ケース8 じんめんそう㊻
「いつからここにいるの?」
かなめが静かに口を開くと、少女は腫れた瞼の裏側に黒目を泳がせながら考え込んでしまった。
「わからないわ……うんと小さい頃は母上様と一緒にお部屋にいた気もするけれど……」
そう言って少女は暗がりに駆けていったかと思うと、何かを掴んで帰ってきた。
それは朱色の櫛だった。
「かなめさん? このことは二人だけの秘密よ? これは母上様に頂いた櫛なの! 奥の穴のうんと奥に隠してあるんだから!」
汚れて、櫛の棘部分は所々欠けてしまっている。
それでも少女は大事そうに両手でそれを胸に抱いて笑った。
「いつか父上様からここを出るお許しがでたら、わたし母上様に櫛を贈るつもりよ! 素敵でしょ?」
「それは素敵ね……」
かなめの胸を何かが抉っていく。
それでもなんとか、精一杯の明るい声でそう答えると、少女は屈託の無い笑顔を浮かべて飛び跳ねた。
ばさばさと伸び放題の髪が揺れる。
フケと
その光景を目にして、言葉に出来ない感情が渦を巻いた。
こんなこと……間違ってる……
かなめが拳を強く握ったその時だった。
ととととと……と軽やかな足音が聞こえてきた。
まずい……誰か来た……⁉
かなめは少女に向かって言った。
「誰か来たみたい! 櫛を隠して! それと、わたしが来たことは内緒よ?」
少女は頷くと慌てて暗がりに飛び込んだ。
「ふふふ! 姉上様ぁあ? 姉上様ぁあ?」
雅子の声だった。
かなめは念の為、積まれた米俵の影に身を隠して成り行きを見守ることにした。
赤い着物の袖を振り乱しながら、薄笑みを浮かべた雅子が座敷牢へと近寄っていく。
その両手には何かが抱えられている様子だったが、かなめのいる場所からは死角になって見えなかった。
「お姉様? いったいどうなさったの? 父上がひどくお怒りよ?」
心配する素振りと裏腹に、その顔にはやはり邪悪な薄笑みが貼り付いていた。
何かを企んでいる。
それを確信し、不安な気持ちになったかなめをよそに、少女はなおも屈託のない笑顔で雅子を出迎えた。
「雅子ちゃん! 来て下すったの? さあこちらへ! ふふふ! 今日はたくさん人が来て、なんて素敵な日なんでしょう?」
「まあお姉様ったら、なぁあんにも分かってらっしゃらないのね? 父上はカンカンなのよ? 今だってそれはそれは恐ろしい準備をしておいでだというのに……ふふふふふ……」
その言葉で少女の顔に影が差した。
どうやら先程の父親とのやりとりを、今の今まで忘れていたらしい。
「嫌……そんなの……嫌よ……」
ざわざわ……と、蔵の中を満たす暗闇が蠢くのを感じ、かなめの二の腕に鳥肌が立つ。
少女の放つ得体の知れない気配を前にしても、雅子が動じる様子はなかった。
雅子は少女に近づいて、両手に抱いた何かをそっと差し出した。
それが何か理解して、かなめの血の気が引く。
それは市松人形だった。
赤い着物を着た、あの市松人形。
「わあ! 可愛いお人形!」
少女から禍々しい気配が消えた。
しかしかなめの胸の中では、前にもまして嫌な予感が膨らみ、どくん……どくん……と脈づいている。
「さみしくないようにって、母上からよ? ふふふふふ……これを母上と思って念じながら、大事にしなさいって」
「母上様が……⁉」
雅子の顔がひときわ邪悪に歪んだ。
ダメだ……きっとこれから、世にも恐ろしいことが起きるに違いない……
かなめが飛び出しそうになったその時、蔵の入口から父親の声が響き渡った。
「雅子……! すぐにその者から離れろ……!」
「はぁあい……」
雅子はくすくすと笑いながら、蔵を出て行った。
修羅の目をした父親が、不吉な光を発する鉄の道具を携えて近づいてくる。
尖った先端、捻り潰すための形状、そして七輪。
しかし少女はそんな父親には目もくれず、秘密の櫛を取り出して市松人形の髪を梳いていた。
「母上……今きれいにしますからね……ふふふ……」
それを聞いた途端、男の足が止まった。
わなわなと肩が震え、怒りが、怨嗟が、全身から音もなく滲み出す。
「母だと……? 貴様……それが貴様の母だと……?」
「ふふふ……母上様が寂しくないようにと、夲𰻞𰻞夲𰻞夲𰻞に下すったのです……ふふふふふ……」
同時にかなめの耳を強烈な不協和音が襲った。
頭が割れるように痛み、全身の神経が麻痺していく。
かなめは思わずその場にうずくまり、やがて床に伏し倒れた。
「戯け言を……‼ それが母だと言うならば、永劫それと一緒に封じてくれようぞ……‼」
ダメ……あの子を……助けないと……
しかしかなめの身体は何かしらの呪詛に蝕まれて動けない。
目を逸らすことも出来ずに見たのは、まさしくこの世の地獄だった。
かくして土蔵は、決して祓えぬ呪いを産むに相応しい、血と汚辱、悲鳴と慟哭、阿鼻叫喚の坩堝と化した。
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