5 王城

 人のざわめきが世界を支配している。

 この場所に立ち、メキアラはそう錯覚していた。

「そこのねぇちゃん、買っていかないか? あんたみたいな美人にぴったりの品があるよ」

 歩いていると隣から露天商に声を掛けられる。メキアラは紅い眼球を動かしただけで、手で明らかな拒絶を示した。

 ここには人が溢れかえっている。商人はメキアラの反応に嫌な顔ひとつせず、すぐさま後ろを歩いていた若い女に同じような台詞をはいた。

 王都。

 堅牢な城の下、貴族が住まい、商人は集まる物を売りさばき、旅人はここを一つの目的地として踏み込み、そして、光の届かぬところでは下賤な輩が蔓延る。そんな場所。

 石畳で造られた通りには、王族から許可を得た露店が色鮮やかな布をはためかせている。そこから少し視線を遠くに移すと、今度は石造りの商店や家々が立ち並び人々が活気づいていた。メキアラは眉間を少し険しくして、さらにその先を人混みの中から見据える。

 このざわめきを分断する堀があった。穏やかに流れる水の上に橋が架かっていたが、その上を歩いている者は少ない。

 その先は貴族の領域。選び抜かれた煉瓦で造られた屋敷が整然と並び、奥には象徴となる王城が構えていた。

 メキアラはそれらを凝視して、一人思索する。

 目的の場所は決まっている。

「あらあらあんた、細すぎじゃないかい!?」

 再び歩き出そうとしたメキアラの前に、目を見開いたおばさんの顔がぬっと出た。まばたきをせず、嘗め回すように眼球を動かしメキアラの肢体をなぞる。

「やっぱり。あんたここの物を食べてもうちょっと太りな!」

 おばさんは自分の店で売っている甘辛く焼いた肉をメキアラの眼前に差し出す。若い旅人ならこの匂いだけで生唾を呑み込んでいただろう。しかし彼女は食に疎い。

「いや……」

 いい、と続く台詞が途中で途切れる。ゆっくりと首を動かし背後の雑踏を探る。誰かにじっとりと見られている気がするのだ。

(あいつか……)

 紅に路地裏に立つ少年の姿が映る。奴隷商から逃げてきたのか、襤褸の灰がかった服を纏い髪は砂っぽい。近くで縮こまっている少女は、妹か一緒に逃げてきた者だろう。

 がらんどうの瞳でまばたき一つせず、じっとりと見ている。メキアラではなく、おばさんでもなく、ただただおばさんの手にあるものを。狩る目だとメキアラは思った。空虚の中に孕ませた本能を燃え上がらせ、その時を待っている。

 多分、本人の意思とは別に身体は動くだろう。それだけ人間は生に貪欲だ。いや、貪欲でなければならない。

 メキアラは少年から視線を外し、おばさんの店から離れる。

 足を止めた。

「あ、やっぱり貰おうか」

「ほんとかい? まぁ、女は手頃に脂肪をつけておかないとね、後々大変だ」

 木製のトングを軽々と回し、肉の上を右往左往させる。

「一番大きいのを頼む」

「はいはい」

 注文どおりの品を受け取り、硬貨を一枚おばさんに握らせる。

 やっぱり商品を持っても涎は出ない。悪い物ではないのは分かるが、食べる気はなかった。

「ほら、食え」

 少年に影を落とす。逆光となったメキアラの顔は目だけが光っていた。

 少年は突然の登場人物に唖然とし、隈が縁取る瞳で見上げる。手は無意識に宙を切り、肉を取ろうとしていた。しかし、中途半端な形で止まる。

 迷っていた。取るか、取らざるべきか。

 メキアラは催促をしない。無言で肉を晒すだけ。

 喉から喘ぎ声を出しながら、少年は腕を彷徨わせる。

「あぁぁ……」

 右頬が引きつった歪な表情を少年は顔に張り付ける。喘ぎ声は段々と大きくなり。

 本能に忠実に、少年はひったくるようにメキアラから肉を奪い取った。薄い唇が求めていた物を受け入れるために大きく開き、べたべたに汚れていく。縮こまっていた少女も彼が口付けた瞬間、バネのごとく動き喰らいついた。

