4-1 魔の回想

 真っ白い空間に私はいた。右も左も、上も下も、そこに存在していたのは光をたたえた白。浮いているのか、それとも真白い床に足をつけているのか、私には理解できなかった。

 と、不意に音がした。水中で空気を吐き出すような、そんな音。

 ぞわりと全身が粟立つ。きては駄目と心の中で警鐘が鳴る。

 しかし望みに反して、音は大きくなっていく。私は思わず耳を塞ぎ、一歩後ずさる。

 息が荒くなっていく。目も塞ぎたかったが、視線が一点に集中して逸らさせてくれない。そこから何か。

 何かが生まれた。

 私の喉から形容できない悲鳴が上がる。

 何かは黒いものだった。それ以上の形容が思いつかない。いや、私自身それどころではなかった。呼吸ができず、思考が全て停止していく。

 それは這い上がるかのように、真白い空間を染め上げる。

『ねぇ』

 耳を塞いでいるはずなのに、誰かに似ているような、全く知らないような声が鮮明に聞こえた。

(違う……!)

 瞬いた顔と声が被ってしまい、否定したいがために頭を振る。

 黒いものが震え、その体から細い影が伸びてきた。腕に影が絡まる。私はそれを手で引きちぎり、真白い空間の方へ逃げた。逃げて、逃げて。

 そうして、目を覚ました。




 その街は大きさの割に静かなところだった。小さな部屋がいくつも集まってできている煉瓦造りの建物は、密集しいくつもの路地裏を形成しながらも、その細部まで人の気配は薄かった。

 サラは思わず辺りを見回し、その建物の一角で主婦が洗濯をしている風景に安堵した。

「人、あまりいないね」

「ここは旅人や行商人の集落みたいなところだからね」

 この街のほとんどの人間は外へ行ったきり何年も帰ってこない。一応帰る場所として定めるところであり、また王都への通過点としても使われるため、人の足もこの地には長く留まらない。人が流れていく場所だった。

 ラキアは一休みとして、唯一の広場にある噴水に腰を下ろした。

 子供達の声もして、サラの顔は少しばかり緩くなる。人がいるというのは安心できる対象だ。

 そんなサラにラキアは声を掛けた。

「君を知っている人が、この街で足を止めていればいいね」

「…………」

 サラは曖昧な表情を浮かべ俯く。ブーツで石畳を蹴った。

 その姿にラキアは疑問を持つ。いつもなら『そうだね』と笑顔で返ってくるはずなのに。

 まるで記憶が戻るのを、元の生活に帰ることを拒んでいるみたいだ。もしかしてとラキアは思う。

(このまま、二人で旅を続けたい?)

 触れそうな位置にある右手に手を伸ばす。触れる寸前で止めた。

 あの言葉が脳内を駆け巡る。

『死神』

 このまま触れてしまったら、サラの手は陶器が割れるが如く、崩れてしまうのではないかと思ってしまう。まず手にひびが入り、亀裂が腕を伝って、綺麗な顔にまで到達して、そして崩れていく中で呟く。

『死神』

 全く自分に合っている名だ、と心中で苦笑を漏らす。

 幻想が現実になってしまいそうで、ラキアは結局その手を自分の元へ戻した。

「あっ」

 背後で少女の慌てる声が耳に届く。足元で何かが当たる感覚があった。

「ボール?」

 ラキアの声に反応して、サラも彼の手元を覗く。

「す、すみませーん」

 さっき声を上げた少女の足音が近づいてくる。ボールを転がしてしまったみたいだ。

 ラキアは返してあげようと少女の方を向き、瞳孔を開かせた。

 黄土色のツインテールの髪が走る彼女とともに揺れる。

 似ていた、ありえないぐらいに似ていた。あの、呪詛の少女に。

 他人の空似だと自分に言い聞かせ、ラキアは無理矢理に笑顔をつくる。あまりに粗末で不格好で笑顔ではなかったもしれない。

「はい」

 少女に掛けた声は上ずっていた。

 彼女はラキアの以上には気づかず、手元に戻った抱えて笑顔になる。

 そして、言ってしまったのだ。その口で、ラキアにとっては禁忌となる言葉を。

 これが全く似ていない人物だったら、きっと何も起こらなかっただろう。でも、少女は似ていた、生き写しかのように。

 彼女が少女の後ろで不気味に笑う。

 少女の口が言葉を紡いだ。

「ありがとう、お兄ちゃん」

 お兄ちゃん……。

 吐き気がした。思わず口元を押さえ、その場に崩れ落ちる。

 そんなラキアの姿に少女は困惑して、逃げるように友達の方に走っていく。

「ラキア」

 サラが様子を窺いながら、恐る恐る肩に触れようとする。

 乾いた音が鳴った。

 時が止まる。

 ラキアは自分のやったことに蒼褪め、サラを見た。彼女の黒曜の瞳が揺れている。

 恐ろしくなった。取り返しのつかないことをしてしまった思った時には、ラキアはサラから逃げていた。

 彼女が背後で何かを言うが、ラキアは一句として耳に入らなかった。

 少女の呪詛が耳元で響き渡る。

『お兄ちゃん、貴方の幸せを、赦さない』

 走っているかどうかも分からなくなっていた。

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