第2話 10月23日 金曜日

 賢治の携帯電話が鳴った。

 聞いたことが、あるようなないようなメロディ。

 飲んでいた缶ビールを低いテーブルに置き、ディスプレイを見る。

 瞬間に眼鏡の奥にある賢治の細い眉は寄り、表情は曇った。

「女か?」

 からかった俺の言葉を無視して、賢治は電話に出る。

 俺は垂れ流していたテレビの音量を下げ、何となく自分の携帯を見る。着信はない。

 賢治の電話はバイト先かららしく、聞こえる会話から推察すると、今から出勤できないか、ということらしい。

 賢治は悩みながらも電話先の相手に了解の言葉を発して、電話を終えた。

「今からバイト?」

 部屋に掛けられたシックなアナログ時計を見ると、すでに22時を回っている。

「ああ、バイトが一人バックれたらしい」

「で、行くの? 酒飲んでるけど」

 ゆっくりと着替え始める賢治に、俺はまた聞く。

「うん。今月ピンチだからな、少しでも出ときたいんだよね」

 酒を飲んでいる、というのは色んな意味で無視か……。

「うん、それはいいんだけど、俺はどうする?」

 ここは賢治のアパートで、俺はそこへ遊びにきているのだ。1Kの部屋だが、なかなか広いので騒ぐには好都合だ。

「ああ、勝手に寝ていいよ。合鍵渡しとくから、いつでも帰っていいし」

 白いファーのついたコートを羽織って、賢治は玄関に向かう。

 今は季節で言えば秋だが、夜は冷え込む。

「じゃあ、俺は一人でしみじみと飲んでるよ」

 缶ビールを持ったまま、俺は賢治を見送る。

「あ、じゃあ亜希ちゃん呼ぼうか? 呼べば多分来るよ」

 ふと出た女の子の名前に、顔が浮かばない。

 数秒してから

「ああ、小嶋さん? 家近いの?」

 言った。

 小嶋亜希。俺と賢治が通う専門学校のクラスメート。友達といえば友達だが、あくまで表面的な付き合いだ。賢治がどうかは知らない。

「二十分くらいかな。呼ぶ?」

 賢治は携帯を取り出している。

「いや、いいよ。あの子彼氏いなかったっけ? 野郎と二人きりじゃ来ないだろ」

 客観的に見ても整った可愛い顔立ちではあるが、誰かの会話で彼氏がいることを聞いてから特に意識したことはない。

「ああ、まあそういうのあんまり気にしない子だけどね。まあいいや。じゃあ行って来る。帰るのは朝になると思うから」

 そう言って、賢治は俺に合鍵を渡して出て行った。確か警備員のバイトだったはず。本当に酒を飲んでて平気なのだろうか?