 本能を剥き出しにする二人に、メキアラは口を開く。

「これは奇跡だ。もう二度とこんなことはないと思って喰らい尽くせ」

 淡々と、淡々と。

 少年達は聞いているのかいないのか、やたら頷きながらも目線は肉から離さない。

 詰まらせそうな咀嚼音を聞きながら、メキアラは踵を返す。

「奇跡は奇跡として受けとり、二度目を期待するな」

 足音が石畳に響くが、それを聞いていたのはすり抜けたネズミ一匹。

「貪欲に清く生きろ」

 もうメキアラの頭の中に少年達はいない。目線は真っ直ぐに、天に伸びる煉瓦と石の塊を見ていた。

 王城の者達は何も知らず、のうのうと生きているのだろう。

 飢えも知らず、暗部も知らず、これから来る物事も知らず。

 メキアラが投じるのは小さな石ではなく、砲弾。波紋さえ見えなかった水面は波打ち、周囲まで影響を与える。水底で隠れていた王は露見した時、どんな選択をするのだろう。

 堀に架かった橋を渡り、貴族の巣に入る。背筋を伸ばし堂々としている姿にぎょっとする者が多かったが、あまりの悠然さに使いの者かと結論が達し、奇異の目はすぐ少なくなる。

 しかし、なくなったというわけではない。

 扇子で口元を隠し、着飾った女達は一様に侮蔑の目線をぶつける。

「女性なのに……」

 そのねっとりとした声をメキアラは払い捨て、一際大きく足音を響かせ止まった。眼前を仰ぎ見る。

 選び抜かれた赤煉瓦と石畳で形成されたそれは、威圧感を感じさせながらも圧巻させられるものだった。門扉には飛び立つ鳩と絡まる蔦から咲く花が精巧に彫られ、その前に二人の門番がいた。どちらも眉間に皺を寄せ、手に持った槍の柄を石畳に叩きつけた。

「そこの女、止まれ」

 低い声は明らかに警戒の色を滲ませている。メキアラは真っ直ぐに門番を睨みつけた。

「観光には見えぬが何用だ」

「王と謁見したい」

「謁見……今日はそんな予定ないぞ」

「早急の用だ。さっさと通させろ」

「怪しい……奴め!」

 メキアラの好戦的な態度に、門番はとうとう矛先を向けた。

 彼女は薄く笑う。

「警戒するのはいいことだ。が、本質までは見抜けぬようだな」

 得物が見えていないかのごとく真っ直ぐな足取りでメキアラは進む。石畳に響く足音は威圧感を孕んでいた。

「そんな物で『神』を止められると思っているのか」

 男は威圧の意味を込め、メキアラに向かって槍を振るった。

 が、固い感覚が腕に伝わる。耳元でメキアラに鼻で笑われたような気がして。

「せっ先輩……!」

 目の前にメキアラはいない。石畳に刺さった槍だけが異様さを物語る。

「邪魔するぞ」

 男が振り返る先で、メキアラは城内へ駆け出した。

「侵入者だ!」

 怒声が響き渡る。メキアラは溜め息をついた。

(信仰はもう無くなって久しいが、畏怖さえ忘れたか)

