疑惑

 女神から締め出されたアドラとズィヤードは、あてもなく階下を散策していた。アドラにとっては一年ぶり、ズィヤードにとっては粛清時代以来初の、神の根城への訪問だ。いくら自分の興味がないことは全て後回しにしてしまう女神とはいえ、少しは内装もいじってあるだろう。そう期待していたが、何階下に降りようが景色は何一つ変わらなかった。切り貼りコピーアンドペーストしたような白い空間が長々と続き、気が狂いそうになってくる。階回数表示すら設けないのは手抜きを通り越して、新手の拷問だ。


 いつの間にか話す話題も尽きた。白い壁に背中を預け、互いに無言のまま虚空を眺める。


 だからだろう。


「っの、お……き!!!」


聞きなれた声が耳に飛び込んできたとき、二人は同時に顔を上げた。それは霞んでしまうほど小さな声だったが、間違いなくシエルのものであった。言葉はしっかりと聞き取れなかったが、緊迫した状況なのは確かだ。


 ズィヤードはアドラに視線を向ける。アドラは顎で階段を示し、首を縦に振った。


 親友からの無言の命令を受け取り、ズィヤードは走り出した。弾丸より早く、十数段飛ばしに階段を登り、最上階を目指す。それはもはや駆けるというより跳んでいた。摩天楼の中腹から最上階まで。三十秒足らずで登りきると、つい一時間前に通った扉が目に入った。右手に力を込め、勢いを殺さぬよう、狙いを定める。拳を突き出した瞬間。


ズドォォォォンッと派手な音と煙を立てて、鉄の扉が四散した。


 ズィヤードは扉だったものを蹴り飛ばした。部屋自体に違和感は覚えない。生活感に乏しい、必要最低限の家具しかないモデルルームのような部屋だ。彼は煙をかき分けて中へ進むと、中央に立つ影をふたつ見つけた。


 一人は神父服に身を包んだ女だった。黒のカウチに悠々と座っているが、面食らった顔をしているのが不釣り合いである。アドラを模倣したご自慢の顔にも、なぜかくっきりと手跡がついていた。


 そんな男装の麗人と対照的に、少女は体を震わせていた。普段の健気さとは一変、今にも噛みつきそうな、凶暴な表情である。しかし、青色の目には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。


 ズィヤードは即座に状況を判断した。


無言のまま早足に黒のカウチへ向かう。深く腰掛ける女神に手を伸ばし、胸倉を掴んだ。


「何か言いたいことはあるか」


重低音の声をさらに低くして、本紫の瞳を覗いた。女神は何も言わない。まるで時が止まったように、瞬き一つせずに目を見開いている。


「そうか」


褐色肌の拳が白磁の頬にめり込む。一発、二発、三発。彼が攻撃を重ねるほど、生々しい音が整った顔を歪ませる。四発目を殴ったところで、ゴキィと、嫌な音がした。手を止めて見れば、女神の首は曲がってはいけない方向に曲がっていた。


 ズィヤードは女神から手を離した。ドサリと、女神が黒のカウチに落とされる。彼女は手足をだらりと椅子から投げ出した。


「痛いねえ」


 しかし、常人なら既に死んでいるであろう状態になっても、女神は生きていた。抑揚のない平坦な声が、溜息とともに漏れ出る。


「相変わらずズィーは容赦がない。殺すなら前もって言ってくれなきゃ。肉体の生成は時間がかかるんだよ?」


ゆらりと、首が折れた女神が立ち上がる。ズィヤードの後ろで「ひっ」という短い悲鳴が聞こえた。


「なら、シエルに手を出さないことだな」


ズィヤードは表情一つ変えずに言った。


「おやバレた。詐欺師の手足の次はお姫様の騎士? 人気者は大変だね」

「あんたこそ相変わらず口うるさい。狂人科学者マッドサイエンティストは頭脳さえあれば事足りるだろう。体ごと破壊するべきか?」

「そこまでやれとは言ってねえよ、ズィー」


ふと、後方から中性的な声が聞こえた。シエルとズィヤードが振り返ると、そこには今にもほどけそうな三つ編みを垂らして、肩で息をするアドラがいた。ズィヤードのような超人的な体力はないので、アドラはぜえぜえと息を吐きながら二人をなだめる。


