四月一日(二〇三号室)

 午前九時半。私はトイレの中で神に祈っていた。昨夜の暴飲暴食で胃を痛めたようだ。

 付き合って三年の彼氏とは最近うまくいっておらず、会社では部長のパワハラに悩まされ、今日はこの胃痛だ。一体私が何をしたのだと言うのか。

「くそ、会社なんて辞めてやる」

 激しい胃痛と格闘しながら、この前受けた部長からの理不尽な叱咤を思い出して呟く。あの会社の良いところなんて完全週休二日であることくらいだ。

 全ての事象を恨みながら胃を摩っていると、突然にチャイムが鳴り響く。間違いなく私の部屋だ。急いでトイレットペーパーを巻いてトイレを飛び出し玄関を開けるが、そこには既に訪問者の姿はなかった。

「はぁ、最悪」

 とことん運がない。憂鬱だ。今日も夜には会社の人たちと飲み会がある。仕事が終われば会社の人なんて赤の他人なのだから断ろう。と、割り切れればどんなに良いだろうか。私は心でそう思いつつもみんなの前では良い顔をしてしまう。良く言えば世渡り上手、悪く言えば八方美人なだけだ。今日も胃を痛めているのだから飲み会には行けないと連絡すれば良いのに、小言を言われるのではないかと怯えて連絡することができない。そんなストレスも相まって余計に胃が痛くなる。

 結局胃の痛みが治まることはなく夜を迎えた。新宿にある大衆居酒屋には既に会社の人間たちは集まっていた。

「おい遅えよあずま

 私の顔を見るなり部長は文句を言ってくる。私は謝罪の言葉を口にしながらなるべく部長から離れた席を選んで座る。

「えー、本当ですか部長?」

 部長の隣で猫撫で声で喋っている女は私の同期で歳も同じだ。甘ったるい声で時折部長の太腿に触れながらわざとらしくリアクションをしている。彼女は私とは真逆で人によって態度を変えるタイプだ。地位の高い人間には媚び諂い、それ以外の人間にはおざなりな態度を取っている。

「おい東! お前上司のグラスが空なのに何もしないのか?」

 上機嫌だった部長が突然風船が割れたように声を荒げる。部長の目の前に座っていた上司のグラスが空だったのだ。私の席からでは死角となっていて確認することができなかった。

「す、すみません!」

 私は立ち上がり頭を下げて、すぐに店員を呼び出して上司の飲み物を注文した。私と同い年のあの子には何も言わないのに、何故私を狙って攻撃するのか、考えていると無性に腹が立ち涙が溢れそうになる。

 そもそも私は誰にも嫌われたくないから、誰の言うことにも反論することなく、人に合わせて生きているだけだ。そんな私をなぜ部長は親の仇かのように攻撃してくるのだろうか。

「大丈夫? いつも災難だね」

 一応周りの社員は私の様子を見て心配をしてくれる。いや、心配している振りをしてくれる。誰も直接部長には意見はせずに、ただ傍観しては良い人の振りをしているのだ。そうだ、みんな私と同じなのだ。それなのにどうして私だけがこのような目に合うのだろうか。

「そうだ東、お前彼氏と上手くいってないんだって? 結婚まで考えていたのに捨てられそうなんだってな? まあ俺でもお前みたいな陰気な女は選ばないけどな!」

 高笑いする部長。バツが悪そうに苦笑をする周りの社員。そして気まずそうに私を見ている同期のあの子。そうだ、この前のランチの時に私はあの子だけに彼氏との状況を相談をしていたのだ。誰にも言わないでと約束したのに、事もあろうにあの部長に喋ったのだ。

 もう誰も信用できない。ここに私の居場所はない。お願い。誰か私を助けて。

「すみません、お手洗いに行ってきます」

 立ち上がる私の背中に部長の「あいつきっと泣くぞ」という言葉が突き刺さる。部長の言う通りになってたまるかと、必死に涙を堪えたが、トイレに入った瞬間、溢れ出る涙を抑えることはできなかった。

 心を落ち着かせて化粧直しをすると、平静を装い席に戻る。今すぐ記憶を失ってしまいたいと、半ば自暴自棄になりとにかく呑み続けた。その後も部長に何かを言われたがよく覚えていない。気が付いた時には自宅のアパートの階段を千鳥足で登っていたところだった。

 一歩進むたびに世界が一回転したように景色が歪む。前に進んでいるつもりが横に進んでいたり、後退してしまっていたりする。

「あれ」

 気が付くとそこは行き止まりだった。どうやら自室である二○三号室るを通り過ぎて二○四号室室のさらに奥まで歩いてしまっていたらしい。

 そのまま古びた柵にお腹を当てて地面を眺める。辺りに街灯もなく、地面が底のない暗闇のように私を誘っているようだった。このまま吸い込まれて誰もいない世界へ消えたい。そんな事を考えるがここから飛び降りる勇気もなく、結局は踵を返して二○三号室に入ると、ふと二○四号室の住人はどんな人生を歩んでいるのだろうかと考える。きっと私なんかよりは幸せな人生なのだろう。

「私が死んだら化けて出てやる」

 顔も見たことがない隣人を呪いながら、私はシャワーも浴びず布団へと倒れ込むと、そのまま眠りへと落ちていった。

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