ケース8 じんめんそう㊹
男の人が行った方からだ……
かなめは男が出て行った障子をじっと見つめた。
不吉……というよりもっと確実な、陰惨で湿度の高い邪悪の気配。
ごく……
無意識のうちに呑み下した唾液の音でかなめは我に返った。
先生なら、こっちに行く……
少女の消えていった先には行灯の光が淡く揺れていた。しかし問題の核心はいつもより暗い方、より湿った方にあることを、かなめは卜部と時間を共にする中でまざまざと見せつけられてきた。
覚悟を決めて障子に手をかける。
膝が、手が、震えそうになるのをこらえて障子を開くと、そこは縁側になっていた。
その先に暗い庭園が横たわっている。
不気味な夜の日本庭園には蝋燭を宿した苔むした石灯籠が立ち、松の木が不気味に曲がりくねっていた。
しかしそれ以上に、圧倒的な気配を放つものが聳えている。
それは大きな蔵だった。
闇の中でなお、ぼんやりと白い光を放つ蔵。
頑丈そうな鉄の扉は、まるでかなめを誘うように薄っすらとその口を開いて待っている。
逃げ出したい気持ちを必死に押さえつけて、かなめは蔵の扉の前に立ち、中を覗き込んだ。
「きゃ〜はははははははは
はははは
はははははっはははははっはぁ〜」
闇が満ちた蔵の奥から、今度ははっきりと少女の嗤う声がした。
「何を嗤う⁉ この出来損ないが……! 黙らんか……!」
次いで男の怒声が響き渡り、鈍い殴打の音が聞こえてきた。
「うっ……ぎ……ぎぎぎ……うぅ……」
痛みに耐えているのであろう低い呻き声は、やがて獣のような咆哮に変わる。
「父上様ぁあああああああ……! なぜぶつのですか……? 何故わたくしを嫌うのですかぁああああ……⁉」
「黙れ……! 貴様が声を発することは固く禁じたであろう⁉ その禁を破った罰じゃ……! 二度とその穢らわしい声を上げるな……!」
「でも、このまま暗い蔵に籠もったまま声まで失くしては……わたくしは気が狂いそうです……! 御慈悲を……せめて虫と話すことだけでもお許しください……!」
「……! 虫けらと……話しておったというのか……⁉」
「ち、違います……! 独り言を聞いてくれる相手が欲しかっただけにございます……断じて会話など出来るわけもございません……」
「黙れ……やはり貴様は魔の者……二度と禁を犯すことの出来ぬようにしてくれる……」
「お待ち下さい……! 嫌……嫌ぁああああああ……! やめろぉぉおおおおお……!」
再び咆哮が響き渡った。
あまりにも悲痛な声に、いつしかかなめの足はガクガクと震え、奥歯は音を立てていた。
修羅の黒い火を瞳に携えた男がかなめのそばを通り過ぎ、玉砂利を踏みしめながら屋敷に戻っていく。
相変わらず叫び続ける少女の声は、枯れて、掠れて、人の言葉から遠ざかっていく。
居ても立ってもいられずに、かなめは覚束ない震える足を引きずりながら、蔵の奥へと足を踏み入れた。
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