嫉妬

 その日、アドラは珍しく機嫌が悪かった。

 

 この二週間、ヴァイマリアードは平穏な日常を送っていた。女神が住まう摩天楼への訪問以来これと言って事件はない。月部屋一門も夏公演に向け、一致団結して稽古と舞台作りを進めている。だが、それに反比例するように、アドラの眉間の皺の数は日を追うごとに増していった。


 「ええと、確か頼まれていたものはこれですね。……うっ、背が届きません」

「っと。これでいいのか?」

「あ、ズィーさん! ありがとうございます。助かります」


ズィヤードが棚の上に載った段ボールを取り、シエルに渡す。シエルは満開のひまわりのような、明るい笑顔を彼に向けた。


 不機嫌の原因は、これである。


 シエルが入団して以来、アドラはズィヤードと共に何かと彼女に世話を焼いていた。自分がスカウトしたという責任感と、彼女からあふれ出る、放っておけない健気なオーラ。そして、五年以上同じ屋根の下で暮らしているのにも関わらず、料理と機械いじりの時間以外はいつもアドラの隣に控え、他のメンバーと一線を引くズィヤードが少しでも変わってくれたら、という打算からである。


 アドラの願い通り、シエルの存在はズィヤードの対人関係を改善する上で、良い起爆剤となった。シエルの持つ明るい雰囲気に、皆惹かれるのだろう。シエルとズィヤードが話していると、バンや元闇医者をはじめ、多くの人間が集まって来る。こころなしかズィヤードも柔らかい表情を見せることが増えた。それはとてもいいことだ。いいこと、なのだが……。


「ここまで仲良くなれとは言ってねえ……!」


ふたりに聞こえないよう、アドラは声を押し殺して叫んだ。


  一体何なんだ、あのぽわぽわした空気は! ふたりが話していると、周囲に花びらが舞う幻覚が見えてくるではないか。荷物の受け渡しならまだいい。身長の高さに基づく分業の一端だ。

 だが、ドーナツの分け合いはどうなんだ? いくら違う味も食べてみたいからと言って、そう何度も何度も交換し合う必要があるだろうか? 欲しいならふたつ買えばいい。金がないから、とは言わせない。何のために、一生遊んでも使いきれない給料を与えていると思っているんだ。

 そ・れ・に! 一番腹立たしいのは、ズィヤードの徹底的なこだわりである。「たまには俺のも食ってみないか?」と問えば、「シエルと分けると決めているから」と首を振る。まるで、シエルにそう命令されたように。……半年前までは、事あるごとに「アドラ、俺は何をすればいい?」と尋ねてきたくせに。


 ふたりが並んでいると、まるでに見える。


 アドラはむすっと頬に空気をためた。理不尽な言いがかりだとは理解していた。しかし、頭ではわかっていても、心が受け付けないのだ。気がつくと、ズィヤードがシエルと一緒にいないかどうかを四六時中確認している。そして、もし彼がシエル共にいれば、特に用事もないのに呼びつけていた。その度に「俺はガキか」と自分自身に嫌気がさした。それでもズィヤードの隣が常に自分であってほしいのは、アドラにとってズィヤードが単なる親友ではないからだ。


 (取られたくない)


アドラは二人を睨みつける。どうやらこれから調理班に混ざることになったらしい。とびきりの笑顔を見せるシエルと、彼女を温かく見守るズィヤードは、やはりに見えた。


(だけどシエルはいい奴だし、ふたりの友情は壊したくない。……あ、そっか)


そして、アドラの思考は斜め上を目がけて飛躍した。


「シエルが俺に惚れれば良いんじゃね?」


そうとなれば話は簡単だ。幸い、アドラはモテる。そのせいで、かつて彼を巡った血みどろの六角関係が生まれ、最終的には自身もチェンソーで脅されたくらいだ。見た目が良いのは言うまでもない。


