春嵐

 二度と太陽を拝むことができない常闇の街に、色とりどりの流れ星が列をなしている。蛍光色の炎をマフラーから吹かせた無数のバイクたちは一丁目の昇降機ファールシュトゥールに向かっていた。


 昇降機ファールシュトゥールとはヴァイマリアードと地上を繋ぐ、唯一の移動装置である。上から下へと行くことは簡単だが、一度その箱に乗ったら最後、いかなる理由があろうと、二度と地上へ戻ることはできない。


(でも、それはあくまで罪人の話で、徴税官は別なんですよね。だって王様に……財務卿に、徴収したお金を預けなくちゃいけないですから)


 バンの運転するバイクにまたがったシエルは、流れゆく代り映えしない景色を眺めながら、先ほど目の前の眼鏡の男に教わったことを思い出す。身分が低い者から搾取する、いかにも貴族らしい醜い話であった。だが、それと同時に、そういえば自分がヴァイマリアードに来るときもを昇降機あれを使ったことを思い浮かべた。


(懐かしいですね。あのときはメイドさんから鍵を受け取って――ってあれ?)


そこまでして、ふと、シエルは気が付いた。


(私、鍵どこにやったんでしょう。たしか怖い人たちに追いかけられて、ズィーさんに助けられて……。もしかして、あそこで落としたのでしょうか)


だとしたら大変だ。あの鍵は国王付きの従者を買収して、わざわざ盗んでもらったものである。多額の金と交換したとはいえ、あれが誰かに見つかればあの従者にも迷惑がかかるし、もしかしたら自分の本当の身分が知られてしまうかもしれない。


シエルの頬に一筋の汗が流れる。


 しかし、だからと言って今ここでバンのバイクから飛び降りても怪我をするだけだ。


(仕方ありません。時間があるときに探しましょう)


シエルはかぶりを振って、代わりにもう一度流れる景色に目をやった。限界までスピードを上げるアドラたちと違い、バンは安全運転を心がけているようなので、おぼろげだがどの建物が何の店なのか見分けがつく。


 そして、ある違和感に気づいた。


「春の日」のヴァイマリアードは驚くほど静かだった。普段は買い物客でごった返している商店街では、全ての店がシャッターを下ろしている。昇降機ファールシュトゥールに続く大通りも、月部屋一門以外の人影が見当たらない。それは緩やかな坂道が終わり、平坦な道路に変わっても同じだった。こころなしか、自己主張の激しいネオンライトまでもが、その目に悪い明るさを落としているように見える。


 街が眠っているのではない。そこに住む人々が息を殺しているのだ。


(まるで、深い穴倉に身を隠れて、肉食獣がどこかへ行くことを待っている小動物みたいですね)


シエルは身に着けているシャツの袖を握りしめた。


「怖いですか」


そんな彼女の不安を汲み取ったのだろう。前方に座るバンが、柔らかな声でそう尋ねる。


「怖くて当然です。私もこの日は好きではありませんから」


シエルの返事を待たずに彼は話を続けた。


「たしかシエル君は十六でしたよね。今はもう会えませんが、私にもあなたと同じ年の妹がいました。あなたを見ていると、不思議と妹を思い出します。私にはアドラさんのようなカリスマ性はありませんし、ズィヤード君みたいに人間離れした動きは出来ませんが、徴税官あのひとたちが怖くなったら私を頼ってください。あなたを後ろに隠すことくらいはできます」


……それとも、やはりアドラさんたちの方が安心できますか? 少し寂しそうに、バンはそう付け加えた。


「い、いえ。そんなことありません!」


咄嗟に答えたせいか、自分でも驚いてしまうほど、シエルの声は大きかった。並走していた月部屋の役者が、何事だとシエルの方を向く。それが恥ずかしくて、彼女の顔は真っ赤に染まった。


