第3話 地獄の日々

 母娘は街に連行された。いつも父親が買い出しに出ていた小さな町よりも都市部である。

 これまで住んでいたひっそりした森の奥ではなく、建物が並ぶ立派な都市だ。

 当然ながら、外には大勢の住民達が降り、ロネはこんなに人が多い場所に来るの初めてだった。その初めてが観光や買い物といった明るいものではなく、これから何をされるかわからない恐怖の道となると、けしていいものではなかった。

 二人はディルオーネの所持する建物の地下にある牢屋に入れられた。

 じめじめとした空気に冷たい床。母娘二人が押し込められた牢屋の中は決して広い空間ではなく、鉄格子の中はとてもだが快適とはいえない狭い牢屋に、二人は入れられた。

 そして、二人で身体を寄せ合い、縮こまっていた。

 ただでさえ愛する夫と父を亡くし、絶望的になった母娘には、これから自分達が何をされるかわからない恐怖でただ怯えていた。きっとディルオーネの言う通り、いい扱いはされない。

 レネオットの殺され方を見たのだから、自分達だってあんな扱いになる可能性がある。

「母さん、私達どうなるの?」

 ロネにとって、父を失った今は頼りになるのは母であるミリナしかいない。

 恐怖におびえる我が子を不安にさせない為にもミリナはロネを抱きしめながら言った。

「大丈夫、大丈夫よ。きっとお父さんが見守ってくれる」

 娘を安心させるために、ミリナはそう言うしかなかった。

 その心の中は、やはりロネと同じように恐怖と絶望でいっぱいだった。

 しかし、自分が母親なのだから娘の前では弱音を吐いてはいけないと、という意識でなんとか精神を保っていた。

 今はただ、じっとしていて自分達がどうなるかを待つしかない。

 人間とは違う異種族の女性であるミリナと結ばれたレネオっとをあんな目に遭わせたのだ。   

 となると、その原因を作ったのはミリナということにもなる。彼女が好奇心により外へ出たところをレネオットと出会い、こうなる運命を作ってしまった。

 ライトブラッドという人間からは汚らわしい思われている種族の女が、外にいたということも、きっとただではすまない。

 そして、その娘ロネも掟破りの二人の間に生まれた忌み子である。

 二人とも、普通の人間としては扱われないかもしれない。

 何をされるかもわからない恐怖の中、母娘はただ自分達に待ち受ける運命を覚悟するしかなかった。


 数日が経過し、二人の処分が決まった。

 レネオットは自身に与えられた使命から逃走し、隠れて異種族であるライトブラッドの女と暮らしていた。ライトブラッドにとってもそれは罰せられることだ。そしてその二人の子供では汚らわしいライトブラッドの混血児だと。

