3-2 隠し事
少女が囁いている、呪詛を。暗い双眸が睨んでいる。
『……………、貴方の幸せを、赦さない』
目を覚ますと、そこには蠟燭を持ったサラがいた。揺れている火が彼女を浮かび上がらせる。
悪夢の続きのような気がした。今までも夢だったが、これも夢。今すぐにでもサラの腕が伸びてきて、自分の首を絞める。そんなことがラキアの中で安易に想像できた。
サラは首を傾げ、燭台を持っていない手を伸ばす。
想像どおりだった。彼女の表情は豹変する。そして呪詛を、自分に『幸せなどない』と……。
思わず瞳を閉じた。想像が現実になることが怖かった。
「ラキア」
彼女の手は。
「大丈夫?」
彼の横を通り過ぎた。
ランプの笠を外し、持っていた蝋燭で火を灯す。
ラキアは瞼を開き脱力した。やっと現実であることを実感する。明るくなった部屋で、サラは眉根を顰め、彼の横に腰を下ろした。
「うなされているみたいで……起こそうと思ったんだけど」
「あぁ……うん、ありがとう。もう大丈夫だよ」
シーツを皺になるまで掴み膝を抱える。顔を見られたくなくて抱えた膝に埋めた。汗で濡れた前髪が気持ち悪くて鬱陶しい。
サラはじっとしたまま、まるで人形のようにラキアを見ていた。宿屋の時計が時を告げるため、鐘を一回鳴らす。
「あのね」
整った唇が静かに言葉を紡ぐ。
「言いたいことがあって、来たの」
「……うん」
「ラキア苦しそうだけど、本当にどうしたの」
率直なサラの言葉にラキアは微かに痙攣を起こす。
「別に無理して言わなくていいけど……私は……ラキアのこと」
「ごめん」
少女の呪詛が脳内を駆け巡る。
「今は言えない」
絞り出すような声だった。
「いつか、その時がきたら……だからごめん」
「私もごめんなさい」
「…………」
ゆっくりと顔を上げる。その顔は酷く醜いものだとラキア自身気づいていた。
まるで彼らの心を体現化するかのように、その後三日三晩雨が降り続いた。二人は話し合い、意見が一致して雨が降りやむまで、宿屋に居座ることにした。
ラキアの心情は道中が危ないから。
サラの心情はラキアが壊れそうだから。
二人の気持ちは少しばかりずれながら、やっと空は晴天を迎えた。
「おはよう」
ラキアは控えめにノックをして扉を開けた。室内ではサラが鏡の前に立ち、髪を梳いているところだった。
「やっと晴れたね」
ブラシを鏡台に置いて、サラは微笑む。
二人の中であの晩の出来事はほとんどないものとなっていた。次の日から普通に会話し、笑い、どこかカップルのような雰囲気まで周りに見せた。ラキアはそんな雰囲気にどぎまぎしたが、それ以上触れないでくれるサラに感謝した。
お気に入りとなったワンピースを翻し、サラは立ち上がり荷物を肩にかけた。
「じゃあ、行こっか」
「サラ、荷物持つよ」
「いいよ、この服になってから体軽いし、そんなに気使わないで」
「そ……そっか」
あの日の穴埋めをしようとしたが、あっさり失敗した。
宿屋を出た通りは、久々の晴天に喜んでいた。葉に付いた雨粒が光る中で、サラは両腕を広げその足をまだ見ぬ地へと踏み出す。
「あ、ラキア。この村出る前に、おじいさんとおばあさんのところに挨拶しよ」
サラは自分の提案に満足して、脚を服屋に向ける。ラキアはその明るさに救われ続けながら彼女の背を追った。
店先におじいさんは寝ていなかった。物静かな雰囲気が店全体を包んでいる。サラは奥から人を呼ぼうとしたが、その前に張り紙を発見した。
【現在留守】
墨で書かれた字はおじいさんのようだった。
「留守か……おばあさんも居なさそうだね」
サラは実に残念そうに、裾を持ち上げて指から離した。
「仕方ないね。またここに来たら、会いに来よう」
「うん、記憶が戻っても」
紙から視線を外して、ラキアに黒い双眸を合わせる。瞳の中に唖然とした彼の顔が映り込んだ。
(そうだ、彼女は記憶が戻ったら……離れてしまうのかもしれない)
今までその結論に至らなかった自分をラキアは複雑に思った。自分にとって別れは。
サラは眉間に皺を寄せたラキアに向かって腕を伸ばした。彼の腕と絡めて、険しい顔を解くようにその温もりを分ける。ラキアは瞳を見開くと、その顔を切なそうに歪めて、彼女の腕に触れた。そのままの恰好で歩き出す。
サラの腕に力が入った。まるで『ずっと一緒にいようね』と言っているみたいに。
ラキアも触れている手に力を入れようとした。
『死神』
サラの腕を振り払っていた。彼女の驚いた顔が瞳いっぱいに広がる。
「……あ……ごめん」
「ううん、大丈夫だよ」
払われた腕を押さえ、彼女は笑う。
自分が嫌になった。彼女にこんなことをするなんて。過去の台詞をこんな時に思い出すなんて……。
でも、どうしても、彼には一瞬、サラが。
血に塗れた姿に見えたのだった。
「ラキア、行こう」
サラはもう腕に触れなかった。彼の半歩前を歩き出す。ラキアは力を入れようとした手をサラの背に伸ばしたが、それは触れることなく重力に従い落ちた。
