粛清
嵐のような一件から丸一日が経った。
料理担当のボーイたちが作ったトマトスープを食べ、シエルはホールのソファに腰かけた。時計を見れば十三時過ぎ。約束の時間まで、あとニ十分ほどある。
(一晩寝ても疲れは取れませんね……)
ホールに誰もいないことを良いことに、シエルは盛大にため息を吐く。
アドラがズィヤードに吹っ飛ばされたあの後。アドラが残した「命令」に従って、月部屋一門は帰ってきた。ズィヤードの攻撃の仕方が見た目より優しかったのか、アドラの運が良かったのか。アドラに目だった外傷はなく、骨も一本も折れていなかった。元闇医者だと言うボーイ曰く、三日もすれば回復し、舞台に立てるだろう、という。
もっとも、少なくとも今日は安静にすべきだから、医療従事者の端くれである彼がアドラについているらしい。ちなみに罪悪感故か、ズィヤードもアドラの看病をしているようだ。
残された役者とボーイたちはボーイのリーダーであるバンに従って「これから」について話し合うことになった。バンの話ぶりからして、おそらく三億円をどうやって稼ぐかを考えるのだろう。
しかし、シエルはそれ以上にあの徴税官の言葉が忘れられなかった。「もしかしたら、もう誰かに攫われて最下層にいたりしてな。だったら俺んとこもって来い。ご褒美に、上に戻れるよう掛け合ってやるよ」。
攫われてこそないが、追手がここヴァイマリアードに来るのは時間の問題だ。少しでもボロが出るものは隠し、「ノーランディア王女アリシエル」ではなく「月部屋の男の子シエル」を完璧に演じなければならない。
(だから早くあの鍵を見つけなくてはならないのですが……)
困ったことに、
どうしたものか。
そう、シエルが延々と頭を抱えていると、ふと頭上から柔らかい声が降って来た。
「こんにちは、シエル君。シエル君は時間に余裕を持って行動するタイプなのですね」
声の主である、四角いフレームの眼鏡をかけた青年は、にこにこと人の好さそうな笑みを浮かべていた。
「そういうバンさんこそ約束の時間まであと十分以上ありますよ」
「私が遅刻したらみなさんに迷惑がかかるでしょう。隣、座っても?」
バンがソファの右隣を指さす。シエルは体をやや左に寄せ、こくりと頷いた。
「何か考え事ですか」
バンはポケットから電子タバコを取り出すと、慣れた手つきで加熱ボタンを操作した。吸い口から出る水蒸気を口に含み、まろやかな味を舌の上で転がす。
「はい。どうしても昨日のことが頭から離れなくて」
「初めは仕方ありませんよ。徴税官たちは騎士とは名ばかりで、あの通り残虐な人たちですから。むしろ悪いものを見せてしまい、申し訳ありません」
「なんでバンさんが謝るんですか」
「昨日も言ったでしょう。性別は違えど、あなたが妹と重なるんですよ。私は妹にあんなものを見て欲しくない」
ふう、とバンはゆっくりと息を吐きだした。ゆらゆらと立ち昇る白い煙が、赤い天井に吸い込まれるようにして消えていく。
バンは背筋を伸ばし、自分の喫煙にちっとも嫌そうな顔をしない彼に目を落とした。
「今から五年前の話です」
バンは再び煙もどきを吸い込んで、言った。
「その様子ではアドラさんから教わってないでしょう。この街で暮らす以上いつかは知らなければならないことなので、丁度いい機会です。私からお伝えします」
「何を、ですか?」
空よりも青い瞳が、眼鏡のガラス越しにバンの霞がかった蒼碧を捉える。
「『粛清』時代……。つまりヴァイマリアードの黒歴史です。昨日徴税官が言っていたでしょう」
なるべく感情的にならないようにバンは答えた。昨日のアドラの様子が一変したことを思い出したのだろう。魚が跳ねたように、シエルの体がびくんと揺れる。
「悲劇のきっかけは数十年前。先々代のノーランディア国王の暴虐から始まります」
そして、バンは紫煙を揺らしながら淡々と語りだした。
ご存じの通り、ヴァイマリアードは
ですが、この関係に落ち着いたのはほんの五年前のことです。それまでは、数十年の間地上と抗争を続けていました。私たちの言う「粛清」時代です。
「粛清」という言葉からして血なまぐさい出来事だったのはご理解いただけるでしょう。ええ、まったくその通りです。私の知る限り、なんでも、先々代の国王は「ヴァイマリアードに罪人が増えすぎた。これ以上収容できないから、今いる住人を一人残らず粛清しろ」という命令を下したそうです。実行部隊は地上の貴族たちの精鋭を集めた「騎士団」、つまり昨日の徴税官たちが所属する組織ですね。
ヴァイマリアードの住人たちは抵抗を続けました。生きるための抵抗です。ですが最新鋭の武器を持った騎士団相手に、ろくな装備もない罪人が敵う訳がありません。ヴァイマリアードの人口は驚くべき速度で減少していきました。たった三十年の間で、元いた数の三割にまで減った、と聞いています。
その後も粛清という名の虐殺が続き、住人の誰もが抵抗を諦めていました。あちこちに生首が転がり、腐敗した肉にハエが群がりました。血の海を歩く住人たちの目は虚ろで、奇怪な笑い声をあげる始末です。きっと誰もが絶望し、死を受け入れていたでしょう。
