トマトのスープ
空空
手狭なリビングにて
困っている人に気づいたら、助けられる範囲で手を貸しなさい。見て見ぬふりをしても、結局戻ってしまうのが私達なのだから。
「その、親の教えとやらをずっと忠実に守ってるんですか? 親御さんは、見知らぬ他人を家にあげる危険性については言ってくれなかったんですね」
ローテーブルを挟んで向こう側、カーテンを引き忘れたベランダ側の窓を背中に、青年は淡々と語る。一定の調子だが、落ち着きのない視線の動きから胸中の動揺がうかがえる。
やにわマグカップの中身を一息に飲み干したので、おかわりを注ごうかと手を伸ばすと、すぐさま手首を掴まれた。
「誰かが教えてくれたことを疑わずに唯々諾々と従うから、こういう目に遭うんです」
こういう目。
今朝、慌ただしくアイロンをかけたシャツの袖に皺が寄っていく。威嚇のように力が込められ、いまにも捻り上げられそうな気配を感じ、咄嗟に、トマトスープと呟く。
好きなスープと聞かれたら、迷わずトマトスープを選ぶ。好きだから、自分でも作る。
トマトスープを作ることができるのは、材料にトマトを使うからだ。トマトの缶詰でも美味しいけれど。
でももし、トマトが手元になかったら。そもそもトマトという存在を知らなかったら、トマトスープを作るのは容易ではない。
試行錯誤を重ねれば、トマトスープの味に近づけることはできるかもしれない。まったくの偶然で、色は全然違うけど、トマトスープにそっくりな味のスープは作れるかもしれない。
でも料理や化学の知識に精通していなければ、どれくらいかかるかわからない。
結局、トマトを使うことでトマトスープを作るのが最も現実的な方法なのだ。元々から手元にあり、既知の材料でスープを煮込む。
人生もスープも似たようなもので、知りうる範囲の手に入ったもので、生きていくしかないのではないか。
青年は意外にも真摯に聞き入っていた。掴まれていた手が自由になる。
「なんか、似たような話を聞いたことがある気がして」
腕を組み、考え込んでいた彼は間もなく明るい笑顔を浮かべた。
「ああ、そうだ。小学校の時の校長先生が、似たような話をしてたんだ」
一夜明けて、ソファーで眠っていたはずの彼はいなくなっていた。曇天の朝、妙に明るい市街地に青年の痕跡はない。
きちんと自分の家へ帰っただろうか。悄然と公園のベンチで項垂れていた姿を思い出しながら、手を擦り合わせキッチンへ向かう。
戸棚から取り出したのはホールトマトの缶詰。この人生において、一番おいしいご馳走を作るために。
トマトのスープ 空空 @karasora99
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます