4-3 魔の回想

「死神」

 女がヒールを泥に沈めながら兄妹に近づく。爪を黒く塗った手が唸った。

 乾いた音が墓地に響く。

 兄は鈍く痛む頬を押さえようともせず、女を上目遣いで睨みつける。

 新たな墓の前で立ち竦む人々は、そのやりとりをまるで他人事のように見ていた。誰も止めようとしない、意に介さない、ただ起きた事柄。

 妹は俯き、兄の手を強く握る。

「死神!」

 女はもう一度手を振り上げる。兄は逃げようとは思わなかった。罵倒も暴力ももう慣れてしまった。

 手をあげたければ、それでいいと思う。そんなことで気が晴れるなら、目の前で新しくできた墓に対しての償いは安いものだろう。

 しかしいくら経っても、女の手が振り下ろされることはなかった。手を挙げたまま、指先だけを震わせ、やがて諦めたのかすとんと落とす。忌々しげに兄を睨みつけた。

 ヒールに泥を撥ねつけ、兄妹に背を向けた。呪いの言葉一つもなしに、女は傍観者の中へと紛れる。その背が消える寸前、兄は口を開いた。

「僕達はもう、貴方達の手を借りません」

 妹の手を強く強く握り返す。もう誰に喋っているのか、兄は考えぬまま、口だけを感情なしに動かした。

「二人だけで生きていきます」

 妹の頭がゆっくり動いて、黄土色の双眸が彼の姿を射貫く。兄は薄い笑みで応じた。

 囁くような声で妹にだけ言葉を紡ぐ。

「絶対、護るから」

 十三歳の決意。

 大人達は誰も彼を褒め称えず、冷たい眼で見るばかり。

『死神』

 誰かが遠くで呟く。




 紅蓮の炎が闇の空に立ち上る。どこから燃え広がったのか、何が起きたのか、兄には理解できなかった。

 阿鼻叫喚と炎に照らされる屍。

 兄妹は何事もなく、二人きりで平和に暮らしていた。

 何事も起きず、平凡な日々を過ごしていたかった。

 兄は妹の手を引き、屍が積み上がる道を逃げる。紅蓮の炎は道を塞ぎ、時には嫌な音を立て建物を崩落させた。

「お兄ちゃん」

 煙を吸い、咳き込みながらも妹は呼ぶ。心配したその声に、兄はいつもの微笑の代わりとして解けないほどに強く繋がった手を握る。

 遠くで刃と刃がぶつかる音がした。そして一人の断末魔が耳にこびりつく。妹が小さく悲鳴を上げた。

 馬の蹄が地を揺らしている。女性の懇願が聞こえたが、それは無残に天へ消えた。

 何が襲ったのか分からぬまま、蹄は敵と決め音のしない方へ逃げる。もう男達の怒声しか聞こえない。

 この村で生き残った者はいないのかもしれない。

 兄の感情がどろりと脳内に漏れる。

 またやってしまったのだ。どんなに抗ったところで自分には人の死が付き纏うのだ。

 どろりとした負の感情は、そんなことないと言っている自分自身も食らい尽くし、思考を麻痺させる。それがいけなかった。

「お兄ちゃん!」

 妹の悲鳴がして、手が離れる。

 炎とは違う紅が、視界を覆った。

「――!!」

 妹の名を叫ぶ、その声に男の下劣な笑い声が重なる。

「お涙頂戴な兄妹愛だな」

 鎧に身を包んだ男は、串刺しの妹の身体を兄によく見えるように晒す。四肢は力なく下がり、丸くなった背からは死臭しか感じられない。

 男は躯と化した妹を乱暴に剣から引き抜くと、呆然と立ち尽くす兄へ放った。物言わぬ彼女の身体は重く、動かぬ兄はその重さに耐えきれずそのまま縺れるように尻もちをついた。震える指先で髪をよけ、その顔を見る。開かれたままの瞳を優しく閉じた。

「しっかし、山賊様は出てこないな。おい、お前知らないか?」

 男が下卑た笑みを浮かべながら問う。

 兄は洞の妹をその場に静かに置く。自身も音もなく立ち上がる。

 前髪で男に表情を隠し、静かに言い放った。

「知らない」

「ここの奴らみんなその答えなんだよな。まぁいいや。じゃあ、妹のところへ引導してやるよ」

 血を払い、その切っ先を兄へ真っ直ぐ向けた。甲冑を鳴らし、微動だにしない彼へ襲いかかる。

 兄は紙一重で避け、その場にしゃがみ込んだ。崩れ落ちた瓦礫を掴むと、身を翻し男の頭部へ突き上げた。激しい音が鳴り、反動で兜が外れ宙に舞う。

 男は痺れる頭を押さえながら驚いていた。子供にこんな痛手を喰らうとは。それでも、と彼を睨みつけ……喉の奥で悲鳴が漏れた。

 間近にあった彼の顔には表情がなく、ただ暗い影が横たわっていた。彼の手が振り上げられる。

 守るものを失った男の頭部に瓦礫が振り下ろされた。

 男は何もできず、無残に崩れ落ちる。

 兄は血が付着した瓦礫を力なく落とす。幽鬼のようにゆっくり動くと、もう二度と語り掛けてくることはない妹を脇に抱え炎の中へ消えていった。

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