第9話 昴と美沙兎(1)


 翌日。日曜日。

 午前七時。昴の家。

 

 寝ぼけながらリビングに行くと、

 ソファーに白いパーカー姿の美沙兎がいた。


「あ、おはよう。美沙兎」

 あくびをしながら、昴は美沙兎に挨拶する。

「おはよう。昴」

 美沙兎の挨拶を聞いた昴は台所へ向かおうとしていた。

「ねえ、昴」

 台所へ向かおうとする昴を美沙兎は止める。

「ん? どうしたの、美沙兎?」

「――お腹空いた」

 しょんぼりとした顔で美沙兎は俯いた。

 その姿も愛らしく、昴は思わず見とれる。

「・・・・・・何食べたい?」

 果たして、冷蔵庫に何があったかな。

 昴は頭の中で振り返りつつも、美沙兎の希望を聞いてみる。

「和食」

 少し眠たそうな顔で美沙兎は呟いた。

「・・・・・・だいぶ大きな括りだね」

 さて、和食になりそうな食材があったかな。

 そして、昴は台所に置いてある冷蔵庫を開けた。

「昴のご飯なら何でもおいひい・・・・・・」

 寝ぼけた顔でソファーに顔を埋める。

 

 僕のご飯なら何でも美味しい。

 美沙兎の言葉が素直に嬉しかった。

 

 自炊を初めて約一年、ようやく身に付いてきた気がする。

 これも父さんの海外出張が決まってくれたおかげだ。

 

 父さん、しばらく帰って来なくていいかもしれない。

 いや、むしろ帰って来ないでください。

 昴は心の中で父へ向け、そう伝えた。


「昨日、塩鯖買ったから焼き鯖でも良い?」

 冷蔵庫にあった塩鯖を見て、昴は買ったことを思い出す。

「鯖好き。待って・・・るぅぅ・・・・・・」

 安心したような顔でそう言うと、美沙兎はソファーの上で寝てしまった。

「えー、寝るの早い・・・・・・」

 ソファーへ歩み寄り、驚いた顔で美沙兎見つめる。


 日に日に早くなる美沙兎の早寝。

 安らかな寝息を立てていた。


「――まあ、いっか」

 寝ている美沙兎に毛布を掛け、昴は洗米をした後、炊飯する。


 炊き上がりと鯖の調理時間に差があるので、昴は先に風呂掃除をしていた。


「――と言うより」

 浴室を掃除する中、昴はふと気づく。


 どうして、美沙兎がうちにいるのか――。

 何より、僕も気づくのが遅すぎじゃないか。


「確かに時々いるけどさー」

 独り言を言いながらもスポンジで浴室をこすっていく。

 

 美沙兎の家は、僕が住むマンションの隣の号室である。

 それは僕らが生まれた時から変わらないらしい。

 

 時々、美沙兎は気がつけばうちにいる。

 理由を聞いても、なんだかんだ濁される。


 ――まさか、家の鍵が一緒とかじゃないよな。


 試したことが無い。そもそも試す気はない。

「そんなわけないよなー」

 また僕が鍵をかけ忘れたか――。昴は自身にそう言い聞かせた。

 風呂掃除が終わり、リビングへ戻る。

 ソファーの肘掛けを枕のようにして、美沙兎は仰向けに寝ていた。

 気がつけば、昴が掛けたはずの毛布は背もたれ側に寄っていた。

 僕が風呂掃除をしている間に何度か寝返りを打ったようだ。

「やっぱり、美沙兎だよな・・・・・・」

 無防備な姿で眠る幼馴染を見つめ、昴はため息のように息を吐く。

「さて、鯖焼こうかな」

 そろそろちょうど良い頃合いだろう。

 背筋を伸ばしながら、台所へ向かって行った――。


 鯖の塩焼きと味噌汁とご飯。

 シンプルだが絶妙に美味しい組み合わせ。


「あともうすぐかー」

 炊飯器の残り時間を確認しながら、昴はおろし器で大根おろしを作っていた。

 ソファー側に視線を向ける。美沙兎の起きる気配は一向に無かった。

「果たして今日も美沙兎は起きてくれるのか・・・・・・」

 おろしながらも昴は考える。

 美沙兎は声を掛けても基本的に起きない。

 本人曰く、爆睡しているため聞こえていないらしい。

 

