第4話 脱走の先には
翌日、ロネはミリナの身体を埋葬することにした。
一晩、母と共に寝たが、朝起きても母が目覚めることもなく、やはり現実なのだ、と思い知らされた。
ここでは誰かが死んだとしても、葬儀をすることはない。
それぞれの住処で孤独死しようが、外で野垂れ死のうが、基本的には放置だ。
死体が腐敗し傷み、ところで、臭いが酷くなれば病気が蔓延することを恐れた収容者が片付けることはあるが、ロネにとっては母の遺体がそこまでになるほど放っておくのは絶対嫌だった。
せめて母が生前と変わらぬ姿のまま家族である自らの手で埋葬したい、と思った。
腐敗した母の遺体を家族である自分ではなく、他人に触られるのは絶対に嫌だ。
ロネは必死で母の遺体を外へ運ぼうとした。
子供のロネには、大人一人の遺体を運ぶのは大変だったが、母を背負って少しずつ、少しずつ動きながら外へ運び出した。
背中に抱える母の遺体が、冷たさを感じ、これは母ではなく、別の何かなのではないかと思いたくなる。
もう話すことも動くこともできないそれは、冷たい肉の塊でしかない。しかし、ロネにとってはこれまでずっと共にいた母そのものなのだ。
多くの収容者の遺体が埋葬される墓地として使われている芝生が広がっている土地に、ミリナの遺体を運んできた。
幸い今日はここに人はいなかった。誰もいないのだから、母の遺体を埋葬しているところを誰にも見られずに済むというのはまだマシだった。
他人から見れば、ロネにとっての大事な母親の遺体など、ただの死体としか見えないだろう。
スコップなどの道具もなく、落ちていた木の枝で必死に穴を掘った。
土をどかそうとすると、冷たい土の感触が手に伝わって来る。
子供の手で、大人一人分の遺体を埋める穴を掘るのは大変だった。
それでも、少しずつ、少しずつ、誰かに見られる前に、と急ぎながらせっせと夢中になって穴を掘った。
その間も、ミリナの遺体は野ざらしだ。
誰かに見られる前に早く母を埋葬しなくては、とロネは急いだ。
気づけば辺りはもう夕方になっていた。冷たい風が、無慈悲に吹き荒れる。
なんとか大人一人分の体積を埋めることができる大きさの穴が掘れた。
そして、そこに母を寝かせた。
「母さん……」
いよいよロネが母の顔を見ることができる最後の時だ。
ミリナの顔は眠っているだけのように見えるが、生命の活動は終えている。
これまで自分を産み、ここまで育ててくれた、愛してくれた母は、今はもう冷たい身体になっている。ここに埋めてしまえば、二度とその姿を見ることもできなくなる。
あの笑顔も、優しい顔も、もう二度と見ることはできない。
「ごめんね、父さんのかわりに守ること出来なくて」
ロネはせめてもの気持ちで謝罪した。あの日、自分がついていなかったから、母は暴力を振るわれたのだろう。
そして、精神的に限界になって倒れた。
ロネは母の指についていたリングをそっと外した。
これは父が母に婚姻の証として贈ったもの。
父は金もなく、安物のリングしか用意できなかった、と言っていたがそれでも母が大切にしていて、常に装着していたのを知っていたから。今はこれしか形見として取って置けるものがない。せめて、母がいつも身に着けていたものは自分が持っておきたい。
そして母が最期に自分にへと送ったペンダント。これだけが母の形見だ。
せめて、自分が母を支え、慰めるなど立ち回ることができれば、母はもう少し生きることができたかもしれない。
しかし、今はもう何を考えても無駄だ。こうしていたって母が生き返ることはないとわかっていたから。
ロネは母の最後の顔を見て、頬をそっと撫でた。感じるのはただの冷たい感触だった。
ロネはミリナの遺体に土をかぶせることにした。
これでもう、二度と母を見ることはできない。こうやって埋めてしまえば、二度と土から出てくることもないのだから。本当のお別れだ。
愛した母を土の中に埋めるなんて嫌だった。もう二度と起き上がることはない、ということはこの土の中から出てくることもないのだから。
しかし、だからといって、これを辞めるわけにはいかない。
別の誰かにこれをされるくらいなら、肉親である自分がやるしかない。
