楽園

 「ま、待ってください!」


多くの車が飛び交う大通りに、クラクションでもかき消せないくらい大きな声が響き渡った。


「助けていただいたことには感謝します。でも、ルールを破るのはいけないと思います。アドラさん、他に仕事はないのでしょうか」

「あるにはあるぜ?」


やる気のない間延びした返事が返って来る。


「なら教えてください。僕にできることならなんでもやります」

「ヤだ」

「どうして」


困惑を滲ませた声を上げる唇を、アドラはそっと指でふさいだ。彼は膝を少し曲げて、眉間に皺が寄ったシエルと目線を合わせる。


「まあ、最後まで聞け」


それは、聞き分けの無い子供をあやすような柔らかい声だった。


「実は今、月部屋は人手不足なんだ。役者じゃなくて、道具作りとか受付とか掃除とかする『ボーイ』って呼ばれる人たちの方な。情けないことに、つい一昨日、元ヤク中の受け付けがどっか行っちまったんだよ。多分薬にまたハマってんだろうけど、その間代わりが必要だ。で、シエルは言葉遣いが綺麗だろ? 受付にピッタリだと思う。と、いうかぶっちゃけ敬語を教える手間が省けるから楽なんだ」


それに、とアドラはシエルの耳元で囁く。


「ここは劇場だ。ヴァイマリ中の人間が集まるから、が見つかるかもしれないぜ?」


甘く、それでいて挑戦的な声が耳元で囁かれる。シエルはばっと顔を上げると、下半月状の紫色と目があった。にやにやと、姿の無い《チェシャ》猫のように笑うアドラは、シエルが言う記憶喪失が嘘だということを見透かしているようだ。

 シエルの手に、無意識に力が入る。裾の端が汚れたシャツに数本の皺が浮かび上がった。


しかし、アドラはそれ以上何も言わなかった。


「それじゃあ中入るぞ。とりあえず個室と替えの服を用意するから、着替えてきな」


隙を見せると野郎どもに食べられちゃうぞー。アドラはひらひらと手を振り、冗談とも本気とも取れない言葉を放った。そのまま軽やかに入口への階段を上り、石造りの扉の奥に吸い込まれていく。


彼について行くべきか。それとも今のうちに立ち去るべきか。シエルが決めあぐねていると、ふと隣から感情の起伏のない、静かな低音が聞こえてきた。


「アドラは……」


シエルの顔を見ずにズィヤードは言った。


「ああ見えて面倒見がいい。多少強引だったり、わがままな所があったりするが、困っている人は放っておけない正義感の強い男だ。シエルの性別についても何らかの方法を考えているのだろう」

「そう、でしょうか……」


不安の色を滲ませた視線をズィヤードに送る。

 ズィヤードは「アドラの言うことに間違いない」とでもいうように、力強く頷いた。


「月部屋にいる人間の大半はアドラに救われた。俺もそうだ。月部屋はいい所だ、とみんな言っている。給与だけでなく、役者もボーイも平等に個室が貰え、必要な衣服も全て手配される。朝ごはんにはバターとジャムもついてくる」

「ジャムですか?」

「ああ。シエル、あんたはイチゴとマーマレード、どっちが好みだ? 命令とあらば、食欲の化身たちをかき分けて奪取してくる」

「命令って、そんな」


そこまで言いかけたところで、シエルは言葉を飲み込んだ。

「ご命令とあらば」その言葉に、たった一人の親友の影がちらついた。寡黙で感情を表に出さないが、必ず側にいたくれた彼女と、シエルの返答を待っている目の前の青年は、どことなく雰囲気が似ている気がする。


「わかりました」


シエルはうっすらと唇を緩めた。


「ではマーマレードでお願いします」

「わかった」


ズィヤードはシエルに視線を落とした。地上の空のような鮮やかな青色と、暗闇で瞬く月のような金色が交差する。

「月部屋に来るか」と問われているようだ、とシエルは思った。


 シエルはちらりと後ろを振り返り、あの裏路地へと続く街道に目をやった。だが、すぐにかぶりを振って、扉に向かって歩き出した。


「わかりました。僕、ここで頑張ります。ズィーさん、よろしくお願いします」



 建物の中に入ると、ソファに腰かけるアドラと目があった。床に敷かれたカーペットから天井まで。すべてが彼の髪と同じ赤色に統一されていたが、アドラの人を惹きつける雰囲気は、彼を赤色に埋没させることはなかった。


