第2話 彤史の務め

 碧燿へきようの首から真紅の鮮血が噴き上がる──ことは、なかった。印刀いんとうの切っ先は、彼女の肌から紙一重だけ離れたところで辛うじて止まっている。全力で振り下ろしたはずの腕をしっかりと捕らえたのは、藍熾らんしの後ろに控えていた珀雅はくがだった。


 ヒョウはやさとしなやかさで、一瞬にして距離を詰め、碧燿いもうとの動きを封じたのだ。さすが、皇帝の護衛を務めるだけのことはある。気付けば、碧燿の眼前に端整な貴公子の顔が迫り、漆黒の目が悠然と微笑んでいる。


 碧燿の手から印刀を取り上げながら、珀雅は息も乱さず、そっと囁く。


「危ないことをする。若い娘の肌に痕が残っては、いけない」

「私には無用のご心配かと思いますが……」


 普通の娘なら、のぼせ上って何も言えなくなるところだったろう。けれどあいにく、碧燿は義兄の顔に慣れている。だから答えは落ち着いたものだった。可愛げのない義妹を大仰に気遣う白々しさに、珀雅に向ける眼差しはむしろ冷たかったかもしれない。


(信頼に、応えてはくださったのだけど!)


 碧燿が紙を汚す暴挙に出るはずはなく、また、この義兄が、彼女に傷がつくのを見過ごすはずはないのだ。藍熾に対して啖呵を切ったのは、珀雅が忍び寄る時間稼ぎのためでもあった。芝居に付き合わされたのに気付いたのだろう、高貴なはずの皇帝が、柄悪く舌打ちをした。


「死ぬつもりなどごうもなかったのだな。珀雅の助けを見越しての長広舌か……!」

「諫言というものでございます。お聞き入れいただけましたら光栄の至り」


 とはいえ、碧燿が本気だったことに変わりはない。刀を振り下ろしたのは全力だったし、述べた内容も心からのもの。横暴な命に屈して彤史とうしの矜持を汚すなら、死んだ方がマシだと──伝わっていれば、良いのだけれど。


「……義兄様にいさまも、私に諫言それを求めていらっしゃったのですよね? 陛下の思い付きを、止めさせようと……?」


 そうであって欲しい。というか、違うなどとは言わせない。確認と懇願と、少々の脅迫めいたを込めて碧燿が問うと、けれど珀雅はあっさりと首を振った。


「いいや。私は常に陛下の御為おんためにある。彤史とうしに御用がおありだと伺ったから、どうせなら可愛い義妹いもうとを使っていただきたいと思ったまで」


 主君を諫めずへつらうばかりか、義妹を売り込もうとしていたらしい。まったくもって悪びれるところのない、呆れた言い分だった。


巫馬ふば家にはほかにまともな娘がいないのか」

「主君の専横を見過ごすとは。義父様とうさまが嘆かれますよ」


 呆れたのは藍熾も同じだったのだろうか。溜息混じりの声は重なり、しかも互いの悪口を含んでいたとあって、深い青と碧の目が絡み合い、睨み合った。それを見て何をどう期待したのか、珀雅の口元がふわりと微笑む。花咲くような典雅な笑みだった。


「色々と事情があるのだよ。──このに教えても?」


 珀雅の言葉の前半は碧燿に、後半は主君に向けたものだった。そして此度こたびも、ふたりの答えはほぼ同時、かつ内容も似たり寄ったりのものだった。


宮官きゅうかんにいちいち説いて聞かせる必要がどこにある」

「何を聞いたところで不正に変わりはありません」


 藍熾はどこまでも傲岸そのもの、一方の碧燿も、頷く気は欠片もない。またしても険悪な睨み合いが続くほど数秒──藍熾はふと卓上に目を逸らし、皮肉っぽく棘のある笑みを浮かべた。


「──真実を記す高潔な役、だと? そなたが書いていたは、嘘偽りではないのか?」


 彼が取り上げたのは、碧燿が先ほどまで取り組んでいた昨日の記録の巻物だった。若い彼女は彤史とうしとしても新参の下っ端で、担当するのは侍女や女官や奴婢ぬひの動向が主なところだ。昨日、後宮を影ながら支える彼女たちの間で話題になったのは──


 女官に鳳凰ほうおうの飛来を見たと称する者あり。いずこより来ていずこへと去るかは知らず。羽根は残らず、ただ五彩ごさいの翼の煌めきが降ったとう。


「……触らないでください!」


 汚れや破損を恐れて手を伸ばす碧燿をあざ笑うように、藍熾は長身を活かして巻物を掲げる。わざわざ碧燿の手の届かない高みで、同じくらいの背丈の珀雅に見せるのが底意地が悪い。


「鳳凰──瑞兆ずいちょうではございませんか」

「今の夏天かてんに瑞兆が出るはずはない」


 珀雅の感想は、藍熾の意に適うものではなかったのだろう。不機嫌そうな唸り声は、けれど碧燿には少し面白かった。


(自覚があるんだ)


