6-1 告解
ラキアは浮上する感覚に必死でしがみつき腕を伸ばした。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。炎の入った暖炉で木片が爆ぜた。
ぼんやりとしたまま上半身を起こす。頭の中は空っぽだった。
睫毛を伏せ、耳に入る音を拾う。爆ぜる音と知らぬ少女の笑い声、それだけだった。鳥の囀りも風の音も聞こえない。
虚ろな瞳で窓を見ると、白く塗りつぶされていた。
(今は、朝かな……)
やっと働き始めた頭で思ったのはそんなことだった。
ゆっくりと身体を動かし、ベッドから這い出る。素足で触れた床は少し冷たかった。
扉を開けると少女の声が大きくなる。
あと、寒い。廊下に出た瞬間、冷気が襲い、ラキアは身震いし自分の身体を抱きしめた。
「もう、サラちゃん可愛い」
聞こえた声に反応する。
廊下を抜けた先に見たのは、知らない少女に抱きしめられるサラの姿だった。若干戸惑っているが、楽しそうにしている。
「あ、サラちゃんの王子様が目覚めた」
少女がラキアに気づき、猫のような笑顔を向ける。
「やっぱりお姫様のキスだね」
「そっ、そんなことしてないよ」
顔を真っ赤にしてサラは否定する。その姿に何か異変を感じて、ラキアは顔の線をよくよく見てなぞった。
「王子様、気づきました?」
サラを凝視していることに少女は目敏く見つけ、彼女を椅子ごとラキアの方に向けた。サラは俯き、髪を弄る。
「結ってみましたー。どう?」
紹介されたサラの顔がこれ以上ないぐらいに真っ赤になり、愛する人の表情をちらちらと窺った。
両サイドの編み込みを後ろでひとつに纏めたとても似合う髪型にさらにそんな顔をされては、ラキアも思わず恥ずかしさに目線を逸らしてしまう。
「可愛いよ……」
やっとそれだけを言い、耳まで真っ赤にして息を吐き出した。
「可愛いよ……だって。熱々だねぇ」
少女がにたにたしてサラの肩を掴む。
「えいっ!」
と、少女が突然、サラの椅子を引き抜いた。右肩を押し出し、サラはバランスを崩し体勢を直せなくなる。
ラキアの身体が無意識に動いた。
「ヒュー」
下手くそな口笛が鳴る。
サラは恐るおそる瞳を開き見上げる。間近にラキアの顔があった。目線が合い、互いに逸らす。
早い鼓動が聞こえた。腕の中、サラは押し付けた頭をさらにラキアの胸に埋め、その早鐘に耳を傾ける。
きっと自分もこんな音を奏でているのだろう。
「いやいや、こんなにうまくいくとは思いませんでしたねぇ」
「もう……メリルちゃん……」
サラが恨めしそうで、しかしその裏に嬉しさを滲ませた表情を見せる。
「まぁ、彼氏さんなら、これぐらいいつものことかな?」
「メリルちゃんやっぱり誤解してる……」
「え? ラキア君は彼氏でしょ?」
「違うよ……」
サラの沈んだ声がメリルに現実を教える。
「嘘!? じゃあサラちゃんはかたお」
「きゃぁぁぁぁぁぁ!!」
言っちゃ駄目、とサラから出たとは思えない悲鳴が上がる。メリルの口を押え、必死になって首を振る。メリルももごもごと反抗して何かを訴えていたが、サラの懸命さに負け口を閉ざした。
(こんなサラ、初めて見た……)
ラキアの口元が綻ぶ。
きっと記憶を失う前もこんな風にはしゃいでいたのだろう。
そうあってほしいと願った。自分とは違う、幸福な過去。
そっと手を背後にまわし、指先を強く握る。その指先の冷たさに心の温度と一緒だと思った。何かを置いてきた、冷めきった心。
「ラキア? 私達を見てて楽しい?」
こくんと傾けた首、広がったワンピース、艶やかな黒髪。
ラキアにとってはどれもずっと見ていたいものだった。
「メリルさんと仲いいなって」
「いやだぁ王子様に比べれば私なんてまだまだ」
「あ……えっと……」
うふふと笑っている顔に他意を感じ、ラキアは言葉を紡げなくなった。完全にこの場の主導権はメリルだ。
「そうだ、ラキア!」
話題を変えようとしたサラは何かを思い出し、ラキアを窓辺に呼び寄せた。曇った窓ガラスを袖口で拭く。
「見て」
そこから覗いた景色にラキアは呼吸をするのを忘れた。
白い光が散っている。
雪だと頭が理解するまで数秒かかった。薄く広がった雲から絶え間なく降り、地面を白く染め上げている。朝だと思っていたが、実際は昼間を過ぎたあたりだった。
「綺麗だよね」
「白いものが降ってくるってサラちゃん驚いていたよね。それにラキア君に見せたいって」
サラの顔をそっと覗いた。白い頬に紅を差し、黒曜の瞳が雪を追っている。と、不意に目線が合った。
背後で控えめに扉の閉まる音がした。
「良かった、目が覚めて」
真っ直ぐに合わせた瞳が揺れる。
「……もう……目覚めないかと思った……」
声が震えていた。
「ごめんね……」
掛けた言葉にサラは頭を振る。黒髪が広がり、音と立てているようだった。
俯いた顔からぽつりと言葉が漏れた。
「ねぇ、ラキア。訊いてもいい?」
「うん……」
「私達を助けたこと、覚えてる?」
「え……」