 本来は異種族が人間とまぐあうこと自体が罪が重い。

 異種族との子を生むことで、異常遺伝子をこの世に残すことになる。

 そうなれば、得体のしれない存在が生まれるかもしれないからだ。ロネ自身がそれを否定しても、周囲にはそう思われるだけである。

 本来ならレネオットだけでなく、家族である母娘二人もただではいられないはずだった。

 しかし、レネオットはディルオーネ家で功績を残してはいた。優秀な部下として、ディルオーネに尽くし、その強さも本物だった。

 だからこそ、優秀な部下を失ったディルオーネは探していたのだ。なんとしても連れ戻さねばならぬ、と。

 そういったこと配慮して母娘は処刑は免れた。

 しかし、だからといって解放されるわけではない。

 母娘は永久に一般社会へと戻ってこれないように、囚人を入れる。収容所・ロストルーゴに軟禁する、という処分が下された。

 その宣告を受けた時、母娘は絶望した。

 ロストルーゴは罪人たちが入れられる巨大収容所だ。刑務所の一種、いやそれ以上に厳しい場所かもしれない。

 刑務所との違いは収容所といっても建物のような施設ではなく、頑丈な壁に囲まれた一つの小さい町になっているような集落だ。

 罪人たちなど、社会に暮らせない者達をその集落に閉じ込めることで、ただ罪を償わせるのではなく、鉱山発掘や資源を作り出す仕事などの労働させる人力として活用する。

 集落といっても罪人たちが最低限の暮らしをするだけの規模で実質スラム街のようなものである。人が快適に暮らせるとはいえない住居に最低限に商店などの施設。

罪人たちは日々決められた労働をこなし、それにより賃金が出て生活をする。もちろん、その金額はわずかなものだが。

 高い壁で囲まれたその集落は、生活するにあたって必要な設備はあるものは揃っているが、そのかわり一生そこからは出ることができないまま余生を過ごすのだ。

 裏切り者のレネオットの家族なのだから、それがふさわしい罰だと。

 本来なら死罪に値する者の家族なのだから一緒に処刑されてもおかしくなかったはずを、情けで命を奪わないでおいてやる、という上から目線だった。

 処刑ではなくても、その宣告を受けた時、母娘は絶望した。

 家族と共に、幸せに暮らすという生活は失われ、過酷な日々が始まるというのだから。

 こうしてロネとミリナは過酷な環境であるロストルーゴに収容されることになった。

 もうこの母娘は、永遠に一般社会に出ることができないという絶望を与えて。







 どんよりとした空に、鳥が飛んでいた。その曇り空はまるで、ここの住人達の心を表しているかのようだった。

 囚人を逃がさぬようにと高く高く作り上げられた壁の中。各出入口には囚人を見張る監視がついている。

 ところどころが瓦礫の山となり、まるで鼠の住処のような不潔さだった。

 立て並ぶ家は家と呼ぶこともできない、木造りのほったて小屋が並んでいた。

 お世辞にもいい住居ともいえない、修繕することもないままに、壁や屋根もずたぼろで、いかにも鼠の住居という言葉がふさわしいスラム街。

 貧相な木造りの小屋ばかりの住宅地。住民達が暮らすボロボロの小屋はもはや家としての機能も果たしていない住居もあった。囚人たちの住処は屋根があればいい方で、屋根を修繕する余裕もない家はただ、ぼろきれをかぶせているだけだ。

 外に垂らした紐で洗濯物が干されている家もあったが、その衣服ももはや色あせてボロボロのものばかりだ。同じ服を着るしかないというその衣服から、ここの者が貧しい暮らしをしてるということをうかがわせる。廃棄物があちこちに転がっているが、清掃するものもいない。

 道の塗装はすでに剥がれているが、誰も修繕しない。

 この不衛生な環境が、囚人たちを収容するロストルーゴだ。絶望の町。ここにいれも外に出ることもなく、永遠にこの場所で生きるしかない

 ここに収容された者達は、この環境で日々暮らしている。綺麗な場所に住む自由など与えられない。その為か、ここの住民達は日々虚ろな目をしている者ばかりだった。家も与えられない囚人は、ただ路上で座り込んで物乞いをしている。中にはまともに食べ物を得る事もできず、栄養失調で死にかける人々も珍しくない。

 最悪な環境だ。全く整備のされていない町である。ここの住民達が暮らす家ははボロ小屋だらけででロネが住んでいた自然豊かな場所など比べ物にならないくらいの家だ。それどころか石造りで木造の小屋があるだけで精一杯のこの街にはろくな自然もない。あるとすれば、死亡した収容者の死体を埋葬する墓地に地面が広がっているだけだ。しかし、その墓地も常に満員状態だった。外で収容者が死亡したとしても、自ら死体を埋葬したいという者もいない。死体があれば片付けられるまでに数日かかることも珍しくない。なので町には腐敗した死体からの異臭が漂い、蠅もたかっているという地獄のような場所だ。

 ここではまともに働いても受け取れる賃金は安く、十分に食べることもできない。しかもその食料も粗末なものしか入手することができない。まともな生活をさせるつもりもないのだ。

 労働力である収容者が死ねば、その補充をする為に、次の労働者を補充する。死んだ者のかわりはいくらでもいる。つまりここの住民達には人権もなく、消耗品扱いである。

 そんなスラム街のような一角で、母娘は歩いていた。

「今日も大変だったね」 

「帰って休みましょう」

 ロストルーゴに収容されたロネとミリナの二人は、なんとか日々を生きていた。

 外にいた頃とは全然違う、ボロボロの衣服にばさばさの髪、どこか気力もない。

 そして食料もまともに得られない為に、以前より痩せた。

 二人は女性ということもあり、やせ形のロネとミリナの外見からして、力仕事による労働は無理だろう、と判断され、収容者の衣類生産の労働を与えられていた。ここでは就労者の衣類を作り出すことも必須だとその仕事を与えられた。

 日々布から収容者たちの衣服を縫い上げ、それを仕入れ先に納品し、賃金を得る。とはいっても、ここではたくさん仕事をしても、それに見合った金額は与えられないが。

 ここでは女性だからと手加減はされない。賃金を払っているのだからと同じくらいの労働をさせられる。

 そして今日の業務も終わり、仕事場となっている衣類生産工場から帰るところだ。


 ロネとミリナが家に帰る途中、周囲の者達は冷たい視線を向ける。

 そして、こそこそと陰口を言う。

「あの女、ライトブラッドなのだろう。なんで人間がいるとこへ来たんだ」

「ライトブラッドのくせに、人間と関係を持ったなんて、気持ち悪い」

「あの女には自分の一族の誇りとかなかったんだろうな」

「あの子供は半分はライトブラッドだろう? 半分は人間じゃないわけだ」

 ロネとミリナは毎日のように、そんな冷たい視線と陰口を聞かされた。もう慣れて来たものだ。

 収容者にとって、ミリナは異種族の女だ。

 人間である男との間に子供が生まれたということは、人間とそういった関係になったということだ。それを収容者たちは気味が悪い、と陰口にしている。

 ロネもまた、そんなライトブラッドの血が混じった子供ということだ。人間でもない混血児など、ここでは奇妙なものでしかない。

 こうして日々、偏見の眼をを与えられ続け、ロストルーネに母娘に居場所はなかった。

 閉鎖されている空間での生活を強いられているので外で暮らしていくこともできない。

 二人を守ってくれるはずだったレネオットは死んだ。これからは二人だけでこの過酷な環境を生きていかねばならない。

 外に出て自由に暮らすこともできない二人はこんな収容所で絶望的な日々を過ごすだけだ。

 それでも自分達に与えられた仕事はせねばならない。そうしないと食料も衣服も得ることはできない。生活することができない。なのでどんなに嫌でもここで生きる為にはそうするしかなかった。