「シエル」と自分の名前を呼ばれ、彼女は小走りにソファに駆けて行く。自分が月部屋で働きたいという旨を伝えると、彼は雪のように白い手を差し出した。

 

 アドラ曰く、この建物の名前も、劇団と同じく「月部屋」というらしい。一階は劇場(縦長なので、本当は二階分の高さがある)で、二階は役者とボーイの部屋のようだ。シエルの部屋は西側の一番端。階段からは少し遠いが、騒音に悩まされることはない、とズィヤードが付け加えた。

 

 聞けばすでに替えの服は部屋にあるという。だが、アドラが「俺が案内しよう」と言った矢先、慌てた様子で眼鏡の男性がアドラに話しかけてきた。どうやらアドラにはこれから公演があるらしい。「まったく、あなたはいつも勝手に出歩いて……」と彼は肩をすくめている。


「シエルを頼んだ」アドラは視線だけでズィヤードに指示を出すと、ソファから立ち上がった。まだ話の終わらない男性の言葉を適当に受け流し、ホールの奥へと消えていく。ズィヤードはそれを見届けると「行くか」と関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉を指さした。


 一階のカーペットより少し明るい朱色の階段を上り、シエルはズィヤードに遅れないよう早足でついて行く。一、二分長い廊下を歩くと、前方を歩くズィヤードは突き当りで足を止めた。


「ここだ。俺は外で待っているから、着替えるといい」


ズィヤードが今時珍しい木製の扉を開ける。やや不安の念を抱きながらも、促されるまま、シエルは部屋に足を踏み入れた。


「お、お邪魔します」


 シエルに割り振られた部屋は、思っていたほど劣悪なものではなかった。


 自分の腰くらいの高さの衣装棚に、長袖のシャツが数着かけられたクローゼット。シングルベッドは王宮の物と比べれば天蓋もないし、少し硬いが、掛け布団は温かそうだ。睡眠をとるには申し分ない。それに、風呂とトイレが備え付けてあったのが、シエルにとって何よりも嬉しかった。思わずふっと肩の力が抜ける。少なくとも、物語にあるような風呂場でうっかり……なんてことにはならなそうだ。

 

 改めてシエルは部屋を見渡す。

「治安の悪い街の家」というから、かろうじて雨風が防げるようなボロ屋だと勝手に思っていたが、王宮の敷地内にある、騎士団の寮とそう変わりはない。無意識に自分が地下の人々を侮っていたことに気が付き、かっと顔が赤くなる。


「あ、そうでした。これが着替えですね!」

 

 気持ちを切り替えるように机の上を見ると、そこには折りたたまれた服が積んであった。隣にはアドラが書いたと思われるメモも置いてあった。

「一番小さいものを用意しておいたけど、もし大きかったらズィーに言えよ。スーツじゃないけど似合うと思うぜ」癖はあるが綺麗な字だ。


 シエルは汚れた服を脱ぎ、代わりに長袖のシャツに腕を通す。黒色のズボンを履き、騎士たちが着ていた姿を思い出しながら、見よう見まねでサスペンダーの金具を調節した。


「よし。これで完璧です」


姿見の前で最終調整をすると、シエルは顔をほころばせた。その場でくるりと一回転し、うんうんと一人合点がいったように頷く。


「一回こういうの着てみたかったんですよ。ドレスは可愛いけど、窮屈ですから。……あ、ズィ―さん。着替え終わりました」


シエルは廊下側に向かって声を上げた。


 ほどなくしてカチャリと扉の開く音がした。


「終わったか。サイズは……大丈夫そうだな」


シエルを一瞥するとズィヤードは言った。


「はい。ありがとうございます。それで、僕は何をすればいいんでしょうか」

「特にアドラからの指示はない。ひとまず待機だ」

「待機……。わかりました」


シエルはズィヤードに見つからないよう、肩をすくめた。いきなり受付をしろと言われるのは困るが、何もせず扉の前で突っ立っているのもそれはそれで暇である。期待して読んだ本の結末があっけなかったような、味気ない気分だ。


