第18話 スワンの日々(5)


 昴と美沙斗が着替えているその数分後、芙美がやって来た。


「ごめん、遅くなって・・・・・・」

 扉を開けるなり、全力疾走をしたような顔で芙美が現れる。

 さっきの楓とは比べ物にならない疲れた顔をしていた。

「ど、どうしたんですか?」

 瞬きをして秋悟は呆然とした顔ながらも芙美に駆け寄る。

 疲れた顔をする芙美は見たことが無かった。

 それほどのことが今、起きているのだろうか。

「寝坊しちゃった・・・・・・。七時前には来る予定だったのに・・・・・・」

 崩れ落ちるように芙美は座り込んだ。


 ハッと気がついたら、起きる時間を過ぎていた。

 目覚ましをかけ忘れる日ほど、目が覚めない。

 こんなことなら昨日、飲み過ぎなければ良かったと芙美は後悔していた。


「あー、納品はやっておきましたよ?」

 掛ける言葉に戸惑いつつも、秋悟は状況を説明する。

 秋悟が来た時、ちょうど納品の業者が来ていた。

 納品対応の回数は少なかったが、秋悟は臨機応変に対応して現在に至る。

「あー、ごめん! ごめんね、この借りは返すから!」

 両手を合わせ、何度も何度も芙美は頭を下げた。

「いえいえ」


「身体で返すから! ね!」

 活気のある声でそう言って芙美は秋悟に迫る。


 近づくなり、芙美の容姿の良さが秋悟にぐさりと刺さった。

 無論、良い意味である。


「身体って・・・・・・。えー」

 秋悟は唖然とした態度を取りながらも困った顔で言った。


 この人のことだから深い意味は無いだろう。

 良くも、悪くも。


 どうして、このタイミングか――。


 黒いゴシックのメイド服を着た楓が更衣室から帰って来てしまった。


 傍から見れば、それは秋悟と芙美が抱き着いているような光景。


「えっ? 秋悟・・・・・・?」

 楓は時間が静止したように固まった。


 秋悟が自分以外の女の人と、それもあんなに綺麗で可愛い人と――。

 楓は自分の血の気が一気に引いた感覚に襲われた。


「えっ、楓・・・・・・?」

 楓の顔を見るなり、秋悟は焦った。

 その様子だと何か大きな勘違いをしているように見える。

「ん?」

 固まった楓を見て、芙美は不思議そうな顔で首を傾げた。


 そして、悟ったのか軽快な足取りで秋悟から離れていく。


「ねえ、秋悟・・・・・・?」

 信じられない顔で楓はゆっくりと秋悟へ歩いて行った。

 その歩き方はどこか彷徨うようにふらついている。

「ど、どうしたんだ? 楓?」

 ぎこちない仕草で秋悟は自然と後退る。

「私じゃ――――足りない?」

 目を瞑り、大きく息を吸って楓は儚げな顔で言った。


 後先考えず、思わず出た言葉。

 楓はそれほど感情が抑えられなかった。


 足りない――。

 いったい楓の何が足りないのか。

 秋悟は考える。


 パッと思い浮かばなかった。

 もう一度、今までを振り返る。


「・・・・・・あ」

 気がつき、秋悟は思わず口に出した。


 ――そう言うことではない。


 即答したい気持ちはあったが、これは彼女に対するベストアンサーではない。

 ただ自身の感情のまま発言して、彼女を傷つけるだけだ。

 それに彼女がそう言った意図を理解すると、当然無下には出来ない。


「ねえ、秋悟?」

 楓は言葉に詰まる秋悟の前に立った。

 そして、ゆっくりと両手を前に出し、秋悟の首の後ろで組む。


 交差するように楓の顔は秋悟の右肩にあった。

 吐息の音すら聞こえる距離。


 足りない。

 むしろ、満ち足りていた。

 しかし、これは過剰。

 

 このままでは秋悟の理性が持たなかった。

 このままでは――まずい。


「そりゃ、俺もすべて放り投げ出したいよ」

 いつも低い声で秋悟は楓の耳元で呟く。


 このまま思いのまま――。

 そんな出来ないことを秋悟は考える。


「――へ?」

 予想外の言葉に楓は呆気にとられた顔をしていた。

 その影響なのか、組んでいた両手を解いてしまう。


「すべてを無視して思うままに出来れば、こんなにも苦しくないのに――な」

 一歩後退し、真剣な眼差しで秋悟は言う。


 瞬きをして楓は秋悟を見つめ、考えた。


 どうして苦しいのか。

 何を放り投げ出したいのか。

 思うままに何をしたいのか。


 彼の真剣さ故のこと――。

 秋悟が抑え込んでいる何かを楓は理解した。


「――っ!」

 理解した途端、恥ずかしさのあまり、楓は身体が蒸発したような熱を帯びる。


 私は自身の思うまま、彼に迫った。

 でも、彼は彼自身の思う先を見越していた。


 切実。

 白鳥秋悟とはそう言う男なのだ。


 楓は納得したように無言で頷く。

「もう少し俺が自身を抑え込めるようになれれば、その時は――な?」

 そう言って秋悟は笑顔を向けた。


 好きと言う一直線の思いだけでは、

 傷つけてしまうこともあるし、傷つくこともある。


 変わらなければならない。

 彼女をこれからも大切にするために。


 その先にいる自分を――。


 一人の男として。

 一人の経営者として。


 少しずつ目指す自分になるために。

 秋悟は小さく深呼吸をして、決意した。


「うん。――待ってるよ。秋悟」

 少し距離を取ると楓は微笑んだ。


 私は彼の夢を応援したい。

 そして、夢を叶えた彼と隣に入れるように――私も。


「二人とも・・・・・・、同じ顔してるね」

 離れたところで二人を見ていた芙美が少し驚いた顔をしている。

「同じ顔?」

 とは――。どう言うことだろうか。

「うん。似ているとかじゃないんだよねー。雰囲気かな?」

 腕を組み、芙美は良い言葉が見つかっていない顔をする。

「ふ、雰囲気ですか?」

 芙美の言葉に楓はあたふたしたような仕草をして口を半開きにしていた。

「私の親友も旦那さんとそんな感じだけど、白鳥くんたちもー?」

 二人を見つめ、芙美は不思議そうな顔で悩み始める。


「さあ――。どうでしょうかね」

 一瞬、楓を見ると秋悟は不敵な笑みを芙美に向けた。


 そして、秋悟は何食わぬ顔で更衣室へと向かって行く。


「・・・・・・秋悟のいじわる」

 恥ずかしそうにしゃがむと、楓は秋悟の背中を見つめてそう言った。


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