「さ、早く帰りましょ」

 そんな陰口をなるべく聞かぬようにと二人は帰路を急いだ。二人は労働場から自宅へなるべく早く帰らねばいけない理由もある。それはまるで、何かから逃げるかのように、どこか急ぎ足だ。

 周囲では収容者達が二人を蔑んだ目で見ている。こうやって辛い視線を向けられるからこそ、なるべく早く帰りたいと思うのもあったが、急ぐのにはもう一つ大きな理由があった。

 二人が急ぎ足で帰ろうとしている途中だった。

「おい、そこの女」

 二人を呼び止める野太い声がかかった。

 声の主は、大柄な男だった。髭を生やし、衛生環境もあまりいいとはいえないこの場所では、外見も見ずぼらしい。まともな食料が得られない為に、筋肉は少々少ないが、それでも元の体格が大きかったのだろう。いかつい男でいかにもガラの悪そうな男だ。

 二人はそんな呼びかけに、あえて何事もないように先へ急ごうとした。

「待てよ」

 しかし、男はミリナの肩を掴み、無理矢理自分の方へと振り向かせた。

「……なんですか?」

 ここで無視をすれば、なおさら状況が悪くなるだろう、と思いミリナは言葉を発した。

「お前、随分と別嬪さんじゃねえか」

 ミリナの外見は若々しい美しい女性だ。ライトブラッドは人間よりも老いが遅い。身体に流れる銀色の血液により、白い肌には艶がある分、老いを感じないのだ。その為に、人間でいう本来の年よりも若く見えるのだ。子供を生んだとはいえ、そうは思わせないほどの美貌である。ロネはその母とそっくりだ。

 衛生状態が悪く、水ぼらしい生活で髪や衣服外見は普通の世界で生きる女たちに比べれば、粗末なものだが、それでも多少若さを保れるミリナのその美貌はやはりなかなかのものである。

「悪くねえな、好みだぜ。ちょっと相手してくんねえか」

 大柄な男は、まるで興奮してるかのように、息を荒げていた。

 恐らくこの男も何らかの罪でここに収容されたのだろう。

 そうなると、こういった男達の考えは決まっている。自分にとっての快感を得る事。

 こういった男の目的は、性欲を満たす為の行為を強いる事。治安が悪いここではそういったことも珍しくない。

 それには「ここではまともに娯楽もなく、何もできずに過ごすだけ。それならば娯楽のないこの場所で少しでも楽しみたい」という気持ちがあるのだろう。

 それは外見が見ずぼらしくはあっても、元の美貌であるミリナは男の性欲をそそる。

 そもそも、ここは美醜など、そういったことには気にしない。少々見た目がいい女なら誰でもいいのだ。それならば、ミリナはいい標的だ。

 こういった者に話しかけられることがあるから、帰りは急ぎ足なのだ。

 ここには悪しき者を取り締まるような者もいない。本来こういった目的で女に手を出せば牢獄生きだが、ここでは罰されることも何もない。

「困ります。これから娘と帰るんです」

「俺を信用できないかい? 心配するな、ちょっと楽しいことをするだけだ。なんならその嬢ちゃんも一緒でもいいんだぜ」

 ミリナはロネをかばうように、男に立ちふさがった。女であれば大人も子供も恰好の餌食だ。

「なあ、こっちにこいよ……」

 男がそう言って、無理矢理ミリナの腕を引っ張ろうとしたところだ。

 ロネの掌から青い光がほどばしった。

「ぐあっ!」

 瞬時に男の眼に光が直撃したのだ。その光は痛みも伴う。

「今のうちに逃げよう!」

 男が苦痛で手で顔を覆い、その場に倒れたのを見計らって二人は走り出した。

 これがライトブラッド特有の光魔法だ。それを男に発射したのである。

 この世界では、魔法が一般的に存在し、それは使う者によって、様々な属性だ。

 ライトブラッドは特有の光魔法を使える。しかし、それは人間には効かない。ライトブラッドの放つ魔法は、同じ種族であるライトブラッド同士にしか通用しないのだ。人間に使用ぢても、たがの光のように身体を照らすだけで、物理的なダメージは与えられない。。

なのでミリナが放ったとしても、人間相手にはそれはただの光となり、身体を通り抜けるだけだろう。

 この魔法は成長するにつれて、目覚めていく。それは、つまり、ライトブラッドが強くなりたいと思う時期に覚醒するのだ。ロネにとってはそれが今だった。 

 本来ならばもっと年齢をかからねば覚醒しないはずのこの能力は、極限状態になった最近になって発動した。

 母と自分を守らねばならない、と強く思ったからだろう。

 ロネは混血だ。ロネは純潔のライトブラッドではなく、半分は人間の血なので、その魔法は人間にも痛覚を与えることができる。人間同士になら互いの魔法が利くのだから、純潔のライトブラッドのミリナの魔法は人間には通用しないが、ロネに混じる人間の血のおかげでダメージが与えられ、人間相手になら充分身を守ることに仕える。