母を埋葬する行為は自分自身でせねばならないというのも残酷だ。しかしこれがここのルールだ。
誰もしてくれないのだから、それは唯一血のつながりのあった娘であるロネ自身がやるしかない。ミリナとしても、最後まで自分の娘がそれをしてくれたというだけでもいいかもしれない。
ロネは土を埋め、野犬などに掘り起こされぬよう、しっかりと表面を手で固めた。
墓標になるようなものもなく、仕方なく、木の枝を土に刺した。
そして、芝生に生えていたシロツメクサを添えた。
本当なら野草ではなく、綺麗な花を添えたかった。
あの日、あの森で見つけ、父にプレゼントしたような、虹色の美しい花を最後に母に見せたかった。
今は美しい花なんてここにはない。ないものは仕方ない。あるものでしのぐしかない。
ミリナの埋葬が終わる頃、辺りはすっかり暗くなっていた。
昼ですら暴漢に襲われやすいこの治安の悪い町では、夜など最も危険だ。
しかし、今はどこか呆然として走る気にもなれず、とぼとぼと一人で歩いていた。
いつもだったら傍に母がいた。しかし、これからはずっと一人で外を出歩くのだ。
幸いにもロネには自分の身を守る為の光魔法がある。
これは母が授けてくれた、最後のプレゼントだ、とロネは思った。
母から遺伝したこの能力で、今後は自らの身は自分で守るのだ。
いつもは母を守る為に使っていたこの光魔法。今日からは自分の為だけだ。
自分の身体には、間違いなく母の血も流れている。それを受け継ぐしかない。
ロネはようやく自宅へたどり着いた。
「……ただいま」
しかし、もう迎えてくれる者などいない。
真っ暗な小屋の中に、そっと蠟燭に火を灯す。
蝋燭の火により、ぼんやりと光る室内は、狭いはずなのに、母がいないだけで広く感じた。
「この小屋、こんなに広かったんだ」
そして寒い、冷たい床だ。今日からはここで独りぼっちだ。
ロネはミリナにかぶせていた薄い布団で身を包んだ。
こうしていれば、少しでも母のぬくもりを感じられる気がして。
ぼんやりと光る蝋燭の炎を見て、ロネは色々と考えた。
幸せだったあの頃が、一転してこんな生活になったこと。
大好きだった両親を失った悲しみ。
なぜ父が殺されねばならなかったのだろう。なぜ母が迫害されねばならなかったのだろう。そして自分はなぜこんな運命を強いられたのだろう。
自分をこんな身体に産んだ父と母を恨んでいるわけではない。
あの二人は互いを愛し合い、そして自分を生んで血の繋がった娘として愛してくれた。
自分もあの父と母が大好きだった。けして自分をこんな運命の為に生んだのではないとわかっていたから。なので両親を恨むなんてできない。
だからこそ、両親を失った悲しみは、人一倍大きいのだろう。
自分を愛してくれた両親はもうこの世にいない。全て奪われた。
思えばなぜこんなことになってしまったのか。
運命はあの日から変わった。あのディルオーネという男が自分の目の前に現れてから。
ディルオーネは自分の目の前で父を殺した。それだけでなく、自分をと母を捕らえ、こんな場所に閉じ込めた。だから母は弱って死んでしまった。
自分をこんな境遇にしたのはあの男だ。あいつさえ来なければ、と思った。
ロネの心の中にはふつふつと憎しみと怒りの感情が燃え上がってきた。それはもはや悲しみを上回る勢いで。今、ロネの心の中には憎しみと怒りの炎が燃え上がっている。
ロネは目の前で揺らぐ蝋燭の火を見た。
この蝋燭の炎はまさに自分と同じだ。
強い憎しみと怒りが揺らいでいてもいても、わずかに風が吹けば消えてしまう。
ならば、心の憎しみと怒りの炎が消えないように、しっかりと意志を持たねばならぬ。
けしてこの感情の炎を燃えつくさぬようにと。
ロネは、自分をこんな目に遭わせたディルオーネを許せなかった。
「ディルオーネ…あいつだけは……!」
ディルオーネを憎む。誰かのせいにしておけば、自分は悪くないと思えるからかもしれない。
母を失い、ロネは数日間、呆然としていた。何もできず、何もやる気が起きず。ただ怒りと悲しみの感情に飲まれて。
しかし、生きていれば腹も減る。最初こそは食欲もわかなかったが、さすがに数日が経過すると、身体が声を挙げていた。
ロネはわずかな食料で食いつないだ。