真っ直ぐに向けられた瞳にたじろぐ。
ラキアの表情に安堵したような、哀しそうな感情をサラはちらつかせる。やっぱりあの人は……、出てきた言葉をそっと胸にしまった。
「何があったの……」
ラキアはただならぬ気配に眉根を顰める。その根源が自分だと知らず。
「……ラキア、一週間以上寝てたの。だから大丈夫かなって……ちょっと記憶がまだ曖昧みたいだね」
最後は笑顔で憂いを隠した。
「ごめんね」
何が悪いのか分からなかったが、とにかくラキアは謝りたかった。
胸中で少女が瞬き、冷たい目線を残して去っていく。
(もう。僕は)
ラキアの中でひとつの意志が固まった。
白い月が雪を浮かび上がらせていた。
ラキアはメリルから借りた外套を纏い、寝静まった道にくり出した。雪が音を攫っていく。白い息を吐き出し、天を仰ぐ。
背後で雪を踏む、独特の音がした。
「ラキア」
自然界の音を全て吸収したこの場所では、鮮明に声が通った。
「散歩?」
「うん」
「一緒に歩いてもいい?」
「いいよ」
二人分の足跡が降り積もったばかりの雪に点々と刻まれる。
(雪が降っていなくてよかった)
足跡をなぞり、ラキアは思う。
降っていたらきっと、あっという間にひとつ分の足跡になる。体重が軽く、幅も狭い彼女の足跡は見る間に雪が埋め尽くすだろう。それに。
「この旅、やめよう」
言葉は呆気なく零れた。
サラの驚きと、苦痛に歪んだ表情がラキアを射貫く。
「何で……」
「僕といたら、サラは消えてしまうから」
風が二人の間をすり抜け、髪を乱す。ラキアは虚ろな双眸をサラから外し、風の消えた方向を眺める。雪の先にある闇が笑った気がした。
「ラキア、貴方の抱えているものを教えて」
黒曜の決意が真剣な眼差しに宿る。
「あの宿で聞けなかったことを、その口で言ってほしい」
「酷い話だよ」
吐き気がするほど酷い話だ。それでも聞いてほしかった。たとえ、気持ち悪くなっても、吐き気が喉にせり上がってきて吐血しても、話さなければ。
「昔からね、僕の周りにいる人達はみんな死んじゃうんだ」
どんなに願っても、どんなに護ろうと足掻いても、いつの間にか魂は刈り取られていく。
「サラみたいに大切に想っている人でもね」
「それは誰?」
思いがけない問いに、ラキアの身体が強張る。付きそうだった仮面が、雪の上に落ちた。
「私じゃないよね」
サラが一歩ラキアに近づく。彼女の足が笑顔の仮面を踏みつぶし粉々に砕く。
『お兄ちゃん』
声がした。
「サラ、ごめんね」
口から零れた言葉に自問自答する。今のは誰に対するものだったのか。
「サラ、あのね。僕にとって『サラ』は二人いるんだ。一人はサラ、君」
黄土色の髪をツインテールにした少女が瞬く。
「それから、妹」
サラの胸が彼女の感情を集め、深い溜め息が雪に落ちる。
「逢った時、サラは言ったよね」
『貴方が付けてくれませんか?』
「この二文字が零れた瞬間、償いだと思ったんだ」
「妹さんも……」
「うん、僕を庇って死んだんだ。死神……なんて呼ばれる僕をね」
怒鳴られた。殴られた。人が死ぬたび、人間ではなくなった。
他者から見れば、この手には鎌が握られているのだろう。
「僕は君の記憶を取り戻して、妹に償いをしようとしたんだ。でも」
手が力なく垂れ下がる。全身から何かが抜けていく。
「僕はまた、消しそうなんだ。サラを、護って、記憶を戻してあげたいのに」
手に持った鎌がサラの首に狙いを定めているのが見える。
これも罰なのだろう。多々の御霊を奪った罪か、それともサラを妹に対する償いの道具にしたからか。
外さなければ、離れなければ。
「もう、終わりにしよう」
何を?
冷めきった右手が温もりに包まれる。
「私はラキアと一緒に居たい」
サラの白い両手がラキアの右手を優しく撫でる。
「死神だって、何だって構わない。だって私にとってラキアはラキアだから。優しい貴方を知ってる。誰よりも傷ついている貴方を知った。もっと貴方を知るために、貴方の何かになるために、貴方を」
白い手に雫が弾けた。
ラキアは自分の頬に伝うものを感じた。ずっと忘れていた。
遠い昔に枯れ果て、もう流れないと思っていた。
サラの姿が滲む。涙は止まらず、虚ろな表情を伝い、雪に落ちる。彼女の手を掴んだ。
(離したくない)
身勝手な願いだ。それでも、死とは別の、彼女が幸せを取り戻し離れるその時まで隣にいたい。
「……だよ。ラキア」
何と言ったか、顔もうまく見れない今の状況では推測さえできないが、とにかく彼女は微笑んでいる。
自然と口角が上がる。
彼女の瞳には、微笑んでいる姿が映っているのだろうか。
その日、夢を見た。
少女の夢。
彼女は穏やかに笑みを浮かべていた。その身が澄み切った水面に溶けていく。
僕は手を伸ばさなかった。待ってと叫びさえしなかった。
解き放とう。
波紋が広がる。
この湖はいつか、僕の頬を伝い、落ちていくのだろう。
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