第8話 傷ついた白い鳥
* * *
貴妃の居室に入った瞬間、
跪いて
(ああ、そうか……
今上帝の
そしてもうひとつ、恐らくはより切実な理由は、先の皇太后による
(でも、
あわよくば娘を皇帝に売り込みたい、という義父たちの思惑は、
さらに言うなら、
(これは苦労する、かも)
これからの出来事を記録するだけでなく、これまでの記録も洗いたいし、侍女たちに話を聞きたいと思っていた。けれど、碧燿に正直に話してくれる者がいったいどれだけいるだろうか。
暗い予感に低く垂れた碧燿の頭上に、柔らかな声が降った。柔らかい──初春に、寒さを溶かす南風のような。温かいだけでなく、花の香りまで運ぶかのように芳しく、品の良さと華やぎも漂わせる、清らな声。
「藍熾様が
「はい──」
考えるまでもない、
「名は、何と?」
「
「ああ、それで」
貴妃が、何をどう了解して頷いたのか、碧燿には分からなかった。彼女のやたらと豪奢な衣装についてなのか、貴妃を追い詰めるべく遣わされたことについてなのか。分からないまま、目の前の美しく優雅な
新雪の翼を持つ、眩い鳥──を思わせる美姫──は、けれど傷ついているように見えた。白い頬は青褪めて血の気がなく、痩せてもいる。顔かたちが整って美しいからこそ、黒々とした目の大きさがいっそう
(
美しい貴人のやつれた風情を凝視するのは、非礼になるのだろうか。それでも、この方の心の
ひとまずは罪に問われないことに安堵しているのか、心奪われた相手を慕っているのか。それとも殺されようとしている我が子のために悲しんでいるのか。その心の扉を開かせることが、碧燿にできるのかどうか。──不可能ではないのかと、思ってしまいそうになるけれど。
(だって。真実を告げたらこの方は──)
これまでは、真実の追及は誰かを助けることに繋がっていた。先日の
貴妃の不義の相手を見つけ出せば、その男は無惨な死を賜ることになる。愛した者を殺す真実を、どうして明かしてくれるだろう。
迷いに喉を塞がれて沈黙する碧燿を前に、貴妃の、色のない唇が微かに微笑む。
「綺麗な方が来てくれて嬉しいわ。この
健やかなころであれば、この御方ひとりで十分すぎるほどの輝きであっただろうに、罪を犯してやつれた貴妃は奇妙なことを言った。続けて、それに、と呟いて笑みを深める。枯れかけた花を思わせる、病んだ暗い風情の笑みだった。
「わたくしを追及してくださるおつもりなら、喜ばしいこと。貴女も、職務に忠実に励んでちょうだい」
貴妃が漏らした言葉に、侍女たちは静かにどよめいた。碧燿も、無言のままで目を瞠った。
(この方は、私の職務を何だと思っていらっしゃるんだろう?)
(それも、皇帝陛下に言うのではなくて──なぜ、私に?)
貴妃の真意を測りかねて、碧燿は数秒の間、固まってしまった。侍女のひとりが重々しく咳払いしたことで、ようやく我に返り、改めて頭を垂れる。尊い御方からのもったいない御言葉なのだ。黙り込んだままではやはり非礼になってしまう。
「恐れ入ります。誠心誠意、努めます」
固い声で述べながら、敷物の精緻な織り目を見つめながら。碧燿は、必死に自分に言い聞かせる。
(
妃の不義という重罪の真相を、記録に残さなくては。その結果、この美しい人がどうなるか、どれだけの命が失われるかは──今はまだ、考えるべきではない。胸に湧き上がる疑問も、封じ込めなくては。
(私は──真実を記したいのではなく、誰かを助けたかったの……?)
それは違う──と、思いたたかった。真実は尊いもの、命を賭してでも記録すべきものであって。罪は正しく裁かれるべきであって。
哀れみを覚えるのは間違っている。その、はずだった。
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