そして、ロネは生活費を稼ぐために、労働をしなくてはならい
独りぼっちになっても、ロネは生きていかねばならない。
両親が生んでくれた身体で死ぬ気はない。それならば精一杯生きてやると思った。
ロネは再び労働所に通うことにした。
親がいなくなり、一人になった子供は働くことができないと殺されるかもしれない。
子供は何もできずに食料を消費するからだ。なのでロネは必死で働いた。
しかし、子供一人の働ける労働力も賃金もちっぽけなものだ。
これまでは母と二人でやっていたのだから、なんとかなっても、これからは一人だ。
寂しさと悲しさ、それを背負っていかねばならない。
こんな日々が続いた。。
ある日、ロネは労働所から帰る途中だった。
自宅である小屋に入ろうとした時、途端に後ろから声をかけられた。
「お前がロネか」
そこを振り向けば、一人の男が立っていた。
簡易な鎧を着こみ、兜のような帽子をかぶった男で、年齢は約三十前後というころか。
その身なりからして、ここの看守を務める兵士の一人だろう。
「なんですか?」
無視を決め込むつもりだったが、ここで黙り込んでしまうと、かえって反抗したとみなされ、何をされるかわからないと思い、仕方なく返事をしたあ。
この男は一体なんだ。自分が何かここでの違反を起こして、取り締まりにでも来たのだろうか。自分に危害を加えようとしているのではないだろうか。ここで自分を処分する為に、こうしてここへやってきたのか、それとも母がこれまでされてきたように、自分を犯そうとする輩ではないか、とロネは震えた。
いざとなったら光魔法で追い返すしかない、と構えた。
しかし、男はやんわりとした表情で、こう答えた。
「勘違いするな俺はお前に危害を与えるわけじゃない」
「……」
それでも、ロネはこの男を信じる事はできなかった。
「お前の母親……ミリナといったか。あの者にお前のことを聞いていた。一人娘がいると」
母の名前を出され、この男は母を知っているということで、少しだけ聞く気になれた。
もしかして、母がこの者に何かを伝えていたのかもしれない。それならば遺言みたいなものは聞かねばならないと思ったからだ。
「お前の家に入れろ、話はそこでだ。ここではできない」
自宅の中に、見知らぬ男を入れるのは嫌だった。
壁に阻まれ、人に見えないところで何をされるのかがわからないからだ。
「嫌です」
ロネはそっけなく、そう答えた。
「ミリナから、自分に何かがあったら娘に伝えてくれということがあった」
それは本当だろうか。こうして惑わせて、家の中に入ろうとしているのではないか、と一瞬思った。
しかし、母がそう言ったのならば、それは母の言葉だ、聞かねばならぬような気がした。
「……どうぞ」
ミリナはこの者を自宅に招き入れることにした。
「邪魔するぞ」
久しぶりに自宅の中に、自分以外の誰かがいる感覚。
早くにでも出て行ってほしい、とは思ったが、母が何かを伝えようとしてるというのなら、話を聞かねばならない。
ロネは男から少し、距離を置いて話を聞くことにした。
「一体なんでしょう? 母に何か言われてたのですか?」
少々緊張気味の声で、ロネは尋ねた。
「お前の母を救うことができなくてすまなかった」
男はまずそれを謝罪した。
助けることができなかった、というのならば、なぜもっと早く母のことを救ってくれなかったのだろうか、という自分勝手な思考が浮かんだ。
助けたいという気持ちがあるのならば、手遅れになる前に手を差し伸べてくれてもよかったのではないか、と。
しかし、ミリナはもうどうしようもない状態だったのだ。もしもこの男が早くになんとかするとしても、精神と身体の衰弱による死はどうにもならなかっただろう。
こんなことを考えてもどうにもならない。もう過去は変えられないのだから。
「母が伝えたいことってなんだったんですか?」
こうして色々考えていても、しょうがない。
早く、用件だけを聞いて帰ってもらおうと思った。男は語り掛けるように、ロネにこう言った。
「あの女が言っていた。もしも自分に何かがあって、娘が一人になることになったら、外へ出してほしい、とな」
そう聞いて、ロネは驚いた。
「外に……?」