 部屋に戻り、座る。

 急に静寂が押し寄せる。

 黒いカラーボックスに詰まった小説は全部読んだし、何するかな~。

 部屋を見回す。黒を基調とした家具。電化製品……。初めて賢治の部屋に来た時は、驚いたものだ。アイツの性格からして、もっとふざけたアイテムがあると思ってたのに。

 まあ、服とかゴミとか散乱してたりするが、片づければ大人な部屋だ。

 掃除でも……、いや、めんどいな。

 ま、有言を実行してしみじみ飲むか。

 学校帰りにカラオケに行き、週末だしバイトもないし、酒でも飲むか。じゃあウチで飲もう。それで俺は賢治のアパートに来た。

 そして急にバイトが入った。行って来る。行ってらっしゃい。

 俺、浅井和典と板垣賢治の関係はこんな感じだ。

 一年ほど経つが、特に問題は起きていない。


 それから一時間ほど過ぎた頃だろうか、買い込んだビールも飲み干し、さて寝ようかと思った時だった。

 賢治のアパートのインターホンが鳴った。

 23時。誰だろうか。

 賢治だったら勝手に入ってくる。というかここは賢治の家だ。

 のぞき穴から確認するが、下を向いていてよく分からない。

 念のため、チェーンをかけてドアを開ける。

 隙間から見えたのは、おそらく女の子。

 グレーの、かぼちゃのような帽子を深く被って俯いているので誰かはわからない。たれるストレートの黒髪と女性物のコート。それが女だと判別させた。

「えっと……どちら様?」

 俺のその声で女の子は、ハっと顔を上げる。

 声の主が賢治ではなかったので驚いたのだろう。

 上がった顔を見て、俺も驚く。

 先ほど賢治との会話で出た小嶋亜希だったから、というのもある。しかしそれ以上に、彼女の泣きじゃくる顔が目に飛び込んできたからだ。

 きっと、どうしていいのかわからなかったんだろう、小嶋亜希は、逃げた。

「ちょ、ちょっと待って!」

 ドアを思い切り開けようとして、チェーンがそれを阻む。

 くそ、忘れてた。

 チェーンを外すのにもたついてしまう。俺は裸足のまま玄関を出た。浅い付き合いとはいえ、あの泣き顔は尋常ではない。

 きっと何かあったんだ。

 静まり返った住宅街。左右を見回して、少しだけ走る。

 街灯の下。その明かりよりもか弱く儚げな小嶋亜希を見つけた。フラフラながら、それでも歩みを止めない。

「小嶋さん! ちょっと待って! どうしたの?」

 追いかけて左手を掴む。

「いた!」

 その反応に、瞬間的に手を離す。

 無意識に力が入ってしまったか。

「ごめん。でも……どうしたの?」

 そんなに痛かったのだろうか、手を胸の前に持っていかれた。

 彼女は俺に背を向けて、まるで手の中の大切なものを守るように小さくなって震えている。

 ふと、俺の手の付着物に気が付く。彼女の手を掴んだ手だ。

 街灯の明かりでそれを見ると、鮮明に赤い液体だった。

 ……血。

 左手……。

「ちょっと……」

 俺はそう言って回り込んだ。

 少しの抵抗の後、組まれていた彼女の左手を見る。

 ……真っ赤に染まっていた。

 なんで、こんなことを……。

「……とりあえず、賢治の家に行こう……」

 返事はなかったが、俺は彼女の肩を支え、歩かせる。

 救急車を呼ぼう、そうも思った。だけど、ことを大きくしてはいけない気がして、やめる。

 その時になってようやく、俺は裸足で、小石が土踏まずに痛いことを思いだす。

 賢治のアパートへ入り、彼女に台所で手を洗わせた。その間に俺は救急箱を探す。この部屋にはもう何度も来ているのですぐに見つかった。

 台所に戻ると、彼女は時が止まったように、動かない。ただじっと、自分の手に落ちる水だけを見つめていた。

 水と、その音だけが、時の流れがあることを強調していた。

 彼女は今、何を考えているんだろう。

 俺には分からない。

 理由は知らないが、自分の手首を切るヤツの気持ちなんか俺には分からない。いや、自分で切ったかどうかわからないけど、ただ状況からしてそうなんだろうと思う。

 俺は水道を止め、左手を優しく掴む。

 冷たい。

 水で流していたからだけじゃない気がする。まるで、そう、人形のような、血の通っていない無機物のような……。

 そこで思考を止めて、傷を見る。

 傷自体は手首ではなく親指の付け根あたりだったので、出血はもう止まっていたが、それでも切り傷が五か所ほどあり、俺は……。

 泣くな。

 俺が泣いてどうする。

 彼女の手を拭き、消毒する。その細かい作業をする時になって、俺自身が震えていることに気が付いた。

 ダメだ。俺が落ち着かなきゃ。

 大きく深呼吸してから、包帯を巻く。

 気付かれただろうか。

 小嶋亜希を見やると、顔は大洪水。蜂蜜のような鼻水をティッシュペーパーでなんとかキャッチ。

 人形じゃない、彼女は生きている。

 少し落ち着く。

 これから、どうすれば良いんだろうか?

