後宮の記録女官は真実を記す

悠井すみれ

第1話 熾(おこ)る藍の瞳

「──嫌、でございます」


 碧燿へきようが椅子に掛けたまま短く告げると、その男はたいそう不快げに眉をひそめた。形良い唇もやはり不快げに歪み、不機嫌も露な低い声が吐き出される。


「お前は俺を何者と心得る。分からぬほどの愚か者に彤史とうしが務まるのか」

「皇帝陛下であらせられますよね?」


 さらりと応えると、男の眉間の皺がいっそう深まった。ここは夏天かてんの国の後宮の最奥、そこに足を踏み入れられる宦官かんがんでない男など限られている。たとえ下級官吏の官服──真鍮の帯に青衣のほうを纏っていても、姿勢の良さや言葉遣いの上品さ、なによりこちらが一も二もなく額づいて当然と思っていそうな居丈高さは、間違いようもなく貴人のものだ。


(わざわざ聞くほうが愚かというものでは……?)


 男が絶句する気配を感じながら、碧燿は黙々とを続けた。すなわち、手元に積まれた書き付けの文字を、書庫に収めるに相応しい、明瞭かつ品格ある手跡で、巻物に写し取っていく──写し取っていこうと、したのだけれど。


「手を止めよ。顔を上げよ。不敬である」

「……はい」


 命じられて、渋々ながら筆を置く。龍顔りゅうがんを直視するのもそれはそれで不敬だろうに、良いのだろうか。不思議に思いながらも顔を上げると、深い青の目が鋭く険しく碧燿をめつけていた。


(なるほど、これが皇帝陛下)


 精悍な、整った顔立ちのその男──皇帝の名は、藍熾らんしといったはずだ。皇室の姓は朱陽しゅよう、国号と併せて明らかなように火徳かとくの王朝であるがゆえに、皇族男子は名に火を表す字が入ることが多いという。おこる藍、とは、まさしく苛立ちぎらつく彼の目の色だ。

 ちなみに、碧燿も煌めく碧玉へきぎょくの眼差し云々と言われることもあるから、同じ由来の名だと言えなくもない。藍熾は気付いていないだろうし、どうでも良いし、そもそも彼女の名を聞く気もないようではあるけれど。


「俺の正体を、分かった上で拒むならばなお愚かだ。珀雅はくがが本当にそなたの義妹いもうとか?」


 かしこまることなく小首を傾げるだけの碧燿では、埒が明かない、と。察してくれたのか、藍熾は憤然と振り返った。その視線の先にいるのは、確かに碧燿の義兄、巫馬ふば珀雅だ。というか、義兄がいることそれ自体もこの男の正体を示唆していた。何しろ──典雅な貴公子めいた佇まいとは裏腹に──珀雅はたいそう腕の立つ武官で、皇帝の護衛を務めているのだから。そうそうほかの者に付き従うはずがないのだ。


「は。わたくし自慢の、可愛い義妹いもうとでございます」


 蕩ける笑顔で応じた珀雅のことを、藍熾は悪趣味だと思ったに違いない。碧燿をちらりと捉えた青い目は、のどこが可愛いのか、と雄弁に語っていた。この点については碧燿も心から同意する。


義兄様にいさま、恥ずかしいんだから、もう……)


 碧の目と燃えるような赤い髪は、まあ物珍しい部類に入るだろう。けれど、碧燿にはそれを見せびらかす気は欠片もない。髪はきっちりと結い上げた上で冠に隠し、若い娘の身体の線も、ゆったりとした袍で覆っている。つまりは色気のない男装だ。動きやすさは彼女ののうえでも重要だった。というか、どうせ墨で汚れるのに着飾る必要はない。


 碧玉の目を常に伏せて紙と文字と向き合う──碧燿が就く役職を、彤史とうしという。後宮における記録官だ。皇帝や妃嬪ひひんの動向、女官やげじょの賞罰、官の出入りに、気象や事件など特筆すべきことがあれば細大漏らさずを記す。華やかさとは縁遠いが、誉れは高い。私利私欲で筆を鈍らせたり、脅しや賄賂に屈することがないと、信頼されなければ就けない役でもある。


「融通が利く彤史とうしがいると言うから命じたものを。これでは役に立たん」


(何ですって……?)


 その誉れ高い仕事を邪魔されて。あまつさえ、誇らしい役名を苛立たしげに吐き捨てられて。碧燿の忍耐はあっさり切れた。不遜な小娘と思われようと構うものか。彼女のほうこそ、この皇帝に対する第一印象は最悪だったのだ。


義兄あにが何を申し上げたか存じませんが──」


 言いながら、碧燿は卓上を手で探る。の間に乾いてしまいそうな筆や、反故ほごの紙片や積み上げた巻物ではなく──求めていたのは、印刀いんとうだ。文字を職にする者の手すさびとして、彼女は刻印造りを趣味にしている。印材に細かな文字や紋様を刻むためのごく細い刃物だが──


 手に馴染んだを握りしめて、碧燿は印刀の切っ先を自身の喉元に向けた。


彤史とうしの務めは偽りなく真実を記すこと。たがえた場合のとがは死あるのみ、です」


 碧燿の神聖な仕事を、先触れもなく邪魔をして。この皇帝は一方的に命じてきたのだ。妃嬪の夜伽の記録を偽れ、と。彼が告げたままのことを書き記せ、と。


(寵の偏りを誤魔化したいのか、外戚がうるさいんだか何だか知らないけど……!)


 彤史とうしの務めへの侮辱であり、頷くことなどできるはずもない命令だった。命じたのが何者であろうと、露見すれば碧燿は不名誉な死を免れない。いや、彼女自身が生きていたくない。ゆえに、彼女は言下に断ったのだ。理不尽を命じておいて機嫌を損ねるなど、珀雅が仕える主君も大したものではなさそうだ。


「それをあえて為せ、ということは、死ね、とのご命令と承りました」


 碧燿は藍熾を鋭く睨み、印刀を握った手に力を込めた。喉もとの柔らかな皮膚に、刃物のひやりとした冷たさが忍び寄る。


「おい──」


 碧燿の怒りと本気をようやく悟ったか、藍熾の目に焦りの色が浮かぶ。が、無視して立ち上がる。そうして、伸ばされかけた相手の手から距離を取る。


(止められて堪るものですか!)


 己がいかに愚かなことを命じたのか、この皇帝には思い知ってもらわないとならない。見開かれた青い目をしかと見据え。碧燿は、いっそ微笑んで唇を動かした。


「若い身空で死を賜るとは悲しく恐ろしいこと、父母に対しても不孝ではございます。が、宮官きゅうかんなどしょせん卑賎の身。尊い方々の一存で命が散ることも、まあよくあることでしょう。もちろん、奴婢ぬひといえど戯れで踏み躙るのは君子に相応しい振る舞いではございませんが。我が一命をもってお考えを改めてくださるならば本望というもの、躊躇いなどいたしません」


 ほとんどひと息に言い切った、その勢いのまま──碧燿は目を閉じて喉を反らし、鋭い印刀を振り上げた。

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