ロネは一瞬、何かが心の中で動く気がした。
もしもここから外に出ることができれば、自分は自由だと。
こんな治安の悪い場所でいつ死ぬかわからない恐怖で生きるのならば、ここから解放させてもらえるのかと。
「あの女とお前を一緒に外へ出すことはできぬが、もしかしたらお前一人なら可能なのかもしれない」
男は少しだけ、そう期待させてしまうようなことを言った。
ロネは真剣に耳を傾けた。
男はミリナから聞いていたことを話し始めた。
ミリナはこういった筋のことを話したらしい。
自分がいる限り、娘は絶対に外へ行こうとはしないだろう。
娘は自分だけをここに置いて一人で外へ行くのを嫌がってしまう。
母を一人にすると、母が何をされるかわからない恐怖になってしまう、と拒んでいた。
だから、自分がいなくなり、娘が一人になったらできれば自由にさせてほしい、と。自分がもうここに置いてかれるという心配を抱える必要がないからだ。
娘にとっては、母親である自分の存在が枷になっていることを気にしていた。
「もしも、お前がここから出てきたいというのなら、提案がある」
「本当……ですか?」
その言葉に、期待を抱いてしまう。ここから出られるのか、と。
「大人だと無理だが、子供一人くらいな可能かもしれない」
「どうやって……? ですか?」
ロネは真剣に話の続きを聞くことにした。
「私はここの看守をしているのだが、明後日、この収容所で上のものが来る」
それはロネもよく知っている儀式だ。定期的にここへは監守の中でも地位のが高いものが来て、収容所の様子を見に来る。
現在の収容所に、これから収監する予定の者達がここに暮らせるスペースがあるか、ここでどういった労働ができるか、食糧など物資に余裕があるのか。
そして、これまでに死亡した者はどれだけいるか、そうやって今後の方針を決めていく。
そういった者達は、今後のこの暮らしについて考えているというよりは、みじめな生活をしている収容者を見て、悦に浸るということもあるのだろう。
ここで製作した衣服などを物資を外に運び出す機会がある。
この収容所の中でこしらえたものは、基本的に収監者の者達へと使うだけ還元していくだけだが、できの良い物はここで収監者達の物資として消費するよりも、外へ出して商売にする品物にするというわけだ。ここで作ったものを外へ出荷する。
収監者達には出来の悪い物を還元していくが、出来の良い物をここの者に使わせるのはもったいない。ここにいるのはすでに社会から見放された者だけなのだから。
それならばここで作られた上等な物資は外へ流通させて、またここに必要な財産にするという。(それでも還元されるのはちっぽけな額だが)
収監者達が作った者でも、上等な品は収監者に使わせてもらえるのではなく、あくまでも収監者達はいいものを作る奴隷にしかすぎない。
「その時に、壁の門を開ける機会がある。そこへ荷台を外へ出す。そして、お前をその中に隠す……あとはわかるな?」
つまり、荷台に積む予定の荷物の中にロネを隠し、外へ出そうという寸法だ。
大人一人分の体積を荷台に隠すのは難しいが、まだ十二才という子供の体格のロネならば可能かもしれないということだ。
「その話……成功すれば本当に外へ行けるんですね」
ロネはその話に希望が湧いた。
ここに母がいないのであれば、自分は外に行きたい。
こんな見ずぼらしい場所で一生を過ごすよりは、自由にできるかもしれない。
の収容所の暮らしを外に知られてはいけないのだから、脱走はけして許さず、あの収容所の中だけで死亡させるのだ。
「なぜ、そんなことに協力してくれるのですか?」
作戦を立てたところでそれが成功するかどうかはわからない。もしも見つかれば脱走を企てたものということで、即処刑かもしれない。そうなると、この話を持ち掛けたこの看守も共に罰せられるのではないか。
「お前のライトブラッドの能力は、いずれここで暴走を起こす、と噂されている」
今は子供だから威力が弱いが、いずれ大人になればわからない。
「お前はここにいると近いうちに処分されるだろう。お前はやがてここで殺される」
結局自分はここに居場所がないのだ。この能力があれば、殺されるのかもしれない。どこにも居場所がない。
