行方
「僕、ですか……?」
生ぬるい風が子供の頬を撫でた。青色の髪がさらさらと音をたてる。
「僕はシエルです。その、苗字はない……と思います」
「『ないと思う』か。曖昧だな。自分の名前なのに」
「実は僕、自分の名前以外何も覚えてなくて……。なんでここにいるのかも知らなくて。だからその、僕の罪って言うのもよくわかりません」
「へえ。記憶喪失ってか。そりゃ大変だ」
アドラのすらりとした指がシエルを指さした。ネオンの看板に照らされて、中性的な顔が美しくも不気味に見える。
「君みたいな女の子は気を付けた方がいい。ヴァイマリ《ここ》は
「――っ!!」
ごくりと息を呑む音がした。背筋に寒気が走り、シエルは数歩後ずさる。だが、同時にここが地上から数メートルも離れた屋上であることも思い出した。まだあどけなさが残る顔に暗い影が落ちる。
「アドラさんでしたっけ。ぼ、僕は女の子に見えますか」
「見える。それもとびっきりかわいい子に。ま、君が男でも女でも、俺はどうこうするつもりはないけどな」
「え?」
その言葉にシエルは顔を上げた。青色の瞳に、にっと笑うアドラの顔が映った。
「さっきも言っただろ。自警団は治安維持組織であって、処刑人のあつまりではないって。君を助けたのは『助けて』って声が聞こえたからだ。おーい、ズィー!」
ビルから上半身を乗り出し、アドラは大きく手を振った。不思議そうに首を傾げるズィヤードに向かって「戻ってこい」と短く指示を出す。
ズィヤードはいつものように頷くと、少し後ろに下がってから、ビルめがけて走り出した。垂直に壁を走り、二階、三階と上がっていく。七階に達したとき、彼はビルの角に狙いを定め、高く飛び、ふっと息を吐きながら朽ち果てた落下防止のフェンスを飛び越えた。そこにはまるで重力など存在しないようだった。
「アドラ。俺は何をすればいい」
ズィヤードはアドラに向き直った。黒のスーツには男たちの返り血はおろか、埃一つついていない。
「月部屋に帰るぞ。ただし、このお嬢さん付きで」
「お嬢さん? ああ、この子か」
ズィヤードの黄金の視線が突き刺さる。何も悪いことはしていないはずなのに、なぜか背筋がしゃんと伸びた。
「シエルだ。歳は俺の見立てでは十六。多分新入り。よくある記憶喪失らしい」
「そうか」
ズィヤードは身体の上から下へさっとシエルを眺める。が、すぐにアドラの後ろで空中停止しているバイクに目をやった。
「これはどうする? 三人では乗れない」
「自動操縦モードを使って先に月部屋に送ろう。バンか誰かが見つけて何とかしてくれるだろ。折角ならヴァイマリ観光して帰ろうぜ」
「観光?」
「シエルは記憶喪失らしいから、ここがどこかくらい説明してやらないと可哀そうだと思わねえか? シエル、君もそれでいいだろ?」
唐突に話を振られ、シエルは目を見開いた。気圧され、反射的に「はい」と頷いてしまう。
「よし、それじゃ行くか。ズィー、まずシエルからな」
「わかった。シエル」
シエルよりふたまわり大きい手が差し出される。
「握ってくれ。抱きかかえるが、念のためだ」
「え? 抱き……?」
「安心しろ。ズィーは無口だけど、いいやつだから」
「え、えええ?」
「いいからいいから」
にししと笑うアドラに背中を押される。シエルは言われるがままズィヤードの手を取った。だが次の瞬間、足は地面を離れて宙に浮いていた。太ももの下に温かな感触が伝わる。
(抱きかかえるってこういうことですか!?)
そう考えていたのも束の間。今度は激しい風が吹きつけた。いや違う。すさまじい速度で移ろいで行く景色を見て、シエルは悟る。今、自分はビルから飛び降りているのだ!