 武装した騎士達が虫のように湧いてくる。メキアラは右手を掲げた。光が掌を中心に収束していく。

 『神』の存在など、所詮空事なのだろう。

 右手を構え、振り下ろすとレイピアが握られていた。その柄で至近距離まで近づいていた騎士の首を叩き昏睡させる。

 メキアラを中心として場がざわめき、騎士は次々と鞘から剣を抜く。仲間も昏睡させられ、彼女は完全に敵として認識された。

 四方から刃が襲い掛かり、メキアラは跳躍した。レイピアを天井に突き刺し、眼下を望む。

「畏れを失くした兵士は獣だな」

 天井を蹴り上げ、反動を使ってレイピアを外す。通路の中心に舞い降りた。

「我、メキアラスリィアの名を畏れぬ者だけを相手しよう。手加減はせぬぞ」

 温度の低い瞳がぎらつく。騎士達は全身が粟立つのを感じた。剣を握る手が震えている。誰も一歩が踏み出せない。目線はメキアラを睨みつけているはずだが、恐ろしく膨大なものの前に外せないのではないかと錯覚が起きる。

「神か……」

 畏怖を孕んだ呟きがどこからか漏れる。

(やっとか……)

 メキアラは軽く息を吐く。と同時に、騎士の間から笑い声が響いた。礼を欠いたその声の主は、騎士の間を堂々と進む。

「オメーみたいのが神様だって」

 筋肉のついた二の腕を組み、女性にしては背の高いメキアラをさらに頭一つ分高い位置から見下ろす。軽装で鎧を纏っておらず、それゆえに腕のみならず全身が筋肉質なことがありありと分かった。好戦的な笑みを浮かべ、男は背中に固定した大剣を抜く。

「信じていないようだな」

「当たり前だろ。信じるのは自分の力だけだ。神様なんてもんは、弱い奴が作り出した妄想なんだよ!」

 横なぎに大剣が払われる。

 メキアラは跳躍した。そのままの体勢で剣先を下にして落下する。刃と刃がぶつかり合い、大剣に着地したメキアラを男は振り払った。

 細身の身体は軽く吹き飛ばされたが、メキアラはその中で冷静に着地点を見定めレイピアを構え直す。勢いのまま赤絨毯にレイピアを突き刺し、勢いを殺して踏み止まった。

「女にしてはなかなかやるな」

「五月蠅い。血の気が多い奴だ」

「それはオメーもだろうが」

 互いに睨み合い、相手に剣先を向ける。刃が煌めいた。

 騎士の目は二人を追った、はずだった。

 視界に捉えられなかったと脳が理解した時には、刃と刃がぶつかり合い火花を散らす。

 誰ともなく感嘆の声が漏れた。もう、人の業ではない。

 男の顔がにたりと笑みを形作る。

「久々に楽しく殺り合えそうだ」

「黙れ」

 脳天に振りかざされた刃を掻い潜り、メキアラは懐に潜り込む。

 男の瞳が大きく揺れた。刃を返す時間はない。

 メキアラは真っ直ぐにレイピアを構え。

「何をしている」

 鋭い音が鳴り、メキアラの攻撃は阻まれた。

「カリスト」

 メキアラの瞳が眇められる。

 カリストと呼ばれた生真面目を形にしたような男は、鋭い視線のままレイピアを弾いた。身を翻しメキアラは間合いを広げる。

「天の主神がむざむざ死ぬつもりか、ガニメデ」

「死ぬつもりはねぇよ」

「……どうだか」

 カリストの溜め息に対して、ガニメデの片眉が吊り上がった。

「俺の力がこいつより劣るって?」

「力の過信……それが油断を生んだな」

 ガニメデがそっぽを向き、舌打ちをする。カリストの言葉が的を射ているからこそ余計に苛立った。と、頬に鋭い痛みが走り、ガニメデは苛立ちをぶつけるかのように荒く擦った。

「くそっ!」

 ぬるりとした感触がして、手の甲には赤が色鮮やかについていた。

 メキアラはそんなやりとりを見つめながら、ゆっくりとレイピアを握り直す。

 睨みつけ、レイピアを構えると空気が固まる。

 二対一だろうとメキアラは負ける気がしなかった。人間に負けるはずがないのだ。力の差など最初から歴然なのである。それでも時に人間は恐れさえも跳ねのけ歯向かおうとする。

