第7話 実家からの贈り物
(女の格好をするのは、久しぶり……)
そういえば、妃嬪の御前に出るのにすっぴんの男装では憚りがあるのだろう。義父と義兄は、ここぞとばかりに娘を飾り立てることにしたようだった。
「手伝うかい?」
「いりません」
無邪気に綺麗な笑みを見せる義兄にぴしゃりと言って、碧燿は衣装を抱えて衝立の陰に周り込んだ。裸を見せるのは論外だけど、それでも兄妹だけに気兼ねはないから、さっさと帯に手をかけた。
「
しゅるり、と。纏っていた衣が床に落ちる滑らかな音を聞きながら、衝立の向こうに問いかける。
「此度のことは、頭を悩ませる方も多かったのでしょうね? 私のこの性格なら、詳細を調べることになるだろうと期待されていたのでは? 不義を犯した妃が罰を受けないままでは収まりがつかないのでしょうし、廃するならば後釜が必要で、自家の娘を推せるように陛下と面識を得ておく──ひとつの石で、どれだけの獲物を仕留めるおつもりですか?」
口と同時に手を動かして、碧燿は実家から送られた衣装を纏っていく。墨の汚れがつきものの仕事ゆえ、日ごろは麻の服を着ていたから、絹の
「大事なことを漏らしている。お前に幸せになって欲しいのだよ。
碧燿が列挙した推測を、珀雅は否定しなかった。彼女の幸せ云々とかいう戯言よりも、そちらのほうがよほど重要だった。
(皇帝は、やはりそのお妃を庇うおつもりみたい? そして、義父様たちには、それがご不満なのね。確かに感心できることではないけれど、代わりに私を妃にしようとしているなら大問題……!)
というか、そもそも碧燿は妃嬪の一角を占めるべく後宮に入れられたのだ。彼女を引き取った
けれど、育てられた恩があるのは重々承知で、それは碧燿の望まぬ道だった。だからさっさと後宮の文書を司る
「私はたいへん幸せですよ。昨日も申しましたが、真実を求めるものは疎まれるのが当然、本望ですから」
義父が見立てたであろう衣装は、碧燿の容姿を引き立てることをよく考えているようだった。花咲くような薄桃色の
(胸元を露出しない意匠なのは、助かるけど)
最近の流行りに反して、
「それに──皇帝陛下の御心は、ひとりの方が占めているのでは?」
それはさておき。珀雅がいるうちに、実家の思惑と皇帝を巡る現状を、もう少し確かめておかないといけない。
「可愛げのない小娘など見向きもされないでしょう。それとも、邪魔者を追い落とせとのお考えですか?」
藍熾は、不義を犯した妃を堕胎だけで不問に処する考えらしい。皇帝にはあるまじき優しさ、というよりももはや甘さは、その女性への格別の想いを表すとしか思えない。だからといって追及しない理由にはならないし、義父たちが気付いていないはずもないけれど──
(それなら、私を推したところで無駄なのでは?)
言外の問いかけは、衝立の向こうの珀雅にしっかりと伝わったらしい。軽やかな笑い声が返ってきた。
「陛下は、
「
ここに至って初めて
(それは、
碧燿の主義には反するけれど、皇帝が公にしたがらないのも、義父たちが口出ししたがるのも、相応の理由があったらしい。思い至らなかったのは、とても迂闊なことだった。
頭を抱える碧燿の耳に、衣擦れの音が届く。珀雅が、立ち上がったらしい。
「誰に仕えるかを聞かなかったのもお前らしくない。……貴人の
「私、は──」
そう、確かに。投獄された
(宮女の罪は、多くは
だから同情しなかったのだろうか。ううん、情状酌量の余地があるかどうかは、真実の記録には関係ないのだけれど。
言い淀み、自らを振り返って思い悩む碧燿の視界の端に、影が落ちた。珀雅が、長身を活かして衝立の上から覗き込んできたのだ。
「そろそろ着替えたか? 髪を結うのはさすがに手伝いがいるだろう?」
着替え終わっていたから良いとはいえ、返事を聞く前に覗き込むのはたいへんな無作法である。義兄の爽やかな笑顔を、碧燿は
* * *
(ううん、それはどうでも良くて……)
義兄の手によって、固く男の
数年前まで、夏天を支配していたのは皇太后──先々代の皇帝の正妃だった。病弱な幼帝に代わって、
親族やおもねる者に官位や封土をばら撒き、民に重税を強いて遊興に耽るその女の治世は、実に三十年近くに渡った。諫言する者が次々に死を賜る中で、幼帝が成人すれば、という希望さえ
(ましてや有力な諸王は、口実をつけては罪に陥れられた……)
言いがかりのような罪で兵を奪われ地位を追われ、時には命さえ奪われる──藍熾も、そのような皇族のひとりだった。若く血筋正しい彼は、皇太后からは警戒を、臣下からは希望を集め、数年に渡る乱を収めてついに空になっていた玉座に昇ったのだ。
碧燿の髪に触れるその手で、珀雅は人を殺めたこともあるはずだ。乱に際して自家以上の功績を挙げた
「──陛下は、
「だから閨に召すのは思いもよらない、と……?」
珀雅は麗しい貴公子だが、碧燿がときめくことはない。珀雅だって、碧燿の髪を梳く手つきは丁寧であっても色気はない。血は繋がらずとも、互いに兄妹だと思っているからだ。皇帝と
「そういうことだ。ただ、日中は頻繁に訪ねていらっしゃると聞いている。心許せる相手は稀だから、ということだろうな。だから、死を賜ることはおろか、追放することさえ考えてくださらぬのだ」
「
眉を描き、まなじりと頬に紅を差し。小指の先にまた違う色の紅を乗せる前に、碧燿は訪ねた。藍熾の
(ご自身のみならず、実家にも累が及ぶのに……それでも構わないほどの相手だということ?)
そんな男がいるとして、後宮でいったいどうやって出会ったのだろう。まして、逢瀬を重ねるなんて。
「まことに不可解なことだな」
描いたばかりの眉を寄せて訝る碧燿の耳元に口を寄せながら、珀雅は
「その辺りも、お前がどうにかしてくれないかと期待している」
「どうにか……」
あまりにもざっくりとした期待を寄せられて、碧燿は苦笑する。紅が歪まなくて幸いだった。その間に、珀雅は彼女の肩に
「これなら、貴妃にも見劣りしないだろう」
「張り合うために行くのではないはずですが?」
満足げに微笑む珀雅の言葉は、やはり碧燿の仕事を分かっていない気がしてならなかった。彼女はあくまでも
(どうせ墨で汚れるのに)
ともあれ──鏡に映る碧燿は、確かに見栄え良く仕上がってはいた。きちんと化粧をして髪を結って、華やかに装うと思い出す。
彼女は母に似ているのだ。とても美しかった、母に。
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