 とりあえず部屋に入り、座らせる。

 俺はエアコンの暖房を入れ、小嶋亜希の前に座った。

 よく分からないけど、彼女の帽子を取る。はっきり分かるようになった彼女の顔は紅潮し、二重の目は腫れ鼻水は流れ、グチャグチャだった。おまけに俺の帽子の取り方が悪かったのだろう、髪も乱れてしまった。

 彼女はまた俯き、長い黒髪が顔を隠した。

 どんな言葉をかけてやれば、良いんだろうか。

 俺には分からない。

 とりあえず原因を聞くべきだろうか?

 今?

 いつ聞けば良いんだろうか?

 俺には分からない。

 そう……。俺はこんな彼女を見るのは初めてだ。俺が知ってる小嶋亜希は、元気で活発で、いつもケラケラ笑ってる、そんな姿だ。

 ——リストカット。

 そんなことをするような子には見えない。むしろ普段は悩みなんか全くないように感じるくらいだ。

 どうして……。

「どうして……」

 言葉がこぼれた。こぼれてしまった。

「…………」

 彼女から言葉は出ない。代わりに……。

 ?

 彼女は俺のパーカーの袖を掴んだ。

 それがどういう意味で、何を望んでいたか、確かなことは分からなかったけど、俺は小嶋亜希を抱きしめた。

 恋人がするそれとは違く、親が子供にするように優しく、優しく抱きしめた。そのせいだろうか、彼女は堰を切ったように泣き出し、俺を強く抱きしめ返した。

 その時になって、分かった気がした。

 手首を切って、賢治のアパートに来た。きっと寂しかったんだ……。

 誰かに抱きしめて欲しかったんだ……。

 方法は間違ってるし、歪んでる。でも……。きっと……そうすることしかできなかったんだ……。

 阿呆……。

 俺の耳元で、彼女の吐息、嗚咽、鼻をすする音が聞こえる。

 俺の体が、彼女の熱を、震えを、鼓動を感じる。

 俺は彼女の頭を、乱れてしまった髪を、黒くて細い髪を、優しく撫でた。

 撫で続けた。

 