それならば、男が言うのはロネが処分される前に早いうちにここから出そうという意味合いもあるのかもしれない。
「もしも話にのるのなら、作戦は三日後だ」
ここでは誰が死んでも、葬儀というものをしない。死んだ者がいれば、そこにいる者が埋葬するだけである。なのでここでは死んだ者がいても、数も数えない。
ロネがいなくなれば、死んで埋葬されたと思われるだけである。
「これ以上、ここにいると、私がなかなか戻ってこないことを怪しまれる。もうお前と会うことはできない。最後の通達だ」
自分のような子供が一人で外へ行ったとしても、どう生きればいいのだろうか。これまでは母と暮らしてきたからなんとかなったが、子供だけで生きていけるのだろうか。
しかし、ここで一生を過ごすよりはマシだ。
母がいなくなった今、もうここにいる意味もない。自由が手に入るというのならば、こんな閉鎖された場所よりも、外の世界がいい。
ロネにはこれまでに貯めてきた僅かながらの賃金がある。これで外へ出ればしばらくの間の食料はなんとかなるかもしれない。
ロネは決心を固めた。
三日後、あの男が言ってた通り、上の者達が来る日だ。
ロネは家にあった簡易な服とナイフなど生活用品にこれまでの賃金を袋に詰めた。
荷物が多いと、荷台に隠れる際にかさばってしまう。なので必要最低限だ。
最も、ここにはまとに満足する物資などないのだから、ロネの荷物はそんなになかった。
「ここともさよならね」
狭い家だったが、短い間とはいえ母と共に暮らした小屋。
しかし、もちろんここに居心地のよさなどなかった。母が死んだ、辛い場所でもあるからだ。
「もうここには二度と帰ってこない。未練なんてない」
ロネはそう思い、住んでいた自宅への別れを惜しむ気持ちもなかった。
外にはあの男が言ってた通り、荷車があった。重い荷物も運べるようにと、二頭の馬が繋げられていた。ここがこれから外に出荷するであろう物資だろう。
「これに乗れば……」
ロネは見張りが目を離している隙に、荷台へ近づいた。
もしもここで見つかれば即刻処分もありえる。ここで成功しなければ、という緊迫感もある。
(母さん、父さん、見守っていて)
すでに亡き両親に祈った。ここで、ようやく外に出られると。失敗は許されない。
音を立てぬように、荷台へ近づく。荷物には目隠しの布がかぶせられていた。
なんとか子供一人が入り込める隙間があった。あくまでも子供一人分だが。
(なんとか、入れた……)
ロネは隠れることができたことに、少しだけホッとした。
しかし安心はできない。外に出られるまでに、もし見つかれば脱走を企てた者として処分されるだろう。
この荷台が外に出るまで、まだ収容所の中なのだ。
荷物の隙間に入り込み、息を殺す。ここでもしも動いたりすれば、作戦は台無しだ。どうかこの作戦が成功してほしい、とロネは祈った・
話し声が聞こえた。
「荷物はこれで全部か?」
「ああ、今日はこれだけ運べばいいと言われている」
それは、この荷台を運ぶ男達の声だろう。
ロネは心臓が鳴り響いた。どうか見つからないでくれ、ここを覗かないでくれ、と。
外に出られれば、そうすれば作戦は成功だ。
「よし。むこうを待たせるのも悪い、早く行くか」
そう言って、男達は荷台を動かす為の馬を動かした。
ごとん、ごとん、と荷台が揺れる。ロネは決して自分がこの荷台から振動で落とされないように、としがみついた。
この荷台の荷物が振動により、ずれたりしたら、それだけでも見つかる危険性がある。
外で何やら声が聞こえる。恐らく門番がチェックをしているのだろう。
どれだけの時間が過ぎただろうか。
あの収容所から離れることができたのだろうか。
馬車の動きが止まり、人の話声がする
外で休息の為にキャラバンを開いているのだろう。
ここで見つかれば終わりだ。連れ戻されるどころか速攻殺されるかもしれない。
ロネは音を立てぬよう、こっそりと外へ出た。自分の荷物を背中に抱えて。
ロネは辺りを見渡した、今なら見張りがいない、と。
タイミングを見計らって、ロネは走り出した。
命からがら逃げて来たのだ。