 起こす時は触って起こして。

 昴は美沙兎自身にそう言われていた。


「んー」

 昴は眉間にしわを寄せ、険しい顔になった。

 あの状態の美沙兎に触る。そう考えるだけで不純な思考が介入してくる。


 ピーピーピー。

 お米が炊けました。

 そして、大根おろしも出来ました。


 準備は万全だ。


「あとは美沙兎を起こすだけ――か」

 思いつめたように小さくため息をついた。


 最大の関門。

 今週で一番の試練かもしれない。


「美沙兎ー、ご飯出来たよー」

 とりあえず、台所から普段より大きな声で美沙兎を呼ぶ。

 大抵の人ならこの声が聞こえるだろうし、起きるだろうと思うけど。

「・・・・・・」

 返事が無い。むしろ、小さな可愛らしい寝息が聞こえてきた。

 可愛らしい寝息を聴くだけで、無防備な美沙兎の姿が想像出来る。


 ――いかん。僕は美沙兎を起こす側のはずだ。

 その姿を堪能している場合ではない。


「・・・・・・しょうがない」

 ゆっくりと昴はリビングへと向かって行く。

 結局、美沙兎に触れて起こす手段しか無さそうだ。

 起きるまで待っていたら、料理が冷めてしまう。

 無論、鯖の塩焼きは出来たてが一番美味しいのだ。

 ソファーに視線を向けると、美沙兎は仰向けで両手を上げるようにして寝ていた。

 長めのパーカーを着ているせいか、履いている短パンよりも下の位置まで来ている。

 ぱっと見ただけだと、パーカーしか着ていない女の子だ。

 いつから、美沙兎はそんな子になってしまったのだ。

 昴の中でそんな親心が芽生える。

「・・・・・・」

 仰向けに寝る美沙兎を見つめ、昴は息を飲んだ。

 両手を上げ少し沿っているのか、胸元の形がはっきりとわかる状態になっている。

 

