護者
「では、俺はここにいるから」
「ありがとうございます。すぐ戻りますから」
シエルは頭を下げ、軽自動車のドア扉を開ける。肩から下げたポシェットから灯り代わりのタブレット端末を取り出すと、ライトモードに切り替えた。シエルが月部屋に入ると決めた時、アドラから渡された、従業員全員の電話番号とメールアドレスが登録されたものである。
ふたりでドーナツを食べた後。ズィヤードはシエルの希望通りに一丁目に車を走らせた。はじめは彼女について行くと言っていたズィヤードだったが、シエルがどうしても一人で行きたいと頼み込んだ結果、何かあればすぐに連絡することを条件に帰りを待つことにした。アドラには「シエルを守れ」と命令されている。一人で行かせることは躊躇したが、幸いズィヤードは視力が良い。それに暗闇での戦闘も慣れている。怪しい動きがあればすぐに助けにいればいいと彼は思った。
そんなズィヤードの優しさに甘えつつ、シエルは独りあの路地裏へ向かう。
(たしかここですよね)
壁がいびつにへこんだ建物を、白色の光が照らした。この傷はいつぞやの暴漢がズィヤードに吹っ飛ばされたときにできたものだ。飛び散ったコンクリ―トの破片が証拠である。
右から左へ。光の焦点をゆっくりずらしていくと、シエルはその先にきらりと光る物を見つけた。
六角形の雪の結晶。見間違うはずがない。金色のそれは、あの晩シエルが金貨と引き換えに貰ったものだ。
「よ、よかったです~」
シエルは雪の結晶を手に取ると、全身から力が抜け、へなへなとその場に座り込んだ。彼女に見つけられるのを待っていたかのように、結晶がシャラシャラと音をたてる。
シエルはふうと息を吐き、改めてそれを見つめた。だがそのシルエットに違和感を覚えた。
はたして鍵は雪の結晶だけでできていただろうか? 飾りだけを置いて、肝心の鍵本体はどこへ行ってしまったのだろうか?
全身からさっと血の気が引いた。どうしましょう、どうしましょう、どうしましょう。シエルの視界が真っ黒に染まる。飾りだけあっても意味がない。たしかに雪の結晶という特徴がないことで、鍵の正体に気づくのに時間がかかるかもしれない。だが、それはあくまで学の無い集団相手での話。もし、うっかり徴税官のような、知識のある人間の目にでも入ったら、それが何か一発でわかってしまう。なぜなら鍵本体には古代文字で現国王の名前が刻まれているから。教養のある貴族なら古代文字が読めてしまうから。
「取り合えずズィーさんのところに帰らないと……」
シエルは廃ビルの壁を支えにして立ち上がった。ズィヤードに我儘を言って連れてきてもらったのだ。鍵本体のことは後で考えればいい。それより、あまり戻るのが遅いと心配をかけてしまう。
シエルはポケットに結晶を滑り込ませる。
しかし、それと同時に常闇を切り裂く悲鳴が聞こえた。
「っ! 離せよ、このっ!! う、うわあああああああっ!」
それはまだ男女の区別もつかない、幼い子供の声だった。反射的にシエルはタブレット端末を声がした方向へと向けた。光の端に手足をばたつかせる影を捉える。幼い顔立ちからしておそらく十歳にも満たない子供だろう。ビルの陰に隠れているせいで顔は見えないが、誘拐犯と思われる人間は暴れる子供を引きずる腕力があるのだ。大人、それも鍛えた男性に違いない。
(どうしましょう)
シエルは元来た道を顧みた。本当はズィヤードの元に戻るべきなのかもしれない。だが、ここは犯罪者の巣窟「ヴァイマリアード」の裏路地。しかもシエルがかつて暴漢に襲われそうになった場所だ。
迷っている暇などなかった。
シエルは地面を蹴った。作戦など何もなかった。ただ大きくうんと手を広げ、助けを求める子供へとのばした。
「その子を離してください!」
小さな手を掴み、子供を力いっぱい引き寄せる。思わぬ刺客に驚いたのだろう。誘拐犯の力がわずかに緩む。その隙を見てシエルは子供を抱きしめた。
「もう大丈夫ですよ」
目に涙を浮かべる子供にそう囁けば、子供もシエルを抱き返した。
「どこの誰だかわかりませんが、こんな小さい子を連れ去るなんてひどいじゃないですか」
シエルは子供を庇うように後ろにやると、暗闇をきっと睨んだ。
「ひどいって、そういうあなたの方がひどいんじゃないかしら?」
ゆらり。暗闇の中で人影が揺れる。カツン、カツンとヒールの音が反響した。
現れた誘拐犯にシエルは二度驚いた。
一度目はその正体が屈強な男ではなく、誘拐には不向きな黒いドレスを着て、ヒールを履いたた美女であったことに。二度目は、彼女の肌の色がヴァイマリアードではズィヤード以外に見かけない、褐色肌であったことに、だ。
「その子はね、わたくしたちと、正確にはわたくしのお父様と取引したの。だからそれを邪魔するなんて非常識よ、お嬢さん。わたくし困っちゃうわ」