「オーケーオーケー。やってやろうじゃない。絶世の美青年かつ美少女アドラちゃんに落とせない女はいない。名付けてCOHシエル、俺に惚れる作戦!」


フハハハハハ、と稽古部屋にアドラの高笑いが響く。偶然部屋にいた元闇医者は、びくりと体を震わせると、彼に冷たい視線を送った。


「さっきからぶつぶつと気持ち悪いと思ったら、今度はいきなり笑って情緒不安定ですか。精神鑑定は専門外ですよ」と。




 その日、シエルはいつにも増して上機嫌だった。


 成り行きとは言え、ズィヤードと一緒に調理班に混ざって昼食を作ったのだ。王宮にいた頃は公務以外何もさせてもらえなかった。皆みたいに料理をしたいと言えば、父に「不要なことを考えるな」と叱られ、従者たちには「殿下が仰いますか」と鼻で笑われたものだ。だから、てっきり自分には料理は不向きなのだと思っていたが、そんなことはなかったらしい。ひたすら野菜を切るだけとはいえ、言われた通りの大きさに寸分狂わず切っていた。


(「次は下ごしらえを手伝ってもらう」って料理長さんが言ってましたし、私もやればできるんですね。料理って普通の女の子っぽくて楽しいです! ……今は男の子ですけど)


だが、本来の性別などこの嬉しさに比べたら些細な問題だ。役者たちを昼食に呼びに行くシエルの足取りは自然と軽くなる。鼻歌を口づさんでいると、稽古部屋から出てくる赤色の男と目があった。


「それ、『サッコとマリエル』の劇中歌か? マリエルのパートか」

「あ、アドラさん!」


半音音程が外れた歌を聞かれ、シエルの顔が赤く染まる。しかも、歌っていた本人に出会うとは。


「ええと、その、聞かなかったことにしてください。僕、アドラさんみたいに上手くないので……」

「初心者はあんなもんだろ。気にすんな。それより、今日はなんだかうれしそうだな。何かあったのか?」

「はい。料理班の皆さんとズィーさんと一緒に、料理を手伝わせてもらったんです」

「へえ。そりゃ良かったな。と、言うことはシエルの作ってくれた飯か。楽しみだ」


アドラはにっと目を細める。あたかも「今知りました」という風に。


「じゃあさ、今度は俺に時間を割いてくれないか?」

「いいですよ。公演期間以外は特に予定もありませんし」

「内容を聞かずに即答かよ?」


苦笑いするアドラに、シエルはきょとんと首を傾げる。アドラの何を警戒しろと言うのだろう。彼はいつも月部屋のために動いている、善良な「いい人」だ。


 だから、そんな彼から放たれた言葉にシエルは耳を疑った。


「シエル、デートしよう」

「……え?」

、だ。日付は明日。プランは全部俺が立てる」

「え、ええ……?」


シエルは目を丸くする。唐突すぎませんか。自分は今、男の子ですよ。というか、デートってあのデートですよね。言いたいことはたくさんあった。しかし――


「それとも、ズィヤードとの方がいいか? 俺じゃ、ダメか?」


目の前に迫った紫水晶の瞳は、妖しい光を帯びており。細く、一本一本が長いまつ毛は、今にもシエルの肌に触れそうで。囁かれた声が、とろけるように極上に甘く。


「はい……」


シエルは耳を真っ赤にして頷いた。


 「よし。じゃあ明日の十時な。二丁目の広場で待ってる」


今にも消えてしまいそうな声のシエルの返事を聞くと、アドラはぱっと顔を離した。何事もなかったかのように、いつも通りに、いや、いつも以上に爽やかに笑う。


「給料は心配すんな。俺の都合に付き合わせてんだ。特別休暇扱いにしておく。それよりも飯食いに行こうぜ。腹減ってんだよ」


アドラはシエルに一瞥をくれ、食堂へと続く廊下を歩く。しかし、シエルはその背中を追う気にはなれなかった。へなへなと地面に座り込み、カーペットより赤くなった顔を両手で覆う。頭から湯気という湯気が立ち昇るような気がした。今、誰かが彼女の姿を見たら、間違いなく高熱があると勘違いするだろう。


 COH作戦、第一段階ファーストフェーズ「シエルの意識をアドラに向けさせる」。完了である。




 翌日の、朝。


 二丁目の広場へと続く街道を、シエルはとてとてと歩く。シエルが外出することはよくあることだが、いつもは隣にアドラかズィヤードかバンいた。ズィヤードはアドラから急ぎの用事を大量に振られたらしい。シエルが一人で外出すると聞くと、彼はやや顔色を曇らせ「すまない」と頭を下げた。ちなみに、バンは昨日から姿を見せていない。