 夏天の国は強大だけれど、その内情は決して褒められたものではない、と彼女は思う。皇帝を間近に見て、その考えはいっそう強まった。なのに当の皇帝が、瑞兆を真っ向から否定するのだ。あるいは、彼が否定するのは碧燿の仕事ぶりだけのつもりなのかもしれないけれど。


 巻物を返せ、と。手を差し出して訴えながら、碧燿は皇帝からの下問に応える。鳳凰の飛来などは夢物語であって、偽りではないのか、と。確かに、彼女も神鳥の出現など信じている訳ではない。でも──


「不可思議なこととは存じましたが、調べた上でそのように記すしかないと結論いたしました」

「調べた、だと?」

「鳳凰を見たと述べた侍女や奴婢に話を聞きました」


 ようやく巻物を取り戻し、墨のかすれがないのを確かめて息を吐く。指先で文字をなぞりながら思い出すのは、それを記すまでのちょっとした苦労のことだ。


「いずれも目が衰えているということもなく、時刻も示した方向も一致しておりました。鶴の類が虹と重なれば、そう見えるかも、とも思いましたが、天候にも変事はございませんで。王婕妤しょうよ様の孔雀や木美人様の鸚鵡が逃げ出したということもなく──」

「孔雀や鸚鵡を飼っている者がいるのか」


 藍熾は己の妻たちのことさえろくに知らないらしい。当然、寵愛を求めての彼女たちの必死の努力や争いも、なのだろう。碧燿は相手に気付かれないように、微かに皮肉な笑みを浮かべた。


「はい。何しろおおかたの者は退屈しておりますので、気分を紛らわせる鳥獣や、金魚の類は人気がありますね。……以前、鸚鵡が逃げた時は大騒動でした。翼を広げると結構大きいのですよね。羽根も色鮮やかで、陽を浴びた姿を鳳凰と見間違えた可能性も考えたのですが、違ったようで」


 大きな翼を鳥籠に押し込められる鸚鵡は哀れだし、ならば後宮という大きな籠の中、顧みられることなく朽ちていく妃嬪たちも哀れだ。声を湿らせた碧燿の感慨は、けれど藍熾の苛立った声によって吹き飛ばされる。


「回りくどい。言い訳せずに認めるが良い。そなたは鳳凰などという偽りを記した。彤史とうしの矜持など建前に過ぎぬということではないのか。ならば妃嬪の進御しんぎょの記録に携わるのは喜ぶべき名誉であろう」

「偽りではございません。鳳凰を見た者がいるということと、鳳凰が実在するということは別の話です」

「詭弁だ。そして、些事だ」


 短く切り捨てられて、碧燿はそっと溜息を呑み込んだ。呆れを露にしては、この皇帝は機嫌を損ねるだけだろう。ひと通り当たり散らして諦めてくれるなら良いけれど、どうも彼女を言い負かして従わせようという気配があるから面倒くさい。


(私の性格は知ってましたよね? どうなるかも、分かってますよね?)


 ちらりと義兄を睨むと、大丈夫、と言いたげな微笑が返ってきた。いったい何が大丈夫なのか分からないけれど──やりたいようにやって良いのだろう、と碧燿は理解した。という訳で、皇帝の深い青の目を遠慮なく見上げ、口を開く。


「述べたことが記録される──認められるということが肝要なのです。尊い方々は、下々の言葉には耳を傾けてくださらないことが多いですから。強制されることのない証言の蓄積は、いずれ役に立つこともあるでしょう。彤史とうしが真実を綴るという信頼があるからこそ、真実を語ってくれる者もいるはずで──ですから、私にはその信頼を裏切ることはできません」


 だからさっさと帰れ、と。言外に告げた上で、碧燿は態度でも拒絶を示すことにした。すなわち、椅子に座り直し、先ほどの騒動で乱れた卓上を整える。彼女に割り当てられた書面、これから書き写すべき記録に目を通し──


「御前を失礼いたします。急用ができました」


 碧燿は、すぐさま立ち上がった。目を丸くする藍熾と、微笑みを絶やさぬ珀雅の間をすり抜けて。手に紙片をひっつかんで。下っ端彤史とうしに与えられた小部屋から、足早に抜け出す。


「待て。どこへ行く」

「ついて参りましょう。義妹いもうとの仕事ぶりを、見ていただけるやもしれません」


 慌てた風情の藍熾はともかく、珀雅の声に面白がる響きを聞き取って、碧燿は強めに床を蹴って大きく足を踏み出した。


(もう、見せ物じゃないのに!)


 手元に届いた書き付けの中に、碧燿は真実こと、隠されたものがある気配を読み取ってしまったのだ。彼女なりに経緯をただしておかないと、正式な巻物に残せはしない。それ自体はいつものことだから良いけれど──


 あからさまに目立つ、見た目の良い男ふたりを引き連れては、調査が捗らないであろうことが気懸りだった。

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