目じりが下がった目をうっすらと細めて、誘拐犯は微笑を浮かべた。爪を赤く塗った指がシエルの頬をなぞる。反射的にシエルは自分をつつくその手を払いのけた。怖い。恐ろしい。全身の毛が逆立つような気分である。しかし、自分の本当の性別が一瞬で見抜かれたことよりも、誘拐犯がこんな路地裏に不釣り合いな美女であることが不思議で、不気味で仕方がなかった。
「取引ってなんですか。子供を相手に詐欺まがいのことでもしたのですか」
そんな恐怖を身に抱えながらも、シエルは誘拐犯に噛みつくように見上げる。
「部外者のあなたに教える義務はないわ」
誘拐犯は微笑を浮かべた。
「でもこの子を守る自由はあります」
「あなた、面白いことを言うのね。もしかして彼のお姉さんなのかしら? それともただの他人? まあいいわ。わたくしも暇じゃないのよ。さっさとその子を渡してくれないかしら。お嬢さんも乱暴されたくないでしょう」
誘拐犯はスカートをたくし上げる。太もものナイフホルダーから覗いた刃が、シエルを威嚇するようにきらりと光った。
「い、嫌です」
それでもなおシエルは子供を離さない。ここまでくると半ば意地であった。
「ふうん。庇うの」
瞬間、刃が空気を切り裂いた。空のように青い髪が数本、ぱさりと地面に落ちた。
「かわいい女の子を殺すなんて趣味じゃないけど仕方がないわね。せめて苦しまないよう逝かせてあげるから、大人しくしていて頂戴」
誘拐犯がナイフを構える。その刃先で自分の心臓が狙われていることは素人目にでもわかった。
シエルは子供を抱きかかえて目を瞑る。瞼の裏に映ったのは、王宮でいつも自分を悪意から守ってくれた親友と、ヴァイマリアードに自分の居場所をくれた月部屋一門の姿であった。
しかし、ナイフはいつまでたってもシエルの胸を貫かなかった。それどころか、鉄臭い血の臭匂いすらしない。
代わりにキシキシと何かがこすれ合う音が上方で聞こえた。
「ちょっとあなた。もしかしてこのお嬢さんのお仲間かしら?」
苛立ちを滲ませた女の声がした。シエルは恐る恐る顔を上げ、瞼を開ける。するとそこには、シエルと誘拐犯の間に入り、刃を同じくナイフで受け止める青年がいた。
「ズィーさん!」
月部屋一の武闘派の登場にシエルは歓喜の声を上げた。
「下がっていろ」
ズィヤードは短くシエルに伝える。そして腕に全身の力を込めると、「ふっ」と息を吐きながら彼女のナイフをへし折った。次いで、シエルと子供を抱きかかえて、後方へ勢いよく跳躍する。
誘拐犯から大きく距離を取ると、ズィヤードは大きく息を吸った。
「質問に答えよう。俺はズィー。子供をいじめる悪党を懲らしめに来た正義の味方だ」
「正義の味方ですって?」
「ああ。友達を守る者でもある。そういうあんたは誰だ」
ズィヤードは誘拐犯にナイフを向ける。誘拐犯はまた微笑を浮かべた。
「部外者のあなたに教える義務はないわ。でも、そうねえ。今は『砂漠の民』とだけ言っておきましょうか。その容姿からしてあなたも同胞でしょう?」
「……そうか」
ズィヤードの目がわずかに細まる。
それが合図だった。
ズィヤードと誘拐犯、ふたりは同時に駆けだした。同じようにナイフを構え、まったく同じタイミングで相手に切りかかる。だが、両者も敵を傷つけることはできなかった。再び刃が交差したからだ。
「ねえ同胞。砂漠の民に武器は似合わないと思わない?」
今度はナイフを折られまいと、誘拐犯が全体重を腕に乗せた。
「そうだな。俺も
ズィヤードは顔色一つ変えずに答えた。刃と刃がこすれ合い、火花を散らす。
「なら一緒に捨てましょうよ」
「捨てる?」
「ええ。武器を捨てるの。砂漠の民らしく素手で殴り合うのよ」
「その言葉に偽りは?」
「ないわ。わたくしたちは嘘がつけない。そうでしょう?」
誘拐犯は挑戦的に笑った。その目は獰猛にぎらぎらと輝いていた。長い舌で真っ赤な唇を舐めるその姿は蛇を連想させる。
「わかった。ならばあんたの望み通り捨てよう。その代わり――」
カラン。地面に銀色のナイフが落ちる。
「後ろの二人に被害が出ないよう、上で決着をつけてくれるなら」
そして、二人は空高く跳んだ。砂埃が舞い、シエルの視界を奪う。
シエルがもう一度ズィヤードと誘拐犯を視界に捉えようとしたが、たとき。彼らの姿はもう見えなかった。いや、正確には早すぎて目で追えなかった。のだ。ただ、黄色と赤色の光が空中で軌跡を描いて、常闇の世界を縦横無尽に縫っている。まるでふたりの間に重力など存在しないかのようだ。片方が音速で攻撃を繰り出せば、もう片方はそれを受け流し、反動で相手の急所を狙う。その繰り返しである。誘拐犯が尋常ではない身体能力の持ち主であることは嫌でもわかった。
だが、ズィヤードと互角に戦えていること。そして子供を単独で誘拐しようとする力があることも含め、彼女は一体何者なのだろうか?