「あ、その、バンさんはさっきも親衛隊の皆さんの間に入ってくれましたから」

「私は信用している、と?」

「そうです。信頼、しています」

「ならよかった」


バンはゆるりと口角を上げると、前を走るバイクに習ってブレーキを踏んだ。


「実は先日、アドラさんから『春の日、俺とズィーは奴らの相手で手いっぱいだから、シエルのことは君に任した』って言われたんですよね。アドラさんにへそを曲げられると公演に響きますから、あなたがそう言ってくれて何よりです。ところでほら、着きましたよ」


バンはバイクから降りると、まっすぐ前を指さした。シエルは彼の指をなぞるように視線を向ける。そこには見覚えのある箱があった。人が十名前後同時に入れそうな大きさのそれは、今まであまり整備されてこなかったのだろう。真っ白な壁にはシミのようなものが多数付着している。きっとごしごしタワシでこすっても落ちないだろう。また、昇降機ファールシュトゥールの周りには鉄格子が立てられており、それすらも幾重に鎖が巻き付けてある。


(地上はここまで厳重ではなかったのに。徹底してますね……)


なんてことを、シエルがバンの隣でぼうっと考えていると、後ろから聞き馴染みのある声がした。


 「さあて、そろそろお時間かねえ」


一番最後に昇降機ファールシュトゥールの前にやって来たアドラは、ひょいとバイクから飛び降りた。さっと仲間たちの様子を確認し、うんと伸びをした後、不敵に笑う。大きな瞳がすっと細まり、切れ味の良いナイフのような鋭さを帯びる。


「ホール担当、前に出ろ。接客は任せた。たっぷりともてなしてやれ。掃除担当。いつでも抜刀できるようにしろ。の掃除は任せた。装飾班は武器の補充、役者はボーイの援護。背の高い順で並べ。あとは――」


てきぱきと部下に指示を出すアドラと目が合う。反射的にシエルはしゃんと背筋を伸ばす。「僕はどうすればいいですか」。声に出さずそう口を開けると、「そこで見てろ」と言わんばかりのウインクが返って来た。


「シエル君は私の隣に。次回からは参加してもらいますから」


アドラの言葉を補うように、シエルの少し前に立つバンが付け加える。


 そして、月部屋一門が指定の配置についたころ。


まるで彼らの集結を待っていたかのように、チーンという音がした。


 「相変わらず社会の底辺はゴミ溜めみたいな臭いだな」


昇降機ファールシュトゥールからぞろぞろと降りてきたのは、青いマントを身に着けた青年たちだった。


「更生不可能な大犯罪者ハイラガードたちだ。知能が足りないから、きっと殺した相手の肉でも食べているんだろう」

「だとしたらさっさと金だけ奪い取って、とっとと地上に戻ろうぜ。最下層にいると俺たちまで汚染される」


耳を塞ぎたくなるような言葉を吐きながら、徴税官たちは鉄格子に巻き付けられた鎖をほどいていく。月部屋の男たちは揃って顔をしかめ、中には拳を握りしめ、わなわなと震えている者もいた。


 そんな彼らとは対照的に、アドラはいつもの余裕たっぷりな表情のままだった。視線だけでズィヤードに指示を出すと、鷹揚に徴税官たちの元へ歩いて行く。


「はじめまして、地上のお貴族サマ。ここはヴァイマリアード。享楽の街へようこそ。大犯罪者ハイラガードたちの楽園でございます」


青色のマントの集団の前に立つと、アドラは恭しく頭を下げた。普段より声色を明るくさせているせいか、芝居がかっていて、いかにもわざとらしい。だが事実、この言葉れは公演が始まる前の彼の常套句だ。

 

