第二幕

予兆

シエルが月部屋に入って二ヶ月が経った。

 

 太陽の姿を一生拝むことができないこの地下世界では、今日もけばけばしいネオンが自己主張を繰り返すだけで、季節のは移ろいなど微塵も感じられないが、シエルの成長は若木がすくすくと枝を伸ばしていくように、周囲の人々が目を見張るものだった。


 元々飲み込みが早かったこともあるが、彼女の素直な性格のおかげだろう。シエルはすぐにヴァイマリアードの複雑な地図を覚え、二週間も経つと月部屋の仕事も大抵は一人でこなせるようになった。アドラやズィヤードだけでなく、他の月部屋の仲間とも交流を重ね、今ではみんなで一緒にご飯を食べる仲である。


 しかし不思議なことに、シエルが自分の性別を偽っていることは一度も見破られなかった。そもそも本当に男なのかどうか疑われることすらない。それは、シエルより女性らしい振る舞いができるアドラが隣にいたのも大きいだろう。だが、一番の理由は――。


「シエルくーん。会いたかったわよん」

「今日も超カワイイ。はあ~、癒される」

「ねえシエル君。月部屋やめてウチにこない? お姉さんが一生養ったるわ」


月部屋で公演がある日は毎日月部屋に通っているう、シエル目当ての女性客。通称シエル親衛隊たちの影響である。


「ええと、ニェンさん、バーバラさん、カザハナさん、ありがとうございます。でも月部屋はいい所ですし、アドラさんやズィーさんには助けていただいた恩がありますから」

 

露出の多い服装の女性たちに囲まれながら、シエルはぎこちなく、引きつった笑みを浮かべる。そのたどたどしいさまを見て、親衛隊たちはくらっとその場に倒れこんだ。


「ああん、今日も健気だわん」

「アドラちゃんの完成された美しさも素敵だけど、シエル君の純粋なカワイさも負けてないよね~。私シエル君推しになろっかなー」

「あ、バーバラはんずるいわ。ウチもシエル君推しになる。と、いうかシエル君は記憶喪失なんやろ? せやったら、昔からウチの弟やったことにするわ」

「あ、あはは……」


シエルに詰め寄り、矢継ぎ早に言葉を交わす彼女たちに、シエルは苦々しい微笑を凝らした。


 親衛隊たちの根は悪い人ではない。親衛隊が「シエルは健気な美少年だ」と触れて回ることで、図らずも月部屋に通う誰もがシエルを男だと疑わず、そう思い込むようになった。シエルはそれに感謝しているし、彼女たちに直接伝えられないことが残念だと思っている。


だが、それと同時に、彼女たちの距離の近さは二か月経っても慣なれないものだ。王宮にこれほど距離を近づけて話す人間がいなかったため、どうしても体が強張ってしまう。


(誰か来てくれないでしょうか。そうしたら、少しは僕も落ち着いて話ができるのに)


そう、思っていた時だ。


 「ああ。シエル君。ここにいましたか」


タイミングよく、後ろから柔らかな声が聞こえた。シエルが振り返ると、そこにはすらりとした長身の男が立っていた。四角いフレームの眼鏡が理知的な印象を与える。


「バンさん!」


自身の直属の上司であるボーイのリーダーの姿に、シエルはほっと息を吐いた。


「お部屋にもいませんでしたから、探しましたよ。今日の公演はもう終わりました」

「そうなんですか? まだ午前中ですけど。いつもは夕方までありますよね」

「今日は勝手がちがいまして。そういうわけで」


バンがシエルを取り囲む女性たちに視線を投げる。


「シエル親衛隊の皆様方もお引き取り下さい。お忘れですか? 今日はですよ?」


バンはにこやかに目を細めた。だが、彼とは対照的に、女性たちの顔に暗い影が落ちる。


「そうでしたわねん。あたくし、憂鬱ですわん」

「それなー。でもしょうがないよ、ルールなんだし。あいつらの相手は月部屋に任せて、私たちは大人しく家にこもってた方がいいでしょー」

「バーバラはんのいうとおりや。せやな、シエル君。また明後日会いに来るわ」


カザハナという訛った口調が特徴的な女性がシエルに軽く手を振る。ニェンはまだシエルを名残惜しそうに見つめていたが、バーバラに引きずるように連れていかれた。


 三人の姿が入口へと吸い込まれていく。いつもより短い親衛隊たちとのやり取りに安堵しつつも、シエルは嵐のような出来事に首を傾げた。


 シエルは傍らで女性たちを見送るバンを見上げる。


「バンさん、『春の日』ってなんですか?」


バンは一瞬眉をひそめたが、すぐに合点がいったように頷いた。


「ああ、シエル君は二月の中頃に来たので知りませんよね。ヴァイマリには年に四回地上から徴税者が訪れるのですが、今日はその一回目なのです」

「なるほど」


でも、それがどうして大人しく家にこもることに繋がるのでしょう。何もしてもらえず、一方的にお金が取られることが憂鬱なのはわかりますが。


そんなシエルの疑問を見透かすかのように、バンは困ったように笑った。


「まあ、見ればわかりますよ。あまり気分の良いものではありませんが。それより、ほら。もうそろそろ役者の皆さんが集まりますよ」


ふと、バンがくるりと振り返る。シエルもそれに続くと、赤いカーペットが敷かれた階段から降りてくるアドラと目があった。彼の左隣には、まるで王を守る騎士のように付き従う褐色肌の青年、ズィヤードもいる。