 しかし、ロネはまだ子供だ。その為威力が弱く、せいぜい光魔法とはいえ人間には一時的な痛みを与える程度の威力だ。もう少し大きくなれば、魔力は増幅される可能性もあるが、まだ十二才という年齢にはそこまで達しなかったのだ。

 この魔法がもっと早くに覚醒していれば父が捕らえられた時に、父を助けることができたかもしれない。

 しかし、あの時はロネ自身も兵士に拘束されていたゆえに、魔力を練り上げることすらもできなかったのだ。あの時に覚醒したとしても結果は同じだっただろう。その力不足も悔いていた。

 魔法で男を撃退し、全力で走るとようやく逃げ切ることができ、安堵する。

「なんとかまくことができたね……」

「ごめんね、ロネ。いつもいつも」

 ミリナには自分には自衛できる能力がないから、ミリナはこういう時は娘のロネに頼るしかない。

 親である自分が娘であるロネに守ってもらうとは情けない、と思っていたがそれは仕方ない。

「さ、早く帰ろう」

 二人はようやく自宅へとたどり着いた。



「やっと帰ってこれた……」

 自宅に着き、二人は室内にようやく腰を降ろした。

 自宅といっても、せいぜい最低限に就寝と食事に使う布団と質素な台所しかない家の中だ。ベッドすらない。薄い布団で眠るくらいのスペースである。

 しかし、この自宅もやはり、壁には穴が空いていて、修繕される余裕もなく、せいぜい雨をしのげる程度だ。

 ロストルーゴは新しく収容者が増えるとしても、新しい小屋を建てることはない。限られた敷地で収容者達を暮らさせるしかないからだ。

 つまり、以前そこに住んでいた者の小屋が新しく入ってきた次の住民へと使いまわされているのだ。以前住んでいた住民がどうなったかは想像すると恐ろしい。

 そして自宅には鍵らしい鍵などない。あったとしても、木のドアは武器でも使用して壊せば、きっと鍵の意味もなくなるだろう。なのでいつ強盗に入られるかもわからないという恐怖の日々で、家にいても落ち着かない。

「父さんと暮らしてた小屋とは全然違うね……」

 自宅の間取りを見て、ロネは父と暮らしていたあの頃を懐かしく思う。レネオットが建てた家は、質素な小屋であっても、あそこはまだまともだった。父に守られていて、森には自給自足するには十分な食料を得ることができた。それに、日用品は父が買ってきた。

 今ここでは、まともな住居すら与えられず物資も貧しいものだ。

 休息を取ることだって、本当に真から安心して休めるわけではない。

「ロネ。弱音は吐かないって言ったでしょ。今日生き延びれたことを感謝よ」

 ここでは「生き延びれた」というよりは「死ななかったこと」に感謝だ。

 不衛生で貧しいこの環境で、さらに外はいつ暴漢にあるかもわからない物騒さ。

 収容者同士で限られた物資の奪い合いで本当に殴りあい、それが死亡に繋がる危険もある。

 そうなると、死なないということが感謝なのだ。

 ここではそんな日々だった。

「さあ、明日の為に、今日も早く休みましょ」

 せめて自宅でだけは、休息を取りたい。無事に帰ってこれただけでも良かった方が。



 貧相な小屋の中に、朝日が差し込んだ。

「う……ん」

 ロネは薄い粗末な毛布の中で目が覚めた。身体に違和感を感じた。

 頭が痛い、ぼんやりする、熱い、身体がだるい。息も乱れてる。視界が揺らいだ。

「ロネ、どうしたの?」

 先に起きていたミリナは、なかなか起きないロネを心配そうに、娘の顔を覗き込む。

「身体が、なんだか辛いの……」

「そうなの?」

 ミリナはロネの額に手を当てた。そこはじんわりと熱かった。

「ロネ、熱があるわ」

「嘘……」

 ロネは自分が病気になってしまったことに焦りを感じた。

 ここでは病気というものは一大事だ。普段の貧相な食生活や不衛生な環境からからこうして倒れるものも多い。

 ここにはまともな医者などいない。奴隷のように扱われているここの者達は世間からしたら生きていないのも同然だ。しかし、ここでは囚人が死ぬことで労働力の不足なるということは危険視されている。なのでと最低限に生命を維持する程度にしか診てもらえない。薬になる医療品なども十分に余裕があるわけではないからだ。

