女神

 「神」。時代遅れの概念を名乗るその正体は、月部屋から数キロ離れた三丁目に、一夜にして大伽藍を建てた科学者である。大釜で媚薬を作る方法から自律思考型AIの開発まで。ホログラムではなく、の体さえも作り替えてしまう彼、あるいは彼女の卓越した技術を、人々は敬意を込めて「奇跡」と読んだ。そんな二十二世記の科学力を以ってしても説明できない力を持つは、間違いなく天才である。しかし、に出会ったものは皆口を揃えてこう言う。


「こいつは変態で変態な変態だ」

「要するにただの変態じゃないか」


天井に届くほど巨大なスクリーンを背景に、足を組んだ、アドラそっくりの女が一人。赤色の三つ編みではなく腰まである黒髪を持つ彼女は、胸の前で腕を組むと、その艶やかな髪をかき上げた。


「アドラ。その誤解を招く発言はやめてよしてくれ。私はそんな下劣な存在に成り下がった覚えはないよ」

「じゃあもっとマシな対価を要求しろ。血液採取もキスも、冗談じゃない」

「趣味と実益を兼ねた素晴らしい提案は君のお気に召さないのかい? まあ、いいけど」


女は黒のカウチから腰を上げると、アドラの後ろに控える青色の少女に視線を移した。長いまつ毛を伏せ、「自分は悪者ではない」とでもいうように、にっこりと微笑んでみせる。そして、彼女の前まで歩み寄ると腰を曲げた。まるで舞踏会で令嬢をダンスに誘う紳士のごとく、シエルの柔らかな手に黒い手袋を重ねる。


「初めまして、可憐な少年。私は――神だ。名前はとうの昔に捨てたから、好きに呼んで欲しい」

「あ、僕はシエルです。よろしくお願いします。その……女神さん?」


触れられた手に戸惑いを見せることもなく、シエルは自分より頭一つ分背の高い女神を見上げる。瀟洒しょうしゃな美貌が飛び込んできた。


 白磁の肌に、本紫色の目。全てのパーツに狂いはなく、すっと通った鼻筋を軸に対称的に配置されている。髪色と、アドラと違って両目をあらわにしていることを除けば、何から何まで彼とそっくりである。なぜか神父服を着ていることも相まって、さながら男装の麗人だ。


(綺麗な人……)


シエルはうっとりと頬を赤らめた。月並みな感想だが、それしか彼女を表す言葉が見当たらなかったのだ。ここに来るまでの道中、トランプの大富豪勝負に負けたアドラに「あいつはクソ男女だから気をつけろ」と言われたので身構えたが、それは杞憂だったらしい。驚くほど、彼女は礼儀正しく丁寧だ。


 だが、シエルの意識を現実に戻すように、アドラはシエルから女神の手を引きはがした。後ろに控えていたズィヤードにシエルを託し、細長い人差し指を女神に突きつける。彼女を睨むその目つきは、まるで親を殺された子供が仇に向けるものだ。


「気をつけろシエル。そいつは俺の顔をコピーした真正のどクズだ。何を要求されるかわからないぞ」

「ああ。キスのことかい? まだ根に持ってたのか。少しはうまくなっているのなら、次の対価として前向きに検討しよう」

「っるせえぶん殴んぞ」

「君が自分そっくりな美しい顔を殴れるとは思えないけどね」


女神が口元に手をあててクスクスと笑う。アドラは「なら試してみるか?」と言わんばかりに腕を回した。しかし、すぐにズィヤードに制止させられる。腕を掴まれたからだ。


 そんなただならぬ三人のやり取りを見て、シエルはふと疑問を口にした。


「アドラさんの顔をコピーしたってどういうことですか?」

「奇跡だよ」


吐き捨てるように答えたのは、女神ではなくアドラだった。


「こいつは技術だけはヴァイマリ、いや、ノーランディアいちだがらな。いまいち理論はわからないが、俺の血液と唾液を元に肉体を構築して、魂を移し替えたらしい」

「その通り。凡人にはなかなか理解できないようだが、私は神だ。君が望むならどんな姿にでもなってみせよう。例えば――」


パチン。女神が指を交差させ、音を鳴らす。それは瞬きひとつするのと同じ一瞬のことの時間だった。だが、次の瞬間、彼女はシエルの視界から消えていた。


 代わりに、上空からカアカアと鳴き声がした。地面から数十メートル離れたこの摩天楼に、いつの間に鳥が侵入したのだろう。いや、そもそも最下層であるヴァイマリアードこの街に鳥はいただろうか? 一行が揃って声がした方向を見ると、そこには紫色の目をした巨大なカラス――否、女神がいた。