「う、うわあああああっ!!」
ズィヤードと繋いでいる右手に力が入る。きゅっと目をつぶり、彼の広い胸に顔をうずめた。心の中で早く終われ早く終われと繰り返し願う。
「ついたぞ」
耳元で低い声がした。うっすらと目を開けると、シエルの視界に黄金の瞳が飛び込んできた。ズィヤード自身の髪が黒いせいか、至近距離ではその目が夜空に浮かぶ月のようにくっきりと目立つ。ぼうっとしていると吸い込まれそうな、綺麗な色だ。
そして、遅れて気づく。
「あの、私、じゃなくって僕! すみません、目つぶっちゃって。どうかおろしてくださいっ」
少し心臓に悪いので……。顔を手で覆いながら、シエルは消え入りそうな声で呟いた。
「ほらズィー、シエル離して」
次いで、上方から男性にしては高く、女性にしては低い声が聞こえてくる。
「ヴァイマリ
アドラは己の顔を指さして冗談っぽく笑った。そして、ズィヤードがシエルをおろすのを確認すると、彼もまた軽やかに跳んだ。すこし長めのリボンタイがひらひらと踊る。
「ナイスキャッチ」
アドラはズィヤードの腕にすっぽりと収まると、頭一つ分背の高い彼を見上げた。
*
「さーて、何から説明しようかねえ」
迷路のように複雑な裏通りから抜け、開けた場所まで出ると、アドラはうんと伸びをした。
「街の歴史は別にいいか。粛清も辛気臭いからなし。とりあえず生きていくために必要なことは……」
薄紅の唇を軽く叩きながらアドラは視線を宙に彷徨わす。が、すぐに「考えるのはやめた」とでもいうように走り出した。ズィヤードの後ろに隠れ、恐る恐るあたりを見渡すシエルに「こっちだ」と手招きする。
「よし、決めた。なるべく手短に話そう」
シエルが隣に来たことを確認すると、アドラは口を開いた。
「まず、ここは絶対に太陽の光が届かない地下の最下層だ。この天井の上にもたくさん街があるんだけど、ここが一番太陽から遠い。街の名前は『ヴァイマリアード』。由来や意味は分からない。長いから、俺たちは『ヴァイマリ』って呼んでる。なんでこんな地下に暮らしてるかって言うと、それは俺たちが更生不可能な
「は、犯罪者ですか……?」
「ああ。殺人、強盗、詐欺、強姦、恐喝、暴行……あと放火魔もいたな。ヤバい奴らならどこにでもいるぜ。ここは犯罪者の楽園だし」
「アドラさんも犯罪者なんですか? その、失礼かもしれませんが、先ほどの男の人たちよりは危ない人には思えないんですが」
シエルが怪訝そうに首を傾げる。それがあまりにも直接的で、アドラはぷっと噴き出した。自分の長い赤髪をてなぐさみにからめとる。
「こう見えても上層のスラムでは正真正銘の大悪党だったよ。気取った成金野郎相手に金品を巻き上げて、恵まれない奴らにバラまいてたんだ。『正義の詐欺師』だなんて言われてみんな俺を崇拝してた。だから、危ない人には見えないってのも別に間違ってない」
でもな、とアドラは前置きした上で続ける。
「ヴァイマリにいる奴らの大部分はさっきの男たちみたいな、女子供から金目の物を奪って暮らすような輩だ。だから、この街で暮らす以上は、自分の身は自分で守れ。で、何かあれば俺たち『自警団』を頼ればいい。自警団っていうのは、この街の警察――正義の味方だ」
一本に編んだ髪がゆらんと揺れる。アドラはシエルの前に立つと、わしゃわしゃと青色の頭を撫でた。
「これで通りすがりの美青年からのお話はおわりだ……と言いたいところなんだが、実はまだやって貰わなくちゃいけないことがある。ヴァイマリにいる以上、誰でもひとつ仕事をしなくちゃいけないっていうルールがあってな。俺は趣味で新入りや、君みたいな『記憶喪失』の子に仕事の斡旋をしているんだが、今日は気分がいいから俺が直々にそれを決める」
「仕事……僕も自警団に入るのですか?」
「違う違う。自警団はただのボランティアだから。君が働くのはここ」
そう言ってアドラは足を止めた。シエルも彼に続き立ち止まる。ふと顔を上げると、おおよそヴァイマリアードに似つかわしくない、荘厳な外観の建物があった。石造りの円柱形に、複雑な装飾を施された入口。最上部からは『ただいま公演中』と大きな赤い垂れ幕が下がっている。この建物に、けばけばしいネオンの看板はひとつもない。まるでおとぎ話の世界から飛び出してきたみたいだ、とシエルは思った。
「綺麗……」
思わず口から感嘆の息が漏れる。そんな様子を見て、アドラは得意そうに笑った。
「気に入ってもらえてよかった。劇団『月部屋』にようこそ、シエル。ここが今日から君の職場で、帰る家だ」
「はい! よくわからないけど、精一杯頑張ります」
青色の目が満点の星空のように輝く。
だが、アドラとシエルの後ろに控えていたズィヤードは首を傾げた。
「アドラ。本当にいいのか?」
それまで沈黙を守っていた彼が口を開いた。
「いいって、何が?」
「月部屋は男性のみで構成されている。女人禁制だとも聞いた。だが、シエルは女の子だと先程説明を受けている。月部屋のルールに反している。違うか?」
「え……?」
話を聞いたシエルは目を見開いた。すぐさま「本当ですか」とアドラを見上げる。だが彼は何も言わない。張り付けたような笑みを浮かべるだけだった。
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