四月十四日(二〇四号室)

 二○四号室には僕と大家さんの二人が、ローテーブルを挟んで向かい合って座っている。昨夜の出来事を今日の朝に大家さんに話すと、「全てを話すから」と言って僕の部屋まで足を運んでくれたのだ。

 神妙な面持ちの大家さんは、僕が出した紅茶を一口啜ると小さく息を吐いた。

「すまなかったね。嘘を吐いたつもりはないんだよ」

 そうだ、確かに大家さんは言っていた。「その火事では怪我をした人さえいないよ」と。それもそうだ、隣人の直接の死因は手首を切った事による失血死なのだから。

 大家さんに昨年二○三号室で起きた自殺事件について説明を受けたが、僕は言葉が出て来ずに口を魚のようにぱくぱくと開けているだけだった。そんな僕の様子を見て、大家さんは立て続けに話す。

「東さんはね、とっても良い子だったよ。会うと必ず笑顔で挨拶をしてくれたし、私のつまらない立ち話しに付き合ってくれたこともあった。けど、そんな優しい彼女だからこそ人一倍何かに悩んでいたんだろうね」

 東さんの遺書は見つかっていないが、友人や会社の人間から上司との関係や彼氏との関係に悩んでいたとの話しも上がり、警察は衝動的な自殺であると結論付けたそうだ。

「だから彼女を弔う意味でも一年間は二○三号室を空き部屋にしておきたかったんだ。それに東さんの友人が訪ねて来て献花をしてくれることもあるからね」

 そうか、昨日見た女性は二○三号室の住人ではなく、その友人だったのだ。

「当時二○二号室に住んでいた男性が火災報知器の音に驚いて東さんの部屋を訪ねて、そこで血塗れで倒れる東さんを見つけたんだ。その時にキャンドルも倒れてて、周りに散らばっていた紙も燃えていたんだ」

「それを小火騒ぎと言ったんですか? どうして最初に言ってくれなかったんですか? 言えば僕が借りるのを辞めると思ったからですか?」

 ようやく言葉が出てくると、僕は矢継ぎ早に質問を投げかける。大家さんは困ったように頬を指先で掻きながら言った。

「このアパートは私の子供のようなものなんだよ。だから、なるべくなら事件の事は言いたくなかったんだ。まあ、近所の子供たちからオバケハイツなんて呼ばれているくらいだから、近所の人はみんな知っているがね」

 僕はこれ以上大家さんを責める気にはなれなかった。誰が好き好んで自分のアパートで自殺者が出たことなど言うだろう。ましてや僕は不動産屋からも自殺の件はおろか、小火があったことさえ聞かされてなかったのだ。そんな住人にわざわざ真実を教える必要もないだろう。僕が同じ立場でもそうするはずだ。

 それに不動産屋にも告知義務はあるはずなのだ。大家さんだけを責めることはできない。恐らく現在の他の住人も事件の事は知らないのだろう。

 そんな事より幽霊は確かに存在していたのだ。本来なら恐怖で今すぐにでもアパートを飛び出したいと思うはずなのだが、僕は驚くほど冷静だった。恐怖心など一切なく、溢れ出る感情は顔も見た事がない東さんへの同情だけだった。

 彼女はどんな人間で、どんな苦悩を背負っていたのだろうか。そして何故自ら死を選ばなくてはならなかったのだろうか。そして事件から丁度一年が経ったが、彼女は成仏することはできたのだろうか。

 少しだけ開けておいた窓から微風が入りこみ、カーテンを揺らした。揺れたカーテンの隙間に僕はすぐに先ほどの自問の答えを見つけた。

 オバケハイツは今もオバケハイツと呼ばれている。

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オバケハイツ 岩久 津樹 @iwahisatsuki

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