(せっかく新しいお洋服で動けると思ったのに)


 シエルは退屈しのぎに窓の外に目をやる。月部屋に来るまで幾度と目にしてきたネオンがチカチカと目に焼きついた。


 そんなとき、ふと、彼女の脳裏にある考えが浮かんだ。


「ズィーさん。アドラさんの公演って見られないんですか?」

「アドラの?」

「はい。アドラさんは役者なんですよね。僕、劇というのがどんなものか見てみたいです」


本当は王宮で見たことがありますが、説教じみた退屈なものでしたから。シエルはささやかな隠し事を飲み込んだ。


 ズィヤードはしばらく何かを考えるように視線を彷徨わせたが、やがて階段の方へつま先を向けた。


「関係者入口から入る。だが、舞台にいるあいつを見たら驚くと思うぞ」


それってどういうことですか。とシエルが尋ねるより早く、ズィヤードは歩き出した。彼は身長が高い分一歩一歩が大きい。小柄なシエルはついて行くのが大変だ。


 先ほど歩いたばかりの長い廊下を再び歩き、階段を降り、ズィヤードの言う通り関係者用の扉から場内に入る。ステンレス製の無機質な階段を上ると、あっと息を呑む光景が広がっていた。だが、煌びやかなシャンデリアや、渦巻き模様の装飾が施された座席よりも、視線が奪われるものが舞台の上にはある。


「『あなたの声をきかせて。この気温に負けないくらい、熱く、熱く、愛してちょうだい』」


舞台の上は、くらっとするほど艶めかしいに支配されていた。


「『細胞膜から脳下垂体前葉まで、あなたの全てを理解わかりたいの』」


ぞくっとするような赤いルージュを塗った、つやつやの唇が動く。陶磁のように白く、それでいて若木の枝のようにしなやかな腕が、上手かみてでたじろぐ男を捕まえた。


「ズィーさん。あの人って」

「アドラだ。月部屋うちには女がいないから、アドラが代わりに演じている」


「『そんな冷感剤くさい女を捨てて、あたしを選んでちょうだい。ねえサッコ。あなたは今、?』」


すらりとした指が、男のまつ毛から目元のほくろ、鼻の先へと滑り落ちる。血色の悪い唇をそっとなぞったとき、はルージュを舐めた。


青白い男と、薔薇色に頬を染めた女が、まるで見えない一本の糸で繋がれているかのように惹かれあう。彼女の長いまつ毛が、紫水晶の瞳を覆い隠した。


 シエルは息を呑んだ。なんだか見てはいけないようなものを見ている気がするのに、その場に氷漬けにされたように、動けなかった。香水を煮詰めたら、きっとこの舞台を席巻する、つややかな匂いになるのだろう。劇場内は無臭のはずなのに、花蜜より甘い香りがしているかのように錯覚する。


 しかし、そんな幻想も、ぱんっとシャボン玉のように弾けた。


「『なあんてね。冗談よ』」


まるで映像を逆再生するかのように、驚くほど速く男から手を離して、彼女は言った。


「『あなた、あたしもあの女も好きじゃないでしょ。ううん。好きなくせに、どちらも選ばないんだわ。まるで未来を拒んでるみたい。あなたは何がしたいの?』」


深紅のスカートが翻る。カツカツとヒールを打ち付けて、下手しもてに向かって彼女は歩き出した。


「『マリエル! マリエル!』」男は高い位置で髪を結んだ後姿に手を伸ばす。


「『それじゃあ、またね。あなたの答えが出るまで、あたし、会わないから』」


彼女は吐き捨てるように言うと、舞台の袖に消えていった。


 それからは男の独白が続いた。婚約者がどうだとか、仕事がなんだとか、首をうなだれて嗚咽を漏らしている。その後、場面が二転三転とし、最終的に男はアドラではない別の女性役と何か話し込んでいた。

シエルの頭にストーリーは全く入ってこなかった。彼女はただ、舞台に甘い毒を振りまく魔性の花のまぼろしを見続けていた。


 演目が終わり、観客が全てはけた頃。シエルは舞台の袖から見え隠れする赤毛を見つけると、一目散に駆けだした。


「アドラさん!」


 舞台の前方に手をかけ、かかとを上げて身を乗り出す。


「シエル?」


アドラは先程の男性役の役者に軽く手を振ると、シエルの前に腰を下ろした。刺繍が施されたいかにも高そうな服から、簡素だが清潔感のある、月部屋の衣装に着替えた彼女の姿に目を通す。


「ちゃんとメモが伝わったんだな。よく似合ってる。だけどなんで君がここに? ズィーはどうした?」


アドラは髪飾りをほどき、腰まである長い赤毛をかき上げる。本当はあぐらでもかきたかったが、まだスカートを履いているのでためらわれたようだ。


「それは」

「ズィーさんが連れてきてくれたんです」


小さな背中を追ってきたズィヤードが説明するより早く、シエルは答えた。


「アドラさん。僕、びっくりしました。アドラさんは男の人なのに、舞台の上では色っぽい女の人になってて、すごい綺麗で、でもちょっと怖かったけど目が離せなくて、うまく言葉では言えないけど……って、あっ」


そこまで言ったところで、シエルはあわてて口を押えた。アドラから目をそらし、もごもごと喋り出す。


「すみません。なんだか急にいっぱい喋っちゃって。それに、あれは公演ですから観るにはお金がいりますよね」


思い出したようにシエルはポケットを探った。当然だが、そこに硬貨は一つも入っていなかった。遅れて、自分の身につけているものが、いつも着ている洒落た服でないことに気づく。


どうしましょう。シエルは服の裾を握りしめた。金目になるようなものは一つもない。しいて言えば、自室にある、あの汚れた絹のシャツくらいだ。ここで働いて、お給料から引いてもらうしかないのだろうか。


 しかし返って来たのは請求書でも怒号でもなく、温かくて、柔らかな感触だった。


「アドラさん……?」


シエルは顔を上げる。見れば、アドラが自分の頭を撫でていた。その顔はどこか得意げで、それでいて穏やかなものだった。


「シエル。俺はちゃんと『マリエル』になれていたか?」


頭上から男性にしては少し高い声が降って来る。シエルは迷うことなく、まっすぐ紫色の瞳を見つめて頷いた。


「びっくりするほど女の人でした。とってもかっこよかったです」

「そうか。ならよかった」


アドラはもう一度、今度は力強くその青い頭を撫でると、ふっと笑った。


「公演料は取らねえよ」

「どういうことですか?」

「月部屋は、地上の成金お貴族サマも度肝を抜かすくらいホワイトな企業なんだ。衣食住は保証するし、福利厚生も手厚い。有給休暇はもちろん、育児休暇、看護休暇、レジャー休暇、ボランティア休暇、告白休暇まで。役者を除いて、公演期間以外は自由だ。そして公演もタダで見られる。と、いうかまずボーイの奴らに観てもらって、修正を入れていくのが基本スタイルだからな。だからそんな怯えた顔すんな。上向け、上」


アドラは片目を瞑り、色付きの照明が点灯している天井を指さした。


「僕は……僕は、アドラさんみたいになれますか?」


シエルは両手をぎゅっと握りしめた。


「役者になりたいってことか?」

「それもあります。でも、それ以上に、僕はアドラさんみたいな魅力的な大人になりたいんです」


太陽が昇る地上から来た少女が、常闇を照らす月部屋の座長をじっと見据える。

 だが、それと同時に、アドラはシエルが自分ではなく、ここではないどこかを見ているようだと思った。青いその目に静かに燃え立つ炎を見たのだ。


「なれるよ」


彼はいつものように、姿のない《チェシャ》猫のように目を細めた。


「役者にでも、ボーイにでも、君が望むものになら、なんでもな。なにせ、ここは犯罪者の楽園『ヴァイマリアード』だ。はじめにあるのはみんな、大犯罪者ハイラガードの肩書だけさ」

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