 半身を滑らせ、その時を待つ。と、目の端で何も見えていないのか、ふらりとこちらに近づく者がいた。得物も緊張感もない男だ。明らかに非力と分かる細身に神官服のようなものを纏い、手には黒い背表紙の本。それで殴れは痛いだろうが、剣を持っている者に近づく代物ではない。

 それでも男はふらふらと距離を縮めてきた。

「皆さん、落ち着いてください」

 微笑をたたえて言う彼に、メキアラは渋面した。

 苦手な人種だと直感で思った。男の表情は感情や本性を見せないようにしている。本性を隠しているのに関しては、一度狙ったあの青年も一緒だが、それとは本質が違う。

 とにかくあまり近づきたくはない。そう思っているのに、男はメキアラの許に歩いてきた。数歩先で立ち止まり、身を伏せる。腰まで伸びた銀髪が赤絨毯に落ちる。

「ガニメデ、カリスト、剣を収めて下さい」

 顔を伏せたまま言い放つ。今、彼の表情は誰にも見えない。

「おいおい、水を差すなよイオ」

「神の御前ですよ。身を弁えなさい」

 銀髪の隙間から放たれた言葉に場が静まり返る。

「本当に神だったのか」

 カリストの言葉に答えるかのように、イオは持っていた本を片手で捲る。とあるページで手を止め、伏せた姿勢のまま掲げた。

「メキアラスリィアの名を聞き、もしやと思いましたが」

 伏せた顔を上げ、真っ直ぐにメキアラを見る。

「二千年前に消えた神ですね」

「二千年!?」

 遥か過去の話に、ガニメデのみならず騎士の間からも素っ頓狂な声が上がる。顔色を変えなかったのはカリストぐらいだ。

「そうだ」

 メキアラの一言にさらに場がざわめいたが、イオが手を挙げたことにより静まった。ただガニメデだけは何か言いたそうに口を開いたが、カリストがそれを目敏く見つけ制される。

 イオは静寂の中、一人淡々と言葉を続けた。

「しかし、この目で神を拝む日が来るとは」

「お前は私の言葉を信じるのだな」

「はい。これは門外不出の書物。過去に賊に入られたこともありましたが、それも三百年前のこと。これを読み、名を騙ることなど到底考えられないことです」

 笑顔で言っていたイオだったが、突然その表情を顰め、真顔でメキアラだけに聞こえる声量で呟いた。

「貴女様はどちらですか」

「どちらだといい?」

「光の意味が人間にとって幸福なことだといいのですが」

 メキアラは息を吐き、固唾を呑み見守っている騎士に視線を向ける。

「さっき負傷した者を見ていろ」

 周りにいた騎士達がガニメデの傷に視線を集中させる。当人は不服に頬を歪めた。

 目を閉じ、メキアラは精神を研ぎ澄ます。

 風がないのに髪がうねった。膨大な何かが地の底から沸き上がり、メキアラの足元に発光する魔方陣が現れる。

 誰もが息を呑んだ。魔法などこの世に存在しない。人間はそんな能力を持っておらず、使えるのは物語に書かれる魔導士だけだ。この世界で使える彼女は本当に『神』なのだ。

 光の粒子が床から立ち上がり、ここが見慣れた場所なのに異界を見ている錯覚に陥る。あんぐりと口を開けているガニメデの傷口に粒子が触れた。呼吸しているように点滅を繰り返す。

 不思議な感覚にガニメデは傷口を触る。その時にはもう魔方陣も光の粒子も消えていた。

 頬に触れ、驚愕に打ちひしがれる。肌には何もなく、手には血一滴つかない。痕が全く残っていないことは騎士の顔からも明らかだった。普段顔色を変えないカリストも、この時ばかりは瞳を見開き驚いていた。