けれどもそんなある日、ヴァイマリアードに救世主が現れます。流星の如く現れた彼女は、その身一つで惨たらしい処刑人集団に挑み、たった数分で全員を返り討ちにしてしまいました。いや、返り討ちなんて表現は生易しい。殴り、蹴り、引き裂き、嚙み千切り……。痛みを恐れず、殺しを楽しむ彼女の戦いはまるで獣そのものでした。
私たちは彼女に畏怖しました。しかしそれ以上に希望を抱いた。彼女ならヴァイマリアードを救ってくれるだろうと。馬鹿げた粛清を終わらせてくれると。彼女こそがこの街の光であると、私たちは崇拝しました。
幸い、普段の彼女はわがままで強引なところもありましたが、話の分かる人でした。姉御肌で面倒見も良く、仲間は何があっても助け、自分より弱い者は守る。ですが時たま見せる満面の笑みは年相応の表情で、咲き誇った大花のようで可愛らしかった。
それに、彼女には口は悪いですが冷静な弟がいました。ですから、普段は彼が彼女の暴走を防いでくれていました。
私たちは彼女を中心に抵抗組織を作りました。名を
でも、やがてそれが仇となったのです。
ある日、数人の子供が
彼らは濁りの無い目で問いました。「あなたがアドラお姉ちゃん?」と。
彼女は手を差し出しました。子供たちは笑います。
次の瞬間、彼女はバラバラになっていました。
一瞬の出来事でした。早すぎて、何も見えませんでした。彼女の腕が、足が、血の海に小舟のように浮きました。緋色の髪が花弁の如く、宙に舞っていました。
停滞した私たちの中で真っ先に反応したのは彼女の弟です。彼は拳を握り、一直線一兆苦戦に彼らに殴りかかりました。しかし子供たちは彼の攻撃をよけ、代わりに左目を奪いました。
血塗られた惨劇のなか、私は子供が腰から下げていたた雪の結晶がついた細剣と、「お父様。あたしちゃんと殺したよ」というあどけない声が今でも忘れられません。
「それから後は今とそう変わりません。彼女抜きに地上と戦うことは不可能だと悟った私たちは、莫大な税金と言う名の賠償金と引き換えに、地上と停戦協定を結びました。抵抗組織だった「
「俺っていうわけだ」
ふいに後方から男とも女ともとれる中性的な声がした。
「アドラさん!?」
振り返ると、そこにはズィヤードの肩を借りながらかろうじて立っている青年がいた。
「出てきて大丈夫なんですか?」
「そうですよ。安静にしてろと言われたでしょう。医者の彼はどこですか。ズィヤード君もアドラさんの言うことを何でも聞いてはいけません」
「二人とも心配しすぎだっての。俺もそんなヤワじゃねえよ。前借りるぞ」
アドラはズィヤードに短く指示を出すと、彼の手を借りながら、シエルとバンが座るソファの向かい側に腰を下ろした。少し力むとしびれるような痛みが全身に走ったが、彼はそれを打ち消すように、やや引きつった笑みを浮かべた。
ズィヤードがアドラの隣に座ったことを確認すると、アドラはおどけた口調で言った。
「にしても、俺抜きで俺の話とは悲しいねえ。美青年かつ美少女アドラちゃんの可愛さを褒め称えるなら、もっと盛大にやってくれねえと。なあ? ズィー」
「先程話していたことは『粛清』時代の話だ。あんたの可愛さではない」
「うわ~ショック。面と向かって可愛くないって言われてるみたいだわ」
「アドラはいつも可愛いが? 自分でもそう言っているだろう」
淡々としたズィヤードの返答に、バンは眉をへの字に曲げ、シエルは口元を緩めて笑う。ズィヤードはいつもどこかずれているが、こんな時でも変わらないらしい。
柔らかくなった雰囲気を壊さぬよう、アドラは「シエル」と目の前に座る少女の名を呼んだ。
「さっきバンの言ってたことは全部本当の話だよ。バカな王様の身勝手で理不尽に仲間たちは殺された。俺の姉さんも死んだ。元々俺は金で爵位を買ったような成金お貴族サマとか、正義にかこつけて人殺しを行う騎士団は嫌いだけどさ、それ以上に王族が許せねえ。……他人の手を借りて人殺しを行うのは卑怯だ」
腹の底から湧き上がるどす黒い憎悪を沸き立たせて、アドラは歯を嚙み締めた。
「さ、こんな昔の話は終わりだ。悪いな、雰囲気悪くして。シエルもヴァイマリで暮らす限り『ふーん。そんなことがあったんだ』程度に覚えておいてくれ。それよりも、だ。」
アドラはズィヤードの手を掴み、ゆらゆらとソファから立ち上がる。そして、ズィヤードに支えられるようにしてホールの中心へ歩くと、昨日と同じようにぐるりとホールを見渡した。
「時間に正確な月部屋諸君はおそろいか? だったらこれからのことについて話さないとな。おーい、バンとシエルもこっち来い」
まだ本調子ではないのか、立つのが精いっぱいなアドラの代わりに、ズィヤードが大きく手を振る。
シエルは罪悪感と後ろめたさを笑顔で塗り隠して、「はい」と元気よく駆けだした。
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