 昔よりも大きくなった美沙兎の――。

 昴は咄嗟に想像する。


「――ハッ」

 目を見開き、昴は自身がにやけていることに気づいてしまった。

「んあっ」

 すると、美沙兎は喘ぐような声を上げ、一回転。ソファーの外側へと転がって行く。

「あっ、美沙兎そっちは――」

 昴は咄嗟に手を伸ばすが届かない。


 ドテンっ。

 必然的に美沙兎は床に落ちてしまった。


「・・・・・・いたい」

 仰向けに落ちた美沙兎は目をぱちぱちして天井を見上げると、一言そう言った。

「美沙兎、大丈夫?」

 倒れる美沙兎に昴は心配そうに駆け寄る。

「あれ……? 昴、起こしてくれなかったの?」

 上半身を起こすと、美沙兎は眉間にしわを寄せて不機嫌そうな顔になった。

「いや、起こしたよ?」

「触った?」

「いやいや、それは。・・・・・・声は掛けたよ?」

 触るか触らないか、迷っていたところだ。

「どうして、触ってくれなかったの?」

 語弊を生みそうな言い方で美沙兎は言う。

「それは・・・・・・ちょうど、触って起こそうとしたんだよ」

「・・・・・・ふーん」

 どこか残念そうな顔で美沙兎は小さく頷いた。

「それで美沙兎、身体は痛くない? 大丈夫?」

「うん。問題無いよ。――っ! ・・・・・・ご飯出来た?」

 ご飯の匂いに気づいたのか、美沙兎は背筋を伸ばし、ピンとした姿勢になる。

「ご飯出来たから、起こそうとしたんです」

 笑顔で昴はゆっくりと頷く。

「食べたいです。昴さん」

 美沙兎は寝ぼけたように無気力な頷き方をする。

 昴さん。美沙兎の言葉がじんわりと温かく、僕の中で染みていった。

 何だろう。どうしてか、愛おしい気持ちが込み上げてくる。

「それじゃあ――昴」

 無邪気な笑みで美沙兎は両手を昴に向けた。

 その様子だと、起こして欲しい、そう言うことだろう。

 上目遣いで見つめる美沙兎に僕はいつも勝てない。

 きっと、これからもなのだと昴は悟った。

「あー、はいはい」

 昴は自身の両手で美沙兎の両手を握ると、座る美沙兎を立たせるように起こした。

 起こす時に感じる美沙兎の重み。

 思わず抱きしめたくなってしまうくらい華奢な容姿をしていた。

「ほい」

 起こした拍子に美沙兎は突撃するような勢いで昴に抱きついた。

 衝動的に思わずそうしたくなる。美沙兎は自分でも不思議な気持ちだった。

「ぐはっ」


 美沙兎の重心が僕のみぞおちに。

 昴は押し出されるように後退する。


 そして、姿勢を崩した二人は揃って後ろに倒れて行った。

「いった・・・・・・」

 仰向けになった昴は小さくため息をつく。

 そんなに強く引っ張ってしまっただろうか。昴は特に意識してなかった、

「ごめん。――過失」

 昴の上で美沙兎は申し訳なさそうな声で呟く。

「過失なの・・・・・・?」

 美沙兎からそんな言葉が出るなんて珍しい。

 いつもなら、わざとじゃない、そんな言葉を使うのに。

 昴はふとした疑問を抱いていた。

「故意では・・・・・・無いよ?」

 なぜか笑みを向ける美沙兎。

 不思議とドキドキしてくるのはなぜだろう。

「過失なら仕方ない・・・・・・か。それで・・・・・・いつどいてくれるの?」

 さて、仰向けの僕の腰に馬乗りの美沙兎は、いつどいてくれるのか――。


 僕の下半身が良からぬ反応をしている。

 長期戦は避けなければならない。


「・・・・・・っ!」

 美沙兎は状況を理解したように目を見開いた。

 その後、驚くようにビクッとした動きをすると急に固まる。

「あれ? 美沙兎?」

 おかしい――。雰囲気が急に暗くなった。

「・・・・・・助けて昴」

 涙目な顔で美沙兎は昴を見つめる。

 美沙兎のその顔に思わず下半身が揺らいだ。

 