 労働力を失わないようにと軽く診察をする場合もあるが、逆に一度病気になってしまったものは、働けない、使えない者とみなし、そのまま死なせる。

 働く力がある者は必要だが、働くことができないのならもう使えないのだから死なせてもかまわない、というわけだ。

 生きて労働力になる者は必要だが、病気になり、働けないにまともな治療をする必要はないと。

「どうしましょう……」

 ミリナは焦った。ただでさえ免疫の弱い子供でまともな栄養も取ることもできないこの環境で、娘が本当に危篤になってしまえば、ただ死ぬだけになってしまう。

 ここでは子供が病気になったとしても、元々子供は労働力も大人ほどないのだからと見捨てられる可能性もある。一度病気になってしまえばおしまいだ。

 このままロネを放置しておくと、本当に死に至る可能性が高い。

「私が、ちゃんとしなきゃ」

 娘を死なせるわけにはいかない、そう思う親の気持ちが大事だった。



「ほら、これを食べなさい」

 ミリナはわずかな食料で粥を作り、ロネに食べさせた。

 しかし、ロネはいまいち食欲がわかないようだった。これだけでは栄養が足らない。

 医療品もなく、まともな物資もなく、ろくに医者に診てもらえないここで、どうすればいいか。ミリナは必死で考えた。

「お母さん、なんとしてもあなたを助けるから」

 こうしていても、仕事に行かなくてはならない時間は来る。ここでは病欠の時以外に仕事を休むわけにはいかない。叱責され、仕事を辞めさせられでもすれば、賃金がもらえなくなるのだから。ここではそれが一大事だ。退職に追い込まれるわけにはいかない。

 普段からわずかな賃金で食料を買うしかないのだから、一日休むだけで大損だ。

 そして、ここでは労働できない者は、そのまま野垂れ死ぬだけである。

 今日はロネが病気ということで、ロネが仕事に行けないのは仕方ない。

 かといって、一日中ロネの傍にいるわけにはいかない。

 仕方なく、ミリナは仕事へ行く準備をした。


「今日は寝ててね。絶対に家を出てはだめよ」

 布団で横になるロネに、ミリナはそう言いつけた。

 ロネはこれから一人にされるという不安が襲い掛かった。

「やだ、行かないで……傍にいて……」

 ロネは苦しい身体でうっすらと涙ぐんで母に懇願した。

「仕方ないのよ。今日行かなかったら何をされるかわからないし、私が行かなきゃこれからどうなるかわからないの」

「でも……」

 いつもは外出も母と共にだからとまだ安心した。

 しかし一人にされると傍に母がいない心細さが襲い掛かってくる。家に鍵はついているものの、それだっていつ破られるのかわからない。

 一人の間に何者かが鍵を壊して強盗に入らないという保証もない。

 こんなにも体力が落ちているところへ強盗が入ってくればどうなるだるか。子供である自分が大人にかなうわけがない。逃げ出すにもこんなにも身体が辛い状況ならば、まともに走り出すこともできないだろう。

「行かないで……」

 ロネにとっては、これは本当にただの留守番であなく、心細い恐怖だ。

「大丈夫よ。ちゃんと栄養のあるものを調達してくるから」

 ミリナだって本当は娘を一人で家に置いておきたくない。自分がいない間に、娘に何かあったらと思うと恐ろしい。自分が傍にいなくては、ということくらいわかっている。

 しかしミリナがなんとか自分に与えられた職務をこなし、食料を調達せねばロネに食べさせるものはない。誰かが持ってきてくれるということもないのだから。

「ロネ、いい子にしててね。夕方には帰るから。それまでちゃんと寝ててね」

 小屋から出て行く母の後ろ姿を見ながら、母がいなくなる不安が急激に襲ってくる。

 一人ぼっちになった小屋の中は恐ろしいものだ。

 ただでさえ身体が辛い状態なのに、いつ外から誰が来るかわからない、何かあったらどうしよう、ここにいて自分で解決できるか、とロネには恐怖が襲い掛かって来る。

 せめて母が傍にいれば、安心できるのだが、その母がいない。

 こういう時、父がいれば……と思うがその父ももういない。そのことを考えるとますます辛くなるだけだ。

 ロネの身体は辛い苦しいという頭の痛みと戦っている。

 ロネはただ一人で母親が帰って来るのを寝ながら待つことになった。

ロネはただ、早く母が帰って来ることを祈りながら、眠りについた。


 どのくらい経っただろうか。外は夕焼け色の空に染まっていた。

 いつもなら労働が終わり、収容者たちがそれぞれ帰宅する時間だ。

玄関のドアがバタン、と開く音がした。 

 ロネはその音で目が覚めた。

「ロネ、ただいま……いい子にしてた?」

 その声でようやく母が帰ってきたのだと、ロネは一瞬安心した。ようやく恐怖に包まれていた一人の時間から解放されたのだと。これで一人ではない。

 辛い身体で一人で留守番をするこの時間は恐怖でしかなかった。母が帰ってきただけでも安心する。

 やっと母が帰ってきた、と安堵したが、その次にロネは母の姿を見て驚愕した。

「母さん……!? どうしたのその姿……!?」

 ロネは辛い体でも思わず上半身を起こすほど驚いた。

 ミリナの姿はぼろぼろだった。

 服はまるで乱暴に破かれたかのように皮膚が露出し、肩が大きく破れ、引き裂かれた衣服は胸や腹までもがはだけさせられている。ミリナの衣服はもはや服として機能していなくらいに激しく破れていた。