「三人とも、携帯電話は預かったよ。アドラ、ちゃんと説明しなかったのかい? 私の城に通信機の類は禁止だって」


女神の黒いくちばしには三台のタブレットが挟まれていた。彼女はバサリと翼をはためかせ、天井ギリギリを飛行する。生活感がなく、モデルルームのようなさっぱりとした部屋を一羽の影が横切った。巨大なスクリーンの前まで舞い戻り、女神は机の上にタブレットを置く。カアとまたカラスの鳴き声が聞こえた。


 巨大なスクリーンの前に現れたのは、カラスではなく神父服の麗人だった。


「次からは気を付けてね。私の言動に何一つ無駄はないんだから」


女神は何事もなかったかのように、黒のカウチに腰かけた。アドラはしてやられたと顔を歪ませ、ズィヤードは女神の行動の速さに目を見開く。一方シエルは


「すごいです! これが奇跡なんですね!」


女神の御業に目を輝かせていた。


「まるで魔法みたいです。僕、『優れた科学は魔法と見分けがつかない』って言葉を聞いたことがあるんですが、本当でした! 僕もたくさん勉強して、大人になれば同じことができますか? ずっと鳥みたいに自由になれたらなって、思ってたんです」


女神に詰め寄り、シエルは早口に捲し立てる。興奮気味の彼女に女神はわずかにたじろいた。しかしすぐに爽やかな笑顔に切り替える。


「無理だね。凡人である君たちには百年かかっても無理だろう。でも代わりに君たちのために奇跡を起こしてあげることはできるよ。そのために来たんだろう、アドラ」


本紫の視線が、それよりもやや明るい、遠方の紫色を射抜いた。アドラは肩をすくめて、彼女の姿を視界に入れないようにそっぽを向く。


「……そうだよ。本当は頼りたくなんかないけど。ズィー」


アドラは隣に立つ親友に視線だけで合図をすると、女神に背を向けた。


「あいつのことだから全部知っていると思うが、一応君が話せ。徴税の件からヒュッレムのことまで全部だ。俺はあの変態を殴りそうだからやめとく」

「わかった」


ズィヤードはいつものように短く頷く。


 そして女神にこれまでのことを話し始めた。


 徴税官が理不尽に三億円を追加で要求してきたこと。それは行方不明の王女様を探すための費用も含まれていること。最近ヴァイマリアードで多発している失踪事件が、王女誘拐事件と関係していそうなこと。調査を進めたら謎の誘拐犯が子供を攫う姿を目撃したこと。だが、彼女を止めようとしたら、「お父様」によって殺されてしまったこと。そして、彼女を殺した凶器は毒である可能性が高いこと。


「それで、これが誘拐犯『ヒュッレム』が着ていた服の一部だ」


ズィヤードは元闇医者から貰った黒い布の端を女神に差し出した。


「うん。やはり私の視ていた通りだね」


女神は布の端を机に置くと、にやりと笑った。すらりとした指を、交差した足の上で何度か組み替える。


「君たちの望む奇跡はさしずめ、その毒が何かを教えてもらうことだろう? 毒の正体を知り、入手経路をたどる。その先にいた者を尋問、または拷問でもして黒幕である『お父様』の情報を得る。あわよくば仲間と……ついでに王女様を解放してもらうつもりか。ありきたりな推理ごっこだが物語としては悪くない。だけどね――」