自分がいた収容所の壁が遠くに見える。あそこから外へ出ることができたということだ。これは正真正銘外に出ることができたのだ。収容所を抜け出すことができた。
これまで閉鎖された壁の中の治安の悪いスラム街にいたために、外の世界はこんなにも広かったのだと感動した。
かつて、あの森の奥で暮らしていた時のような、広い空を見上げられた。
ロネは振り返った。もうあの場所に戻ることはない。大好きだった父も母ももういない。これからは一人で生きていかねばならないのだ。
この世界では子供が一人で生きていけないこともない。
親や身寄りのいない子供がごまんといるこの世界では、子供一人など珍しくない。
最も、子供一人で生きていても、危険な目に遭うだけだ。しかしロネにはいざという時の光魔法がある。
本当なら母と共に脱出したかった。しかしそれはもう叶わぬ願いだ。
この世界では十二才にもなればやっていけないことはない。
この年まで育ててくれた、両親に感謝した
「見つかるといけないから、早くここを離れよう」
こうして、ロネは自由を手に入れたのであった。
ロネは歩いた、雨が降っていた。
あの収容所から外に出たところで、行く当てなどない。どこへどう行けばいいのか、どこで寝ればいいのか、と迷うことだらけだ。
ロネは崖から滑り落ちた。雨は容赦なく降り注ぐ。
「寒い……」
この冷えた身体をどうにかせねば、ととにかく走った。息を切らしながら、冷たい雨を身体中に浴びながら。
ロネが前を向くと、徐々に小屋のような場所が見えて来た。
「あそこ……」
あそこは雨宿りできるかもしれない、とロネは走った。
ロネは小屋にたどり着き、ドアを開けた。
ぎぃ、ときしむドアの中には誰もいなかった。
今では誰も使われていない空き家だったのだ。
住民がいなかったことで、ここは雨宿りができる。ロネはそれだけでもほっとした。
ロネはずぶぬれになった衣服を脱いで、横に置いた。
特に身体を温めることに使える道具などなく、ロネは身体を震わせながら、縮こまった。
ロネは自分が逃げてきた兵士たちの荷物のことを考えた。
もしもあそこに自分が潜んでいて、そこから逃げたのだと知られていたら?
それは脱走者として、見つかり次第処分されるかもしれない。追いかけられてくるかもしれない。自分は脱走したのだ。もしもあの者達が自分が死んだのではなく、外に逃げたのだと知ったらどうなるか?殺されるかもしれない。
休息を取るにしても、いつここへ誰かが入って来るかわからない恐怖も付きまとう。
冷える身体は気持ちまで沈ませる。そして食料もないので空腹だ。
これまで貯めた僅かな賃金があるとはいえ、それは町へ行かねば食料は調達できないだろう。
「そもそも、私はこれからどこへ行けばいいのだろう」
外へ出ることができても、自分が生きてる意味などない。愛する両親はもういない。
これまでは両親と共に暮らしていたからこそ幸せだった。しかしそれはもう永遠に叶わなくなってしまった。
しかも自分は世間から忌み嫌われるライトブラッドの混血という立場だ。きっと通常の人間のように普通に暮らすことはできないだろう。
自分の秘密がばれれば、即刻迫害の対象だ。
外に出たところで、両親と暮らしていたあの家へ帰る事はできない。とっくにあの場所は露見されている。居場所がない、帰る場所がない、信用できる人間もいない。
外に出ても、結局ロネのいるべき場所などないのだ。
なぜ父が殺されなければならなかったのだろう。なぜ母が迫害の末に衰弱死せねばならなかったのだろう。
これまでは考えないようにしていた。きっとそれを考えると心が沈み、気を保つことができなくなりそうで。
ロネは両親が死ぬ時に、何もできなかった自分を責めた。
もしも父が捕らえれらえた時に、自分に戦う力があれば父を助けられたかもしれない。
兵士に拘束されていたとはいえ、力があれば、それは振りほどけて父を助けることができたかもしれない。
自分にもっと力があれば、母を支えることができたかもしれない。衰弱していく母を、ただ見守るしかできなかったが、他に方法があったかもしれない。
自分には力も何もなかった。そして今も何もない。あったものは全て失ってしまった。
結局、収容所から外に出たとしても、もう生きるあてもないのである。