 徴税官たちは眉を下げ、怪訝そうに顔を見合わせた。


「なんだお前。どっかで見たことある気がするけど、女――じゃねえな。俺たちは月部屋の主に話がるんだ。おかま野郎は帰った帰った」

「女出して機嫌取るならもっとマシなのだせよ。ほら、ここには売春で落とされた女もいるんだろう?」


けらけらと、品の無い笑いが方々から聞こえる。しかしアドラは作り物めいた笑みを崩さない。


「ああ、失礼いたしました。がその月部屋の主。『アドラ』と申します。徴税官様、今日は遠路はるばるご足労様でした。こちらが約束の物でございます」


アドラはズィヤードから手のひらサイズのカードを受け取ると、それを目の前の男に差し出した。


「全住民分、きっちり七億入っております。偽造をしようなどとは微塵も思っておりませんが、どうぞご確認ください」

「貸せ」


リーダーと思われる徴税官はアドラから乱暴にカードを奪い取ると、胸元から小型のタブレットを取り出した。カードの情報を読み取るつもりなのだろう。タブレットの専用アプリを立ち上げ、カード裏面のバーコードをスキャンしていく。


「確かに偽造はしてねえようだな」


タブレットに目を走らせた後、リーダーはカードを専用ケースの中にしまった。


「だが、額が足りない」

「……どういう意味でしょうか」

「まんまだよ。あと三億足りねえ。三億、だ」


びしっとリーダーが指を突きつける。

 

怪訝そうに眉をひそめるアドラに、にたにたと意地汚い視線がまとわりついた。


「学のねえお前らに教えてやるよ。最下層に課せられる税金は上がった」

「それは初耳です」

「だろうな。今俺がここで決めたからな。いいかよく聞け最下層のゴミども!」


リーダーは胸の前で腕を組むと、きつい目をして、噛みつくように叫んだ。


「前任と違って、俺はこの弱肉強食の国が大好きだ。だが不幸なことに先の大戦でノーランディアは死にかけた。しかし威厳バカな金づる、じゃなかった、お国を守ろうと奮闘なさる国王様は、モルニィヤ帝国から奪われた領土を奪還なさるつもりだ。そんな偉大なる国王様のために、俺の出世のために、救いようもない大犯罪者ハイラガードは何ができる? そう、金だ。金をよこせ。金が俺を正義に変える!」


フハハハハハと高らかな笑い声がヴァイマリアード中じゅうに響く。


 そして彼はアドラに、月部屋一門をに、ヴァイマリアードの全住民に見せつけるように、腰から飾剣を抜いた。


 その剣の鍔を彩る雪の結晶にシエルは目を見開いた。

――あれは、あの細長い舞剣は、ノーランディア王国騎士団の団員に授けられるものだ。


(どうして)


シエルは服の袖を握りしめた。


(どうして、あんな下品な人が騎士団にいるんですか。なんでアドラさんを貶めているのですか)


騎士団は団長である軍務卿を中心に王に忠誠を誓った誇り高き兵士である。その性質は高潔そのもの。ときには汚れ仕事も引き受けるが、それは名誉の裏返しである。なぜなら無辜むこの民を守るのが彼らの義務であり、正義であるから。


そう、シエルは十六年間教えられてきた。事実、国のために命を散らした最愛の友人も気高い騎士であった。


なのにあの男はシエルの思い描いていた騎士像とかけ離れている。あれではまるで――。


(賊、みたい)


得体の知れない恐怖がシエルを襲った。これまで自分がの信じていた世界が足元から崩れていく。全身の毛が逆立つような寒気を覚え、シエルは無意識にバンの名前を呼んだ。バンはそれを「シエルが徴税官を怖がっている」と勘違いしたのだろう。彼女を自分の後ろに隠し、その柔らかな声で「大丈夫ですから」と繰り返す。


 「それになあ、この三億には王女様捜索費用も入ってんだぜ」


リーダーは剣を鞘にしまうと、口をあんぐりとあけて嗤った。その得意そうな憎たらしい顔が、月部屋一門の怒りを増殖させる。


「捜索費用とは?」


アドラはやや引きつらせた営業用の笑顔を保ちながら、抑揚のない声で尋ねた。


「今からそうだな……二カ月くらい前だ。王女殿下が突然いなくなったんだよ。アリシエル・ドゥ・ノーランディア様だ。バカでもそんくらい知ってんだろ? 王家は何者かに誘拐されたって言ってるが、俺はありゃ自殺だと思うぜ」