「そんなクズでも、一応ヴァイマリのインフラは全部こいつの管轄下だ。こいつが一時でも死んだら、その間全住民に迷惑がかかっちまう。だから帰るぞ」


アドラはシエルがいる方向へ足を向けた。しかし、恐怖にすくみきった彼女の手を取るわけでもなく、目の前を素通りしていく。代わりに女神の前に立つと、思い切りみぞおちを蹴った。女神はうえっ、と蛙を引きつぶしたような声を上げた。


 急所を押え、女神は恨めしそうにアドラを見上げた。


「謀ったね?」

「一年前のキスのお礼だ」

「もしかしてまだ根に持ってる?」

「自分の顔を盗まれて恨まない奴がいると思うか?」


アドラは女神に背を向けると、今度こそシエルの手を取った。青色の柔らかい髪を撫で、「悪かった」と頭を下げる。しかし、その声はシエルに届かない。


 シエルの思考は停止していた。アドラにの謝罪するために何か言うべきだったのだろう。だが、「大丈夫です」も、「こちらこそ心配かけてすみません」も違うような気がした。ただただ怖かった。唇を奪われた時は大きな怒りを抱いていて、「危害を与えるつもりはないって言ったのに」と抗議しようとも思ったが、今はその気持ちの炎すら消えていた。首があらぬ方向へ曲がった女を思い出す度に吐き気がした。そして、彼女をそんな風にしたズィヤードに対しても、底知れぬものを感じた。


今まで、ズィヤードは運動神経が良く、力こそ強いけど優しい青年だと思っていた。でも、ただの優しい青年はそう容易く人を殺そうとするだろうか?


 シエルはアドラに手を引かれるまま、階段を下り、停止めてあった車に乗り込む。月部屋に向かう車の中で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。シエルの心の内など知るわけもなく、ヴァイマリアードは今日もけばけばしいネオンと喧騒に塗れている。


(本当なら女神さんから引き出した情報を共有して、二人の役に立てたって笑うはずだったのに……)


単調なリズムが、とろとろと眠気を誘う。車が大通りへと続く交差点を右に曲がったときには、シエルは深い眠りに落ちていた。




 しかし、女神との出会いの後しばらくは、ヴァイマリアードにこれといった異変は起こらなかった。大犯罪者ハイラガードたちが闊歩する最下層よろしく、酒の勢いやちょっとした恋愛関係のいざこざが原因の揉め事は日常茶飯事だが、誰かが誘拐されたと言う話は、てんで聞かなかった。むしろ、自警団が定期的に見回りをしているおかげか、普段より月部屋に駆け込んでくる人数は少なかった。


 だが、この時のシエルはまだ知らなかった。彼女が知らぬ水面下で、それぞれの思惑が絡み合った策略がめぐらされていたことに。穏やかな二週間が、嵐の前の静けさだったことに。




 二ケ月間の休演期間を終え、月部屋に新しい風が吹く。


「あー、シエル。これ倉庫に戻してきてくれないか? ごめん俺、今動けなくて」


アドラは台本に目を通しながら言った。シエルは役者たちに水を配る手を止める。振り返って見れば、部屋の隅に段ボールが三つ積まれてあった。先程の稽古で使った小道具たちである。


 一方、当のアドラは長い赤髪をズィヤードに編み直されていた。稽古期間中のおなじみの光景だ。アドラは役に入るとき、可能な限り役に関係ない仕草をしたがらない。本人曰く「そいつの人生をなぞるため」らしい。役者の中には自分の身の回りの世話くらい自分でしろ、という人もいるが、アドラは自分が主役を張った作品の売り上げをひけらかして、反論を封じている。