 髪はまるで乱暴に掴まれたようにぼさぼさでが逆立っていた。

 素肌が露出している部分に見えるのはまるで殴られたかのような打撲の痕もあり、とても乱暴なことをされたのだということがわかる。

 足取りもフラフラで、まるで何かをされ、それから命からがら逃げて来たかのように、ぼろぼろだった。

 顔色も悪い。まるで泣きはらしたかのように、涙の跡が見える気がした。声も若干かすれている。

「なんで、そんな恰好に……」

 母親の異常な姿に、ロネは動揺を隠せなかった。

「なんでもないの……。ちょっと転んだだけよ」

 ミリナはロネを不安にさせぬようにと、平穏を装ってそう言った。

転んだだけならばなぜあちこちが打撲の痕だらけなのか。転んだくらいではそこまでの打撲はしないだろう。

 どう転べば服がそんな風に破けるというのか。転んだ拍子に地面に倒れたとしても、そんな破け方はしないだろう。それはまるで無理やり引き裂かれたかのようだ。

 そして、足取りがおぼつかないところが不自然である。

「気にしないで、本当になんでもないの……」

ミリナはそういうが、ロネは察した。

 母が暴行を受けたのだと。

 暴行というのは、ただ殴られた、蹴られたといった乱暴なものだけではなく、先日絡んできた男のように、ミリナを性欲処理の対象にしようと思っていた者達に目を付けられたのではないか。そして襲われたと。

 外見が若々しいミリナはこんな貧相な暮らしをしていて見ずぼらしい恰好をしていても、男には捕まりやすかった。ここには女が少ないのだから、どんな外見でもいいと。

 相手は先日絡んできた男なのか、それとも別の男なのか。もしかして、一人ではなく、複数の人間に狙われたのではないか。その衣服の激しい破れ方と打撲の痕はそうとも見える。

 恐らくミリナは必死で抵抗したのだろう。そんなミリナを大人しくするために暴力を振るわれたのかもしれない。足取りがフラフラなのも、無理やり犯されそうにもなったからなのかもしれない。涙の跡も、声の調子も、恐怖により泣きはらし、叫んだからかもしれないい。それでも誰も助けてくれなかったのだろう。

 命からがら逃げてきたが、それでも娘に心配されないように気づかっているのではないかと

 母がされたことを想像すると、ロネはぞっとした。人とはなんて恐ろしいものなのかと震えた。

 いつもは外でそういった者に絡まれても、ロネが光魔法で撃退するか、痛みを与えてその隙に逃走するといった手法が使えた。

 しかし、今日はロネが傍にいなかった。なので、いつもの手段が使えなかったのだ。

その為に、ミリナは逃げ切ることができなかったのかもしれない。

ロネは悔いた。自分が倒れたせいで、母を守れなかったのだ。自分が傍にいなかったから、母を一人で行かせてしまったからだ、と悔しくなった。

「ロネ、本当に気にしないで……。しばらくすれば治るから」

 ミリナはなんとしても娘を不安にさせない為にと何事もなかったかのようにふるまう。

 ミリナが娘に悟られないようにと気遣っているのだから、ロネもそれ以上は聞くこともできなかった。聞くことで、余計に辛いことを思い出させてしまうかもしれないからだ。

「じゃあ、夕飯用意するからね」

 ミリナはフラフラな身体を耐えながら食事を用意し始めた。

 そうやって辛いことも隠そうとする母を見て、改めてロネは、ここはなんて恐ろしい場所なのだろう、実感した。

 人を閉じ込めて、支配し、弱き者には手を差し伸べない。誰も助けてくれない。

 人を傷つけても、それを取り締まる者もいない。収容者同士に何があっても放置だ。

 ただ奴隷のような日々を送るだけで、救いを求めることもできない。

 こうして理不尽なことをされたとしても、何かできるわけでもないのだから。

 なので自分達の身は自分達で守るしかないという、厳しい場所だ。



 数日後。ミリナの渾身な看病もあり、ロネは回復できた。

 しかしその反対に、今度はミリナが倒れた。

「母さん、今日も苦しい?」

「ごめんね。そのうち、治るから」

 ミリナは布団で横になり、苦しそうに呼吸をしていた。

その日からミリナの体調は芳しくなくなった。

 体力的にも精神的にも限界だったのだろう。愛する夫を失った悲しみと、ここで受ける迫害、そして暴力。それらはもはや倒れるほどの苦しみだ。自分がしっかりしなくてはならない、娘の為だからとこれにずっと耐えて来たのだ。