 しかし、シエルは誰もいなくてよかったと思った。


(だって、こんな顔見られたら心配されますから……)


火照った顔を、パンッと叩く。気を抜いたら昨日のアドラの言葉がつい頭をよぎってしまう。


『それとも、ズィヤードとの方がいいか? 俺じゃ、ダメか?』


恋愛劇でしか聞いたことがない甘い言葉だった。そして、一生自分には一生縁がない台詞だと思っていた。王族は結婚相手を選べない。国王が――親が決めた相手と婚姻を結ばされるからだ。


 それがまさか最下層ヴァイマリアードで、それも絶世の美青年に言われるとは。その劇のヒロインは「ダメなんかじゃない、私も好き」と頷いていたが、顔を赤らめるシエルの姿は、まさしく恋するヒロインそのものである。


(って、これじゃ私がアドラさんを意識してるみたいじゃないですか。違います、決してそんなんじゃありません。アドラさんは私の――)


 そこまで言いかけたところで、ふと、シエルの視界に見慣れた姿が飛び込んできた。


 合成樹脂でできた広葉樹の下に佇む赤髪の男。腰まである長い髪を一本に編むのではなく、高い位置で一つにまとめた彼は、巨大なモニターに映った月部屋の広告を眺めていた。たったそれだけなのに、すらりとしたその立ち姿を切り取って絵にしたくなる。

 

 きっと通行人たちもシエルと同じ気持ちなのだろう。遠巻きに彼を眺めて、何やら噂していた。


「あれって月部屋のアドラじゃない?」「誰を待っているんだろう」


ヒソヒソ声がシエルの耳に届く。


(そうでした! アドラさんはヴァイマリアード一の女優さんでした)


シエルは手で口を覆った。月部屋のアットホームな雰囲気と、アドラの親しみやすい人柄のせいでについ忘れてしまいがちだが、あれでも彼はスーパースターなのだ。彼の隣に並べば、注目を集めてしまうのは必然だろう。


(どうしましょう。こちらから声をかけていいのでしょうか。と、いうか悩みに悩んだ末、月部屋の制服を着てきてしまいましたが、絶対間違えましたよね!?) 


広場に足を踏み入れることなく、シエルは観衆に紛れ込む。

 

 だが、アドラは先ほどからちらちらと自分の様子をうかがう視線に気がついていたようだ。


「シエル。おはよ。なんかこうして会うのは新鮮だな」


人混みをかき分け、シエルの手を探り当てると、アドラは悪戯っぽく笑った。


「アドラさん……。その、おはようございます」


シエルは俯きがちに言った。普段なら明るい声で返事をするところなのだが、大衆の前だとどうにも落ち着かない。好奇心と羨望の眼差しがまとわりついて気恥ずかしかった。


 そんな彼女の心の内を察したのだろう。


「ファンの子たちのことを気にするな、とは言わない。だけど顔は上げてくれ」


耳元で中性的な声がした。シエルが視線を上げると、そこには困ったように眉をへの字に曲げた顔があった。


 シエルは慌てて背筋を伸ばした。


「ええと、すみません。せっかくのデ――」

「ストップ。今日はその『すみません』って言うのナシにしよう」


細長い人指し指が、シエルの唇に触れるか触れないか、寸でのところで静止する。


「その代わり、俺も君を目いっぱい楽しませる。どうだ?」


アドラは紫色の目を細めた。その笑みは余裕たっぷりで、自信に溢れている。普段、月部屋の座長としてふるまうときと同じ表情だ。


(そうですよね。折角誘ってもらえたんですから、暗い顔をしていては失礼です)


「わかりました。ではエスコート、よろしくお願いします」


シエルは白い歯を見せて笑った。


 「任せろ。じゃ、早速行くぞ。チケットはもう抑えてある――というか、顔パスで行ける」

「チケット……? 映画にでも行くんですか?」

「いいや。でも、近いかもしれない。まあ、それはついてのお楽しみってことで」


アドラは小さなシエルの手を包み込んだ。観衆の一部からおおっと驚きの声が上がったが、アドラは気にしない。淡色のカーディガンを揺らし、男装の少年を率いて目当ての劇場へと足を向けた。


COH作戦、第二段階セカンドフェーズ「さりげなく手を握る」。順調である。

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