「わかりました」


シエルは最後の一人にペットボトルを手渡すと、明るく笑った。受付の仕事がないとき、雑用は新米であるのシエルの仕事だ。段ボールの移動にもすっかり慣れている。


「なら私も行きましょう。丁度倉庫に用がありますから」


しかし、今日は一人ではなかった。ふと、稽古部屋の扉をバンが開けたからである。


「おはようございます、バンさん。良いんですか? 役者の誰かに話があるんでしょう?」

「ええ。ですが後ほどで構いません。丁度今、お取込み中のよう用ですし」


四角い眼鏡フレームがきらりと光る。蒼碧の先には、こちらが恥ずかしくなるような台詞をズィヤードに相手に吐くアドラがいた。


「じゃあ、お願いします」


シエルは頭を下げると、段ボールを手に取った。残りの二つはバンが重ねて持つ。


 「シエル君は朝から元気ですね」


稽古部屋の扉を閉じると、バンは目を細めた。


「早起きは得意なんです。朝は気持ちがいいですし、やる気がみなぎってきます」


(それに王宮では、五時には起きないと公務が終わりませんでしたから)


シエルの父である国王は、娘に対しても容赦しなかった。たとえ彼女が食事中だろうと、王族の承認が必要な書類をこれでもかとシエルに回してくる。「帝王学の一環である」と事あるごとに言われていたが、今から思うとあれは自分が戦争のことしか考えたくなかったから、面倒事を娘に押し付けてきたようなものだ。


(私がいなくて困ってればいいんですよ。父上のバーカ)


心の中で、愚王に毒づく。二か月前、従者を買収し、みんなの顔色を窺って生きていた頃とは大違いだ。ヴァイマリアードの自由な空気に触れなければ考えもしなかっただろう。


「でも、シエル君が元気になによりです」


バンは柔らかな笑みを浮かべた。一体何のことだろうか。シエルが怪訝そうに首を傾げると、バンは視線を彷徨わせた。


 一瞬の躊躇いの後。バンは眉をへの字にして、おもむろに口を開いた。


「二週間前、女神さんに会ったのでしょう。アドラさんから大方話は聞いていたのですが、その、シエル君は三日ほどふさぎ込んでいましたし……。あの人のことですから何かされたんじゃないかと心配していました。今更すみません」


申し訳なさそうな声が、赤いカーペットが敷かれた廊下に落ちる。首が折れた女の姿を思い出して、シエルは苦虫を十五匹ほどまとめてかみつぶしたような顔をした。しかし、すぐに気持ちを切り替えると、首を横に振った。


「お気遣いありがとうございます。もう大丈夫です」

「そうですか。ならよかった。シエル君には、笑顔が似合いますよ」


ふわりと。温かな手が青い髪を撫でた。若木の香油の匂いがシエルを包む。


「バンさん……?」


柔らかな感触にシエルは顔を上げる。白い腕の先には、にこやかに目を細めるバンと視線がぶつかる。だが、それも瞬き一つの間の話で。


「ああ、ええとすみません。つい、シエル君が妹と重なって。決して、子ども扱いしているわけではないのですが」


バンはすぐに手をひっこめた。わざとらしく眼鏡の位置を微調整し、ゴホンと咳ばらいをする。普段は冷静な彼がここまで動揺するのは珍しい。シエルは目を丸くした。しかし、それ以上に胸が温かくなった。


「妹さん、なんていうんですか?」

「え?」

「名前です。ほら、僕と同い年の子なんですよね。もし会えたら、一緒に遊びたいじゃないですか。ダメですか?」


シエルが首を傾げ、バンを見つめる。バンは「いいえ」と短く答えた。


「リサ、と言います。顔は父親似なので私とあまり似ていませんが、目の色は同じ青緑です。髪は……そうですね、アドラさんより少し短い程度です。本を読むのに邪魔になるから、と言っていつも低い位置で結んでいました」

「リサちゃんですか。きっとかわいい子なんでしょうね」

「ええ。可愛いですよ。人見知りですが、私たち家族を照らす太陽のように優しい子でした。兄の私から見ても良い子です。そう言うと、アドラさんには『シスコン』呼ばわりされますが」


でも、本当に大切な妹なんです。愛おしそうにバンは目を細めた。ここではなく、はるか彼方遠くを見据えるその蒼碧を見て、シエルは悟る。


(やっぱりバンさんは悪い人じゃありません。だってこんなに妹思いな、いい人なんですから。私の周りが敵だらけなのも、嘘です。ズィーさんだって、私を守るために戦ってくれたんだから怖くありません)


シエルは女神の言葉と自分の予感を打ち消した。得体の知れぬキス魔より、一時の気の迷いより、共に暮らしてきた仲間たちを信じよう。そう、決意を新たにして。

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