女神は柔らかい吐息を漏らした。


「君たちの妄想は真実とかけ離れているよ。事態はもっと複雑で、膿んでいる。君たちの手に負えるようなものではない」

「なっ!?」


後ろを向いていたアドラが勢いよく振り返った。紫色の瞳孔が縮まり、わなわなと口も震える。


「どういうことだ女神。何を知っているんだ。教えてくれ」


アドラは女神に詰め寄ると、自身と同じ顔を見下した。


「その対価は?」


女神は彼の覚悟を試すかのように、にやにやと笑う。まるで姿の無いチェシャ猫のように。


「金ならいくらでも払ってやる。君が好きなエナジードリンク味のドーナツを大量に貢いでもいい。……もし俺の身体が欲しいなら捧げよう」

「へえ。ずいぶんと成長したね。一年前はキス程度で渋っていたのに」

「気が変わった。今は情報が欲しい。それに俺ひとりよりと仲間大勢、多数の命を取るのはリーダーとして当然だろ?」

「そうかい。じゃあ、そこのを貰っていいかな?」


ふと、本紫の瞳がシエルを捉えた。唐突に名前を呼ばれ、シエルはびくりと肩を震わせた。それと同時に、背筋に嫌な汗が流れる。


(まさか私の正体も知っているんですか!? でも、神様だからありえなくはないのかも……)


シエルは洋服の裾を握りしめる。そして、おなじみの引きつった笑みを浮かべた。誤魔化しの常套手段、すっとぼけの構えである。


「えっと、女神さん。僕はその、男ですよ……?」

「ああ。そういうことになっていたね。じゃあ、言い方を変えよう。そこのお姫様の大切にされているを貰っていいかな?」


なんだか含みのある言い方だが、とりあえず言及はされないようだ。シエルはほっと胸をなでおろした。だがアドラは違った。眉間に皺をよせ、警戒の色を全身から滲ませている。


「女神。君はシエルに何をするつもりだ」

「ただの好奇心だよ。私は君という美形に唇を奪われる体験をして、色恋沙汰の良さを知った。だから次は可憐な少年と親睦を深めたいんだ」

「この変態どクズ神官女神が」

「何とでも言ってくれて結構。それよりもシエル、私は君の意見が聞きたい。美人なお姉さんと二人きりのお茶会は嫌いかな?」


シエルの答えを聞く前に、女神はしれっと少女の手を握る。黒い手袋越しだが、それはガラス細工を扱うように繊細な手つきだ。いつぞやの暴漢のような粗暴さは微塵も感じられない。


「仲良く話すくらいなら、特に問題はありません」


 しばらく迷った後に、シエルは女神を見つめた。王宮内で身に着けた、「この人は敵ではない」という直感が働いたのだ。彼女を味方にできるかは、シエル次第だろう。


だがそれでもなお、アドラは表情を変えない。だからシエルは女神の指の間に自分の指を滑りこませた。俗にいう恋人繋ぎである。女神と離れる気はない、というシエルなりの意思表示だ。


「たまにはお役に立たせてください。守られっぱなしののままでは、肩身が狭いですから」

「……わかった」


シエルが咲き誇る花のように笑うと、アドラはしぶしぶ頷いた。「すまないな」と青色の柔らかい髪をそっと撫でる。そしてズィヤードの名前を呼ぶと、鉄の扉に向かっていった。「男二人は下の階を散策でもしてくれ」と遅れて女神の凛とした声が響く。


 赤色の三つ編みが扉の向こう側へと吸い込まれると、女神は口を開いた。


 「さてと。邪魔者も消えたし、折角の茶会だ。優雅にいこうか」


パチン。指を擦り、弾く音がする。柔らかな光が、必要最低限の家具しかない部屋を包みこんだ。


 新たに作りだされた景色は、色とりどりの花が咲き乱れた庭園だった。深紅の薔薇から、ムスカリ、チューリップ。それにルピナスまで。王宮の庭園に引けを取らない景色に、シエルは唖然とする。いつの間にか椅子も黒のカウチから白のウィンザーチェアに変わっており、机には白いクロスが敷かれていた。その上には二組のティーカップとポット、スコーンが並べてある。


 女神はティーカップに紅茶を注ぐと、シエルの前に差し出した。


「ようこそ私の茶会へ。君を歓迎するよ、シエル。いや――アリシエル・ドゥ・ノーランディア」

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