りましたよ」

「そうね。後悔しない?」

「後悔?」

「そう。後悔」

「何で後悔するんですか?」

「だって、悪魔に名前を聞く……これってヤバくない?」


 ええっ!

 悪魔!


 僕はベッドから起き上がった。掛け布団も一緒だ。

 狐顔の美女は全裸だった。


 その時、僕はやっと気づいた。

 目の前にいる彼女が、あの悪魔だったのだと!

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