「アドラさん、ズィーさん、それに役者の皆さん。お疲れ様です」


シエルがいつものように笑いかけると、アドラは「おうよ」と胸を張った。服はすでに着替え終わったが、髪型はまだもとに戻していないらしい。彼が一歩進むごとに、高い位置で結んだポニーテールが猫の尻尾のように揺れる。


 「月部屋の奴ら―、全員いるかー?」


まばらにホールに顔を出す月部屋一門が集結すると、アドラはシャンデリアが煌めく中心に立った。彼をぐるりと取り囲む男達に視線を向け、その一人一人と全員とアイコンタクトを取っていく。


月部屋は役者が二十名と少し、ボーイが三十名ぴったりと、合計五十名超の大所帯だ。全員が一堂に会するのを初めて見るので、シエルは壮観な景色に息を呑んだ。


「いるみたいだな。よーし、みんな聞いてくれ」


最後にシエルと目を合わせた後、アドラは大きく息を吸った。


 そして、長く長く息を吐いた後に、にやっと口角を上げて言い放った。


「今日は春の日。春嵐しゅんらんの時間だ」


その言葉に、わっとホールが沸き立った。いつものような和気あいあいとした雰囲気が一瞬で消え去り、その代わりに、ピリピリとした、それでいてあちこちから湯気がたちそうなくらい、激しい熱気に包まれる。


「皆さん、どうしたんですか」


シエルは隣に立つバンの腕をつついた。しかし、彼は、


「悪いお役人との対峙に皆さん興奮しているんですよ。私もアドラさんも皆さんも、大犯罪者ハイラガードですから」


と苦々しく笑うだけだった。


 シエルが斜め上の回答に動揺している間にも、アドラの話は続いていく。


「とは言っても、昔みたいに自分からバチバチやり合う気はねえ。相手は殺し屋じゃない、徴税官だ。もう無駄な血は流さねえって、みんなで決めただろ?」


アドラが確かめるように、月部屋の一人一人を見つめる。


「でも所詮名前を変えただけだ。あいつらの中身は血も涙もない処刑人のままだよ」


部屋の隅で誰かが声を上げた。


「かもな」


アドラは彼の言葉を否定するわけでもなく、ぽんと自身の胸を叩いた。


「だから、君たちに頼むことはひとつだけだ。相手が危害を加えてくるまで、絶対にこっちから手は出すな。今こいつが言ったように、奴らの本質はクソみたいなお貴族サマだ。常に俺たちが不利な状況にあると思え。だが、一滴でも仲間の血が流れたらそんときゃ敵討ちだ。それがわかった奴から行ってこい!」


白い歯を見せて、アドラがにやっと笑う。


「うおおおおおっ!!」


月部屋の方々から勇ましい声が上がった。そして、男たちは我先にと出口めがけて走っていった。各々が思い思いカスタマイズしたバイクに乗り込み、緩やかな坂道を爆走していく。そのなかには、一体いつの間に忍ばせていたのだろう、ナイフや銃といった武器を手にしている者もいた。

「危ないから」と言うバンに手を引かれ、シエルも月部屋の外へ連れ出された。


 「ズィー。少しいいか」


月部屋にふたりきりになったことを確認すると、アドラはズィヤードに向き直った。その表情はいつになく真剣で、普段の自信満々で余裕ぶった様子は影を潜めている。


「さっきはああいったけど、俺は本当は戦争なんかしたくない。これまで死んでいった奴らも、弔い合戦なんか望んじゃいないはずだ。だけど、俺は正直自分を制御できる自信はない。だからもし戦争になりそうだったら、迷わず俺をぶん殴ってでも止めてくれ」


あ、ただし俺が吹っ飛ばないレベルでな。と、アドラは眉をへの字にして付け加えた。


「わかった」


ズィヤードはいつものように、こくりと頷く。


「それがあんたの命令だというなら従おう」

「任せたぜ、相棒」


パチン、と手と手が重なる音が月部屋に響きわたる。


 ふたりは目配せすると、今度は両肘をくっつけて、それぞれ一歩を踏み出した。それはまるで互いの存在を確かめる儀式のようだった。

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