「さて、王の許に連れて行ってもらおうか」




 どこまでも回廊は続いていた。メキアラの前にイオが立ち、背後にはガニメデとカリスト。誰も口を開く気はなく、足音は絨毯に吸い込まれ辺りは無音だった。騎士達も持ち場に戻り――浮足立っており、好奇心の目でちらちらと見てきたが――回廊に人気はなかった。

 メキアラは何気なく、回廊に添うように続く窓を眺めた。鳩が一羽、自由を象徴するその身で澄みきった空へ飛び立つ。

 瞳を瞬く。

 鋭い音が耳の奥で鳴り、鳩はどこからか現れた黒い剣に串刺しにされた。血を流し、翼は汚れ、瞳は泣いているかのよう。自由を、幸せを奪われ、悲願に叫び落ちていく。

 メキアラは眉間に皺を寄せ、ゆっくりと瞳を閉じる。

 再び目を開いた時、鳩の姿はなかった。

 最初から串刺しにされた鳩なんて存在しなかった。鳩は羽ばたき空に消えていた。血に塗れ、悲願にくれている鳩は彼女の妄想。

 これからの可能性を映すひとつの象徴。

 メキアラは窓から目線を外す。見据えた先でイオは軽く手を挙げた。

 回廊が終わりを告げ、眼前に存在感を放つ扉が立ち塞がっていた。両側に控えた騎士が四人の出現に姿勢を正す。

「失礼しますよ」

 イオの言葉に騎士は半身下がり、浅く礼をしたまま両側から扉を押した。光の亀裂が入り、網膜を埋め尽くす。メキアラはまばたきをせず、待った。光が色づき、全貌が露わになる。

 ひらけた先に数段の段差があり、その上で初老の男が玉座に座っていた。左には玉座よりもこじんまりとした、しかし上質な空席の椅子。本来なら王の妻となる人物か王位継承第一位の者が座るはずだが、誰が座ることも憚られる状態になっていた。

 この国で伴侶は一人に一人だけと決まっていたが、王だけは王子を残すため一夫多妻制を設けている。それでも王のほとんどは一人の女性を傷害の伴侶とし、愛する。現王もそうだった。しかし運命は、妻になった女に悲しい現実を与えた。

