先天的妥協

「なんだこの今期目標シートは。最低ノルマギリギリの見通しじゃないか。これを目標と言えるのか」

「お言葉ですが、これが私の限界です。逆に言えば、これであれば問題なく達成できます」

先輩と上司がまたやっている。パーテーション一枚で区切られた簡易会議スペースは、結局はオフィスフロア内にあるので、あんなに大きな声で話していたら内容は筒抜けだ。

先輩はいつも保守的なことばかり言って、いけいけドンドンの上司と衝突している。

しかし、やる気がなくても、もう少し体裁を取り繕ったりするものじゃないのだろうか。まあ、俺としては目標もなく働いていて、何が楽しいのだろうと思うけど。


ところが、その先輩が現在部署内で最も売上をあげていると、今期の中間報告で発表された。正直、意外どころではなかった。

先輩は嬉しいよりも恥ずかしいという感じで、遠慮がちに一礼する程度だった。

目標面談ではあれだけ荒れていた上司も、今ではずいぶんとご機嫌だ。

「あー、あいつこっちでも順調なのね」

先輩とは同期のはずの他部署の先輩が声をかけてきた。たまたま通りかかったのだろう。

「そうなんですか? なんかいつもやる気低めなことばっか言ってますけど」

「あいつはいつもそうなんだよ。まあ、ローテーション先でもうまくやってそうで安心したよ」

俺の中に先輩への興味が湧いてきた。あいつ、ああ見えて、結構優秀なのか?


俺は先輩に取り入ることにした。といってもただ仕事の相談をするだけだ。

「難儀なクライアントだね。正直ベースで話したほうがいいかもしれないね」

「そうですか? 相手になめられませんか?」

「うーん。なめられたくないがために自分の首を絞めても、と僕なら思うかな」

「はあ…」

先輩の言うことはえらく保守的に聞こえた。

こんなので売上があがるのだろうか…。営業は駆け引きではないのか?

あの日の上司の気持ちが少しわかったような気がした。


「先輩、例のクライアントの件はありがとうございました。おかげさまで話がまとまりそうです」

「そう。それはよかった」

結果から言うと、先輩の見立てが正しかった。

こちらの状況を正直に伝えたら、新たな折衷案が見えてきて、それが着地点となり契約まで至ったのだ。

「でも、最初は不安でした。そんなやり方をいつからやっているんですか」

「そうだね。実を言うと、僕は人生二周目なんだ」

「はあ…」

先輩は、いつもの保守的なことを言う調子で、突如意味不明なことを言い始めた。

「昔の僕は粋がっていて、なんでも強引に話を進めがちだったんだ。でもそれでひどい失敗をしてね。会社を潰してしまったのさ。それで一時期全然やる気がなくてね。そんなんでも働かなくてはならないから仕方なしに働いてたんだけど、それがちょうどいい状態だって気がついたんだ。いわば妥協だね。だから今世では僕は先天的妥協で生きているのさ」


俺は、いや僕は、肩に不必要なほど力を入れて働いていたことに気がついた。

よく考えれば働くことだけではない。生きること全般に力んでいた。

仕事はやめた。

今、世界中を旅している。

先天的妥協か。なかなかいい言葉じゃないか。

僕は、ガンジス川を下るボートに乗り込んだ。

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