第6話 大罪の妃

 藍熾らんしは、ごく簡単な一言二言で人払いを命じた。碧燿へきようの──彤史とうしの手狭な仕事部屋に押しかけたのはこのためでもあったのだと、彼女はいまさらながらに悟った。


(こんなところで盗み聞きしようとしたら、とても目立つものね……)


 仮に、皇帝の本来の居所に彼女を召していたら、給仕の侍女やら警備の宦官やら、多くの人間が出入りする中で話をすることになっていただろう。珀雅はくがが義妹に会う場に同席するという体で、従者さえ締め出した空間を造り出したのだ。この皇帝は、傲慢なだけでなくなかなか狡猾でもあるらしい。


「手短に事情を伝える。まず、お前に記録の偽証を命じた理由だが──」


 あるいは、高貴な身分ゆえに声を潜めて話す、という発想に耐えられないからかもしれない。彤史にとっては死に値する重罪、皇帝としても人の耳を憚る秘密なのだろうに、藍熾の声は堂々としたものだった。碧燿としては、珀雅が常になく真剣な面持ちで黙しているのに気付いてしまったから何を言われるかと気が気ではない。


(どうせろくでもないことよ。それだけ分かっていれば十分)


 そう、自分に言い聞かせて。何を言われても驚きも激昂もすまい、と碧燿は身構えていた。けれど──


「懐妊した妃がいる。が、俺には覚えがない」

「はい?」

「ゆえに、後付けで進御しんぎょの記録を作って辻褄を合わせようとしたのだ」

「……お待ちください」


 想像を越えるに、碧燿は無作法にも皇帝の言葉を遮っていた。できれば聞き間違いか思い違いであってほしいと願いながら、恐る恐る聞き直す。


「それは──不義密通、というやつでは?」

「ほかに何がある?」


 藍熾はおかしなことを言うな、と言いたげに目を細めた。どう考えても、おかしなことを言っているのは彼のほうだというのに!


(子供のでき方を知らない、なんてことはない、でしょうね……!?)


 きょう充媛じゅうえんを始め、夜伽に召された妃嬪ひひんは確かにいるのだから、そんなはずはないだろうけれど。でも、それならこの男はどうしてこうも冷静を保っているのか。どこからどうを訴えれば良いか分からなくて、碧燿は意味もなくわたわたと両手を空に浮かせた。


「……であれば、記録を気になさる場合ではないかと存じます! 偽証の罪はこの際関係ございません! 皇統こうとうに関わる大罪ではないですか!? どうして、その御方をただすこともなさらずに、私などに──」

「俺が寝取られたなどと、公にできるものか」


 藍熾の声は、彼の目の色と同じく醒めた、沈み込むような調子だった。声が大きいと、咎められた訳ではないけれど──覚悟に反して狼狽を見せてしまったことを恥じて、碧燿は口をつぐんだ。


「胎の子も堕胎させるから問題はない。記録の上で体裁を整えさえすれば」

「問題ない、はずはないと存じますが!?」


 後宮に、皇帝以外の男が忍び込む余地があるということ。それも、今の珀雅のように特に許可を得るのではなく、妃嬪と密かに情を通じるために。

 皇帝の貞節な妻であるべき女性がほかの男に心を移し、あまつさえ夫以外の子を懐妊したということ。


(公にしないのは──皇帝の権威とかがあるのかもしれないけど!)


 藍熾はもっと慌てるべきだ。忍び込むのは間男だけでなく暗殺者かもしれないし、お手付きで妃だったから発覚したものの、そうでない場合は誰とも知れない男の子が帝位を継いでいた可能さえある。


(大問題……ですよね!?)


 助けを求めて珀雅に目を向ければ、麗しの義兄は小さく肩を竦めてみせた。たぶん、彼やほかの側近も、碧燿の頭に渦巻いたようなことはすでに何度も訴えたのだ。そのうえで皇帝が聞き入れなかったから、今のこの場があるという訳だ。


(聞き入れないのは──この男が愚かだから? 醜聞が、そこまで嫌だから?)