 ――こりゃ、長くは持たんぞ僕。


「えっ?」

 どうして美沙兎はそんな顔をしているのか。

「下半身が動かない・・・・・・。腰が抜けたのかも・・・・・・」

 どこか申し訳なさそうな顔で美沙兎は言った。

「えええっ、痛くない? 大丈夫?」

 僕の上で動けなくなる美沙兎。どうしてそうなった。

「痛くはない。けど、動けない。・・・・・・ごめん」

 しゅんとして美沙兎は昴の腰の上で落ち込む。

「んー、腰が抜けたとかなら安静していれば治るのかな?」

 腰が抜けたら、脱力して感覚が無くなると聞く。

「たぶん・・・・・・。せめて、昴の下半身側まで行けば、どけられるかもしれない」

 そう言うと美沙兎は両手を床につけて、精一杯の力で身体ごと後退しようとする。


 ちょっと待った。

 今、僕の下半身に来てはいかん。


 バッ――。

 昴は後退しようとする美沙兎の両手を咄嗟に掴んだ。


「・・・・・・昴?」

 昴の咄嗟の行動に美沙兎は不思議そうな顔で首を傾げる。

「いやー、そのー、無理に動かなくてもいいんじゃないかな?」

 目が泳ぐ。言葉が浮かばない。昴は動揺していた。

「そ、そう・・・・・・? でも、どかないと昴が動けないよ?」

 ぱちぱちと瞬きをして、美沙兎はゆっくりと首を傾げた。

 彼女のアンテナも一緒に傾いていく。――可愛い。

「まあ、それはそうだけど・・・・・・。別に美沙兎が治るまでこのままでも良いかなーって」


 僕の下半身が収まるのが先か、

 美沙兎の感覚が戻るのが先か。


 この状況で前者が訪れるのかが危うい。

 後者に期待するしかない。


「なら、そうする・・・・・・」

 申し訳なさそうな顔で美沙兎は呟いた。

 次第に美沙兎の息が荒くなっていくのが聞こえてくる。

「美沙兎、具合悪い?」

 普段の美沙兎と少し違う。昴は心配だった。

「へっ?」

 しゃっくりのような不思議な声を出す。

 滅多に聞かない声。小動物の鳴き声のようにも聞こえた。

「息荒くなっているから具合が悪いのかと」

「そー、そんなことないよ・・・・・・?」

 戸惑ったような声で美沙兎はどこか曖昧な顔で言う。

「なら、良かったけど具合悪かったら言ってよ?」

「この状況で・・・・・・?」

 少し唖然とした顔で昴を見つめる。

「うん。まあ、僕の上で寝ることくらいしか出来ないけどさ」

 横になるだけでも少し楽になるのではないのだろうか。

 ――と。僕はいったい何を言っているのだろうか。

 まるで、誘っているような言い方じゃないか。

 昴は内心冷や汗を掻いていた。

「っ! 良いの?」

 晴れた顔になるとの同時、昴の腹部に乗せた美沙兎の両手が力む。

「うん。――まあ」


 まんざらでもない顔を返す。

 少しは良いとこを見せたい。

 男の子だもの。


「それじゃあ、お言葉に甘えて――」

 そう言うと美沙兎はゆっくりと上半身を倒すと、昴に抱きつくようにうつ伏せになった。

 しばらく、沈黙が訪れる。


 耳元にある美沙兎の頭。

 乱れた美沙兎の吐息が聞こえてくる。

 

 僕の胸元が柔らかい何かを感じていた。

 紛れも無い美沙兎の――。

 

 想像するだけで、昴はおかしくなりそうだった。


 気がつけば、僕らはもう高校生。

 幼稚園の頃から知る彼女もこんなに大きくなった。

 

 無論、彼女の時が進むように僕の時も進んだ。

 あの頃は同じくらいの身長もこんなにも差がついた。

 

 声も低くなったし、身体つきも変わった。

 見た目が変わるように、中身も変わってしまったのだろうか。

 

 少なくとも、僕は良くも悪くも変わっていないのだ――。


 ――じゃあ、美沙兎は?


 ふと思う疑問。

 彼女の本心は僕にはわからない。

 昴は無音の中、考えていた。

 

 数分後。

 耳元で可愛い寝息が聞こえ始める。


「・・・・・・あれ?」

 もしかして美沙兎、寝ている――? 昴は呆然としていた。

「まあ、寝ても良いって言ったよな・・・・・・僕」

 小さくため息をつき、昴は呟いた。

 さっきまで寝ていたはずだが、ここ数分で疲れてしまったのだろうか。

 疲れたら寝てしまうのは相変わらずのようだ。

 昴は自然とホッとする。

「さて・・・・・・」


 僕の上で馬乗りの姿で寝る美沙兎。

 彼女の重み、匂い、声と言った諸々が僕の思考を困惑させる。


 これは――いかん。


 深呼吸――。

 昴は『冷静』と言う単語を自身に言い聞かせた。


「ゆっくり――――と」

 両手で美沙兎の胴体をゆっくりと持ち上げ、その隙間から何とか抜け出す。

 美沙兎の身体を下ろし、美沙兎は女の子座りのままうつ伏せになった。

 体勢が変わっても美沙兎は、やはり起きない。

 

 ――まあ、想定はしてたけど。


「ふう」

 昴はリビングから台所へ移動し、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐いた。

 とりあえず、台所で温かいお茶を飲もう。

 昴はガス台に置いてあったやかんにお茶を入れ、火を点けた。

 沸騰する前にガスの火を止め、お茶を湯呑に入れる。

「なんだったんだろうな・・・・・・」

 椅子に座り、昴はお茶を飲みながら呆然としていた。

 あまりの流れに思考が追いついていない。

 不運な事故なのか、美沙兎に迫られるような展開だった。

 

 ――無論、迫られたわけじゃないけど。


「しかし――な」

 冷静になった昴はふと思い出す。


 ここ数日の記憶。

 スワンの日々を――。


「案外、僕も出来るんだなー」

 秋悟から誘われて始めた喫茶店のバイト。


 いったい僕に出来るのだろうか。

 そう思って始めたが、気がつけばそう言った不安は無くなっていた。


 ――多少、僕は変われただろうか。


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