『死神は触れちゃいけないよね、だって……』
少女が耳元で囁く。
彼女が振り返る。
彼の顔には仮面が張り付いていた。
どんな会話をしていたのか覚えていない。どんな台詞を吐いたのか、どんな言葉を彼女は紡いだのか、全くといっていいほど思い出せない。気づけば仮面は剥がれ落ち、陰に隠れ、いつもの自分に戻っていた。多分。戻ったとラキアは思いたかった。
村を出てからの道は、剥き出しの土と水溜まり。そして左手には崖。安全な方にサラを歩かせ、ラキアは相槌を打っていた。
「……あれって……」
話を中断させ、サラは先を指差す。誰かがふらつきながらも走っていた。折れ曲がった腰、皺だらけの手、必死な形相。
「おじいさん!」
「おぉ、お前さん達は」
肩で息をしながらおじいさんは止まる。背後をちらりと見たあと、ラキアに縋りついた。
「ばっばあさんが、崖から落ちた!」
「えっ……それはどこで」
「この先にある大岩の近くだ。お願いだ、助けてくれ!」
「サラ、村に戻って人を呼んで。僕は先に行って下りているから。おじいさんのことも頼むね」
「うん」
頷いたサラに震えているおじいさんを介抱させ、ラキアは道の先を駆けた。
「……ばあさん」
「とりあえず村に戻りましょう、ね」
「あぁ……染料なんか採りに行くんじゃなかった」
「染料?」
「服に使う花の汁さ……あ」
ぴたりと止まってしまったおじいさんの背をサラは懸命にさする。おじいさんは緩慢に首を動かし、開けるだけひらいた瞳にサラを映り込ませると口を動かした。
「ばあさんを追って若者が一人下りていったんだが……大丈夫かね……」
目印となる大岩は分かりやすいところに堂々と立っていた。それと連なる小さな岩にラキアはロープをくくりつけ、身体に結び付ける。足元に気をつけながら崖を下り始めた。
下方で風が駆け抜ける。それに合わせて何かがさらさらと鳴る音が聞こえた。手と足場を確保してから下を覗くと、眼下にあったのは草地だった。草が長そうなことにほっとする。もしかしたらおばあさんはこれがクッションになって怪我をしていないかもしれない。
右手がずるりと落ちた。欠片が音を立てて落下する。ぞっとした胸を無理矢理落ち着かせ、消えていった欠片の方を見つめる。
(こんなところで死ぬ気は……ない)
彼女がまた頭上でくすくす笑っている。ラキアは頭を振り、離れた手を岩肌に食い込ませた。今は君に構っている時ではない。
慎重に歩を進めると、幻想はあっさり消えてくれた。
どれぐらい時間が経ったのだろう。気がつけば、足は柔らかい草地を捉えていた。命綱だったロープを外し、その場に垂れさせると辺りを見回す。
(おばあさんは……)
ラキアの目が見開かれ、その瞳にモノクロの者が映る。彼女がゆっくりとこちらを向いた。
「お前は」
印象的な紅い瞳。アルビノの女。
咄嗟にラキアは柄に手をかける。女は丸腰だったが、どんな手を持っているか分からない。あの手練れ、只者じゃない。
「……もう戦う気はないよ」
女は無表情で鼻だけで笑った。腰に手を当て余裕綽々と立ち上がる。その背におばあさんが横たわっていた。その身体には女の上着がかけられている。
「介抱……したんですか」
ラキアの問いには答えず、女はおばあさんの顔を見つめる。その顔はどこか優しいことにラキアは気づいた。きっと、この姿が本当の彼女……。
なら何故、貴女は剣をとった?
やっぱり、あのことに関する……。
「貴女は僕の『アレ』を知っているんですか」
「アレ? ……嗚呼、『アレ』……ね」
女の言葉は囁きにちかく、余計にラキアの心を掻きむしった。全てを知っているこの人は。
「僕を殺そうとしたのはそれが」
「ラキア・ペルセフォネ」
心臓を直接掴まれた感覚があった。身が竦む。喉からはそれ以上声が出ない。女の瞳が真っ直ぐにラキアを射貫く。
「お前を殺すのは得策ではないのが判った。だが、同じことを繰り返したならその時こそ、私は本気でお前を殺る」
同じことを繰り返したなら。
(僕だって、彼女を血の海ヘは落としたくない、でも僕の手じゃどうにもならない!)
叫びたい言葉は全て声にならず、口がぱくぱく動くだけ。
女はラキアに興味を失ったのか視線を天へ向けた。
「ラキアー、大丈夫!?」
その視線の先から彼女の声がした。
サラは村人と一緒に、人力のゴンドラに乗ってこちらへと降りてくる。
「メキアラだ」
彼女に気をとられているうちに、女は上着を羽織っていた。自己紹介をしたのだと理解した時には、メキアラはラキアに背を向け、未練も後腐れもなく歩き出した。
「貴女は」
近づいてきたサラの言葉にメキアラは返答しない。
「メキアラ……さん」
知らぬその名と残された言葉は、ラキアの胸に刺さっていた。
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