後宮の記録女官は真実を記す
悠井すみれ
第1話 熾(おこ)る藍の瞳
「──嫌、でございます」
「お前は俺を何者と心得る。分からぬほどの愚か者に
「皇帝陛下であらせられますよね?」
さらりと応えると、男の眉間の皺がいっそう深まった。ここは
(わざわざ聞くほうが愚かというものでは……?)
男が絶句する気配を感じながら、碧燿は黙々と仕事を続けた。すなわち、手元に積まれた書き付けの文字を、書庫に収めるに相応しい、明瞭かつ品格ある手跡で、巻物に写し取っていく──写し取っていこうと、したのだけれど。
「手を止めよ。顔を上げよ。不敬である」
「……はい」
命じられて、渋々ながら筆を置く。
(なるほど、これが皇帝陛下)
精悍な、整った顔立ちのその男──皇帝の名は、
ちなみに、碧燿も煌めく
「俺の正体を、分かった上で拒むならばなお愚かだ。
かしこまることなく小首を傾げるだけの碧燿では、埒が明かない、と。賢明にも察してくれたのか、藍熾は憤然と振り返った。その視線の先にいるのは、確かに碧燿の義兄、
「は。
蕩ける笑顔で応じた珀雅のことを、藍熾は悪趣味だと思ったに違いない。碧燿をちらりと捉えた青い目は、これのどこが可愛いのか、と雄弁に語っていた。この点については碧燿も心から同意する。
(
碧の目と燃えるような赤い髪は、まあ物珍しい部類に入るだろう。けれど、碧燿にはそれを見せびらかす気は欠片もない。髪はきっちりと結い上げた上で冠に隠し、若い娘の身体の線も、ゆったりとした袍で覆っている。つまりは色気のない男装だ。動きやすさは彼女の仕事のうえでも重要だった。というか、どうせ墨で汚れるのに着飾る必要はない。
碧玉の目を常に伏せて紙と文字と向き合う──碧燿が就く役職を、
「融通が利く
(何ですって……?)
その誉れ高い仕事を邪魔されて。あまつさえ、誇らしい役名を苛立たしげに吐き捨てられて。碧燿の忍耐はあっさり切れた。不遜な小娘と思われようと構うものか。彼女のほうこそ、この皇帝に対する第一印象は最悪だったのだ。
「
言いながら、碧燿は卓上を手で探る。無駄話の間に乾いてしまいそうな筆や、
手に馴染んだ
「
碧燿の神聖な仕事を、先触れもなく邪魔をして。この皇帝は一方的に命じてきたのだ。妃嬪の夜伽の記録を偽れ、と。彼が告げたままのことを書き記せ、と。
(寵の偏りを誤魔化したいのか、外戚がうるさいんだか何だか知らないけど……!)
「それをあえて為せ、ということは、死ね、とのご命令と承りました」
碧燿は藍熾を鋭く睨み、印刀を握った手に力を込めた。喉もとの柔らかな皮膚に、刃物のひやりとした冷たさが忍び寄る。
「おい──」
碧燿の怒りと本気をようやく悟ったか、藍熾の目に焦りの色が浮かぶ。が、無視して立ち上がる。そうして、伸ばされかけた相手の手から距離を取る。
(止められて堪るものですか!)
己がいかに愚かなことを命じたのか、この皇帝には思い知ってもらわないとならない。見開かれた青い目をしかと見据え。碧燿は、いっそ微笑んで唇を動かした。
「若い身空で死を賜るとは悲しく恐ろしいこと、父母に対しても不孝ではございます。が、
ほとんどひと息に言い切った、その勢いのまま──碧燿は目を閉じて喉を反らし、鋭い印刀を振り上げた。
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