 ただでさえミリナは限られた食料を少しでも多く娘に食べさせようと自分は我慢して娘に分けることが多かった。

 その為に、ミリナは過酷な栄養失調もあるのだろう。一度倒れてしまうと回復がなかなか難しい状態だった。


 ミリナは寝たきりになった。こんなにも弱った状態で外に出れば、男に襲われた際に逃げられるかがわからない。こうして家に引きも凝っているしかない。

 仕事にはもちろん行けない。労働力にならない収容者など放置されるだけだ。

ミリナは日々日々身体が衰弱していった。

 守ってくれる存在はもういない。助けてくれる者もいない。ただここで迫害され、怯えて暮らすだけだ。その精神はもはやボロボロだったのだろう。

 回復するには気力が必要だと言っても、ミリナにはもうそんな元気もなかった。


「ほら、母さん。食べて」

 ロネはミリナが薄いパンとスープを差し出した。

 母のかわりに子供であるロネがかわりに仕事へ行って、賃金をらうしかない。

 その間に母を一人で家に寝かせておくしかないので、いつ自宅に誰かが襲い掛からないかと心配で仕方ない。あの時の心細さを今度は母にしているのだ。

 ロネが熱を出した時とは逆に、今はロネがミリナに食べ物を与える。

ミリナが病で倒れてから、体力のあるロネがたった一人で出稼ぎに息、外へ出て食料を調達する。とはいえ、子供なので得られる賃金も食料も僅かなものだ。

しかし、ここでは子供だからとは言ってられない、

今は母親であるミリナが倒れたのだからその娘であるロネが代わりにやるしかない。

 ミリナは薄い布団にくるまって横になりながら、ロネにこう言った。

「ロネ、ごめんね。こんなに辛い思いをさせて。普通の人間に産んであげられなくて。私のせいだわ。私のせいでこんなところに来てしまうことになって」

 その目には涙が浮かんでいた。ミリナは倒れたからは弱音を吐くようになっていった。これまで母親として娘を守るためにと気をはっていたのが、とうとう限界に来たのだろう。

 今は母親としては情けなく、かえって娘に泣き言を吐くようになってしまったのだ。

「私が、あの人と結ばれたから。あの人と一緒にいたから」

 ライトブラッドである自分が人間であるレネオットといた為に、娘であるロネが生まれた。

 レオネットは自分の職務を放棄してでもミリナと共にいることを選び、そしてロネと三人で暮らしていた。

 そのせいで、レネオットが殺され、こうして母娘共々こんな場所に放り込まれて、苦しい生活を仕入れられる。

 ライトブラッドであるミリナのこともレオネットがああなる原因の一つであった。

「ごめんね。私のせいで……。私があの人と一緒にいることを選んだばっかりに……」

 ミリナは自分のせいだと、自分を責めていた。

「母さんのせいじゃない!」

 そんな母に、ロネは強く言った。

「私は父さんのことが大好きだった。母さんが父さんのことが大好きだったことも知ってる。二人のおかげで、私は生まれることができた。お願い、母さんが父さんと一緒にいたことを否定しないで」

 母自身に愛する父と一緒にいたことを否定されることは辛い。

 あの父がいたからこそ、自分は生まれ、二人に愛された。

 自分がこの世に生をうけられたのは、二人が互いを愛し合った証拠だ。

 その母が自分のせいだと苦しむことも、父のことで悔やむ姿は嫌だった・

「悪いのはあいつらよ! あいつらが父さんを殺したから」

 憎むべきは迫害をする者達。こうして自分達を苦しめようとしようとする人間。

そして一番憎いのは父の命を奪ったディルオーネの存在だ。

あの者さえ来なければ、こんなことにならなかった。あのまま平和に暮らせていただろう。

 ミリナは涙を流し続け、こう言った。

「私のことはかまわないで、あなたは外へ行ってもいいのよ」

 娘を想うせめてもの気持ちで娘に伝える。

「もしかして、子供のあなた一人なら、頼み込めば自由にしてくれるかもしれないわ。ここにいる原因は異種族である私なのだから、もしかしたらあなただけなら……」

 自分が異種族だから、外に出されずここに閉じ込められている。ならば自分を見捨てて出て行った方が幸せなのでは、と。

「母さん一人を置いていくなんてできない!」

 こんな場所に母を置いていくなんてとてもできない。

 ただでさえ掟破りのライトブラッドだと罵られ、さらに人間の子を生んだのだ。

治安の悪いこんな場所に母を残していたら、何をされるかもわからない。

「私は母さんの傍にいる! ここにいる! だから母さんもここにいて!」

母を一人にすることで、以前のように、乱暴な男共が弱った母に何をするのかもわからない。

 自分が傍にいなくてはならない。母を支えなくてはならないと。

 かつて父が自分達を守っていたように、今度はロネが母を守らねばならない。

 そもそも自分一人で逃げ出すことなどできるのか。どうすればここの看守をごまかせるというのか。

 逃げ出そうとしてばれて殺される可能性だってある。

 運良く外へ出る機会があったとしても、自分一人で生きていくつてなどあるのか。

「私が、母さんの傍にいるから、だから元気出そう?」

 今はそう語り掛けるしかない。弱っている母に、少しでも希望を持ってもらう為に。

「そう、ありがとう。あなたはやっぱりあの人の娘だわ。その意志の強さは間違いなく受け継いでる」

 ロネの想いが嬉しいのか、ミリナはほんの少しだけ微笑んだ。


 