「殿下も可哀そうだよなあ。城の中でひとりぼっち。実の父親が貴族にナめられて、金で買収する方法でしか威厳を見せられない。そんな姿を見せられ続けたら、俺だったらは首つって死ぬね。ああ、死んでやるとも」

「なのに王家はまだ探してて、でも金がねえからお前らから搾取すんだとよ。だから半分は王家のせいってわけだ。恨むなら戦争の原因であり、くっだらねえことに税金使わせる王家を恨みな」


ぎゃはぎゃはと掠れた声で徴税官たちは口々に言い合う。そのなかの一人、徴税官のリーダーは「そういえば」と思い出したように呟いた。


「もしかしたら、もう誰かに攫われて最下層にいたりしてな。だったら俺んとこにもって来い。ご褒美に、上に戻れるよう掛け合ってやるよ」


鋭い視線が月部屋一門を駆け巡った。バンの後ろに隠れているので、シエルの姿は徴税官たちからは見えないはずだ。そうと頭では分かっているはずなのに、シエルの体の震えは止まらない。縋るように、シエルは自身の頭を撫でるバンの手を取った。彼のぬくもりがなければ、きっと彼女はこの場で倒れていただろう。


「俺は優しいからな。追加の三億は一カ月待ってやる。その代わり、待てなかったらそれ相応の覚悟をしておけ。その時はに逆戻りだ」


カードをちらつかせて、リーダーはにやりと笑った。「粛清」という言葉に月部屋の何人かがぴくりと反応したが、それはアドラも同じだった。


「粛清なんか二度とさせてたまるかよ」


低く、唸るような声がした。


「二度と、二度と大切な仲間を失ってたまるか! 払えばいいんだろ! 何億だって払ってやる!」


踵を返す青い集団に、アドラは吠えた。胸の中に灼熱が沸き上がる。血が逆流し、燃えるように体を熱くした。光を失った紫水晶の目に数本の血管が浮き出る。


「ああ、思い出した」


そんな彼の咆哮にリーダー格の徴税官は青いマントを翻した。


「お前、前の『アドラ』の弟だろ。片目隠してるからわからなかったぜ。あの女は良かったよなあ。顔が良くて乳も尻もでかい。おまけにバカみてえに強かった。だけど最高にバカだったから――」

「その汚い口で姉さんを語るな!」


砂埃が宙を舞った。常闇の中を赤い軌跡が駆ける。アドラは右手に力を込め、にたにたと笑う醜い顔に狙いを定める。我も忘れてその拳を右頬に振り下ろそうとしたとき――。


ズドオオオンッというすさまじい音と共に、その場からアドラは消えていた。


 かわりに、大量の砂埃の中心に立つ褐色肌の男が一人。


「なるべく手加減したつもりなのだが、すまない。思い切り吹っ飛ばしてしまった」


昇降機ファールシュトゥールから数メートル離れたビルを見つめて、ズィヤードは肩をすくめた。

 黄金の視線の先には、コンクリート造りの硬いでできた壁にもたれかかる男がいた。彼は長い赤毛をだらりと垂らし、完全に白目をむいてのびている。だがそれは間違いなくアドラだ。再起不能。そんな言葉が似合う。


 ズィヤードはしばらくアドラと目の前の徴税官たちを見比べた後、ゲホゲホとほとんどむせた咳払いをした。


「徴税官殿、アドラが失礼した。彼も悪気は……多少はあったと思うが、そこまで深く考えていなかった発言だと思う。俺がアドラを殴ったので、ここは見逃してもらえるだろうか」

「あ、ああ……」

「ならよかった。七億円も預けたので、今日はこれで終わりだ」


ズィヤードは何事もなかったかのように月部屋一門を見渡す。


「アドラから事が終わったら帰れという命令を受けている。みんなは帰らないのか?」


無表情で淡々と告げた彼に答えたのは、「あはは」というバンの乾いた笑いだけだった。

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