 子が出来ぬ身体だった。

 周囲の者は王を唆し、新たなる妻を娶らせる。そのことが混沌を引き起こした。

 二人目の妻も子供が出来ず、その間に王は別の女性を愛してしまった。

 彼女はすぐに子供も身篭り、妻として迎えられたが、その直後に第二王女も身篭っていることが判明し、そのまま彼女は第三王女の前に男児を産んだ。

 歳の同じ王子二人に、彼らの弟にあたる第三王女の次男坊、そして三人の妻。

 決断力のない王は、隣に座らす者を決められなかった。

 その王に今、メキアラは決断を迫る。

 王の前に立っていた少年が肩を震わせ振り返る。何故かその顔は怯えていた。

「エウロパ、報告どおりです。こちらに来てください」

 イオの言葉に少年、エウロパは癖の強い桃色の髪を揺らしながらメキアラの横を通り過ぎる。怯えながらも、横目でメキアラを探ることは忘れなかった。

「剣をとらなくて良かったですね」

 イオが笑顔で声を掛けた。エウロパは微かに頷き、目を伏せる。

 王直属の部下はどれもこれも曲者だった。

 メキアラは上着を翻し、赤絨毯に跪く。その行為にこの場にいた一同が息を呑んだ。

 メキアラは自らのことを『神』と言った。そのことはイオの持つ文面からも明らかだ。その『神』が人間に膝をついた。

 敬意されるモノが自ら下手の行動に出て、王は困惑し冷汗を滴り落した。

「面を上げよ」

 王の声は裏返っていた。

 メキアラの顔が上がる。鋭く研ぎ澄まされた紅には『神』を感じさせる何かがあった。

「人の上に立つ者、今日は貴方に話すことがある」

「聞こう」

 王が手招き、イオは音もなく彼の隣に立った。迷いなく黒い背表紙の書物を捲る。開いた頁は勿論、メキアラスリィアとそれに関することが綴られていた。

「王は、私の最後の言葉が分るか?」

 イオが無言で一文を指差す。王は頷いた。

 二千年前の事柄だと仕方ないことだが、知識として入っているのはイオだけのようだ。

 メキアラはゆっくりとその文面を口ずさむ。

『私が再来する時、この世界は光に包まれるでしょう』

「光とは、幸福と捉えてよいのだな?」

「一応は」

「一応……?」

 老いの見え始めた顔に疑念が浮かぶ。王は第一に民の平和を考えなければならない。被害が出るならそれを排除し民を護り、そして王としての威厳を保つ。実際には貧富の差があり、今この時にも飢餓で死ぬ者が存在するのだが、今の話はそれとは次元が違う。

 ひとつ間違えば、人が大量に、死ぬ。

 書物が門外不出なのは、その文面に不穏な内容が記されていたからだ。

 カリストが柄に手を掛け、いつでも抜刀できる体勢にはいる。メキアラの次の言葉によっては、神といえども斬るつもりだ。

 メキアラは書物に綴られている、とある文面を朗々と読み上げた。

 カリストの瞳が光り、鞘から剣が抜かれる。

 メキアラは冷ややかにその姿を睨んだ。

「仕事熱心なのはいいが、先走るな」

「それも貴様の言葉か」

「違う」

『……憎い……醜い……ニンゲン……殺してやる、殺してやる!』

 悲痛を孕んだ声、魂から血の涙を流した叫びは今でも明瞭にメキアラの脳裏に響ている。

「世界は、神は、均衡を望むものだ」

 カリストは静かに剣を収める。

「神は私ともう一人いた。そいつがこの世の『破壊』を望むのなら、私は『保持』を望むまでのこと」

「では、本当はこの世界などどうなってもいいと」

 イオの言葉にメキアラは薄く笑うだけだった。

「そして今、そいつも目覚めた」

 表情を一転させ、無表情で言い放った言葉に誰もが目を剥き、王に至っては玉座から立ち上がった。

「それは実か!」

「力は失っているがな」

「力を失っている今なら、討伐できるのではないでしょうか」

 カリストの提案に王は低く唸る。

「神よ、姿は分かるのだな」

「ああ、だが教えはしない」

「何だテメー、ここまで言っておいて」

 ガニメデの不機嫌な声にもメキアラは冷ややかだった。

「神は恐れながらむざむざ死んでいけと」

「そんなことは言っていない。これを聞き、お前らはどうするのか。討伐という選択をするのなら、あとは自力で探し出して実行するまでだ。私は言ったぞ、神は『均衡』を望むとな」

「相手が無力であるなら、力のある貴女様はこれ以上手を出せないということですか」

「そう解釈してくれても構わない」

 メキアラの声はどこまでも温度が低く、それ故に心裏も分からない。

 王は頭を抱え、玉座に崩れ落ちる。

「力が戻る可能性は……」

「ある」

 王は深く溜め息をついた。

「神よ、相手が牙を剥く時は、こちらの味方をしてくれるか」

 力を取り戻してからでは遅い。どうにか探そうにも、目の前の人物は口を開いてはくれない。

「さぁな。私がその時手を貸そうと思えば、味方もするだろう。しかし、神の気紛れなんて言葉もあるからな」

「均衡も何もない台詞ですね」

「結局、存在するものは全てそんなものだ」

「天の主神よ……」

 王の怯えきった声に直属の部下達はそれぞれに姿勢を正す。

「警備を強めよ。そしてメイドに神の為の部屋を用意させよ」

「私を囲う気か、いいだろう。ただし、消えても恨むなよ」

 メキアラの上着が捲れ、王に背を向ける。

 何かが終わり、そして始まる。

 彼女は眉間に皺を寄せ、瞳を閉じた。

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