 安心したのか、ミリナはすう、と眠りについた。

「母さん、なんとか元気になって……」

 眠る母を見て、ロネはそう呟いた。

 もしも母が死んでしまったら、自分は本当に独りぼっちになってしまう。

 ただでさえ、異種族の混血児な自分が外に出たらどうなるのか。純潔のライトブラッドである母すらも迫害の対象にされる。自分は半分、その血を受け継いでいる。

 父がいなくなり、母までもを失えば、ロネは絶望に落とされる。この世に家族という存在がいなくなるのだ。

 大好きな父だけでなく、母がいなくなれば、ロネは心の支えを失うのだ。そんなものはきっと耐えられないだろう。

 この世界で、そんな絶望を抱え生きていけるのか、と想像するだけで恐ろしい。

 

 ミリナのそんな状態でしばらくが経過し、ミリナの様子がおかしくなった。

 食べ物を食べさせても、胃が受けつかないのか、すぐに吐き出してしまう。

 これはもう、内臓も弱っているのだ。だから消化できない。

 栄養を摂ることができない。それではもう回復も見込めない。

 ただでさえ、弱り切った身体に、そうなればもう元気を出すことはできないだろう。

「お願い、一人にしないで……」

 日に日に弱っていく母を見るのは悲しい気持ちでいっぱいになった。回復することを見込めないのであれば、ただ衰弱していく姿を見るだけしかできない。

医者も薬もない、食べ物だってろくにない。ここでは弱った者は討ち捨てられるだけだ。



 さらに数日後、ミリナは息苦しそうに、呼吸を乱していた。

 極度の衰弱に、栄養失調、もはや治療のほどこしようもない状態だ。

「母さん、お願い、死なないで……」

 ロネは横たわる母に必死で呼びかけた。

 しかし、もうどうにもならないことが目に見えていた。

「最後まで、ここにいるよ」

 母の死期が近い、とロネは覚悟しなけれなばらなかった。

 ふと、ミリナの瞼が開いた。

 ミリナは虚ろな目で天井を見上げているもはや目も見えているのかも怪しい。

「ロ……ネ……」

 母が何か言っている。何か伝えたいことがあるのかもしれない。

しかし、もう声を出す体力もないのか、小さな声だった。

ロネは母の口元に耳を寄せた。

 ミリナは今出せる精一杯の声でロネの耳元に、そっと語り掛けた。

「ロ……ネ……。ここにいて……くれてありがとう」

 母が必死で何かを伝えようとしている。聞き耳を立てて、しっかりと聞かねば、とロネは気をはった。

「私はずっと母さんの傍にいるよ。だから、安心して」

 せめて母を安心させたい、そう思いロネはそう言った。

「私はね、父さんと出会えて、あなたが生まれてきて幸せだった。みんなで暮らしたあの日々は私にとってかけがえのない宝物……」

 ミリナには走馬灯のようなものが見えているのかもしれない。三人で暮らしていた、幸せな記憶を巡っているのだろう。

「私は、あの人を愛していた。その娘であるあなたも大切な子。私とあの人との宝物」

 この状況でのこの台詞は母が父と会ったことを、自分を責めないことがまだいいことかもしれない。母が最期に自分のことを悔やみながら死ぬのではないのだから。

「あなたが大人になる姿を見たかった。でも、最後まで傍にいてくれてありがとう」

 それはミリナの精一杯の本音の気持ちだろう。

 自分の最期はたった一人で死ぬのではない。娘が傍にいてくれたと。

 ロネはうん、うん、とただ相槌をうちながら、ゆっくりと聞いていた。

 泣いてはいけない、泣いてたら母を悲しませながら見送ることになる。

「ロネ、せめて最後の母さんからの贈り物、受け取ってくれる?」

 ミリナは震える手で、自分の首に下がっていたペンダントを外した。

 母がいつもつけていたものだ。

 表面に細かい模様が入っていて、銀色のふちに赤いストーンがついていた。

「これを……なんで?」

「母さんの故郷で、大人になったらもらえるものよ。ロネはこれから私の意思をついで、大人として生きていてほしい。立派な大人になる為に、これを身につけておいて。これで、あなたも大人ということよ」

 自分の大事なものを託すということは、それだけいよいよ自分がどうなるのか。覚悟しているということだ。

「私達、ずっとあなたを見守ってるわ。頑張って生きてね……」

 ミリナは、そう告げた。苦しみながらも、最後まで娘のことを想っている。

それならば、最期は少しでも母を安心して見届けたい。

「うん。わかったよ」

 ロネは母の手を握りしめながらそう言った。母の意思はこれからは自分が継ぐのだと。

「元気……でね」

 ミリナは、ふう、と息を吐いて、目を閉じた。

そして、そのまま息を吸うことはなかった。

「……!」

 ロネは覚悟していたことがとうとう現実になったのだと実感した。

 母の呼吸が止まり、心臓も動かない。身体が徐々に熱を失い始めて、冷たくなっていく。

 もう、二度と、母は動くことはない。二度と話すこともできないのだと、そんな悲しみが一斉に襲い掛かる。

「母さん……」

 ロネはミリナの手を握りしめた。その手はもう二度と握り返すこともないけれど。

 母を見届けたことで、まだ最後に自分は傍にいてよかった、と思った。

ロネは声を挙げることもできず、ようやく静かに泣いた。

 父がいなくなり、自分が父のかわりに母を守らねば、とわかっていたはずなのに、これでは結局自分には何もできなかっただけだ。


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