そうやって悲観していると、ある気持ちが沸いて来た。
自分はあの森の中で両親と共に過ごしたかった。
「そもそも、こんなことになったのは、あの男のせい」
考えてみれば、あのディルオーネという者があそこへ来てから、自分の運命は変わってしまった。それまでの平凡な幸福だった生活を奪われ、何もかもを失った。
「あいつが、父さんを殺して、母さんと私をあんなところに入れなければ……」
ロネの心には怒りの炎が燃え滾ってきた。
「あいつが……あいつが来なければ……」
あの男があの家に来なければ、自分はきっとあのまま両親と幸せに暮らすことができただろう。
あの男は自分と母の目の前で父をむごい殺し方をした。
その上で自分達を捕らえ、あんな場所に閉じ込めた。
そして、自分から何もかもを奪っていった。
自分に理不尽な運命を背負わせた。この世界が憎い、そしてディルオーネが憎い。
「あいつは許せない」
自分をこんな目に遭わせておいて、あのディルオーネという男は今ものうのうとどこかで生きているのだろう。
そしてその役職の栄光を受けているのだろう。
ディルオーネのやってきたことは、本来人々を守る為と言っていた。
だからこそ自分達の存在を脅威とみなしたという理由でロネの幸福を奪った。
「あいつは……私が殺してでも苦しめてやりたい」
ロネの心の中で、憎しみと悲しみの炎が燃え滾るような気がした。
ディルオーネだけではない、自分と母を迫害した人間共、そして自分達をこんな理不尽な目に遭わせる世界。すべてが許せない。
この世には自分と同じ年で両親と共に幸福で生きている子供達がいるというのに、なぜ自分だけがそれを失わなければならないのか。
この理不尽な世の中が憎い。自分から幸せを奪い、悲しい運命を背負わせたこの世界が憎い。
しかし、何よりもロネが怒りをぶつけたいのはやはりあの男だ。
「ディルオーネ……あいつが、あんな男が生きているのが憎い」
勝手に自分達を脅威とみなし、人々の為だと言い張ってあんな行為をした。
裏とはいえ世界の秩序を保つ為、つまりはある意味で人々を守る役目であろうあの男が、なぜ自分の人生を奪うことができるのか。
「そうだ……私が……」
ロネはあることを思いついた。一つだけ、生きる希望があった。
「憎きディルオーネを討つこと」
自分を不幸にした人間を苦しめ、仇を取る。そんなことをしたって両親が生き返らないことくらいわかっている。
しかし、自分が何もできず、あの男がのうのうとしているのは許せない。
ディルオーネがやろうとしていることはロネにとっての脅威だ。
それを他の者達に知らしめてやりたい。他者の脅威とみなし、人の命を粗末にできるなんて、あんな男は人間ではないと。世に知らしめるだけでも違う。
自分が何か行動を起こせば、あの男の悪魔のような正体を、あの男を信じ切っている者達に知らしめることができるかもしれない。それならば、自分がされたことのように、ディルオーネを苦しめることができる。
それがせめてもの自分にできることである。
ディルオーネの血に感じた、あの憎しみの興奮。
「あいつは……私が……私があの男の愚かさを、人々に見せつけてやる!」
ロネはそう固く決心し、いつかディルオーネを苦しめると決めた。
雨が降りしきる山小屋の中で、少女の心に一つの炎が燃え滾った。
それはまさに、ロネの怒り、苦しみ、憎しみ、悲しみといった全ての感情が燃え滾った炎だ。
しかし、もう一つ考えた。
ディルオーネを殺してやりたいとは思う。しかし子供の自分が大人であるあいつにかなうのか。
「そういえばあの者には家族はいないのか」
ディルオーネは恐らくかなりの強さだろう。権力者からも依頼を受ける。シャドウの一員だ。それはかなりの強さであろう。ならばディルオーネを殺すことはできなくても、あいつの家族に接触すれば殺せば家族を失った自分と同じ悲しみを背負わせることができる。
「せめてあいつの家族にはあいつがどれだけ酷いやつか知ってもらいたい。ならば自分が苦しみを知らしめてやる」
ロネはそう考えた。
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