 それからどれくらいだろうか、彼女が泣き止んで落ち着いた頃、俺達は離れた。

 俺の肩は、彼女の涙と鼻水でびしょびしょだった。

 彼女の肩は濡れていない、はずだ。

 俺は無言でティッシュペーパーを渡す。涙は止まっても、蜂蜜のような鼻水は留まることを知らない。

 ずーずーと鼻をすする姿は、小さな子供を連想させる。

「今日は寝ていきな」

 俺は立ち上がり押し入れから布団を取り出す。

 俺が賢治のアパートに泊まる時は、いつもこうしている。

「あ……私帰るよ」

 ようやく出た彼女の言葉を、俺は否定した。

「いいから寝ろ」

 ぶっきらぼうな口調になるのは照れ隠し。

 このまま帰すのは心配だし、賢治に怒られそうだ。

「……うん。ありがとう」

 鼻水を拭きながら彼女も立ち上がる。

「自分で敷くよ」

 訳の分からんことを言う。

「キミはベッドだ。さっさと寝ろ」

 俺は、窓際に置かれている賢治のベッドを指さしながら言った。

「ほれ、俺も寝るから、さっさと寝ろって」

 俺が布団にもぐり込み、ようやく彼女もベッドで寝る決心がついたのだろう、着ていたコートを脱いだ。

「寝れそうか? 眠くないなら、俺も起きてるけど」

 勝手に寝かそうとしたことを、少し反省して言う。

「ありがと。眠いよ。賢治はバイト?」

 ベッドに入りながら言う。

「ああ、人がいないらしくて、さっき出て行った。朝には帰るって。ああ、今日はベッドで寝れると思ったのに……」

 からかってみる。

「ごめん~。いいよベッド」

 ガバっと起きて言う。

「冗談だよ。おやすみ」

「……おやすみ」

 ちなみに俺は眠くない。そういえば酒もだいぶ飲んだのに、今は睡魔も泥酔感も全くない。人間は良くできてるな。

 それから数十分後、いや数分で彼女は寝息を立て始めた。

 マンガみたいにスーピースーピー言ってやがる。泣き疲れたんだろう。

 俺は少し笑って、泣いた。


 携帯を持って、小嶋亜希が起きないように静かにアパートを出る。

 火照った体と頬に、北風になりかけのそれが心地よかった。

 賢治に電話する。

 ちょうど休憩中だったらしく、すぐに電話に出た。

「もしもし、どうした?」

 何から話そうか。電話してから考えている自分がもどかしい。

「え~と、小嶋さんが来た」

 その言葉と、俺の少しの鼻声で、賢治は何か悟ったようだ。

「そうか……。今……どうしてる?」

 急に賢治の声のトーンが落ちる。

「今は寝てる」

 やっぱり……良くあることなのだろうか。

「泣いてただけ?」

 賢治は聞く。お見通しか。

 ……。

 口に出すのも……嫌だが、

「……手首……」

 言った。

 電話口の向こうでついた賢治のため息が痛いほど伝わる。

「今は、落ち着いて寝てるんだな?」

「ああ、大丈夫。なあ……よくあるのか? こういうことって」

 深く関わるのはどうかと思いながら、やっぱり聞いてしまう。

「……手首は久し振り」

 久し振り……。

 何をやってるんだ。アイツは……。

「なんで? 原因は?」

 こうなったら聞いてしまおう。もし、今日俺がいなかったら……。

 そう考えると、助けられる人間は多い方が良いだろう。

「彼氏。会えなくて寂しくて、限界値を超えるとああなる。鬱病なんだよ亜希ちゃん」

「ずいぶん淡々と言うな」

 俺には今日のこと、すべてが初体験だ。

 ん?

「ちょっと待て、彼氏はお前じゃないのか?」

「何で俺が亜希ちゃんの彼氏なんだよ」

 少々混乱。

 彼氏に会えなくて寂しいから、ああなる。賢治とは家が近いらしいし、学校でも会えるな。

「じゃあなんで小嶋さんはお前んちに来るんだ?」

 賢治が彼氏だから。そうじゃないのか。

「他に知ってる人がいないし、家が近いから。それだけだね」

 確かに。納得だ。

「まあ、これでカズも知ってしまったからな。もしもの時は頼むぞ。結構大変なんだから」

「ああ、まあそれは良いけど、女好きのお前が良く手を出さないでいるな。もう出したのか?」

 賢治と話しているとだいたいこうなる。どんな真面目な話をしていてもだ。

「む、俺はな、人のものには手を出さないだ。それに亜希ちゃんに対しては、むしろ親心の方が強いな。ちゃんと抱きしめてあげたか?」

 親心か……。それは何か分かる気がする。

 いつもの下らないことで笑っている姿も、今日の泣きじゃくる姿も子供だ。

「ああ、抱きしめたよ。彼氏いるのに良いのか」

「ん? だからアパート出る前に言ったろ? そういうのあんまり気にしない子だ、って」

「……」

 いや、俺の方が気にするっつーんだ。

 その辺も子供なんだろうな。


 賢治との電話を切って、静かに部屋に戻る。

 冷えた体が、エアコンを付けていたことを思い出し、切る。

 彼女は気持ち良く眠っていて、また、涙が出そうになってしまう。

 友達が死のうとした。

 これまでも、あったと言う。

 何も気付かなかった。

 当たり前なのかもしれないけど、賢治も小嶋さんも言わない。それはいい。人には言えないことなんて誰にでもある。

 気付いてやれなかった。

 気が付いてやれなかった自分が、腹立たしくて、情けない。

 学校では屈託なく笑っているから……。それはそれで辛かったはずだ。

 鬱病? なんだよそれ。知らねえよ。ちくしょう。そんなもんで死のうとなんかするんじゃねえよ。

 寂しくて会いたいなら、会いに行けば良いだろ。お前が来る所はここじゃなくて、彼氏のとこだろ。だいたい彼氏は何やってんだよ。死のうとしてんだぞ。

 ……何とかしてやりたいけど、俺じゃ何もできねえじゃねえか。

 落ち着いたせいだろうか、暴力的な本音が溢れ出して、また、火傷してしまいそうな涙はしばらく止まらなかった。

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