 君主の器を推しはかろうとする、無礼な視線は気に留めないのか、それとも気付いてさえいないのか。藍熾は表情を変えないまま軽く首を傾げた。


「母子ともに死を賜るのがお前の好みか? 母親だけでも助命するほうが慈悲というものではないのか? お前は宮女きゅうじょにさえやけに優しかったが」

「私は……真実を記さねばなりません」


 碧燿の答えがやや弱い調子になったのは、産まれてもいない赤子やその母親が死ぬことに思いを馳せたからだけではなかった。罪人が相応の罪を賜ることは、痛ましくとも仕方のないことだ。ただ──藍熾の冷ややかな声と眼差しの裏に潜むものが、垣間見えた気がした。


(この人、その女性が好きなんじゃ……?)


 不義を犯され、裏切られてもなお、殺すことなど考えられないほどに。彤史とうしふぜいに直々に声をかけてまで、庇おうとするほどに。碧燿の考え過ぎかもしれないし、たとえ当たっていたとしても、とてつもなく傲慢で尊大で居丈高な男は、もちろんそんな内心を明かすことなどなかったけれど。


「だから偽証はもう良いと言った。その女はしばらく病に伏せったことにでもする。その間にすれば済むことであった」

「それでは、私の出番はないように思います」


 そして皇帝の感情は、彤史が記録することではない。だから努めて平淡な調子で指摘すると、藍熾はそうだったな、とでも言うかのように青い目を瞬かせた。ようやくに入ってくれるらしい。


「お前の大好きなを探る機会をやる」


 この流れで探るべき真実と言えば、ひとつしかないだろう。碧燿は即座に問い返す。


「不義の、お相手でしょうか」

「そうだ。口を割らぬならそのままでも良いかと思っていたが、分かるなら分かったほうが良いのだろうからな」


 妃との姦通もまた大罪であって、その男は草の根分けてでも探し出し、この上なく残酷なやり方で死を賜るべきだ。それをしなくても良いと、藍熾が考えていたようなのは──


(お妃が愛する人だから? 殺したら悲しむとでも?)


 碧燿の想像に過ぎないことで、かつ、彼女が気にする必要がないことでもある。彼女の務めは真実を記すことであって。その結果何が起きるかまでは、管轄にない。……その、はずだ。


巫馬ふば家の娘なら問題はあるまい。くだんの妃に侍女として仕えよ。そして、探れ」

「私は、侍女として後宮に上がったのではございません」


 今のまま、藍熾が言うところのの記録に専念させて欲しい。無駄とは知りながら一応言ってみると、案の定、皇帝は拒絶されたことに気付いてくれなかった。


「ならば、妃嬪付きの彤史とうしということにするか。俺はどちらでも良い」

「どちらかにしなければならないのですね……?」


 それ以外の答えをまったく考えていないようなのは、さすが、命じることに慣れているだけのことはある。堂に入った暴君ぶりには、いっそ苦笑してしまう。


(重ねて否、と言えば、今度こそ処刑かな?)


 碧燿は、それでも構わないけれど──多少は、思うところもあった。なので、椅子から下りて跪き、うやうやしく揖礼ゆうれいした。


「ならば、彤史とうしとしてその御方の御傍に控えることにいたします。ご命令も、承知いたしました」

「うむ」


 満足げに頷いた藍熾は、碧燿の言い回しの巧妙さに気付いていないようだった。たった一日仕事を見たくらいでは、彼女の本質など把握しきれていないのだろう。


彤史とうしの務めは真実を記すことと、申しましたからね?)


 その役目を帯びて仕えるということは、つまりはそういうことだ。碧燿は、何としてでも調べ上げたことを記録しよう。そのつもりで、臨んでやる。真実のを探るだけ、なんていう命令に、彼女が喜んで従うはずはないのだ。

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