そんなシエルの疑問は思わぬ形で解決することとなった。ただし、更なる謎を残して。
「ヒュッレム。私です」
ふと、どこからともなく声が聞こえた。加工されていてわかりにくいが、低い男の声だった。
「お父様?」
誘拐犯――ヒュッレムと呼ばれた女性が振り上げた拳をぴたりと止める。
彼女は目の前のズィヤードそっちのけで闇を見渡した。
「お待ちください。契約者の回収はまだ終わっていませんわ」
「必要ありません。たった今こちらで代替品が見つかりました。それよりも私は貴女に尋ねたいことがあります。あなたはなぜ言われたことができないのですか?」
「そ、それは……!」
ヒュッレムは目を見開いた。茶色い瞳孔が小刻みに揺れた。戦闘時の余裕のある表情とは打って変わって、彼女の顔からさっと血の気が引いていく。
「お許しくださいお父様。どんな罰でもお受けいたします。ですからどうか見捨てないでください」
「私の後ろについて回る幼子も困りますが、反抗期も考え物ですね。やはり子育てとは大変です。世の父親は随分と苦労なさっている」
懇願するヒュッレムをよそに、声の主はうーむと喉を鳴らす。そして、何かを思いついたように「そうだ」と手を叩いた。
「ヒュッレム、あなたはとても優秀な娘でした。ですがそろそろ親離れすべきだとは思いませんか?」
「お父様……? な、何をおっしゃいますか? わたくしはまだお父様のお力になれます」
「さようなら。愛していましたよ、我が娘よ」
声の主はそれだけ伝えると一方的に彼女との会話を切り上げた。
「あ、あああ、あああああああっっ!!」
闇の中に親から捨てられた少女の絶叫が響き渡る。そして、その悲しみに追い打ちをかけるかのように、彼女の足元がぐらりと揺れた。いや違う。地面ではなく、彼女自身がよろけたのだ。
ヒュッレムは大量の血を口から吐いた。
「嫌だ嫌だ死にたくない」
地面に膝をつけ、彼女は口元を抑える。だが無情にも、血は止まることを知らず、コンクリートの屋上に浸食を続けていく。ゲボァッという生々しい音がズィヤードの耳に届く。
しばらくして褐色肌の誘拐犯は動かなくなった。ビルの屋上で、彼女はズィヤードに討たれるのではなく、「お父様」によって殺されたのだ。
ズィヤードは血の海に足を踏み入れた。亡き同胞に触れ、彼女の瞼をそっとおろす。
「あんたもそうだったんだな」
彼はぽつりと呟くとビルから飛び降りた。
「ズィーさん!」
ズィヤードが地上につくや否や、シエルは大きく手を振った。本当は彼の元に駆け寄りたかったのだが、ぐったりと眠った子供が彼女にもたれかかっていたせいで、動けなかった。きっと度重なる恐怖に疲れたのだろう。
「その……あの人はどうなりましたか?」
真っ黒なスーツについた血から目をそらして、シエルはあえて尋ねた。ズィヤードは少し考えてから「殺された」と短く答えた。死因も説明しようとしたが、あの死に方を形容する言葉を彼は知らなかった。それに、凄惨な光景をシエルを想像させる気にもなれない。
その代わりズィヤードはシエルの右手を握った子供に目をやった。
「その子はどうする」
「アドラさんに連絡したら連れてこいって言われました。手当して、一応話を聞きたいって」
「そうか。なら帰ろう。子供は俺が運ぶ」
ズィヤードは子供をひょいっと抱き上げる。そのまま踵を返し、車を止めてある方向へと向かった。だが、シエルはその後をついて行かなかった。戦闘があったビルの真下でじっと固まっている。
「シエル?」
訝しんだズィヤードが振り返ると、シエルは声を低くして言った。
「その……ズィーさんは怒らないんですか?」
「怒る? 何を?」
その言葉はズィヤードにとって全くの予想外のものだった。
「その子の悲鳴が聞こえた時、僕はズィーさんにすぐ連絡すべきでした。何かあれば連絡するって約束したのに……」
シエルは拳を握りしめた。洋服の裾に無数の皺が寄る。そんな彼女の肩をズィヤードは軽く叩いた。
「あんたは子供を助けた。それだけだ」
「え……?」
「『人助けに理由も手順もいらない』。昔アドラが言った言葉だ。俺はその言葉を今でも信じている。だから怒ってはいない」
それでも問題はあるか? 黄色い視線が青色の瞳を射抜く。
シエルは微かに頷くと、「ありがとうございます」と頭をさげた。そして今度こそズィヤードの隣に並ぶと、薄暗い路地裏を後にした。
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